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退屈しない飴 千早茜「なみまの わるい食べもの」#10

[第2・4水曜日更新 はじめから読む
illustration:北澤平祐


 口寂くちざみしい、という感覚をいまいち把握できずにいる。喫煙の習慣がないからだろうか。昔、総合病院の呼吸器科で受付をやっていたとき、禁煙外来なる煙草をやめたい人のための診療時間を設けていたが、「口寂しいときに」と医師がニコチンガムを処方したり飴を勧めたりするのを不思議な気分で眺めていた。ガムや飴で煙草のない口寂しさを薄れさせられるのだろうか。そもそも口寂しいとはなにか。科の先生たちに訊いてみたが、呼吸器科の医師に喫煙者はほとんどおらず、「感覚としてはわからない」という返事だった。

 私がなにか口に入れたいと思うのは空腹もしくは糖分が足りないときだ。糖分が足りなくなると、齧られたアンパンマンのように力がでなくなり思考力も低下する。この状態を「糖切れ」と呼んでおり、それを防ぐために「とらや」の小形羊羹を持ち歩き、家では常に茶と共に和三盆やドライフルーツを齧っている。担当T嬢は心得たものでイベント前や取材時はそっと菓子を与えてくれる。断じて「口寂しい」から食べているわけではなく、切実に糖分を欲している。

 子供の頃は飴をもらうことが多かった。飴は大人が子供にあげやすい菓子なのだろう。しかし、糖分を切実に欲する体質ゆえに飴を噛み砕いて食べてしまっていた。溶けるのを待っていられない。バキッボリンッと奥歯で噛み砕き、一刻も早く体内に多くの糖分を入れようとした結果、歯の詰めものが取れたり、割れた飴の破片で口腔内を切ったりした。「飴は噛まないの!」と親に叱られ、バキッボリンッという破砕音で周囲の人にぎょっとされ、仕方なく、のろのろ舐めていると楽しくない気持ちになった。甘い汁をじわじわとだす固形物がずっと口の中にある。おまけにその物体はだんだん自分の体温と同じ温度になり、甘い液体も唾液と渾然一体の様相を呈する。しかも、ずっと同じ味。退屈だ、と思った。食べものは口の中から消えていくはかない存在だから、おいしいと感じるし、また食べたいと思うのだ。どんなに好きでも味噌汁やカレーが口の中に在り続けたら飽きるだろう。飴とは合わない、と思った。ガムもしかり。噛んでも噛んでも同じ味なのは「口寂しい」を解消するどころか退屈でしかなかった。

 よく考えてみると、歯ごたえが欲しいときはあった。特に乳歯が抜けて永久歯に生え替わる辺りは、かたいものを齧りたくて仕方なく、鉛筆を齧ったりしていた。祖母がたまに鰹節の欠片かけらをくれた。鉱物のように尖った欠片に歯で挑んでいる時間はまったく退屈ではなかった。しかし、無聊ぶりょうを慰めるというよりは真剣勝負といった気持ちで齧っていた。いまでも、眠いときや、ストレスを発散させたいときは、かたいものを齧っている。乾パンとか、スルメとか、煎餅などだ。食欲というよりは感触が欲しくて口に運ぶそれらは、口というよりは歯の寂しさを埋めてくれている気がする。

 そんな風に飴やガムから離れたまま不惑を迎えた。『オーボンヴュータン』の「ラ・シャリトワ」という飴以外は(これはもぐもぐ咀嚼そしゃくすべき飴)自主的に食べることはないだろうと思っていたが、新型コロナウイルスが出現してから喉の違和感を自他ともに気にするようになった。その上、京都から東京に引っ越し、関東の乾燥に晒されるようになった。人前に出たり、パーティーに行ったり、取材が続くと、ふだん人と喋らないせいもあり声が嗄れる。トローチや「ヴイックス」といった医薬部外品の飴を求めるようになった。それらは薬局で買うので菓子ではない。舐めなくては正しい効能が得られないようなので、寝る前や移動中にまさに薬気分で舐めていた。

 ある日、連続で入った取材の途中、「良ければ」とのど飴を勧められた。オーガニックの生姜を使っていて、勧めてくれた人も趣味の良い方だったので、感謝してひとつもらった。とはいえ、取材中は舐められない。飴に慣れていない私だ、喋っている最中に飴など舐めたら口から飛びださせてしまったり、ひゅっと喉に詰まらせたりしかねない。自分の舐める能力を信じきれないので、なるべく一人きりで誰とも口をきかなくていい状況でのど飴を口に入れたい。

 その日に入っていた取材をすべて終わらせ、担当編集者と今後のことを少し話し、「お疲れさまでした」と別れてから、包装紙を破き、のど飴を口に放り込んだ。甘さと生姜の風味が疲れにしみた。そのまま、駅に向かった。地下鉄の階段を下り、改札を抜け、ホームで電車を待っているとき、つい噛み癖がでた。のど飴が予想以上に美味しかったせいだろう。脳が薬ではなく食べものと認識して歯が疼いてしまった。

 ミキッと、のど飴に歯が食い込んだ。あれ、砕けない。と、思う間もなく、のど飴の中からどろりと液体が流れだした。その瞬間、私の体はビクンッと飛びあがっていた。なに? なにがでてきた? 忍んでいた伏兵に刺されたような衝撃。声をださなかった自分を褒めてあげたいが、電車待ちの列に並んでいた人たちに明らかに怪訝な目を向けられた。赤面しながら、飴からでてきた粘性を帯びた液体をそろそろと舐める。濃厚な生姜のシロップであった。まずくない。からくもない。跳ねあがった心臓はようやく落ち着いてきたが、油断ならない気分のまま、奥歯でのど飴をすり潰した。

 のど飴の袋をよく見なかった自分が悪いのだろうが、未知の液体が中に潜んでいるのはどうなのだろう、すごくびっくりする、と夫に訴えると、「最近ののど飴はそういうの多いよ」と言われた。調べてみると、蜂蜜やキンカンのエキスなどが入っているものがあった。パッケージにはとろりと流れだす絵が描かれていた。確かに、このような飴なら退屈しないかもしれない。しかし、いつ液体がでるか気になって気になって歯をたててしまう気がする。飴を心静かに舐められる日は遠い。

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【なみまの わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『赤い月の香り』『マリエ』『グリフィスの傷』など、エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『こりずに わるい食べもの』などがある。
X: @chihacenti

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