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終わりなき「越境」の旅 ――東山彰良『越境』台湾版刊行に寄せて|李琴峰

昨年7月に刊行した東山彰良『越境(ユエジン)』の台湾版が、今年10月、台湾の尖端出版から刊行されました。翻訳を手がけたのは、小説家で翻訳者の李琴峰(り・ことみ)さん。台湾版の刊行にあたってエッセイをご寄稿いただきました。
※見出しの写真は台湾の誠品書店での展開(写真提供:尖端出版)

 東山彰良さんのエッセイ集『越境』の繁体字中国語訳を手がけさせてもらったご縁で、このエッセイを執筆する機会を賜った。

 自著やライトノベルを除けば、『越境』は私が初めて翻訳した文芸書ということになる。東山さんの文章はとても明晰なので翻訳作業自体はさほど難しくないが、何しろ私が苦手とするスポーツから時事問題やローカルネタに至るまで、話題が広汎にわたっているため、リサーチにはそれなりに苦労した。中国語は日本語より親族関係の呼称が複雑なので、原文だけでは正しい訳語の判断がつかないことが多い。そんな時は東山さんに確認した上で、適切な訳語を選択した。「ガリガリ君」など、台湾の一般読者にあまり馴染みのないものに関しては適宜訳注を付した。リサーチの途中、日本語版の記述が間違っていると判明したところも数か所あり、それらも繁体字中国語版で修正した。自画自賛で申し訳ないが、我ながらいい仕事をしたと思う。

 さて、台湾生まれ台湾育ちで中国語を第一言語としながら、今は日本に住み、日本語で小説を書いている私は、恐らく「越境文学」について論じる時によく名前が上がる常連の一人なのではないかと思う。実際、私は確かに国境的そして言語的に越境しているのだから、私の作品が「越境文学」(この言葉自体、厳密な定義はないようだが)として読まれること自体にはあまり抵抗感がない。とはいえ、東山さんが書いた「わたしは自分の作品を越境文学と見なしたことはない」という言葉について、私も同意見である。

 いや、もちろん私と東山さんはかなり違う。性別も世代も住まいも違うし、これまでの経歴だって違う。彼は五歳で日本へ渡ってきたが、私は二十三歳。彼は日本語の環境で育ったが、私は中国語の環境で育ち、日本語を第二言語として学習して獲得した。私と彼の共通点と言えば、どちらも台湾にルーツを持っているということくらいだろう(そして敢えて言うならば、一口に台湾といっても、私たちは出生地も違うし、エスニックグループも違う)。

 しかし、東山さんが自分のことを「台湾で生まれて日本で育った一個人」としか認識していないと書いているが、それは痛いほど分かる。私も台湾人とか日本人とか云々する前に、自分のことを「台湾で生まれ育ち、自らの意志で日本に移住した一個人」に過ぎないと思っている。当たり前だが、私は今外国人として日本に住んでいるけれど、(選挙の時や在留カードを更新しなければならない時を除けば)「自分は外国人だ」と意識しながら毎日を生きているわけではない。国境線なんてどうせ愚かな人間が地球に残した落書きに過ぎず、国籍というのも所詮自らの意志とは無関係に押し付けられたものだ。創作に関しても、「越境文学」といったレッテルとは関係なく、私はただ自分自身の生の痕跡、そしてこの世界、この社会においてもっと書かれなければならないにもかかわらず、いまだ見えぬ表現を、何とか言葉にして、文学という形で残そうとしているに過ぎない。

 ところが、国籍というのはどこまでも纏わりついてくるものだ。日常生活で自分は○○という食べ物が苦手だと表明すると、十回に八回は「台湾では○○を食べないんですか」と訊かれる。ネットで政権批判の発言をすると、「今の政権は台湾に友好的なのに」といった趣旨のリプが飛んでくる。何かの文学賞の候補に挙がると、「台湾人では前にも△△さんが同賞の候補に挙がっている」みたいな報じ方をされる。まあ、そんな無理解な有象無象によるマイクロ・アグレッションはどうでもいいが、しかし文筆業界内においても国籍ばかり注目されるとなると、やはり困る。というのも、私に依頼された書評などの仕事は、何故か台湾や中国に関連するものばかりである。ちなみに、私は台湾の出版社からも時々仕事を受けるが、面白いことに、台湾側から依頼されたものは日本に関連するものばかりになる。

 日台の橋渡し、と言えば聞こえはいいが、結局私は自分の大して重要視していない国籍という属性によってカテゴライズされてしまっており、そのカテゴリーに合致した仕事しか声をかけてもらえていないのではないか、と思えてならない。もちろん、そういった仕事自体は嫌いではない。台湾には非常に優れているが、国際社会的な現実のせいで十分に認識されていない作品がたくさんある。そういった作品が日本でもっと広まるように手助けはしたい。直近で言うと、『私たちの青春、台湾』がこの十月末に日本でも上映されるが、これはぜひ観てほしい素晴らしい映画である。一方、日本文学にも商業的に必ずしも華々しい成績を残していないがとても優れている作品がたくさんある。そういった作品がもっと当たり前のように翻訳されることを望まない日はない(日本にとって台湾というのは大きなマーケットではないだろうけれど)。もっと言うと、台湾で二十二年間暮らした経験が私に影響を与えないはずはないし、私の作品にもそれなりに台湾的な要素が登場している。私の作品がきっかけで台湾に興味を持った人や、あるいはその逆のパターンの人がいれば、それ自体はとても喜ばしいことである。

 しかし――それだけではないだろう。もし本が、文学が何かを与えてくれるとしたら、それは自分の視線では決して届き得ないような広大な世界が実際に存在しているという気付きなのではないだろうか。そんな世界においてさえ人間が国籍によってカテゴライズされているのなら、それはやはりとても息苦しく、そして寂しいことだ。思えば、そんなカテゴライズの暴力から絶えず逃れようと、脱出しようとする――それが、私にとっての「越境」の努力なのかもしれない。そしてそれはきっと、永遠に終わりの見えない闘争の旅になるに違いない。

李琴峰(り・ことみ)
1989年、台湾生まれ。作家・日中翻訳者。2013年来日。2015年、早稲田大学大学院日本語教育研究科修士課程修了。2017年「独舞」で第60回群像新人文学賞優秀作を受賞。2019年「五つ数えれば三日月が」が第161回芥川賞、第41回野間文芸新人賞の候補に。著書に『独り舞』『五つ数えれば三日月が』『ポラリスが降り注ぐ夜』『星月夜(ほしつきよる)』がある。
Twitter:@Li_Kotomi

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日本版:東山彰良『越境(ユエジン)』2019年7月
台湾版:東山彰良(著)/李琴峰(訳)『越境(ユエジン)』2020年10月(日本への発送も可能)

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