第13話 誰かと一緒に生きられない|宇野常寛「水曜日は働かない」
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第13話 誰かと一緒に生きられない|宇野常寛「水曜日は働かない」

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今月の「水曜日は働かない」は……

1.久しぶりにテレビドラマの批評を書こうと思った宇野常寛
2.書き始めたら楽しくなって、脚本集を大人買いして読み込んでしまった宇野常寛
3.結局締め切りがギリギリになって泣きながら書いている宇野常寛

そんな今月の連載を、今から詳しくお伝えします。

「宇野常寛の〈水曜日は働かない〉」

※ ※ ※

 少し前のことだ。『大豆田とわ子と三人の元夫』というテレビドラマを、僕は毎週楽しみに見ていた。脚本は坂元裕二、『それでも、生きてゆく』『最高の離婚』『カルテット』などの作品で知られている。最近では映画『花束みたいな恋をした』で注目を集めた。『大豆田とわ子と三人の元夫』の内容について、かんたんに紹介しよう。ヒロインはタイトルにもある大豆田とわ子という40代の女性で、中堅の設計事務所の雇われ社長をしている。そして「三人の元夫」というタイトルにあるように三回結婚に失敗している。物語の冒頭で彼女は、最初の夫との間にできた娘と二人暮らしをしている。三人の元夫はその個性も、離婚の原因もばらばらだけれど、ひとつだけ共通点がある。それは三人とも離婚後も大豆田とわ子と、関係を断つことなく「つかずはなれず」の関係を続けていることだ。三人共とわ子の家に日常的に入り浸り、娘とも良好な関係を築いている。ただ、恋愛が再燃することはない。特に二番目と三番目の夫は今でも大豆田とわ子が好きなのだが、彼女は相手にもしていない。物語は、そんな大豆田とわ子と三人の元夫との、微妙な関係を基調にしながら、雇われ社長としての大豆田とわ子の奮闘や、彼女の両親の過去、そして娘の自立などをめぐるエピソードが展開する。

 この物語の中核にあるのは、大豆田とわ子と三人の元夫との関係性だ。大豆田とわ子がいちばん好きだったのは、最初の夫で娘の父親である田中八作だ。しかし八作は、大豆田とわ子の親友であるかごめにずっと片思いをしていて、しかしかごめがまったく自分に気がないことを知っていて、そしてかごめを忘れるためにとわ子と結婚したのだ。とわ子は結婚生活の中でそのことに──それがかごめだとは分からずに、夫にずっと片思いの相手がいて、自分は次点にすぎないことに──気づいて、離婚を切り出したという過去がある。その後、大豆田とわ子とその元夫の八作と、とわ子の親友かごめは、表面化せず、それゆえに敵対関係に陥らない三角関係として、友人関係を保ってきた。その中で、大豆田とわ子は二回の再婚と離婚を経験し、さらに二人の元夫が、このゆるやかなつながりに加わってきた──そんな事情が明かされていく。
 だが、かごめの急死で事態は一変する(かのように、見える)。かごめの急死と、その前後のエピソードで大豆田とわ子は結婚から10年以上を経てはじめて、八作の片思いの相手がかごめであることを知る。大豆田とわ子は大きく動揺し、八作は半ば自暴自棄な言動を見せるようになる。しかし、二人は元の場所に戻って来て、また他の二人の夫たちを加え、中くらいの距離の「家族未満の関係」を続けていく。

 この物語が一貫して示しているのは、恋愛(夫婦)関係に代表される1対1の関係に閉じるのではなく、その関係が並行して複数存在しているというモデルだ。そしてそのひとつひとつの対は友達以上夫婦未満の、中くらいの距離感に保たれている。坂元裕二のこれまでの作品を観てきた視聴者ならば、これが例えば『最高の離婚』で示されたビジョンのアップデート版であることに気づくだろう。『最高の離婚』はロマンチック・ラブイデオロギーに殉じた──吉本隆明ふうに述べれば対幻想に閉じた、たとえ世界のすべてがあなたを認めなくても私だけはあなたを認めるといった──共依存的なモデルに対して、倦怠期の夫婦がこの「友達以上夫婦未満」の中くらいの関係性に着地する過程の試行錯誤を描いた作品だったと位置づけることができる。あるいは『anone』で見せた家族を持たない者たち同士だからこそ選び取ることができる疑似家族的な共同体のビジョンのアップデートを、この『大豆田とわ子と三人の元夫』に登場する「中くらいの、弱い対幻想の束」に発見することもできるだろう。そしてこの「中くらいの、弱い対幻想の束」は『最高の離婚』で対幻想として示されたものより「弱い」。そして『anone』で示されたものよりも共同体(家族)としての一体感は薄く、あくまで1対1の関係の束に近い。

 ここに三つの問いが浮上する。なぜ、強い関係(夫婦)ではダメなのか。なぜ、その対の関係は複数なくてはいけないのか。そしてそれがなぜ、共同体(家族)としてひとつに統合されてはいけないのか。順番に考えてみよう。

 最初の問いについて答えるのは、それほど難しくない。坂元裕二という作家は二者関係、特に恋愛におけるそれのさまざまなかたちの多様な豊かさを描いてきた作家だからだ。『それでも、生きてゆく』の洋貴と双葉、犯罪被害者の兄と、加害者の妹という正反対の立場から傷を共有するからこそ発生するロマンティシズムと、その壁を結局乗り越えられない、しかしお互いのことを忘れることができない、という結末の(陳腐な言葉を使えば)「切なさ」はその典型例だ。こうした直接的に結ばれない、結ばれてもいびつなかたちでそれが実現する、しかしそこに「だからこそ」成立する豊かさを見出す、というのは坂元裕二の基本姿勢だとすら言えるだろう。『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』の音と練がそうだし、『カルテット』に登場する弦楽四重奏団「ドーナツホール」の四人の、メンバー同士のそれぞれの関係がこれに当たる。『最高の離婚』という代表作のタイトルが示すように、坂元裕二は二者関係を、それも恋愛に基づいたそれを否定しない。むしろ「最高」のものだと考えている。しかし、それはロマンチック・ラブイデオロギーに基づいた、お姫様と王子様は末永く幸せに暮らしましたといった類のハッピーエンドではない。むしろその時期を経由して、ねじれたもの、一周回ったもの、あるいは中距離に落ち着いた二者関係こそに至高のものを発見する。それがおそらく、彼が創作を通じて示したいもののひとつなのだと思う。

 そしてここに二つ目の問いが浮上する。なぜ、その二者関係は複数のものが並行していなければならないのか。ターニングポイントは『カルテット』だったのだろう。その名の通り『カルテット』は「二人」ではなく「四人」の物語だった。そして、対の関係ではなく共同体の物語だった。ただ、その共同体は一人が全体の一部になって取り込まれるといったモデルとは、異なっていた。『カルテット』では、誰かが誰かに片思いしている(決して両思いにはならない)という連鎖で、四人の人間関係が構築され、それを坂元はある種のユートピアとして提示した。夫婦生活に失敗した人物、いわゆる「毒親」から逃れてきた人物、親になることに失敗した人物などが集まって作り上げる想いの連鎖の共同体。それが届かない片思いであることを知っているがゆえに踏みとどまる、中距離の関係を連鎖させること。それが『カルテット』で坂元裕二が提示したユートピアのイメージだった。『カルテット』は家族の形成に失敗した男女が「だからこそ」集まり、ユートピアを形成する物語だった。そしてそのとき、坂元は二者関係に閉じたもの「ではない」ものを、提示した。二者関係を中距離に保つためには、むしろ他の対の関係と連鎖し、その事によって閉じないことが望ましい。それが『カルテット』で坂元が提示したモデルだった。

『カルテット』の時点では、坂元の描くユートピアは共同体としては閉じていた。しかしそこで描かれたものは君と僕、あなたと私の二者の間で閉じてはいない。まずそれは片思いであることを知っているがゆえに踏みとどめられた中距離の関係性であり、そしてその共同体には他の二人のメンバーとの関係性が横に存在するからだ。しかし、その一方で『カルテット』の共同体はその外側の世界に対しては閉じている。物語の結末、四人がまるで世捨て人のように四人で旅をしながら暮らすことを選択したことが、それを端的に示している。

 こうして考えたとき、『anone』で疑似家族という主題が全面化したことは自然な流れだったと言える。この物語もやはり、社会に居場所を持たず、家族の形成と維持に失敗した年齢も性別も階層もばらばらの男女たちが、まるで世界の果てのようなさびれた印刷工場に集まって、偽札作りに手を染めるという物語だ。もちろん、登場人物たちの動機は(首謀者の一人を除いて)偽札を作ること自体にはない。彼らはひょんなことから偽札作りに巻き込まれることによって、疑似家族を形成する。その結果として生まれたコミュニティの価値が、社会に居場所を持たない彼らの救済として機能する。そう、偽札とは、疑似家族のことだ。
『カルテット』の四人組と、『anone』の偽札作りのグループの違いはなにか。後者は前者よりもその外部に対しては開かれている。同世代の奏者が集う「ドーナツホール」に対し、あの印刷工場には老若男女のさまざまな人々が結果として集まり、最終的には死亡したメンバーすらも、そこに関わり続けることができる。やっていることは犯罪なのだが、偽札作りという社会的なプロジェクトが、その共同体を支えている。そして『anone』の疑似家族には中心が存在する。機能的には偽札作りという犯罪(社会的なプロジェクト)が、精神的にはタイトルにもなっている林田亜乃音という女性がグループの「母」的な存在として中心になっている。そこにあるものは『カルテット』の四人よりも、多様で広く深くさまざまなものを取り込めるが、その内部はあの四人組ほど自由ではない。その中心にあるのはヒロインのハリカという孤児の少女と亜乃音との疑似的な母娘関係だ。この二人は、失った家族を埋め合わせるために互いを必要としている。彼女たちはその擬似的な関係を守るために結果的に犯罪に加担していく。

 三つ目の問いが、ここで浮上する。おそらく『大豆田とわ子と三人の元夫』で描かれた関係性が、疑似家族のように共同体を形成しないのは、ここに理由がある。大豆田とわ子と元夫たちは、『カルテット』の四人のように外部に対して閉じることはない。そして同時に『anone』のように、家族として組織だって根を張ることもしない。ここで描かれた関係性は『カルテット』のようにその内部はほどよい中距離の対の関係の束であり、そして『anone』のように外の世界に対しても開かれている(死んだかごめすらも取り込めてしまえるように)。それは、坂元裕二が模索してきた現代人を支えうる恋愛を中心とした関係性のモデルの、現時点での到達点なのだろうと思う。

 物語の終盤に登場するのは、大豆田とわ子にとって四人目の夫になるかもしれない人物だ。当初は大豆田の仕事上のライバルとして登場する彼は、彼女にとって理想の人格と能力の持ち主として描かれる。彼は東京のビジネスに疲れ、マレーシアでの半隠居的な生活を計画している。そしてそのパートナーに大豆田とわ子を選び、彼女に求婚する。しかし大豆田とわ子は、彼の求婚を受けない。大豆田とわ子はかごめを失ったとき、そしてその際に最初の夫である八作の片思いの相手が親友のかごめであったことを知ったとき、確実に変化している。次こそは対の、閉じた関係を作ることのできる伴侶が見つかるのではないか──彼女はそのときまでそう思って生きていたふしがある。しかし、かごめの死を経た大豆田とわ子は、そうは考えない。もはや彼女は、そうではない豊かさを見つけ、それを選ぶと決めていたからだ。

 かごめを失ったあと、大豆田とわ子は八作に提案する。このまま「三人」で生きていこう、と。八作は死んだかごめを想い続ける。大豆田とわ子は八作のことを想い続ける。そして親友のかごめのことも、大切に想い続ける。『カルテット』的な片思いの連鎖を塩漬けにした状態はかごめの死によって永遠に固着された。そして大豆田とわ子はそれでいいじゃないか、その三角関係を、しっかり生きていこうと提案する。『カルテット』の片思いの集合の持つ、逆説的な自由と、『anone』の死者をも取り込んでいく広さが、ここでさり気なく結合しているのだ。そして彼らは『カルテット』の4人組のように自分たちだけの世界に引きこもることもなければ、『anone』のハリカと亜乃音のように強い共依存に陥ることはない(坂元もこの問題に自覚的だったらしく、最終話ではやや性急に、ハリカの自立が描かれる)。


 物語の終わりに、大豆田とわ子は死んだ母親の遺品を整理する中で、その恋人の存在を知る。その恋人は母と同年代の女性で、大豆田とわ子は娘と二人で彼女を訪ね、そしてなんとなく仲良くなって帰ってくる。母は、同性愛への社会の理解が低い時代に彼女と別れ、とわ子の父と結婚して、そしてとわ子の母になった。それは彼女にとって望ましい人生ではなく、最終的には家族の維持にも失敗した。しかし、とわ子はそんな母の人生を知ることで、死んだかごめと八作の3人で生きていくこと、そしてその三角形の周囲を娘や、残り二人の元夫たちに囲まれて開いていくことを改めて選ぶのだ。
 そして、帰宅した大豆田とわ子を、三人の元夫が待っている。この疑似家族未満の関係性の束が、ゆるやかなユートピアとして提示されて、物語は幕を下ろす。大豆田とわ子と同世代の男性である僕にはまだ、このモデルの持つ射程は分からない。しかし、創作とはまだ分からないものについて提示するものでもある。少なくとも10年前の坂元裕二は、二者の閉じた関係性の持つロマンティシズムをどう最大化するかを考えていた作家であったはずだった。しかし、気づいたとき彼はむしろ、その結果たどり着いた中距離の二者関係が、それも複数の線が並行して存在し、絡み合うことで開かれることの豊かさを描くようになっていった。誰か一人と一緒に、寄り添って生きていくという生き方を大豆田とわ子は選ばなかった。しかしその否定性は、豊かな希望に満ちている。

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連載【水曜日は働かない】
毎月1回・水曜日更新

宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)など多数。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。
Twitter:@wakusei2nd

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