木原音瀬「惑星」-第1回-
「ジブンは宇宙人」だと信じ、ひとり生きる男・ムラ。星からの迎えを待ちながら、その日その日をドヤ街で暮らしている。ムラはそんな生活を受け入れ、彼なりに平穏な日々を送っていたのだが……。木原音瀬が描く、ある人生の光と闇の物語。
※本連載は2024年9月に小社より単行本として刊行されました。
※こちらは連載時のものとなります。単行本は加筆・修正されています。
illustration Waka Hirako
目を開けたのに、暗い。ずーっと暗いまんま。ジブンの目は本当は開いてないんじゃないかなと、もっかい瞬きした。やっぱり、暗い。
鼻の奥んとこが、もわっとする。濁った水の匂い。あぁ、雨の匂いだ。音……雨の音はしてない。チチッ、チチッ、チチッ、チチッ……ちっちゃい音がする。腕時計を顔の前に持ってきて、横んとこの、指の先にあたるザリッとするのを押すと、チ、で音がなくなる。その下の粒を押したら、時計の中がピカッと光る。眩しくて、目が閉じた。あぁ、時間が見られなかった。だからもう一回。今度は閉じないように、我慢して目を開けてよう。
0430
ふわあああっ、欠伸の後ろのとこでバサッと音がした。怒られた時みたいに、体がビクッとなる。近いぞ。何かなぁ……猫、猫かな? 猫は、黒いのと、茶色のがいる。茶色のはニャアニャアよく鳴いてる。あっちのおじちゃんが、ごはんをあげてた。おいしそうだった。
音のしたほうに、猫はいない。どこか隠れたな。スーパーのカート、コロコロがついたイスが逆さに積まれた山の向こう、歩道を動いてる。黒い塊がゆら、ゆら動いてる。街灯んとこで、塊はおっちゃんになる。おっちゃんの後ろ、影が、ゆら、ゆらくっついてく。
ああいうの、昔、テレビで見たなぁ。アニメで。なんて番組だったかな。やっつけられた敵が、ロボットが、あんな風に歩いてた。おもしろくって、たくさん真似した。
街灯の明かりがあるところは、道路が黒く光ってる。屋根の間の狭い空は、暗くって何も見えない。ずりずりと腰で這いずって、手のひらをいっぱい前に出す。ぽつぽつしない。降ってないな。仕事、いくかぁ。
枕にしてたカバンを胸のとこによっこいしょと持ってくる。中からガサガサの袋を探す。あった、あった。あれ? ぺっしゃんこだ。パン、潰れたな。あーぁ。
袋のはじっこをつかんで引っぱった。破れない。いつもこれで破れるのに、固いなぁ。指にぐっと力をいれて「ふうんっ」と思い切り引っぱったら、ビリッと破けてポンと飛び出した。コンクリの上にぼてっと落ちる。ポンだポン。ハハッと笑う。ハハ……あぁ、声が大きかった? 向こうにいるおじちゃん、うるさいかな。けどおかしいよ。笑いたい。手を口のとこに持ってって、声をちっさくして、ハハッと笑う。
ポンのパンを摑んで、指でペンペーンって払って、がぶりと嚙みつく。ぐちょっとして口の中が甘ぁくなる。おいしいなぁ……あれ、ザリッとする。舌んトコがザリ、ザリ……気持ち悪いなぁ……何だろ……砂か。砂、ついてたかな。唾に混ぜてペッと吐き出す。もうザリッとしない。よかった。
パンはなくなったのに、袋がちょっと重い。下のほうをさわったら、ぐちょぐちょしてる。袋をパリパリとひっくり返して、ぐちょぐちょをべろっと舐める。ジャムは、甘い。おいしいなぁ。舐めてもだんだん味がしなくなる。舌がガサガサするだけ。もう甘いのはない。おいしいものは、いっつもすぐになくなるなぁ。
腰をあげて寝袋を引っぱって、丸めてヒモで結んで、カバンの上のとこにつける。おじちゃんがくれたダンボールを敷いたけど、背中と腕の下がジンジンして痛い。ふとんで寝たい。ここは庇があるけど、風が強くなったら雨が吹き込んでくる。前に濡れた。寒くてずっと震えてた。向こうのおじちゃんみたいにブルーシートがあればなぁ。ジブンも持ってたけど、なくなった。あれ、どこいったんだろうな。
カバンを背負って、ふはあっ、ふはあっ欠伸をしながら道に出る。歩道んとこにきたら、ロボットの真似して、ゆら、ゆら、歩く。面白いなぁ。おっちゃんがジブンを追い越して、前にきた。黒い背中が、目の前にドーンくる。邪魔だなぁ。嫌だな。足を速くして、おっちゃんを追い越す。後ろを向く。おっちゃんは俯いてる。よし、勝ったな。ははっ。
センターのはじっこが見えてきた。おっちゃんがぽつぽつ集まってる。センターの駐車場、暗い明かりの下に、黒、白、青の車。車の前は、ゆっくりゆっくり歩く。車のダッシュボードに置いてある紙を見てるふりをする。早く声をかけてくれないかな。車の近くに立ってる手配師は、黙ったまんま。「お兄ちゃん」って言わない。
後ろで、声がする。おっちゃんが声をかけられた。年寄りだ。資格、持ってるのかな。若いうちに重機の免許を取っとけってお父さんに言われたなぁ。けど勉強するの、嫌だったし。「はははは」年寄りのおっちゃんと手配師が笑ってる。知り合いかな。
「お兄ちゃん、お兄ちゃん」
向こうの車、白いハコバンの前にいる手配師がジブンを見てる。右手を手前にクイクイ動かした。あぁ、やっと呼ばれた。
「解体の経験ある?」
背の低い手配師だ。シャツが赤い。
「ある」
「資格は?」
「ない。契約したいんだけど」
「OK、OK。後ろ、乗って」
手配師がハコバンを指さす。声が嬉しそうだ。契約って言うと、みんな喜ぶ。だからジブンも嬉しい。
これで寮に入れる。ご飯も三回食べれるし、雨に濡れない。よかった。ハコバンの引き戸が重たくて、うんしょと開けて乗ろうとしたら、頭にガツンときた。痛い。枠んとこにぶつけた。これ、前もやった。ジンジンするから、片方の手で頭を押さえた。
ハコバンは、先に人が乗ってる。二人だ。ドアに一番近いイスに座って、カバンをお腹のとこで抱えた。息がふうっとなる。朝なのに、ここは仕事帰りみたいな土と汗の蒸れた匂いがしてる。
「お前よぅ」
後ろの席から、声がする。
「おい、聞こえてんだろ!」
声の感じがビリビリして怖い。ジブンに言ってるのかな? おかしいなぁ。まだ何もしてない。イスに座っただけだ。振り返ると、赤い帽子をかぶったおっちゃんが、こっちを見てた。
「お前、寝屋建の現場でポカやった奴だろ。あん時…………」
おっちゃんの声は、早口だ。声がガチャガチャして、頭もぼーっとして、何を言ってるのかわからない。わからない。わからないから、前を向く。後ろでは、ずっと怒ってる声がする。怖い感じがずっと、してる。
ジブンは宇宙人だから、人間の言葉はよくわからない。
*
もう一人、乗ってから、手配師が運転席にきた。車にギュルッとエンジンがかかる。走りだしたら、ガタガタ揺れる。車はうるさいけど、みんな静か。よかった。
何か眠たいなぁ。目を閉じる。ちょっと寝て、揺れて起きて、寝てが何回もある。着かないなぁ。遠いのは、よくない。寮が、コンビニもない山ん中とかだったら最悪だ。
「ここ、どこだ?」
後ろから、声がする。怖い感じじゃないのに、胸のとこがドクドクする。カバンを腹んとこに押しつけてぎゅっとする。
「須磨だってよ」
外を見た。家、家、家が並ぶ目の前が、ふっと切れた。遠くに、低いとこに、ぼやっと水色の線。あれ、水の色だ。海、それとも川かな。見えてるのはほんのちょっとで、また消える。高い建物、低い建物、重なってジャマで、見えなくなった。
道の両方にある雑木が近い。枝がピシッて窓にあたる。道も舗装がなくなって、車がガタガタひっきりなしに揺れる。キキッとブレーキの音がして、体がちょっとだけ前につんのめった。
後ろのおっちゃんが、車を降りた。前を、通った。チッと舌打ちが聞こえたけど、殴られなかった。よかった。運転してた手配師が「着いたから。あんたも降りて」とこっちを向いて言ってる。
車の外に出たとたん、ムワッとした空気が顔にきた。足んとこの砂利が黒い。濡れてる。ここも雨が降ってるな。砂利の広場の奥に、建物がある。二階建ての木造で、でかい。水で薄めたコンクリを上からぶっかけたみたいな灰色だ。築五十年いってるんじゃないかな。もっと古いかもなぁ。庇の下に「きのした」と書いた木の看板がある。
「ありゃもとは旅館だな」
ジブンの前にいるおっちゃんが、ぼそっと喋る。古い旅館とかホテルが寮になってる会社は、よくある。ジブンはプレハブよりこっちがいい。プレハブは夏は暑くて、冬は寒い。
「あんた、中で手続きしてきて。まだ時間あるから」
赤いシャツの手配師に言われたから、古い建物の中に入る。六畳ぐらいある広い玄関から奥、廊下が分かれてる。どっちにいけばいいかなと考えてたら「おい」と聞こえた。
「あんただよ、あんた」
顔が黒くて、垂れ目のお兄ちゃんが、ヘルメットを持ったお兄ちゃんが、こっちを向いてる。
「何してんの?」
「事務所は、どこですか?」
「あぁ、ここ初めて? こっちの廊下をまっすぐいって、右だよ」
「ありがとうございます」
親切な人に、お礼を言う。垂れ目のお兄ちゃんはジブンに「契約すんの?」と聞いてきた。
「はい」
「ここ、仕事キツくて、メシまずいから」
「えーっ」
垂れ目のお兄ちゃんは「覚悟しといたほうがいいよ」と外へ出ていった。嫌なことを聞いた。ごはんは美味しいほうがいい。前の前の寮で、米がぽそぽそして変な臭いがして、まともな飯を出せってみんな怒ってた。ジブンも嫌だったから、いっしょに怒った。
……廊下を歩いてたら、突き当たりにきた。そこでまた分かれてる。さて、ここからどっちだろ?
絵のあるほうにいったら、こんどはドンづまりの突き当たり。引き返して違うほうにしたら、事務と札の出てる部屋があった。ドアは開きっぱなし。中をのぞいたら、女の人が一人いた。
「今日から、契約です。手続きお願いします」
女の人、おばちゃんが振り返って「中にどうぞ」と話す。小さなテーブルに紙を置いて「こちらにご記入ください」とボールペンを渡してくる。テーブルの前のソファに「よっこいしょ」と座って、前屈みになる。腰、痛いな。久しぶりに名前と住所を書いた。これは字がわりと上手に書けたなぁ。
バタバタとうるさい足音がして、部屋ん中に入ってくる。小さい風もきた。男の人だ。灰色の作業着で、ジブンよりも若い感じだからお兄ちゃん。眉毛が濃い。
「今朝きた、契約の人ですか?」
濃い眉毛は、声が高い。
「はい」
「こっちも記入してもらっていいですか」
紙がまた二枚くる。書くものが増えた。めんどくさいけど、仕方ない。血圧のところは、120と80にした。この数字を書いといたらどこでも大丈夫だって前に教えてもらった。
書いた紙を、渡す。濃い眉毛は紙を手に持った。「俺は班長の杉田です。ムラさん、42歳ですか。俺よりひとまわり上ですね。今日は一緒の現場になるんで、よろしくお願いします」とほんのちょっと頭を下げて、すぐに事務所を出ていった。こっちの「よろしくお願いします」は間に合わなかった。
寮の部屋は、仕事から帰ってくるまでに準備してくれる。テレビと冷蔵庫は部屋にあって使うのは無料。エアコンは使用料が一日三百円。私物は事務所の向かいにある無料ロッカーにおける。まぁ、だいたいどこの会社もおんなじ感じだ。
今日から朝ご飯を食堂で食べられる。お弁当も食堂にあるやつを持ってっていい。お弁当、出ないとこもあるから、うれしい。
カバンから手袋だけ取り出す。穴あいて汚いけど、まぁいいや。仕事が終わったら、給料を前借りして新しい手袋を買おう。
荷物をロッカーに入れてたら、お腹がぐうって鳴る。腹ぺこの音だ。パンを食べたのに、お腹が空いたなぁ。食堂はどこだろうって探してたら、玄関のほうからいい匂いがした。そっちのほうへいったら、ドアが開きっぱなしになってる部屋があった。
石膏ボードぐらいの大きさのテーブルがぽんぽんあって、そのまわりに丸イスがゴロゴロある。人が、ぽつぽつとイスに座って食べてる。
カウンターの奥で皿を洗ってる人がいる。ここの人かな。丸まった背中に「朝ご飯、食べたいです」と話しかけたら、振り返った。おばあちゃんみたいな顔だ。
「ここはセルフだよ。勝手によそって食べとくれ」
怒ってる声で、胸んとこがビクビクする。怖いなぁ。嫌だからそこから離れる。離れたら、ホッとする。聞いただけなのに。あんなに怒らなくてもいいのになぁ。
セルフはよくある。どれだけ食べてもいいのは、いい。セルフはいい。壁にくっつけた細長いテーブルに、大きな炊飯器がある。まわりに米粒とか、汁みたいなのがいっぱいこぼれてる。
ごはん、みそ汁、つけものをとって、テーブルに持ってく。この米、固くてへんな臭いがする。みそ汁も味が薄い。すっごくまずいなぁ。ハズレだ。米にみそ汁をかけて、割り箸でぐるぐるかき混ぜて飲み込む。あぁ、斜め向かいの人も、おんなじことしてるな。
まずいけど、お腹はいっぱいになる。満腹なのは、幸せだな。さあて、お弁当はどこに置いてあるのかなってまわりを見てたら、肩を摑まれた。痛い。力が強い。怖いって思いながらそっちを向いたら、頭にタオルまいたおっちゃんがいた。
「片づけろ」
声も怖い。
「片づけ?」
「食ったあとの食器は、棚まで持っていけ」
おっちゃんが顎をしゃくった先に、棚があった。銀色で丈夫そうだ。ステンレスかな。食器がたくさん重なってる。そこにはげのおっちゃんが食器を置いた。片づけてる。食べたあとは、そこへ持ってくのか。ここはそういう決まりかぁ。
「どうもすみませんでした」
ヘコリと頭を下げると、指が離れた。
「次は気ぃつけろ」
声がちょっと怖くなくなって、おっちゃんが離れていく。すぐに叩く人じゃなくてよかった。殴られなくてよかったなぁ。けど肩んとこには、摑まれたあとの感じが残ってて、まだ胸んとこが痛いみたいにじくじくする。それがもうちょっと小さくなってから、ジブンの食器を棚に持ってった。
棚の横に透明の容器に入ったお弁当があった。手提げになったビニールに入れて持ってく人がいた。だからジブンも真似してビニールに入れる。
初めてのとこは、決まりに慣れるまでよく怒られる。仕方ない。嫌な人がいないといいなぁと思いながら、外へ出る。急に目の前がぱあっと明るくなって、体が立ちくらみみたいにぐらっとゆれた。さっきと違う。太陽が出てる。灰色の雲が、なくなった。あぁ、晴れてきた。
目の前に、まっすぐな道。その向こうに細くキラキラした光が見える。あれは海だ。寮の中に入った時は、気づかなかった。後ろになってたからかな。ここは、海が近い。ああ、いい。ここは海の近くだ。夜になったらきっと星が見えるな。海から、風がぶあっと吹いてきた。しけって、しおっからい、海の匂いがする。
砂利の広場には、いろんなおっちゃんとお兄ちゃんがいる。みんな、迎えの車を待ってる。座り込んで、タバコを吸ってるおっちゃんがいる。近づいて、煙が流れてくる風下に立った。あぁ、いい匂いだ。
タバコを吸ってた、阪神の帽子を被ったおっちゃんが、ジブンを見上げて「どーも」と声をかけてきた。だから「どーも」と返事をする。
「俺に何か用?」
おっちゃんに聞かれた。
「いいえ」
「近くに来たからさ」
おっちゃんの指の間から煙がのぼる。やっぱりタバコはいい匂いだ。思いっきり吸いこむ。
「あんた、禁煙してんの?」
「お金がないから、タバコは買えないです」
欲しかったけど、昨日の夜にパンを買ったらタバコのお金がなくなった。タバコは高い。昔より、高くなったってみんな怒ってる。おっちゃんは胸ポケットから新しいタバコを一本取り出すと、火をつけて「ほれ、やるわ」とこっちに差し出してきた。
「ありがとうございます」
すごくいい人だ。親切で優しい人だ。この人と一緒の現場だったらいいなぁ。親切なおっちゃんと、並んでタバコを吸う。おっちゃんは最初に来た迎えの車に乗っていった。次の迎えの車でも、ムラって呼ばれない。来る時にハコバンで一緒だった、ジブンに怒ってた赤い帽子のおっちゃんがそれに乗って、ホッとした。嫌な人は、おんなじ現場だと意地悪をしてくる。前、仲の悪いおっちゃんたちが同じ現場になって、危ないとこで突き飛ばされて、一人が怪我した。わざとなのに、不注意の事故になった。
吸いながら広場をウロウロと歩く。タバコの煙と、しけった海の匂い。好きなものが、ゆうるゆうる混ざる。いい気分だ。フィルターのとこまで吸ってもう終わりってところで「そこのひと、えっと……ムラさん。こっちに来てもらえますか」と濃い眉毛の班長に呼ばれた。
タバコを落として、ぐぅりぐぅり踏みつける。ちゃんと消さないと、火事になって大変なことになる。現場では火気厳禁、いつも言われる。
小さなワゴン車に乗る。運転してるのは角刈りのおっちゃん。後ろの席にジブンともう一人、玄関で会った、垂れ目のお兄ちゃんが乗った。ワゴン車が動きだす。車は、また、ガクガク揺れる。道が悪い。シートが硬い。腰が痛い。
「会社のハコバンが故障で、二手に分かれるからこっちを運転しろって急に言われてさぁ」
角刈りのおっちゃんは「手当出すって言われたけどさぁ」と文句を言う。ずっと一人で喋ってて、垂れ目のお兄ちゃんが「うんうん」返事をする。しばらくしたらおっちゃんは黙って、静かになった。
「あんた、やっぱ契約したの?」
垂れ目のお兄ちゃんが、ジブンに聞いてくる。
「はい」
「俺は現金」
ジブンはいつも契約だ。契約して、寮に入る。仕事がないとか働けなかったら、寮費と食費が給料から引かれて借金になるけど、それでも契約のほうがいい。
寮は嫌だ、ムショより悪いと現金で日払いだけやってる人もいる。ジブンはムショに入ったことがないから、どういう感じなのかはよくわからない。
「俺も前は寮に入ってたんだけどさ」
垂れ目が鼻の下を擦る。
「へえ」
垂れ目の顔がぐぐうっと近づいてきて、声が小さくなる。
「……あそこ、出るから」
「何が?」
垂れ目が胸の前で両手をだらんと下げてみせる。何だろう。昔、長いこと働いてた会社の寮で、犬を飼ってた。薄茶色の犬。柴犬のまろん。竹輪を見せたら、チンチンした。面白いから、何回も竹輪をあげた。
「まろん?」
垂れ目がチッと舌打ちして「ユーレイだよ、ユーレイ」と怒った声になる。何だ、ユーレイか。変なコトしないで、ユーレイって最初から言えばいいのに。
「ふうん」
「気持ち悪いだろ」
「いいえ」
垂れ目が首を傾げる。
「ユーレイとか、嫌じゃねぇの?」
「ジブン、そういうの見たことないです」
垂れ目は横を向いて「しらけるわぁ」と息をついた。しらけるわぁ、はたまに言われる。嫌な感じの時に。嫌な感じはお腹のとこに這ってる虫みたいにモゾモゾする。ワゴン車が止まる。現場、着いたかなぁと思って外を見たら、景色がドンときた。
ああ、大きい。ここは大きい。コンクリでできた山だ。建物は静かで、動かない。外壁の白とピンクは黒くよごれて、壁のあちらこちらに貼られてる看板は、さびが浮いて汚くなってる。奥に駐車場へつづくスロープがある。建物のまわりの足場は低くて、作られはじめたばかりだ。だからまだ、全部がよく見える。
「ここ、さくらTOWNじゃん。昔、カノジョと遊びにきたことあるわ」
垂れ目が、前に身を乗り出して運転してる角刈りのおっちゃんに話しかける。
「まだ使えそうな商業施設なんだけどなぁ。取り壊すんだってよ」
「できてそんなに経ってないでしょ。そういや確かテナントの天井落ちて従業員死んだんすよね」
「それで検査がはいったら、違法、偽装のてんこもりだったってやつな。下請けで、相当ヤバいとこがあったらしい。もうその会社、ないけどな」
「そういうゴキブリみたいなトコに限って、社名変えて性懲りもなくまたやってたりするんですよね」
「ギョーカイあるあるだな」
現場に入ったのに、車が止まったまま進まなくなる。出入口は車がずらっと並んでる。渋滞だ。運転してる角刈りのおっちゃんがチッ、チッと舌打ちする。こっちの耳までチッ、チッと痛い感じに響いてくる。しばらくおっちゃんは舌打ちしてて、車が動きだしたらなくなり、駐車場に止まった。
先に着いてた班長のまわりには三人いた。合流して増えて、建物の階段を下りる。そこは地下なのに吹きぬけになった広場で、人がごちゃごちゃと集まってた。
朝礼では、作業の説明がある。話が長いし、何を言ってるのかわからない。けどまあ、聞いてなくてもいい。現場にいったら、上の人がやることを教えてくれる。隣の垂れ目は、ずっと俯いてスマホを触ってる。
声が聞こえなくなる。静かになったなと思ったら、チャーンチャンーチャラッチャッチャッと音楽が流れてきた。ラジオ体操だ。運動は好きじゃない。走るのは遅かったし、ボールも上手に蹴れなかった。けど、現場でやるラジオ体操はいい。前の人を見て動かしてればいいし、間違っても誰も笑わないし、怒らない。
やっと仕事がはじまる。ジブンがやるのは、二階。広い通路の両脇に、ドアがないお店がずらっと並んでる。
内装の解体はいつも、暗い。電気が止まって明かりがつかないから、外から持ってきて、照らす。ここは真ん中にある通路の上がサンルーフになってて、光が入る。そのぶんだけ、これまでの現場より明るい。
二つに分かれて、通路を挟んで両方の店を奥から、壊してく。ジブンは班長と同じ組。今日は初日だからと、ジブンはガラ集めになった。
班長がバールで壁に穴を開ける。小さな穴からバールの先をツッコんで、メリメリと壁を浮き上がらせる。隙間から手を入れて壁を摑み、バリバリと勢い良く剝ぎ取る。むわっと砂ぼこりが立って、まわりが白っぽくなる。鼻の奥がむずっとして、大きなくしゃみがでた。解体は、どこも埃がすごい。ボージンマスクをしてても、あとで喉が痛くなる。今晩もそうなったら嫌だな。
班長は、剝がした壁を床に落とす。ジブンはそれを拾って、部屋の真ん中に集める。小さいかけらは、箱に入れる。
バリバリバリバリ……あっちこっちから、部屋は壊れてく。壁には猫とウサギ、かわいい絵が描いてる。バリバリバリ……あぁ、猫の顔が真っ二つになった。かわいそう。かわいいのになぁ。壊すなら、最初から描かなきゃいいのに。班長が振り返りジブンを見た。
「アヒルの子みたいに俺のあとにくっついてないで、他の奴のガラも集めてくれませんか」
怒ってるのかな。嫌な感じの声だ。
「わかりました」
返事をして、車の運転をしてた角刈りのおっちゃんの所にいく。おっちゃんもバリバリと壁の犬を壊してる。頭が取れた犬を拾おうとしたら、顔の前を何か黒いものがひゅっと通った。「うわっ」と声が出て、後退る。そしたら足が引っかかって尻から転んだ。腰にずうんとでっかいしびれが来る。腰、痛い。角刈りのおっちゃんがバールを止めて「えっ、当たった?」と振り返った。
「当たってないです」
立ち上がって、腰をパンパンとはたく。おっちゃんはホッと息をつき、そして「あんた、近すぎ。もうちょっと離れてろよ」と大きな声を出した。声が耳の奥んとこに、ワーンとひびく。
おっちゃんの片づけも、あとにしよう。怒ってる人の近くにいると、とばっちりを食らう。だから班長のそばに戻って、壁の廃材を集めた。班長は角刈りのおっちゃんよりも、速く動く。箱がぎちぎちで、もう入らなくなる。
「箱がいっぱいになったら、新しいのを入口んとこから取ってきてください」
班長がジブンに教えてくれる。離れたとこに空の箱があるから、それを取ってくる。現場に戻ると、醤油が染みたみたいに日焼けしたおっちゃんが「おい、床のやつも集めろ。邪魔だろうが」と剝がしたPタイルを蹴飛ばした。蹴られて飛んでったPタイルを追っかけて拾う。もう剝がし終わってコンクリの基礎が剝き出しになってるとこに集める。これは、壁のガラと一緒にしちゃいけないやつだ。前、一緒にして怒られた。
日焼けしたおっちゃんに「お前、ズブの素人じゃねぇんだろ。まわりをよく見ろ。気が利かねえな」と怒った声を出した。
気が利かない、うすのろ、ぼけ。よく言われる。けど仕方ない。ジブン宇宙人だから、人間とはちょっと、違ってる。
*
班長が「今日は終わり」と言ったから、仕事が終わった。廃材を拾うのに屈んでばかりで、腰が痛くなった。明日は壊すほうがいい。そっちにならないかな。やらせてくれないかな。ジブンは上手に壊せる。前、お父さんが褒めてくれた。けど決めるのは班長とか、現場の上の人だ。
ワゴン車には、垂れ目が先に乗ってた。座席に凭れて、口を半分開いて、目を閉じてる。現場では、垂れ目は反対側の店をやってて、同じとこにはいなかった。
「……きっつ」
横から、垂れ目の声が聞こえる。
「あんた、名前なんてったっけ?」
こっちに顔を向けて、声をかけてくる。
「ムラです」
「ムラさんはさ、何してた?」
「ガラを、集めてました」
「楽そうでいいじゃん。俺はさ……」
垂れ目が早口になった。ジブンは疲れてるし、垂れ目が何を言ってるかわかんなくなってきて、テキトーに「へえ」「はあ」と間の手を入れてたら、垂れ目が黙った。静かになったなぁと思ってたら「ムラさんさ、真面目に聞いてる?」と言ってきた。
「はい、聞いてます」
全部は聞いてないけど、最初は聞いてた。運転席に角刈りのおっちゃんが「はいよー」と乗ってくる。仕事してる時は怖い感じだったけど、今はそうでもない。
おっちゃんは、背中を丸めてハンドルに頭をつけた。
「疲れたわ-腕痛ぇし」
頭をあげて、車のハンドルを横から叩く。
「運転したくねぇなぁ」
おっちゃんが振り返り「手当、半分やるからさ。どっちか運転代わってくんねえか」と聞いてきた。
「免許失効してんすけど、いいっすか?」
垂れ目が身を乗り出す。おっちゃんは「うーん」と唸ってから「そっちはどう?」とジブンに聞いてくる。
「免許ありません」
おっちゃんは「ああ、ああ」と低い声で呟き、肩を丸める。そしてブロロッと車のエンジンの音がした。
*
寮は、奥のほうからいい匂いがして、それにつられてお腹がぐううっと鳴った。今すぐ食べたいけど、事務所が閉まる前にお金を前借りしないといけない。
事務所の前には、現金の人と契約の人の前借りで長い列になってたから、一番後ろに並ぶ。やっとジブンの順番がきて、五百円玉一枚、百円玉五枚で前借りした。
金をポケットに入れて、食堂にいく。ジブンの後から来た人が、カウンターの端にいってトレーを手に取り、動きながら細長いテーブルに並んでるおかずを取ってる。ここは、そういう風にやるみたいだ。その人を真似して、トレーを手に取りおかずを載せる。
大きいテーブルのまわりには、びっしりと人がいる。みんなご飯を食べるのは、速い。すぐに席が空く。テーブルの端が空いたから、座る。反対側の隣に人がいない端はいい。片側だけでも人がいないと、腕が当たったとか、そういう喧嘩にならない。お箸とやかんのお茶は、テーブルの真ん中にある。そこへ、にょき、にょきと手が伸びる。
唐揚げがおいしい。コンビニで買うやつみたいに、おいしい。毎日食べたい。米は臭くて、みそ汁はまずい。朝と同じ。向かいの斜めに座ってる人が、みそ汁にしょうゆをドボドボ入れてた。それ、前にやったことがある。変な味になったから、ジブンはもうしない。
米をおかわりする。ジブンの後にきた人が、ジブンよりも先に食堂を出ていく。ジブンは遅い。歯が悪いおっちゃんは遅いけど、ジブンはそれと同じで遅い。お母さんに、よく嚙んで食べなさいって言われたから、そうしてる。だからジブンは、食べ物が喉に詰まったことがない。たまにおっちゃんで、げほげほむせてる人がいる。ジブンはそういうのはない。
ごはんを三杯おかわりしたら、お腹がぱーんとふくれた。カエルみたいだ。立つとゲコッと中身が出そうで、じっと座ってる。席も空いてるから、食べ終わったなら出てけって、誰も怒らない。大丈夫だ。
人が入ってき、出て、出て、出ていく。入口のそばのテーブルで、米粒をずっとぐちゃぐちゃ嚙んでた白髪のおっちゃんが食堂を出る。ジブンだけになった。
お腹いっぱいがマシになったから、立つ。部屋にいく。二階への階段は、上るたびにギシギシと大きい音をたてて軋む。
203号室は端から三つ目の部屋。鍵には細長いプラスティックの棒がついてて、そこに「りんどう」とひらがなで彫ってあって、その下にマジックで黒く、大きく、203と書いてある。
部屋の広さは三畳ぐらい。ふとんはシーツが白くて、いい。汚れてないのはいい。シラミはどうかな。いないといいな。これは、寝てみないとわからない。
着替えを持って風呂にいく。脱衣所も風呂場も広いけど、浴槽に湯はない。干からびてる。使えるのはシャワーだけ。石けんもない。石けん、持ってきててよかった。
ひびの入った石けんで、頭から足の先まで洗う。足を擦ったら、タオルが黒くなった。汚れてたなぁ。風呂、久しぶりだしな。洗うとスッキリするな。お風呂は、いいなぁ。
風呂を出たとこの足拭きマットは、薄っぺらい。破れて薄茶色になってる。水虫がうつったら嫌だな。体を拭いて、ジャージを着る。脱衣所には壁の端から端までの長い鏡があって、その前に洗面ボールがいくつもある。
鏡に、ボサボサの髪の男が映ってる。誰かと思ったら、ジブンだ。髪がのびた。鏡に近づいて、顔を見る。久しぶりにジブンの顔を見た。ジブン、こんな顔だったかな? 鏡にさわったら、鏡もさわってるから、ジブンなんだろう。あぁ、口のまわりもぼうぼうだ。髭にさわってたら誰か、鏡に映った。「あんた」と聞こえて、振り返る。
「見ない顔だな。新しく来た人?」
ジブンはこの寮では新人なので「はい、よろしくお願いします」と挨拶する。寮では、礼儀正しくしておいたほうがいい。
「そこのひげそり、好きに使っていいからさ」
白髪のおっちゃんが、指をさす。その先には、プラ籠があった。中にT字のひげそりがいっぱい入ってる。
「旅館だった時の備品らしいわ」
買わなくていいのは、いい。ひげそり、前に持ってたやつはなくなった。ジブンはよく、ものをなくす。すぐになくなる。
白髪のおっちゃんは、出ていった。使えるものを教えてくれた。親切でいい人だ。
石けんをもう一回出して、髭をそる。そっても、顎のとこさわったら指の先がザリッとする。残ってるけど、面倒臭いからもういい。
口許がすっきりしたら、ボサボサの髪が気になった。鏡の下には、はさみと爪切りが引っかけてある。どっちにも鎖がついてて壁の釘で止められてる。はさみの先は丸い。
はさみを借りて、髪を摑んでジョキリと切った。指に残る髪のきれっぱしを、ゴミ箱に捨てる。ジョキリ、ジョキリ。髪を切る音は気持ちいい。どんどん頭が軽くなる。ちゃんと指で摑んで切っても、洗面台にぱら、ぱらと髪の毛が落ちる。洗面ボールは白いから、髪の毛がよく見える。乾いてると、ジブンの髪は波板みたいにがくがくしている。お母さんはいつも「髪、へんなの」ってジブンの髪の毛を引っぱって、痛がったら笑ってた。
「お兄ちゃん、ザンギリにしとるなぁ」
鏡に、ジブンの後ろに、背の低いおっちゃんがいる。ザンギリってなんだろう。
「そんな切り方じゃ、男前が台無しになっとるで」
「髪がじゃまなので、切ってます」
「じゃまいうても、ガタガタやんか」
背の低いおっちゃんの喋りは、ゆっくりしてる。
「短いほうがいいです」
「えらいテキトーやな」
背の低いおっちゃんもいなくなる。髪がだいぶ短くなったから、切るのをやめた。鏡に映るジブンは、両方の耳の上で髪の長さが違う……みたいだ。前髪も、斜めになってる。後ろ、後ろは見えない。手をあらって、ゴミ受けにたまった髪の毛を集めて、ゴミ箱に捨てる。あとの人のことも考えて、キレイにしてないといけない。
風呂場で脱いだ作業着と下着を洗濯場に持っていく。あぁ、ここは洗剤、置いてない。買わないといけない。けど明日でいっか。明日、買おう。今日はなくていいや。
百円で洗濯スタート。洗濯が終わるのに時間がかかる。部屋に戻って、ふとんの上に寝転がった。イヤホンをさして、テレビをつける。
今日はよかった。ご飯もお腹いっぱい食べたし、風呂は気持ちよかった。雨で濡れる心配をしなくていいし、ふとんもある。いっぱい屈んだから、腰が痛いし仕事はキツいけど、ずっとここで働きたいなぁ。……迎えが来るまで。
ものすごく眠くなる。寝たいけど、まだ洗濯が終わってない。終わった洗濯をそのままにしてたら、怒られる。隣から、テレビの音が聞こえる。テレビの横に「イヤホンヲシテクダサイ」と貼り紙があるのに、イヤホンをしてない。ジブンはうるさくても平気だけど、反対の部屋の人は怒るかもしれない。
昔、テレビの音がうるさいって、喧嘩してた人がいた。世野建設の寮にいたとき、おっちゃん二人が玄関で殴り合ってた。細いおっちゃんが、殴られて、血が出て、泣いてた。ジブンと同じ、いつもガラ集めしてた細いおっちゃん。殴ったおっちゃんが「書いてある字もよめねぇのか、クソが」と怒鳴ってた。みんな遠くからそれを見てた。ジブンも見てた……。
ワッハッハ……笑い声が、聞こえる。起き上がったら、耳からイヤホンがぽろっと落ちた。テレビの中の人が、笑ってる。ワッハッハ……楽しそうだなぁ。あぁ、そうだ。洗濯。洗濯してた。もう終わってるかな。
洗濯場にいったら、洗濯機は回ってた。まだ終わってないのかなぁと近づいたら、洗濯機の上に籠が置いてあった。ジブンの洗濯物は、その中で丸まってくしゃくしゃになってた。
(続きは本書でお楽しみください)
木原音瀬(このはら・なりせ)
高知県出身。1995年『眠る兎』でデビュー。ボーイズラブ作品を手掛けながら、「小説すばる」「小説現代」などの一般誌でも執筆中。他の著書に『美しいこと』『箱の中』『罪の名前』『コゴロシムラ』『ラブセメタリー』『捜し物屋まやま』等多数。
Twitter:@narikono