真藤順丈【ヴンダーカマー文学譚】一人目 蒲生の賞金稼ぎ
「夢にすがることは、万能の薬でも尊い美徳でもなんでもない」
新人賞4冠受賞。売れないどん底時代から、直木賞受賞――物語に憑かれた「憑依型作家」の真藤順丈が本領を発揮する、小説家ワナビーたちの数奇な群像劇。連載再開を前に、第一話「一人目」を80枚一挙掲載ッ!
Illustration:MOTOCROSS SAITO
「ヴンダーカマー文学賞」原稿募集!
◉賞の概要
ヴンダーカマー(Wunderkammer)とは十八世紀の半ばまでヨーロッパで流行した文化で、あらゆる珍品奇品(動物のミイラや骨格標本、金の編み細工、ダ・ヴィンチの素描やアルチンボルドの奇想画、天球儀、オウムガイの殻でつくったランプシェード、錬金術の稀覯書、オートマタや聖遺物などなど……)を集めた学者や王侯貴族によるコレクション展示室のこと。〝驚異の部屋〟と訳される名を冠した公募文学賞をこのたび創設する運びとなりました。読み手に驚きと歓喜をもたらす才能、類例のない面白さに満ちた作品を募集します。
◉募集要項
広義のエンタテインメント小説。原稿用紙換算で一〇〇枚~四〇〇枚。日本語で書かれた未発表作品であればプロアマは問いません。
◉応募方法
テキスト形式で保存した原稿に八〇〇字程度の梗概をつけて、応募フォームから送信してください。住所、氏名、年齢、職業、電話番号、略歴を明記のこと。
◉選考委員
日本文藝作家連盟に属する現役作家が、二次選考~最終選考に至るまで随時、ランダムに選考に加わります。驚異の部屋をふらりと訪れた招待客が思い思いに展示物の評価を残していくように。現段階で確定している選考委員(真藤順丈、藤代勇介、那須千賀子)の他にも、数十人の作家があなたの作品を読んで、採点・講評を発表する予定です。
◉応募期間
二〇一九年六月二十日~二〇二〇年二月末日。二次選考後、最終候補に残った五~六作品を当ホームページで発表。受賞者の発表は三月十五日。
◉賞金
五〇〇万円。受賞作には出版時に規定の単行本印税が支払われます。
◉主催
日本文藝作家連盟(協賛/ホーム社)
一人目『眩暈がするまでここにいる』
最初は突っぱねた。おれはその募集要項を一蹴した。数ある公募の賞のなかでも目を引いたし、賞金額もしみったれちゃいない。おれのような書き手にとっては、割られるのを待っている豚の貯金箱のようなものだった。
だけど選考委員がいただけない。一、二作が話題になっただけで大した経歴もない泡沫作家に小説の良し悪しを判断されたかない。だいたい選考委員がランダムに増えるってなんじゃそりゃ?
目先の変わったことをやろうとしているらしいが、おれの経験からするとこういう奇をてらった新設の賞は、数年後にはカス札になるのがオチだ。賞金額に目の眩んだユリが発注書に加えるのはまちがいないが、選考委員がいかにクソか、場末の秘宝館の呼びこみチラシのような募集にかかずらうのがいかに時間の浪費か、そのあたりはあいつに縷々説いてやらなきゃならなかった。
退屈しのぎにネットをうろついていて見つけた募集ページを閉じると、おれはさっさと終業の仕度をする。朝っぱらの営業所に戻って制服を着替え、帰りしなに蒲生駅で下りて徒歩十五分のアパートに向かった。自宅でひと眠りしてから日没ごろに来るんでもよかったが、夜勤明けにユリのところに寄るのはすっかり習い性になっていた。
そもそもおれをこんな生活に引っぱりこんだのは田中ユリだ。西新井のガールズバーで働いていたユリは読書嫌いで、おれの筆名も知らなかったが、カウンター越しにしゃべっている男がアルコール依存症で道徳心のないゴリラ人間とわかっても敬遠しなかった。文壇の不良在庫だったおれをあげつらって「太宰的な〝人間失格〟自己演出が涙ぐましい」「破天荒の仮面をかぶった普通の人」と吐いた毒舌編集者もいたが、その伝でいけば、例えばいきなり道で小説の神様に声をかけられて「ユー、入水自殺しちゃいなよ」と命じられたら、おれなら心中の相手にはユリを誘う。ロマンティックな文学的殉死に乗ってくるタマかどうかはさておいてもね。
「おつかれー」
アパートの部屋に上がりこんだおれは、冷蔵庫から冷えたスーパードライを出して開栓する。急いで無駄な物を捨てないとそのうち窒息死しそうな1DKには、手狭さにもかかわらず冷蔵庫が二つもあった。一方は未使用のままでネットオークションにかけられているが、希望にかなった買い手がつかないらしい。
ユリはお仕事中だった。もこもこのルームウェアをまとった背中を丸めて、煙草を吸いながらラップトップと向きあっている。おれは未開封のダンボールやコスメの試供品をよけて座って、ビールを飲みながら、ホットパンツから伸びる若鶏の腿肉のような脚を吟味した。サイドテーブルでは化粧品のボトルやスプレー缶が彼女の軍隊のように整列している。おれは片尻を上げて、音なしの屁を放りだした。ユリはこっちを向かなかったが、ちゃんと察して臭いを嗅ぐまいとしていることは、鼻や唇から螺旋状に上っていた副流煙が止まっていることからしてもお見通しだった。
扉がノックされたのでおれは立ち上がり、玄関で宅配業者から小包を受け取った。懸賞だけで暮らすユリの家では、ちょっと過ごすだけでもそのあいだに配達物が届く。荷物のテープを雑に剝がしながら戻ってくると、
「勝手に出ないでよ、同居人でもないのに」
ユリが椅子ごとこっちを向いていた。おれは答えずに開封した。人気アニメのフィギュアセットだ。おれがキャッチフレーズを書いて応募した懸賞企画の戦利品だった。
「じゃあおれは、この青い髪のやつをもらっておこうかな」
「だめ。それは全員でチームのやつだから。一人欠けると売値が下がっちゃう」
「そんなの知ったことか」
もちろんユリは換金が目当てだったが、おれの信条として自分の関わった戦利品はその分け前をかならず取る。ディップソースの詰めあわせが当たったときはバーニャカウダー味を選んだし、使いもしない食器や装飾品や脂とり紙も何割かをいただいた。手っ取り早いのはこの場で現金に換えることだ。吝嗇と笑いたくば笑え、それが自分のアイディアや文章を切り売りする〝賞金稼ぎ〟の矜持というものだ。
「ほれ、今週の払いに上乗せすりゃいい」
催促するとユリは舌打ちしながら銭函を出してきて、慣れた手つきで紙幣の束から数枚を抜き、そこに四千円の色をつけた。
座右にあるのは『公募ガイド』の今月号、ユリのような懸賞生活者にとってはバイブルだ。多彩なジャンルごとに公募情報が載っているが、〝キャッチフレーズ〟〝標語〟〝川柳〟〝短歌〟、そして〝文芸〟となにかしら文章を書かせる公募が大半を占めているのは周知のとおり。で、あっぱれな潔さでみずからの文才に見切りをつけたユリに白羽の矢を立てられたのがこのおれだった。
調子よくビールの缶を二本三本とつぶしていくおれに、「酔いつぶれてまた寝てかないでよ」とユリは言った。「オゲちゃん、帰ってやることないわけ」
「お前ねえ、おれの本業がなんだと思ってるんだ」
「警備員」
「小説家だ。ぼちぼち自分の小説を仕上げないと」
「書いてるじゃん、小説なら」
「御毛文雄の小説、ってことだろうが」
「はい、今週のぶん」
こっちの話を聞かず、横罫のレポート用紙を破ったものを渡してくる。新たに募集が始まったものと〆切が近いものが列記されている。そのなかには〝ヴンダーカマー文学賞〟も挙げられていた。ほら来た、おれはその募集がいかにクソかを縷々説いたが、煙越しに目を細めるユリはやっぱり聞いちゃいなかった。
「オゲちゃんって、小説となると当たらないよね」
そう言われて、眉尻がひきつるのを感じながらおれはビールの残りを一息にあおり、げっぷとともにユリを睨めつけた。
「あのな、これまで出してきたのは短い時間で書き殴ったやつだから。お前の名義で出すものに本腰は入れられない」
「別にそっちの名前で出してもらっていいんだけど」
「御毛文雄の作品はいま書いている長編小説、それだけだ。あちこちに書き散らかすようなのは違う。ましてや公募の新人賞なんぞに」
「あのね、あたしは懸賞品の転売でちまちま稼ぐんじゃなくて、賞金をざあーっと総ざらいしたいの。おれに任せておけとか言ってたくせに」
業突く張りめ。こいつが脳裏に描いているのは、女ギャンブラーとしてめかしこんだ自分がカジノの卓に山積みのチップをいっぺんに引き寄せる絵面だった。地方の自治体や新聞社などが主催する文学賞はけっこうあって、たいていはどこも賞金一〇〇万は出している。メインストリームの新人賞と比べれば応募総数も多くない。ユリはようするにそっちの〝金脈〟によだれを垂らしていて、あっちで一〇〇万、こっちで一〇〇万といきたいわけだが、赫々たる戦績が上がらないことにへそを曲げていた。
「本気で書いてないとか言い訳するなら、御毛文雄の作品としてがっつり賞を獲れるのを書いたらいいじゃん」
「そうなると、いろいろと規定があってだな」
「つべこべ言うあなたに朗報、ジャジャーン」おれの手から発注書を取りあげるとユリは新設の賞の要項を指で弾いた。
「これだったらプロアマ問わず。オゲちゃんでも問題ないっしょ、しかも賞金五〇〇万円!」
「興味がない。賞金稼ぎをやっているのは、お前の片棒を担いでやっているだけで……」
「はいはい、わかったから。とにかく書いてね」「絶対に出さんぞ、この賞には」
おたがいに譲らず、言いあっているうちに面倒臭くなった。しばらくは言葉を交わさずにPCを見たりスマホを見たり、おれの長っ尻をユリは煙たがって、「ねえ、いつまでいるの? 取り分は払ったんだからさっさと帰りなよ」
「帰るは帰るが、この金でスーパー銭湯でも行かないか、風呂は好きか?」「一人で行ってきて」
「お前もこんな息苦しい部屋に閉じこもってないで……」
「行かない」
すげないね、田中ユリ。あいかわらず誘いには応じない。偏屈な遣り手ばばあのように発注と支払いをすませてさようなら、というのではあまりに情が薄すぎるじゃないか。
「さっきの賞の話も考えないでもない。お前がその態度を改めるなら。おれたちはいいコンビじゃないか、ボニーとクライドみたいに。あっちは賞金首のほうだけどな。おれたちなら一発ドカンと世間に風穴を開けられる」
「酔っぱらい、ひとん家でクダ巻かないで」
「いいかげん、おれと付き合え」
「ヤダ」
懸賞品に埋めつくされた驚異の部屋で、おれたちは二〇〇回はくりかえしたやりとりを飽きずに反復する。こいつといるとおれはドラフトで一位指名されるのを待つ草野球選手のような気分になってくる。どうせ聞いちゃいないとわかっていながら、酔いにまかせて独り言をつらねた。おれたちは似合いのカップルじゃないか、このままなんの進展もなかったら、地球の温度が冷めちまう。
お前のような女を理解できるのはおれだけだ。他のなにをおいても田中ユリ、お前はそれに気がつくべきなんだ。
*
渡される発注書にしたがって、おれは懸賞企画に見合った文案をひねり、テキストを作成する。場合によってはひとつの公募につき二つも三つもね。そいつをユリは募集要項に沿ってパッケージして自分の名義で応募する。本音を言うなら、まさしく売文屋のような真似はしたくないんだが、懸賞に生きる糧を見いだすユリをなおざりにできないじゃないか。つまりは他愛、慈善、惻隠の情、埼玉の片田舎でひたむきに射幸心にすがる女に愛の手を、というのでかれこれ二年ほど自分の小説執筆のあいまを縫って〝賞金稼ぎ〟の相棒をつとめていた。
おれの小説。御毛文雄の最新長編のことにもふれておかないとな。
ポスト・アポカリプス系の世界終末小説は、時間をかけてじっくりと進められている。
おれの書斎。といっても賃貸アパートの六畳間だが、おれとしては書斎に住んでいる感覚だ。部屋を占めるのは万巻の本の連峰。知の山脈のはざまの盆地でおれは寝起きし、本を読み、執筆する。部屋のキャビネットには手書きの原稿、ゲラ刷りのコピー、書評の切り抜きをまとめたファイルを収納している。その上の祭壇にはおれの既刊二冊──中編集『路地裏のバルバロイ』と短編集『かげふみ』が鎮座している。新作に関しては執筆用のデスクの抽斗に、草稿、訂正草稿、関連記事のスクラップ、章ごとのプリントアウト、朱を入れてリライトした原稿を収蔵していた。
隠さず言えば、脱稿の目途は立っていない。いったん止めてはまた書きだし、書き直しては冷却期間に入って、新しいシークエンスを書き足しては全体のプロットを練り直す。おれは単語ひとつにもこだわらずにいられない性質だから、執筆が乗っているときは五メートルも机を離れると、後頭部をハンマーで殴られたみたいにあの段落、あの文章、あの文節はうまくないんじゃないかという念慮にとらわれ、ばたばたと戻って文章のリズムや調子を手直しする。そんなふうに丹精をかけた数枚を、あくる週の改稿でばっさり棄てたりするのだから、おれを本当に安心させる文章なんてどこにもありはしないんじゃないかという心地にもなってくる。
こればっかりは読者や編集者とも分かちあえない感覚だろう。時折、ここにあるのはまったく他のだれかの書きかけの小説、無理強いされた見当違いの代物としか思えなくなることがある。おれはもはや血の通っていない創作物を、赤ん坊の亡骸を抱きしめる母親のように持てあましているだけなんじゃないかってさ。
たまったもんじゃないよな、だれも句読点ひとつ代わりに打っておいてくれない作家の日々は、終わりのない服役か、胡散臭いカルトの宗教儀礼もさながらだ。推敲の手垢がつきすぎたせいで、自分からぼろぼろと剝離した無数の組織片が染みつき、それでいて自作とは言いがたいほどに形骸化した、おぞましい未発表の原稿の群れ──足かけ三年の作品がそんなふうに、うっかり触れると祟られるご神体のようなものに思えてくる時期は最悪だ。眠っても眠ってもくたびれていて、心と体がうまく拮抗しなくなる。書かなくてはと机に向かっても、体のほうは寝たがっていて、ふたつの衝動のはざまでぐらぐらと局所的な地震が起こる。こんなありさまで良いパフォーマンスは発揮できないと書きたい衝動をひっこめて床につき、昼過ぎまで爆睡したりしていた。
ブルーカラーな労働も体験しておかなくては、庶民の実感がともなう佳作は書けない。空き時間を書き仕事に費やせそうでもあったので始めた警備員の仕事中にも、最近ではもっぱらユリの発注をこなしている。
おれが登録しているミドー警備SSは中堅の警備会社で、南千住の営業所で制服に着替えてから、連絡用のケータイや懐中電灯を持たされてその日の職場に出かけていく。オフィスビルやソーホー、産業プラザなど、人手不足のせいであちこちの深夜警備をやらされていた。おれは制帽を阿弥陀かぶりにして、定時巡回などのあいまに水筒の酒を飲みながら懸賞用の文章を書く。文学賞とは関係ないキャッチフレーズのたぐいであれば、気の利いた文章をひねるのは造作もなかった。「今日も飲ってるね、警備員さん。例の会議室また頼めるかな」
警備会社のなかでも古株になったので、大きくないオフィスビルの警備には一人で当たることもしばしばだった。顔なじみの社員から袖の下を受け取って、社内不倫のための場を用意してやることなんかもある。他にも無許可の部外者を入れてアート誌の撮影をやらせたりね。おれ自身、警備中に素面でいることはなかったし、グラビア雑誌なんかを持ちこんでトイレで用を済ませることもあった。
「ふざけるな、このブス!」
便器に片足を乗せたり、座位でのけぞったり、しっくりくる体勢を探して悪戦苦闘したが勃ちの悪さは変わらず、不完全燃焼にカッときたおれはグラビアの頁をびりびりに破り裂いて個室の壁に叩きつけた。
精神衛生のために日に二度は抜くのがおれの流儀だったが、このところはムスコのほうが一足先に隠居したがっていた。ユリの顔貼りを試してみるかなと思いながら警備室に戻ったおれは、懸賞用の文章にもいまひとつ集中できずにスマホをいじりだし、文芸関連のネットマガジンや同世代の作家のツイッターを飛び飛びに閲覧していった。
愚にもつかないつぶやきばかりだ。おれの憂さは晴れない。ユリの言葉がいまいましくも脳裏にこだまする。オゲちゃんって小説になると当たらないよね──
実際、賞金稼ぎとしてはかなりの勝率を叩きだしている。月日を重ねるごとにのめりこみ、結果がともなえばさらにがつがつと躁の状態でペンを走らせることができた。
書いて、書いて、書きまくれ。
つまらない世界を彩れ、おれの文章よ、自己増殖しろ。
産めよ、殖やせよ、地に満ちよ!
だけどそんな高揚感も、地方文学賞に出した十編ほどの応募作を思うとたちまち萎んでしまう。なんといってもそれらは小説だったのだ。
御毛文雄の名義ではないと割りきり、こだわりや文体意識を手放して、ウケがよさそうな展開や台詞まわしを心がけた。それなのに一度か二度、最終選考に残っただけで入賞はなしというのだから星のめぐりが悪すぎる。小説が読めない選考委員に当たった不運を呪わずにいられない。もどかしさを募らせるほどに酒量は増して、大事な世界終末小説のほうまで疎かになるありさまだった。
「どいつもこいつも、しくじらずに小器用にやりやがって……」
夜も更けてくると、憂さのよどみも深くなった。便所の落書きなみにくだらないツイートに毒づき、アマゾンで他の作家の新刊に二つ星のレビューを投稿して──星ひとつじゃないのは同業のよしみだ──作家同士のSNSのじゃれあいを舌打ちまじりに眺めていたところで、ある大手出版社の編集者の訃報が目に留まった。
「これって、生駒のことか?」
実名は伏せられていたが、お悔やみツイートをしている顔ぶれや前後の文脈からいってまちがいなかった。御毛文雄のデビュー以来の担当者。口さがない毒舌家で、おれのイタ電のいちばんの被害者でもあったが、文学一筋の有能な編集者なのはたしかだった。
おれは文学誌の新人賞を獲ってデビューしたが、一作目の『路地裏のバルバロイ』は売れず、次の『かげふみ』はもっと売れず、芥川賞や三島賞といった純文学の賞レースからもお呼びはかからなかった。おれはなんでもないふりをした。業界の反響や読者の数が小説の良し悪しを決めるわけじゃないからね。だけどこの出版不況では、版も重ねられず話題にもならない新人が座っていられる席はない。すぐに仕事の依頼は途絶え、だれもが御毛文雄なんて初めからいなかったようにふるまった。おれの目は凍った河の魚の目のようになり、自分の首がどこかの本屋の軒先に置かれるところを想像した。さらし首の札にはこう書いてある。〝こうして作家は消えていくのです〟──
ずっと軽いパニックだった。最悪の〝作家鬱〟にやられてしまい、あらかたの交友関係を絶ち、連日飲みすぎて首までドツボにはまった。なんでもないふりをしてみても本当はブリザードのような寒風に凍え、自分の柔なところをすこしずつペンチで引き剝がされるように感じていたんだな。──オゲちゃんみたいな書き手は、芯を食うまでは時間がかかるんだよ。なんだったら賭けてもいい。おれの言ったとおりにいずれ大きくハネたら、願い事をなんでもひとつ聞いてもらおうかな。
最悪の熱病から回復できたのは、文士気取りのナルシストとかエセ太宰とか毒を吐きつつも生駒がつねに電話に出てくれたからだ。あいつの行きつけのビザールな書籍が並んだショットバー、そこで交わした賭けがなんのかんので心のつっかい棒になった。いまは一世一代の大作じゃなくてボトルシップのように小さくても精緻な物語を書け、と大長編への情熱にケチをつけられもしたが、どうあれ最初の読み手として生駒が待っていたからこそ、おれは本気で考えていた遍路巡礼にも出かけなかった。ピースボートにも乗らなかった。そうやって持ち直して次作の執筆を進めてこられたんだ。
ネットで得られる情報がつきたので、おれは出版社に電話をした。進捗の報告だけではなく声色を変えて「生駒のやつは礼儀がなっちゃいない」「減給して」とイタ電をしかけていたので、編集部の番号は諳んじられる。
夜の十一時をまわっていたが人は残っていて、おれも面識がある涌井編集長に取り次いでもらえた。生駒はクモ膜下出血だったらしい。おれの四つ上でしかなかったのに、数日前の朝に奥さんが起こそうとしたときには冷たくなっていた。言葉どおりにハネたあかつきにはどんな〝願い事〟を吹っかけてくるつもりだったのか、おれは永遠に知ることができなくなってしまった。
「あなたを買ってましたからね、生駒は」と編集長は言った。「普段ならマイナーポエットには見向きもしない、こう言っては失礼だが、新作の刊行もたえてひさしい作家をいつまでも気にかけることはありませんでした」
針のむしろに座らされるようだった。部下の喪に服しているからこそこのぐらいの苦言に抑えているのだ、と編集長は言わんばかりだった。
「書かれている小説があるんでしょう」
「おれのこと、話してたんですか」「ええ、ただその小説は深みにはまっていて、読む機会は来ないかもしれないとね。それでね、あれはどこにいったか……」
電話の向こうからがさごそと音がして、おれは嫌な予感をおぼえた。
「あったあった、ヴンダーカマー文学賞、これは新設の公募賞なんですけどね」
「へーえ」とおれは言った。その声はなんとも間が抜けていた。だけど他になんて返したらよかったんだ?
編集長は〝広義のエンタテイメント〟〝プロアマ問わず〟というところを強調しながら生駒のデスクに置かれていた募集要項のプリントアウトを読みあげた。付箋でおれの名前が添えられていたという。生駒はこの賞への応募を奨めておれに心機一転を図らせようとしていたんだろうと編集長は言うんだな。
このミス大賞でも乱歩賞でもプロが応募した例はあるし、受賞して再びスポットライトを浴びた作家も少なくない。出版社にとってそれは、持てあました作家に活路を拓かせるひとつの有効な手立てなのだ。
「考えてみてください、これは言うなれば生駒の遺志ですよ」
混乱のほうが大きかった。あいつまで?
それって本当に担当作家の傾向を考えてのことなのか、厄介払いされたように思えなくもなかった。その日の警備員の仕事がはけてからも、電話での会話が、ヴンダーカマー文学賞のことが頭から離れなかった。どうしたって選考委員や審査過程が気に入らないし、御毛文雄として書くのは進行中の長編だけと決めていたんだけどな──
千々に心は乱れた。帰路のコンビニで酒を買い、チューハイやビールを大量にあおってアパートまでたどりつけずに街路の植えこみに吐き戻した。疲れのせいか皮膚がちくちくして、視界が狭まって強烈な嘔吐感が去らない。そのうち酒で身を滅ぼすぞとわれながら思う。勃ちは悪いし、同年代は急死するし、おれは確実に老いている。どうにか家に帰りついてそのまま眠ってしまおうと思ったが、どうしても寝つけずに起きてラップトップの画面を、空白しかないモニターをしばらく凝視していたが、めぼしい物語の断片は浮かんでこなかった。
長い時間、そこに座っていられない。
おれはそこに、とどまることができない。
御毛文雄として新たに書け、再起に賭けろ。そんなふうに突きつけられた途端に、おれはいよいよなにも思いつかなくなっていた。
野生の作家は群れをなす
七月の半ば、おれは駅までの往来でユリと揉めている。
「おれにも出席の資格がある、分け前はきっちりもらうからな」
「オトコ同伴で来たとか思われるじゃん。おれは裏方でいいとか言ってたくせに!」
「たまにはおれも勝利の美酒にあずからせろ」
「もう飲んでるじゃん、すっごい酒臭いんだけど」
腰が据わらない書斎を抜けだして発注書を取りにいったところで、いそいそと身支度をしているユリを捕まえた。ある企業広告のキャッチフレーズ募集で大賞を獲ったのだが、主催の広告代理店が開く祝賀会のことをユリは秘密にしていた。おれがこれまで贈賞式やパーティーに同行することはなかったが、とにかく憂さ晴らしが必要だったし、ユリと外出とかもしたかった。
上野の創作イタリアンバルを借り切って祝賀会は催されていた。体の線がわかる臙脂色のワンピースに柄物のストールでめかしこみ、アイシャドウも口紅も盛りに盛ったユリは代理店や同時入賞の男たちにチヤホヤされて上機嫌だった。「適当にすみっこらへんにいる」という条件つきで同行したおれを顧みず、アルコールに頬を紅らめ、パーティーの浮かれ心地に身をゆだねている。あいつめ、あんな愛想や媚態の持ちあわせがあったのか。部屋で見せることのないユリの横顔は、細くてつややかなあごをつまみ上げたいとおれに思わせた。触ってもいいよオゲちゃん、と言ってほしかった。おれの胸は電流を流されたように痺れ、跳ね、七転八倒していた。
「あのー、御毛文雄さんですよね」
そこでいきなり声をかけられて、背中に氷を入れられたように面食らった。
このパーティーで、その名前で呼ばれるような理由はなかったからね。
「オゲさんでしょ、以前に文芸誌のグラビアでお顔を拝見しました」
「違いますよ」
眼鏡をかけた餅のようなとっちゃん坊やだった。純粋なファンなら少しぐらい歓談してもよかったが、あいにくおれは自分に声をかけてくる手合いを信用しない。昔の文芸誌をひきあいに出すぐらいだから業界関係者かもしれない。ここで御毛文雄とばれて得することはない。大賞の田中ユリさんと一緒でしたよね、もしかしてご夫婦とか、と話しかけてくる男を適当にかわすと、おれは立食のピッツァや熟成アンチョビをドカ食いし、痛飲して残りの時間を過ごした。やがて閉会の頃合いになってトイレから戻ってくると、ユリの姿が見当たらなかった。
──おい、どこに流れた?
メールを打ったが返事がない。ユリめ、近くに良い店があるとかなんとか男に誘われてついていったか、もとから出逢いの予感に胸を躍らせていて、同伴のおれの目を出し抜いたってわけか。これは寝取られの危機だ! タイムリミット・サスペンスだ! おれは推理力と行動力のありったけを動員して、代理店の男が口説くのに使いそうな近場の飲み屋を探しまわった。ユリの貞操はいまやだれも、ユリすらも守ってはくれない。それを守れるのはおれしかいなかった。
だけど酔いがまわっちゃって、覚醒した意識がぶつ切りになってくる。路上を駆けまわっていたはずのおれは、気がつくとなぜか松屋で牛丼を食べていた。店を出るなりそのすべてを吐き戻してへたりこみ、「現実は小説のように脈絡があるものではないな」と変に得心していたところで声をかけられた。
「大丈夫ですか……実はぼくも小説家志望で、このあとSNSで交流のある志望者同士の集まりがあるんだけど……オゲさんも良かったら……」
とかなんとか言われたのをおぼえている。介抱がてらタクシーに乗せられ、連れていかれた個室ダイニングでおれは二時間ほど眠りこけたらしい。薄暗い洞窟のようなその部屋で目を覚ましても、五、六人のあやしい男たちはまだ座を囲んでいた。
「投稿サイトで作品を発表してる人もいるし、公募専門の人もいます。ぼくは今日のパーティーの準大賞だったんですよ。集まるようになってから初めてです、新人賞を獲って著作もある小説家をお招きできるなんて」
おれを連れてきたとっちゃん坊やは二瓶と名乗った。誂えもののジャケットに素足を挿しこんだビットモカシン、袖に覗いているのは老舗の高級時計だ。富と階級の香りを漂わせるこの男も小説家志望なのか。どちらかといったら広告代理店にコネ入社でもしていそうだが。おれは酔眼をこすりながら「君たち小説家になんてなるもんじゃないぜ」とさっそく先輩風をそよがせた。
「ところで田中ユリさんは、帰られたんですか」
「田中さんって、いろんな公募で名前を見かけますよね」
「賞金稼ぎみたいな人がいるんだなって話してたんだけど、御毛文雄がついてたとか?」
ところがどうしたことか、だんだん雲行きがあやしくなる。ユリのことを突っこまれておれはしらばっくれた。「あーいや、たしかに付き合ってはいるけど、あいつは自分で書いてたよ。たまにアドバイスとかそういうのをしたことはあったけど」
すると二瓶が、一枚の紙きれをつまみあげて見せてきた。おれが懐に入れていた発注書をこの男、いつのまにかくすねていやがった。
「ぼくらも事を荒立てるつもりはないんだけど」
「ここには地方文学賞のことも書いてあるし、そうなるとねえ」
「たまにいるんですよね、商業デビューしてるのに公募の賞にも出そうとする人。アマチュアに限定してるところに偽名や他人名義で出すのは規定違反だし、たとえプロアマ不問だとしてもそこに思慮分別はなくていいんですか」
おれが黙っていると、二瓶たちはあきらかに詰問の口調になっていった。懸賞の世界でもとりわけ文学賞の周辺には、自分の人生を懸けている人がいるんです。あなたがひとつ席をとればそのぶんひとつの夢がついえる。それをなんとも思いませんか、あなたが格闘すべき場所はもっと上にあるはずでしょう。ピラミッドのひとつ下に降りてきて我がもの顔でふるまうような真似はみっともないと思いませんか?
「どうしますか、たとえば今回の公募でいうと規定違反です。このことを報告したら受賞取り消しってことになるかもしれません」
「あんたら、ゲストにご招待みたいなことを言って。もとから説教を入れるために連れてきたのか。煮るなり焼くなり好きにしやがれ」
「まあまあ、そんな天下りじゃないんだから、上とか下とかって考え方は不毛でしょ。事を荒立てないとか言いながら、ばっちりこの人を吊るしあげようとしてんじゃん」
一昔前のお坊ちゃん風の二瓶に対して、おれに助け舟を出した森田という男は地方のヤカラ然としていた。頭髪は黒と金の二色で、ハードロックバンドのTシャツを着こみ、上目遣いで睨むように人の顔を覗きこんでくる男だったが、気色ばんだ同席者のだれよりも平静を保っていた。
「おれ、この人の作品好きだけどね。『かげふみ』に入った『トロイメライ』と『99℃』なんて出来栄えすごかった。あんなにエッジのきいたのを書ける人でも本を出しつづけるのは難しいんだから、厳しい世界だよな」
「森田くんとやら、君は話がわかりそうだな」
「だからおれ、オゲさんのやり方ってありじゃないかと思ってて」
森田は語りだした。自分たちはどうして小説を書くのか、書店に本を並べたいから? 薔薇色の印税生活を送りたいから? だけど当今の作家の印税はよほどの売れっ子でもないかぎり、一冊書いて一〇〇万に届かないらしい。それって地方文学賞の賞金を下回ってる。新人賞を獲ってデビューできても書きつづけられる作家はわずかで、このご時世で富と名声は、ごく一部の作家にしか分配されないものになってしまった。だったらもうデビューにこだわらなくてもよくないか、ひたすら公募に出す〝賞金稼ぎ〟として、資本制生産様式に飼い馴らされない野生の作家としてやっていくのもアリじゃないか、とまくしたてるそのさまは決起集会で演説をふるうマルコムX風の指導者さながらだった。
「だけど、文学賞で賞を獲りまくれる実力があったら」とおれは半畳を入れた。「出版社が放っちゃおかない。遅かれ早かれデビューすることになるだろ」
「断わりゃいいんだよ。そんなの断わって、あくまで懸賞や公募小説だけをやるの。で、野生動物って群れるじゃん? だからおれは賞金稼ぎの結社みたいなのを結成できねえかって、ずっとみんなにも話してきたんすわ」
面白いとは思いますけどね、と二瓶たちは言葉を濁している。森田の妄想が先走っていることがよくわかる温度差だった。おれは思ったね、この男はようするに作家志望者の成れの果て。門前払いを食らいつづけてそれでも夢を捨てきれず、承認欲求をこじらせた新人賞難民なんじゃないかって。
「例えば、架空の作家をつくってさ。それを次の名前また次の名前と変えていって、おなじ名前で受賞しすぎて入口で蹴られる事態を避けるわけ。そんなことを考えてたときにオゲさんが来たのは運命でしょ。おれたちは透明で巨大な存在になって、一人ひとりが架空の作家の細胞になるんだ。オゲさんもそこに加わってみませんか、オゲさんなら架空の作家の頭脳にもなれると思うんだわ」
「おれはやめておくよ、結社なんてフリーメイソンじゃないんだから。そこまでして書くことにこだわらなくても、会社でも興したほうが儲かるぞ」
たしかに森田の展望には、これまでの作家の在り方を覆すところがあった。コンテンツとして消費されるものだけが小説じゃないというのは同意もできる。だけど小説はまずは一人のアウトプットで、多くてもエラリー・クイーン風の二人組のそれで創られるところに真価があると信じているし、読者のほうを向かない創作に命が宿らないことは知っている。森田の話は話としては面白いが、面白い止まりでまともに取りあえるものではなかった。
「だったらオゲさんは、どうして書くんですか。なんのために小説にしがみついてるんですか」
と、詰められておれは苦笑した。そろそろ帰るわ、と腰を上げたところで「ちょっと待って、規定破りの件が解決してない」と二瓶が食い下がってくる。おれはもう他人名義で公募の賞に出さないことを約束させられる。〝協定〟の公布とまでいって一筆を認めさせられ、血判のかわりに親指の指紋まで取られた。
「さっきの話、考えといてくださいよ」
森田は連絡先を知りたがったが、おれは適当にはぐらかして教えなかった。
それにしても妙な連中だった。難破したような夜にはお誂えむきの出逢いだった。
屋外に出ると、空が群青色に染まりつつあった。路上のゴミを鴉がついばんでいて、七月の朝の生温かい風が塵を吹きあげていた。
蒲生のアパートで待っていると、しばらくしてユリが帰ってきた。代理店の男と三軒目まで梯子してタクシー代をもらって帰ってきたらしい。飲みすぎちゃったぁとへらへら笑いながら冷蔵庫のキャベジンを取りだすユリは見ていられなかった。
「悪いことは言わん、やめておけ。他人の代理で金を得るような輩にろくなのはいない」
「オゲちゃんだって、代理で文章書いて分け前もらってんじゃん」
「それとこれとは別だっ!」
「怒鳴らないでよ、頭がガンガンするからぁ」
「浮かれるな、ユリ、お前に代理店は不釣りあいだ」
「あたしにはランク高すぎるっていうわけ」
「あべこべだ。向こうにとってお前のランクが高すぎるんだ。お前のようないい女は、ああいう男たちにはもったいない」
おれはわかってほしかった。ユリには自分がどれほど魅力のある女かをわきまえておいてほしかった。酒でただれたこんな頭にも、人の尊さはわかる。生きて暮らすことの価値はわかる。ユリはそういうものを体現する女なのだ。
「お前は自分のルールをつくって生きている。射幸心に人生の焦点をあわせて、なおかつただのギャンブルに堕さずに採算のサイクルを築いている。そんじょそこらの馬鹿女にできることじゃない。おれたち作家の生き方とも通じるところがある。自分だけのやり方で不格好でもかまわないから世界の箱庭を創ろうとする人間には美学がある。お前を理解できるのはおれだけだ。だからおれと付き合え」
「ヤダ」
即答。おれは溜息をつく。魂ごと奈落に突き落とされるような溜息を。毎度のことながら応えないわけがない。けんもほろろに袖にされるたびに、ひょっとしたら文学賞の一次落ちよりも重たい存在否定に打ちのめされていることは、ユリにはなかなか伝わらない。
「オゲちゃんさ、あたしそんな美学とかないし。大げさに買い被られるような人間じゃないし。あたしはただ懸賞が好きで、働くのがいやなだけの普通の女だから」
「そんなことはない、自分を低く見積もるな」
「見映えのいい男にチヤホヤされたら嬉しいし、高い店に連れていかれたら自分の価値が上がったような気がするの。みんなそうでしょ? これからもまだいいことはたくさんありそうって思って生きてたいんだよ」
「それならおれが、たらふくいい思いをさせてやる」
「オゲちゃんには才能? そういうのあると思うよ」
「そのとおり。お前にはそれがわかってるはずだ」
「だけど付き合うのは無理。懸賞は一緒にできてもそれ以上の関係になれない。だってゴリラ顔って無理だし。オゲちゃんとはそういうんじゃない」
「だったら、どういうんだ!」
「せめてね、大きな文学賞でも獲ってから。もうちょっと未来のことを見通せるようになってから告白とかしてよ。ゴリラでも馬鹿な凡人を騙だませるほど凄くなってよ。うわーあたし、凄い男を射止めちゃったかもって思えるような、そういう人生で二度も三度もないような幸福感を味わわせてよ」
そこまで言われて、好きな女の部屋にだらだらと居残れる男がいるだろうか。
いまに見てろ、馬鹿女!
おれは叫びながら玄関を飛びだした。
決死のダイブ
あいつらには悪いが、〝協定〟は反故にさせてもらった。
夏のあいだは書きつづけ、秋になってある賞の最終に残ったとの一報があった。
〝協定〟を無視したのは、御毛文雄の名前ではどうしても筆が止まるからだ。ヴンダーカマー文学賞への応募にしても肚が決まらないままだった。
地方文学賞に絞りこんで書いたひと夏、警備のバイト以外では他人に会わなかった。ユリのところにも行かなかった。他の付き合いはもとから絶っている。デビュー同期の集まりにも行かない。地元の連れや親族とも連絡は取ってない。家族や友の絆にすがっても創作の助けにはならない。咳をしても一人、というのが作家の宿命なのだ。
酒量はさらに増えた。降ってくるインスピレーションに期待しても、叡智の手はおいそれと脳髄にタッチしてくれなかった。御毛文雄として机に向かうと公募用の小説はおろか世界終末小説まで書けなくなってしまい、時間ばかりがただ過ぎていく。手がかりを探して本から本へと渡りつぎ、眼球に鉛筆を突き立てたくなるほど起きていても遅々として執筆は進まない。一日の大半を酔い痴れてすごすおれは便器の前にひざまずいては嘔吐し、わめきながら歩道に転がって天に向かってパンチを繰りだしていることもあった。別のときには気づかずに駅の女子トイレを使っていてOLに悲鳴を上げられ、ロズウェルの宇宙人のように駅員室に連れていかれた。
その間、森田からたびたび連絡があった。考えは変わりませんか、と訊かれておれは変わらないと答える。というかあの男に連絡先を教えたっけ、教えなかったはずだが酔った頭では数週間前の記憶もあやふやだった。着信拒否をしたらちがう番号からかけてくるようになったので迷惑していると、二瓶からも連絡があって〝協定〟を守っていますかと訊かれて、おれは守っていると答えた。
「引き合わせた責任があるんで言いますけど、彼には深入りしないほうがいいです。森田も埼玉だけど、そっちの族とかともつるんでるみたいで。別の仲間にいやがらせして集まりに来られなくするどころか、引っ越しまでさせたって噂があるぐらいで」
こっちはあいかわらず端正で上品な声だ。作家を目指すのは高等遊民の手遊びなのか。坊ちゃんマジであんたのせいだろうどうにかしろよと訴えるがどうにもならない。おれは執筆中にスマホの電源を落とすようになり、使い古しの歯磨き粉をひねるように文章を書いて、酒を飲み、起きてまた文章を書いた。その間ずっと、青臭すぎると一蹴した問いがこだまのように反響していた。
おれはどうして、小説を書くことにしがみつくのか。
おれはどうして、文章を、物語を生まずにいられないのか。
富や名声のためか、イエス。人生のリノベーションのためか、それもイエス。心の膿を出したいのもあるし、他にできることがないというのも理由のひとつだ。だけどもっともっと根源のところではどうなのか──
あ、よせよせ、おれまで控え選手の初心な葛藤にあてられちゃったのか。崖にぶらさがる人間がどうして自分は崖にしがみつくのかなんて考えるもんか。とにかく苦心惨憺して数作の短編を書きあげて、どんなものを書いたのか、どの地方の賞に出したかもあいまいになっていた秋口に最終選考に残ったことを報された。電話口に田中ユリでも御毛文雄でもない名前で呼びかけられ、適当なペンネームをでっちあげて応募したことを思い出す。〝協定〟のことは脳裏をよぎったが、これならもしも落選しても御毛文雄の名に瑕疵はつかないとすぐさま居直った。
受賞が決まったわけじゃないが、おれはすっかりそのつもりになって、あくる日からラーメンにはかならず叉焼を載せるようになり、疲れた日にはタクシーに乗るなどの贅沢をするようになって、だけど待てよ、賞金は耳をそろえてユリの前に置いてやったほうがうきゃーオゲちゃん凄いかっこいい、好・き、ってことになりそうだと散財を控え目にしたが、酒代だけは惜しまずに飲みつづけていた秋のなかば、福が転じて禍となり、おれの作家生命がいきなり鎖される。
おかしいと思ったんだよ。最終選考の段階で主催の側から呼びだしがかかるなんて。地方文学賞の事務局でも出版社がからんでいることはあるだろうから、顔バレしたくないおれは面会を断わろうとしたが、すると応募規定に反している可能性があるので最終候補が取り消しになるかもしれないと脅された。
今回、ご応募いただいたあなたはすでに著書のある作家なのではないかと疑惑が持ちあがりまして、とこう言うわけだ。同様の事例がしばしばあるので最終選考の前に事務局では候補者のことを調べます。そっちの専門の下読みの方もいますし、あなたの場合は匿名の連絡もあったものですから。あなたは御毛文雄さんじゃありませんか?
そのままバックレたらよかったんだが、受賞も一〇〇万もパアになるというのに焦ったおれは、麹町にあるという賞の事務局に出かけていった。電話でも話した担当の男と向き合って、おれは裁判官の前に突きだされたような心地になった。そいつが言うには事務局になんべんも連絡があったらしい。御毛文雄が名前を偽って応募している可能性があるから調べてほしいって。
森田だ、と思った。あいつがあの粘着質な電話攻勢をしかけたにちがいない。誘いに乗らず電話も無視したことを逆恨みして。業界筋になにか情報網でもあるのか、それとも募集の〆切がせまった公募賞に片っ端から電話したのかもしれない。そうやっておれの手配状を回しているのだとしたら、それこそおれは賞金稼ぎどころか賞金首のほうだ。
「それからもうひとつ、別の方向からも待ったがかかりましてね。最終選考からはやはり下りてもらうことになりそうです」
「そんな殺生な、こうして出頭もしたんだから」
「あなたの応募作に、既存の漫画作品との類似点が見つかったようで。小説と漫画の違いはありますが、ストーリーの展開において重要な事実の隠し方や、そもそもの題材、一言一句違わない台詞もいくつかあったようで」
は?
パクリだっていうのか、おれの小説が?
おれが猫ならフレーメン反応のような顔をしていたにちがいない。
だってさ、そんなことを詮議されるなんて思ってもみなかったんだよ。
頭のなかは混乱をきわめていた。記憶はあやふやだった。たしかに〆切まで時間がなかったり、先の展開が思いつかなかったりしたときに危険水域に傾くことはある。そんなときに手を伸ばした本に示唆を求めたことがないとはいえない。だけどそれを、剽窃を問題にされるレベルでやらかしていたのか? 酩酊してほとんど無意識に他人のアイディアや台詞回しを拝借したとしたら、自分に対する信用までも地に堕ちてしまう。
おれのなかの謝罪会見。ストロボの土砂崩れ。
激しいライトの明滅にご注意ください。
会見の席についたおれは質問の集中砲火を浴びる。本当はわかってやったんじゃないですかと追及してくる記者もみんなおれ。マイクやカメラを向けられたおれは半泣きで、あとひと押しで罪を認めて平謝りしてしまいそうな瀬戸際で持ちこたえ、譫言のようにおなじ言葉をくりかえす。記憶ニゴザイマセン。
「オゲさん、ローカルの文学賞だからって見くびられたんじゃないですか。そういう話はすぐに全国津々浦々の事務局に、もちろん出版社にだって回りますよ。最終まで残してしまった我々にも非はあるので、こうしてお越しいただいて釈明の場を、ということになったわけです。ちょっと事務局長を呼んできますので、あと、あなたもご存じの涌井編集長ともお付き合いがあるのでこちらにお越しいただいていて……」
全身から血の気が引いていた。規定破りに盗作疑惑、認めようが認めまいがこれは文芸の世界から出禁を食らうことになるんじゃないか、おれは作家として致命傷を負ってしまったんじゃないか。
動悸が激しくなり、口のなかが干潟のように渇いた。おれはこれ以上の公判の継続を望まなかった。窓から飛び降りる寸前にふりかえると、ちょうど現われた事務局長や編集長が啞然として、たぶんこう言おうとしていた。
窓から逃げるのか、いい大人が?
釈明もしないで逃げれば疑惑を認めるのとおなじだ。すべてが終わる──それでもおれは二階から決死のダイブを敢行した。
「ぐあっ」
着地した足をひねって腰を強打した。そのまま建物を離れたが、途中で腰が痛くて痛くてたまらなくなる。身動きがとれないほどになって電柱の陰にしゃがみこみ、片方脱げた靴を探すのも億劫になって自販機で買ったカップ酒を飲んでいたところで、見覚えのある顔が話しかけてきた。「……オゲさんじゃないですか?」
違いますよ、と得意の他人のふりを決めこもうとした。
だけど失敗した。相手が相手だけにごまかしきれなかった。
「那須さん、ご活躍ですなあ」
那須千賀子はおれと同賞の同期デビューだった。どうしてこの女が? ああ文春か、麹町には文藝春秋があるから、打ち合わせかなにかで来ていたんじゃないか。つくづく最悪の運気だった、もっとも醜態を見られたくない相手に出くわすなんてさ。
「オゲさん、こんなになるまで飲んだら駄目ですよ」
「はあ、すんません」
「立ってください、タクシーを呼びましょうか」
「おれは埼玉だけどね。直木賞候補さまがタク代を出してくれんですか。あれ、芥川賞だったっけ」
「あいかわらずのからみ酒ですね」
那須千賀子はおれより七つも年下ながら、デビュー作で芥川賞候補になった。その後はよくは知らないが、純文学のジャンルにとどまらずに掲載誌によって作風を変え、三島賞や山本周五郎賞にノミネートされ、直近でもアントワープ王立美術学院のファッション留学生たちの青春と殺人事件を描いたミステリで二度目の直木賞候補に挙げられていた。よくは知らないが、結婚や出産を経ながらも着実に新刊を出し、そのいずれも版を重ね、いくつかは映画化やドラマ化もされて、技巧と情熱を兼ねそなえた将来の国民作家と目されているらしい。本当によくは知らないんだが、那須千賀子の現在地はおれがデビュー時に夢想した地平からも離れていないようだった。
「ナスチカ、飲み直さないか」
「わたしは帰り道です。オゲさんを見つけてなかったらいまごろ電車の中です」
「つれないな、家族のお惚気でも聞かせてくれよ」
「もうそろそろ終電ですから」
デビュー直後の記念対談で、おれはかなり那須千賀子にマウンティングをしかけたからね。向こうはこっちを敬遠しているだろうし、おれだって誘いつつも本音はさっさといなくなってほしかった。次の候補入りのために枕営業に励んでたのか、文春砲には用心しろよとでも悪態を吐いておっぱいでもさわれば怒って立ち去るだろうが、この女と会うとおれはなぜか背筋が伸びて、破れかぶれな自分ではいられなくなる。だからこそ苦手意識が強いんだ。おそらくそれは那須千賀子が書くものと作家としての膂力に、おれが少なからず畏敬を抱いているからだった。
「そういや、新人賞の選考委員にも就任なさったって」
「あれは、断わりきれなくて」
「異例の出世だね。おれも応募して同期のコネで受賞させてもらおうかな」
「……自分の原稿を書いてください。生駒さんが亡くなってもオゲさんの原稿なら、持ってまわればいくらでも読んでくれる編集者はいますよ」
ユリにはわかるまい。おれがあの賞に出すのを拒んだ理由がたったいま目の前にいる。那須千賀子はおれに好意を抱いてないし、同期作家に選考をゆだねるのは筋が違うというか不健全じゃないか。だからこそあの賞だけは拒否して、地方文学賞に絞ってやってきたのに、今日のこのざまだもんな──
「おれと生駒のことで、あんたになにがわかるんだよ」
頭に血が昇って、座ったままでがばっと那須千賀子の首を抱えこんだ。
那須千賀子がその身を震わせた。至近距離で嗅がされる酒臭さに表情をゆがめる。眼球のふちが潤み、下唇がわななく。怯えてるじゃないか、だめだ、ナスチカにこんな野放図な真似をしちゃだめだと思うが、頭ではわかっていても引っこみがつかなかった。
「おれの次の長編はあいつが待ってたんだよ、あいつに読ませるはずだったんだよ」
「知ってますよ。あの人が自分だけの担当編集者だとでも思ってるんですか」涙ぐむほど動揺しながら、ナスチカは奥歯を嚙んで言葉を吐きだした。「わたしは告別式にも出ましたよ。生駒さんはしょっちゅうあなたの話をしてました。オゲちゃんは自己愛が強すぎて八方破れだけど、ナマのまんまだから面白いって。その作品も文学賞の評価におさまりきらないからこそ面白いんだって」
「あの野郎、あんたにまでおれの悪口を……」と言いながらもあばら骨のあたりに、ゴンゴンと硬い渇望のようなものが衝きあがってくる。くそ、くそ。顔の裏に熱っぽさが湧きかえってたまったものじゃなかった。
「わたしは正直、あなたと接しているとゾッとします。ひさびさに会って言うことじゃないけど、どうしてそんなに自分のコントロールを手放せるのかなって。破天荒な文士型なんて逃げ道ですよ。着実に仕事をこなしてこそのプロじゃないですか。執筆だって体力なのに、そんなになるまで酒に去勢されちゃうなんてありえない。自己管理もろくにできないのに作品を客観視なんてできるんですか」
ちくしょう、犬も食わない正論人間め。なんでおれが勃たないのを知ってるんだ。ナスチカもナスチカなりに高ぶって、言葉の端々に作家の自負のようなものを滲ませる。ゆきずりの同期の難癖にまっこう応えるのだからその真摯さには畏れ入るが、もうちょっとぐうの音ぐらいは出せる加減をしてほしかった。
「だけど生駒さんはあなたをかばって。早く書かせたいは書かせたいけど、思うぞんぶん血を流すことで書く小説が面白くなることもあるって」
「あいつはおれの小説を待ってたんだ……それがころっと変節しやがって、あんたが選考委員の賞に出させようなんて」
「ああ、それは違いますよ」
涙目で嚙みつくようにナスチカはおれを見据えた。
「ヴンダーカマー文学賞のことはわたしが言いだしたんです。オゲさんの長編に脱稿の見込みがないっていうから。あの賞は話題になりそうだし、プロアマ不問だから奨めてみたらどうかって。わかってますよ、上から目線のお節介だってことは。だけどなにがきっかけでつっかえた栓が抜けるかはわからないんだから」
「新人賞からやりなおせってのか、優しい同期もあったもんですね」
「だけど生駒さんに突っぱねられました。そんなことをしたら自分が担当じゃなくなるって。公募の賞を奨めるなんて白旗を上げるようなもんだって。オゲちゃんがそんなことする必要はないって、自分はオゲちゃんを信じてるからって、悔しそうに何度も言ってましたよ。わたしはなにも言えなくなって、資料は渡すだけ渡したけど、あなたに送るつもりはなかったんじゃないかな」
そのあたりでおれは決壊する。ブッと噴きだした洟水がよだれと合流してあごや首元を濡らす。おれはナスチカを突き飛ばすと、熱くてしかたない口元をまさぐり、立ちあがろうとしてよろめいて電柱に側頭部を打ちつけた。
「おれは、おれは……」頭をふるとおのずと上半身も揺れた。「ナスチカ、おれはどうしてこんなところにいるのかな、どうしてこんなところでふらふらになってるのかな、自分でもよくわからないんだよ」
「あなたは家に帰らなくちゃ。なにがあったのかは知りませんけど、わたしたちは原稿に向きあうしかないじゃないですか」
ナスチカの声が耳の後ろから聞こえた。おれは電柱に話しかけていた。前後不覚のまま向きを変えるとおれは脈絡なく走りだした。
「どこへ行くの、オゲさん」
通りに人影はなかった。建物の窓はどれも暗くなっていた。ショーはもう終わってしまったのだろうか。しばらくナスチカの声もついてきたが、すぐに聞こえなくなった。腰がぎりぎりと痛んでいた。靴も履かず、洟もよだれも垂れ流れるにまかせて、深夜の路上を走るおれは自分が泣いているのに気がついた。引き離したナスチカに、どこかから覗き見ているような生駒の亡霊に、あられもない醜態をさらしたくなくて走った。
腰や足の痛みよりも、体のどこかにたちの悪い腫瘍ができているような気がした。売れなくても賞の候補にならなくてもいい、おれは小説を書きたいだけだったのに。おれはそれをだれよりも上手くできていたのに。かつてはおれも悪くない作家だったことを、ナスチカも生駒も知ってくれていたはずだ。だれとも似ていなくて、読み手を驚かせられるようなものを書けていた。それがいったいなんで──
どうしてここにいるのかわからないのに、どこへ行くのかなんてわかりっこない。体が壊れかけていても、おれはどうしても立ち止まれなかった。暗い路地でただ一人、わめきながら、どこまでも走りつづける自分しか想像ができなかった。
奈落の屋上で、恥と挫折だらけの人生を思う
最終候補は取り消しになった。おれの悪評は業界じゅうにとどろいているだろう。ここが底だな、と思っていたがその底はまだ上げ底だった。
十二月になっても腰の痛みが治らず、机の前に座っていられなくなって、トイレに行くのにも這っていかなくちゃならなくなる。救急の窓口に行ってみるとMRIを撮られ、椎間板にひびが入ってますねと告げられる。座り仕事はできませんよと言われて自嘲うしかなかった。もともと体にガタはきていたが、無理をすれば歩くことも座ることもできなくなると宣告されておれはいよいよ絶望して、書斎に帰って明かりも点けずにそのまま何日か寝てすごした。いまやおれは、体までだめになってしまった。しばらくは警備の仕事も休んでいたが、年の瀬になって営業所から連絡があり、大晦日のその日だけ給料三割増という条件につられて復帰するはめになった。
解体前のビルでそんなに重労働にならないというので、病院でもらったコルセットを巻いて越谷に出かけていった。
午すぎからべたついた雨が降っていた。この時期になると神社仏閣から警備依頼が押し寄せるので、営業所は人員のやりくりに大わらわなのだ。外壁がグリーンの幕に覆われた九階建の旧い建物だった。警備室はコンクリが剝きだしで、パイプで吊った蛍光灯がみすぼらしく明滅している。おれはヒーターの前で腰をかばいながら、雨音の向こうから響いてくる除夜の鐘に耳を澄ました。
ほどなくして、時計の針がてっぺんで合掌する。
新しい年の幕開けだった。
ユリはいまごろなにをしているかな。新年をあいつと迎えられたらよかったのに。これ以上、悪いことにならなきゃいいなと思うが、といって上昇の気配はどこにもない。今年もまたうらぶれた穴の底で、すこしでも息をしやすい場所を探して這いまわるのかと思うとげっそりさせられた。
陰気な雨が降りつづけていた。天気予報を見ると、寒冷前線が南下して関東を覆っているという。コンクリの床は底冷えして、防寒用のアンダーシャツを着こんでいても寒い。おれは警備室で足踏みをして、巡回の時刻になると全身の骨が薄いガラスでできているようにそーっと建物の内部をまわった。その時点でおれはまだ、割れた窓の向こうからこちらを凝視する視線があることに気がついていなかった。
そいつらは建物の周辺に散らばっていたらしい。見つけたぞとスマホで連絡をとりあったか、さもなくばおれに聞こえない獣の鳴き声で合図を送りあったかのどちらかだ。
それは、狩りの合図だった。
エレベーター前の踊り場に差しかかったところで、おれは襲われる。
肩をいきなりバットで衝たれた。腰の痛みをごまかそうと伸びをしてなければ、バットの先端は頭蓋骨をひしゃげさせていたかもしれない。暴漢は一人じゃなかった。わらわらと群がってくる。五、六人はいた。雨具のフードをかぶり、狼や虎や鷲や雪豹の被り物で顔を隠している。それぞれの得物を、蹴りを見舞ってくる。暴行に酔うようなわめき声のなかに、おれはおぼえのある声音を聞き分けていた。
「あんた〝協定〟を破ったろ? ほんとに目障りなんだよ」
森田ではなく二瓶だった。あの日の約束を守らなかったから私刑? エキセントリックな森田ならまだしも実は二瓶のほうが、木から落ちたスズメバチの巣のように踏んじゃいけないやつだったのか。野生の作家は群れるとか言っていたが、本当に群れで襲ってきた。どうやって今夜の勤務地を知ったのか、家からストーキングでもしてついてきたか──
「ちょっと待って、コルセット、コールセッッットォッ」
コルセットを巻いてやっと動けているのに、暴行なんてされたらマジ死ぬ。催涙スプレーを携行していたので使ったが、マスクを被った連中に大きな効果はない。駆けだして階段を上がったが、すでに二階でも野生動物たちが待ちかまえていた。あからさまにこの急襲をエンジョイしている。襟首や二の腕に茨模様や鉤十字の刺青を覗かせた者もいた。電話でもふれられていた、暇をもてあました半グレをとっちゃん坊やが雇ったのか、無職の若者は金で依頼されたら犯罪もこなす。連中はやさぐれて暴走もすればイオンで買い物もする埼玉の族だった。
通用口に出る廊下がふさがれていたので、腰の悲鳴に耐えながら上階に逃げた。最後の体力の数滴をふりしぼっておれは屋上に駆けこんだ。南京錠つきの鎖を解いて外に飛び出して、外側から鎖をかけようとしたが扉を閉めるぎりぎりで入ってこられ、完全に退路を断たれてしまった。
だれかの指輪つきの拳がおれの左頬に溝を彫りこんだ。息が止まるほどに蹴られ、内臓や骨に響くような打撃を浴びた。遊びでも冗談でもない、こいつらは本気で私刑をやりとげるつもりだ。背中は耐えられる、だけど顔や腰はだめだ。鼻や口から血が出る。右目は腫れあがって、唇は切れ、腰の痛みは脊柱の全面にひろがってアドレナリンでも抑えきれない。おれはあえなく気絶していた。
「放っときゃそのうちくたばるだろ、他人の夢を踏みにじるような屑野郎はずっと一人でそこにいろ。ハッピー・ニュー・イヤー」
気がつくと仰向けに倒れていた。嘲笑いながら二瓶たちが去っていくのがわかった。連絡用のスマホも無線機もばきばきに破壊されていて、あげくに扉の内側から施錠されてしまっていた。マジかよ、置き去りか?
真冬の、土砂降りの、元日の深夜だ。雨足は強まる一方で、雨よけになりそうな庇すらない。朝方までは周囲を通る人影も見当たりそうにない。もしかしたら正月の三が日でだれも通らないかもしれない。定期連絡がなければ営業所が人を寄越すだろうが、屋上のおれに気づく見込みはありそうでない。普段の素行からして職場放棄でトンズラしたと思われるかもしれない。このまま濡れねずみでいるだけでも肺炎になるか凍え死ぬ。市街のただなかで遭難したようなものだった。
考えても無駄か、助かるイメージがまるで湧いてこない。
ただでさえ内臓出血とかしてそうだし。寒さや雨がなくても死にそうだし。
屋上でへばりきって雨を浴びながら、おれは書けなかった小説のことを思った。
世界終末小説のことを思った。未来に生まれるはずだった、凄い物語のことを思った。
どうしておれは、こんなときにまで小説にこだわるんだろう。だれだって一度でも書けばわかるはずだ。書き手でいつづけることは苦しい。夢にすがることは万能の薬でも尊い美徳でもなんでもない。
おれのこのざまを、たどりついた場所を見ればわかるよな?
ただ暗鬱で、沼のように息苦しくて、屋上なのにまるで奈落の底だ。
ここにはだれもいない。ユリも生駒もいない。
これまでに出会ってきた、連れも同業者もだれもいない。
恥と挫折だらけの人生だった。どこまでもくだらない酒と孤独にふやけた人生だった。おれはふいに恋しくてしかたなくなる。ユリや生駒が、ナスチカが、これまでに別れてきたすべての人々が恋しくて恋しくて、凍死する前に人恋しさが心臓の鼓動を止めそうだ。おれはそういう、おれの世界にもういないすべての人とまた会うために、たとえ小説や物語のなかでだけでも再会するために、それを生みたがってきたのかもしれない。たしかにそのために書いてきた。
仰向けにのびたまま、おれは雨粒を降らせる暗雲の向こうに視線を凝らす。真っ暗な雲には隙間もなかったが、そのどこかに高次の視線のようなものを感じなくもなかった。
屋上に敷きつめられたタイル材が、あたかも原稿用紙のマス目のように思えてくる。はははっ、小説家だったら原稿用紙の上で死ねってことか。それともまだなにも書かれてない原稿用紙があるぞってことか──
おれは、ゆっくりと体を起こした。
ああ、そうだな。
ずっとここにいてやるさ、おれはおれとして、御毛文雄として。
だれにも見向きもされなくても、過去の所業がどこまでもつきまとってきても、それでもおれはずっとここにいる。賞金稼ぎでもプロの作家でもおなじだ。小説を書き上げるたったひとつの秘訣は、書きあげるまでそこから離れないことだ。
冷たい雨に打たれて、いつのまにか酒気も抜けていた。ああそうだとおれは思う。〝賞金稼ぎ〟でなにか書けないだろうか。ミステリかハードボイルドか、とにかく読者を腹の底からエンターテインさせられるものを──
お。
これはなんだ。千思万考していたおれは、なにかの端緒を摑んでいる。
おお、これは小説の断片か。〝賞金稼ぎ〟が呼び水になったのか。
おれの頭の上に、巨大なスフレのようにもくもくと想像の世界がひろがる。あたかも蠟燭の火が消える間際に揺らめくように。満身創痍の頭と体のなかにスイッチが押されたように、物語の一節が浮かんできた。
生死を問わず《デッド・オア・アライブ》、というのは俺たちの流儀じゃない。そんなのはアメリカかぶれの賞金稼ぎたちのたわ言で、俺たちは生け捕りにしてこそ堂々と対価にありつける。だけど今度のターゲットの場合はそうも言っていられなかった。
おお、タフだね。
ごりごりのハードボイルドの感触。だけど悪いとは思わない。
賞金稼ぎつながりの連想らしい。これはどういう方向性を有した物語なのか。舞台はどこで時代はいつなのか。どうして〝俺たち〟と複数人称なのか。流儀をまげてかからないとまずいほどの手強い標的ってことか、のっぴきならないな!
たしかにそれは小説の胎動だった。そんなふうに最初の一節がまとまって降ってくることがあったか、たぶんない。紙やペンがないのがもどかしい。おれはその一節に意識を凝らし、湧いてきた疑問に自分で回答を用意して、即興のようなかたちでファースト・センテンスを展開させてみる。断片をふくらませ、イメージを発酵させ、細かな設定や人物造形を編みこんでいった。
現代日本を、舞台にしたい。
アメリカのような〝賞金稼ぎ〟の制度はこの国にない。
逃亡犯や仮釈放者を追いかけて、身柄を拘束する探偵&傭兵はいない。
だけどこの小説のなかには、いる。
例えばこういうのはどうだろう。特別報奨金制度と裏の懸賞金を当てこんで、指名手配犯やカルトの逃亡者、保険金殺人やテロリストといったお尋ね者たちを調査、追跡、捕獲している連中がいる。それらを差配・管理する互助組織があって、専門の懸賞金収集係がたとえば事件被害の遺族、他にも複数の親族や有志に出資させるかたちで案件ごとに数十万から数百万のギャランティを用意している。
ちょっと時代遅れか、雄っぽすぎるかね?
押しだしの強い野性味、気障な台詞。最後までそのノリを貫徹できるのか。
だけどその分野に要るのは、美学だ。おれは美学のあるやつらの小説を書きたい。
あ、わかった。〝俺たち〟と複数形である理由がわかった。主人公はボニー&クライド風の男女の賞金稼ぎなんだ。夫婦? カップル? 相棒以上恋人未満? 男のほうもタフで腕っこきだが、女のほうがよりイカれているほうがいい。
追跡型のストーリーになりそうだ。富豪の娘が殺される。容疑のかかった三人の男たちが警察の追跡を逃れている。互助組織のデータベースに公開手配が出される。一人でも億、三人とも捕らえれば倍々ゲーム。そうなるとまずいぞ。
他の賞金稼ぎも動きだすぞ。海千山千の凄腕たちが集まっちゃうぞ。愛犬家の一匹狼、暴力団の下部組織、ハイエナ系の元公安刑事。そして独自の美学を尊ぶ男女ペアの賞金稼ぎ。一攫千金を狙ってめまぐるしい追跡と争奪戦をくりかえす〝俺たち〟は、娘の死にまつわる隠された真相にたどりつく──
おれは書きたい。その小説を書きたい。とことんハードボイルドに淫すると決めてからは、制御のリミッターを外してとめどなく物語を横溢させる。
ストーリーが石油なら、おれはアラブの油田になる。想像力がほとばしりすぎて眩暈がやまない。大降りの雨もおれの火事を消せない。結局、そのまま元日の朝になって、日が暮れて、夜になるころに救出されるまでおれは頭のなかの原稿用紙のマス目を文章で埋めつづけた。思ったとおり営業所は正月ボケと人員不足でまるまる二十四時間もおれの苦境に気づかなかったが、顔面を変形させて雨で溶けていきそうなところを発見してくれた同僚にもおれは「紙とペンをくれ」と言ったらしい。
入院した病院のベッドでも書きつづけた。寝る間際まで書きに書いて、夢のなかであらたな着想に溺れ、起床した瞬間には物語に没頭している。おれは小説のなかにしかいない。小説のなかでしか呼吸ができない。腰を痛めずに寝ながら書く体勢のオーソリティになって、横書きでレポート用紙に書いたものを、こっそり看護師に買ってきてもらった原稿用紙に手書きで浄書していく。過不足なくリライトと推敲を重ねて、ひさしぶりに骨のある小説の誕生を感じていた。
原稿用紙の数枚がはらり、と床に落ちる。
それは、こんな小説だった。
『インヴィジブルQ』
「ここから先は、治外法権になるよ」と後部席でリッカは云った。ランドクルーザーは弧を描くように右に旋回して、昼間の観光客が忘れていった影法師のような、昏いシルエットの群れを追いかける。「あたいの仕事がどういうものか、あんたにもわかるよ」と助手席に乗せたX脚のお嬢さまに宣言する。
臨戦態勢でいくら高ぶっているからといって「あたい」はなかろうとジョーは思う。
湿原の前方に固定された眼は瞳孔が開きかけている。ひさしぶりの見せ場にコンセントレーションを高めるのはいいが、真顔で集中しているからこそ「あたい」の人称スウィッチは困りものだった。
「振り落とされるんじゃないよ、お嬢ちゃん」
芝居がかってるな、と思いながらジョーはアクセルを踏む。
「あたいたちはダンスの相手を探すのさ、ゴナ・ロック・ユー」
もはや、助手席のX嬢にどう思われたいのかもわからない。
三人が乗ったランドクルーザーは、逃げる男たちとの距離を縮める。
砂利をタイヤで散らし、植物の群落を抜けて、加速する車を追い抜いた強風が、広大な湿原の表面に波のような風紋を泳がせる。リッカは左側の窓を下げきって、吹きこむ夜風に髪を逆巻かせる。突きだした左手には、黒光りする得物が握られている。
「えっ、そんなもの」とお嬢さまが言うが早いか、リッカの銃が火を噴いた。たまらずに逃走者たちは散り散りになった。ランドクルーザーは縦横無尽に湿原を走りまわって獲物を追いかける。リッカは二発目、三発目を放つ。湿原の夜がめざましく帯電して、ビートとドラムが重なり、雷鳴のような光の残像が風景に散らばった。
相手の男たちも撃ち返してくる。身辺警護を依頼されたミドーSSに追っ手の脳みそを道路にぶちまけるのを嫌がる人間はいない。放たれた銃弾がバンパーを弾いて、X嬢がネイルを塗った爪をダッシュボードにめり込ませた。
「わたしどうして車から降りなかったの、どうして」
「悪いな、修羅場は予告してくれないから」
次の銃弾が車を弾いて、ひゃあ、とX嬢が腰を泳がせる。
「心配いらないよ、銃所持の許可証なら持ってるんだから」
噓をつきながらリッカは、左右の窓を開けて、車の両側に発砲している。車の向きと獲物の位置にあわせて、右から左へ、左から右へ。空き瓶のなかを転がるビー玉のように移動しながら、手際よく弾倉を再装填する。
「遅いのよ、坊やたち、全然遅いのよ」
並走した黒服のボディガードに銃弾を見舞った。一瞬のことで血飛沫も見えない。黒服は前転するように倒れ、ミラーの後景に小さくなっていく。リッカはすぐに反対側の窓に転がって、こちらに銃口の狙いをさだめた別の黒服にあざやかなヘッドショットを決めてみせた。こちらの車も被弾していたが、ダカールラリーで優勝できそうなジョーのハンドル捌きによって全員が無傷。あやまたずにステアリングを旋回させ、アクセルとブレーキを小刻みに踏んで、相手に動線を先読みさせない。ただの一瞬も照準を絞らせない。投降しようと両膝を突いている者もいた。窓から顔を出したリッカは、投降者にまで引き金を引いた。
「あんたの魂に慈悲あれ」
数人の黒服に守られたツゲの姿があった。見ぃつけた、とリッカが云う。現金にものをいわせて護衛を雇った惣領の甚六。オープン・コントラクトの標的リストに名前が載った〝二宮カナ殺し〟の一人目。ところがニノカナ嬢のご学友は、たがの外れた危険人物か、トリガーハッピーに酔う狂人の車に乗りこんだ自分の運命を哀れむような顔つきになっている。そろそろ説明が要りそうだった。
「こっちが撃っていたのは、親切な銃弾。殺傷能力のないゴム弾だ。重量級ボクサーのストレートぐらいの威力はある。あちらさんは実弾だったけどな。俺たちほど心優しい人命尊重派の〝賞金稼ぎ〟は他にいないぜ」
「あんたも今のまま盗みをつづけて、手配状の出まわる賞金首になってみたら? そしたら次はあんたが、あたいの銃弾の餌食だよ」
万引きの常習犯となっていたお嬢さまに、ついでにお灸を据えておく。自分たちがまとった秘密の幕の奥から少しだけ身をさらして。潜伏先を突き止められたお礼がわりだ。ツゲは緩衝の茂みを越えて県道に出ようとしている。アクセルを目いっぱいに踏みこんで獲物を追う。泥や砂塵を散らして湿原から走り出したその瞬間だった。
眼球をつぶすような強い光線が、夜の陰影のすべてをかき消した。常軌を逸した衝撃がランドクルーザーを揺さぶった。クラクションはなかった。頑丈な四駆車がぐしゃっとプティングのようにつぶされた。洒落にならないエネルギーが車内を貫いて、時間をゆがめ、重力を狂わせた。車内にあったレシートや硬貨が、魔法瓶の蓋が、リッカの舐めかけのチュッパチャプスが舞い散って、たわんで引き延ばされた瞬間が、次のひと瞬きのうちに破裂した。ジョーたちはそろってエアバッグに接吻された。
細かい破片がわんさか眉尻に刺さっていた。
割れた窓から見える位置に、真っ黒な装甲車のようなダンプカーが停まっていた。
ランドクルーザーは弾き飛ばされ、路肩のブナ林に突っこむかたちで大破していた。
「ウリュウが来たのか、面倒なことになったな」
ジョーはもがきながらエアバッグを這いだした。後部座席では頭を強打したリッカが「あふぁ、あごが閉じない」とうめいている。X嬢は意識を失っていた。これは偶然の輪禍じゃない。リッカは頭を低くしながら左側の扉を蹴り開けて、ランドクルーザーの左後部に回りこんだ。ジョーがX嬢を背負って、一、二、三で飛びだす。機先を制して親切な銃弾の煙幕を張った。たちまちダンプカーからも咆哮が連なる。夜の静寂が裂かれ、周辺の木々もろともランドクルーザーが蜂の巣になる。愛車とともに現実を瓦解させる音と振動をかえりみず、ツゲが逃げた方角へと全速で走った。
「あの章魚! あたいの獲物を横取りはさせないよ」
牝のライオンのように、リッカが吼えた。
「ウリュウなんて犬に食われろ、歩道橋からさかさまに落ちて、数十年は風呂に入ってないホームレスに強姦されて、そのあとで犬に食われろ」
丘をひとつ越えたところに植物園があって、そこの管理室にX嬢を託してきた。ツゲの別荘は古びた洋風の屋敷だった。かつては瀟洒な建物だったのかもしれないが、現在では売れ残ったクリスマスケーキのように見る影もない。裸婦のブロンズ像がまだらな鳥の糞に盲いて、お化け屋敷としての不動産価値を高めることに一役買っていた。
ツゲが逃げこんだ屋内には、闇が垂れこめていた。吹き抜けの正面階段と廊下の両端にある二つの階段で上階につづいている。ジョーは燭台の蠟燭に火を点けて、「他の連中もまとめて潜んでたら楽なのにな」とつぶやきながら階段を上がった。
「あんなやつら、脳細胞が三個ずつのバカよ。割れたくす玉の残りかすみたいな青春の未練にすがって、母豚の乳首を奪いあう仔豚のほうがまだかわいげがある。どこかで乱交パーティーでもやってないかとうろつきまわる正真正銘の無価値人間。生け捕りの信条を破りたくなるのはこんなときね」
「あいつらのなかの誰かが〝Q〟だって、お前も聞いただろ」
「そんなの信じられない、流言じゃないの。ていうかじろじろ見るなよ、ジョー。今度また見たら目をつぶす。たこ焼きのピックでくるんって眼球をひっくり返す。黒目を裏返しにしてやるからな」
狩りの愉悦を衝突でおじゃんにされて、リッカのがらっぱちな口の悪さがリミッターを外していた。相棒にも標的にも見境がない。衝突と脱出のどさくさでシャツが裂けていたが、破れ目に覗くブラジャーを盗み見ていると難癖をつけてくる。
別荘に逃げこんだツゲの泥の足跡が残っていた。風が家鳴りを呼んで、調律の狂った弦楽器のようなひずんだ音が聞こえている。雲をよけた月が青みのかかった月光で屋敷の闇を薄らげた。窓枠が十字の影を落として、礼拝所のような静けさが深まる。他の部屋を確認しながら足跡をたどって最上階の部屋にたどりついたが、扉を開けてもツゲの姿は見当たらなかった。隅々まで探した。ウォークインクローゼットにもカーテンの裏にも屋根裏収納にも隠れていない。ジョーとリッカは啞然とするしかなかった。駆けこんだ屋敷のなかから一人の男が忽然と消えていた。
賞金稼ぎの世界で語られる逸話を思い起こさずにいられない。
誰にもその尻尾をつかませない賞金首、〝Q〟の像が重なってくる──
階下が騒がしかった。
手すりから身を乗りだすと、五、六人の人影を見てとれた。黒い谷間から這いあがってくる亡者の群れに見えた。親切さのかけらもないシチリアマフィアなみの機関銃だって持ちだすウリュウの一味は、現場で商売敵に引導を渡すことも辞さない。非常階段のほうにも数人が回っていた。吊り下げ式の梯子を上がってグルニエに隠れた。梯子を上げ下げするリモコンはジョーの掌の中だ。ここならやりすごせるはずが、埃でも降ったか、グルニエの床に一センチの穴が穿たれた。
細い柱となって光条が立ち上がった。惜しげもなく銃弾を見舞って、そのまま刳り貫いて天井の高い部屋にリフォームするつもりだ。
「あいつらは容赦しない、ここにいたら蜂の巣だ」
応戦したがすぐに弾切れになった。屋根裏の窓を開けると夜の風が吹きこんでくる。リッカはためらっている。迷いもなしに飛び降りられる高さじゃない。ジョーはリッカを見つめた。琥珀色の光のつらなり。濃密な埃のもやが千の模様をおりなして彼女の周囲で踊っている。だいたいいつもそうだ、見るなと云われても見ずにいられない。リッカの鎖骨は空を軽やかに舞うカモメの二枚の翼のようだった。ジョーはその細い腰と膕に手をまわして、相棒を抱きあげた。
「ちょっと待って、心の、心の準備が」
ジョーは待たない。跳んだ。リッカが吞んだ息の音も、その髪の薫りも、しがみついてくる感触も、さかさまの滝のように流れる風景も、飛び降りの記念にショーケースに保管したいほどに生々しく摑みとれた。
星が転がり遠ざかる。着地した急な傾斜を重なり離れて、また重なりあいながら、二人でどこまでも転がっていく。
*
おれは賞金稼ぎの物語を、最後まで書きあげる。
退院の朝に脱稿した二〇〇枚超の長編に『インヴィジブルQ』と題名をつけた。
病室をあとにして会計をすませたロビーで、エントリー用の文面の下書きをしているときにも送れるかどうかは半信半疑だった。──なに書いてんの、と声が聞こえた気がした。それは幻聴だ、過去の残響だ。退院の日の約束をあいつは忘れている。主人公の片割れのモデルになった女は現われなかったが、それでも声がしたんだよ。
オゲちゃん、なに書いてんの?
ああ、これは小説だよ。
え、マジで。
マジで。これは草稿っていってな。
凄いね、そんな人初めて見た。小説なんて書けるんだ。
あたりまえだ。おれは小説家だからな。
あのころおれはまだへこたれていて、朝焼けの色に貫かれた街路を歩きながらレポート用紙にペンを走らせていた。店の片付けを終えたユリが後ろから覗きこんできて、朝まだきの気怠さと街路の寒さで頬を上気させながら興味本位でいろいろ訊いてきた。
他になんの音もしない、車の喧騒も、犬の鳴き声も、朝刊を運ぶカブの音も聞こえない。それってどんな話? おおー凄え、ぎゃははバカだね、とおれの言葉に大げさに反応するユリだけがいて、他の全員が眠りながらそのまま死んでしまったような、自分たちだけが取り残されてしまったような静かすぎる朝だった。おれはそのときなぜか、この朝のこの一日から、これまでとは違う風景が見られるような予感をおぼえていた。それで夢中になって、自分の小説のことをしゃべって、ユリはそれをなにがおかしいのか笑いながら聞いていた。
御毛文雄の名前で出すと決めた。いろいろあったが小説は小説だ。『インヴィジブルQ』はヴンダーカマー文学賞に応募する。作家や編集者に読まれるところを想像しても、頭をかきむしって逃げだしたくはならなかった。
今度ばかりはしくじりたくない。自宅のPCで『インヴィジブルQ』をテキストに打ち直し、ひとくさりエントリーの準備も終えて、あとは送信のカーソルの上でエンターキーを押すだけだった。
その瞬間はさすがに「押せないかな」と思ったが、深呼吸をして、結局は押す。キーボードの上で指がびりびりするような感触があった。心臓の音や呼吸や時間が境界をなくして混じりあった。おれの唇からは「ふおっ」と声が漏れた。おれは笑おうとした。これまでのすべてが長い長い処女作の一部だったようにも感じられた。
送っちゃった。もう後には退けない。うわずる鼓動を落ち着かせてからユリにメールをした。
──退院したぞ。小説も一本書きあげた。快気祝いとそれから腰のリハビリもしなきゃならないんだが、風呂は好きか?
たぶんユリは誘いに乗らない。結果が出るまでは手もふれさせないし、退院したと知るなり発注書を渡してくるだろう。そしておれはまた書いてしまうだろう。うっかり原稿用紙と向き合えば、別の小説を思いついてしまうかもしれない。
だって知っているから。新しい小説に向かうことだけが、おれたちにとって恵みであり希望だということを。この手を伸ばしてつかめるのはいつでも始まりだけで、だからこそおれたちは書きつづけていける。
(二人目につづく)
連載【ヴンダーカマー文学譚】