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今だから明かせる、彗星のごときデビューの舞台裏。村山由佳デビュー30周年 特別ロングインタビュー【前編】

作家として、ひとりの女性として。その破天荒な生き様と、波瀾万丈な半生を支えたものとは――? 作家生活30周年、村山由佳の素顔に迫る特別ロングインタビュー。
前編では、青春恋愛小説のスターとなった90年代当時の舞台裏、担当編集者との関係、そして抱え続けた「ある不安」について初めて明かす。こだわりのモノと猫たちに囲まれた、軽井沢のご自宅にてお話をうかがった。


きらめく「青春恋愛小説界の彗星」の舞台裏

──当時を知る編集者は、90年代半ば、村山由佳さんの登場は彗星のようだったと言います。デビュー作『天使の卵』がベストセラーになり、人気シリーズ『おいしいコーヒーのいれ方』もスタート。青春恋愛小説の新騎手として若い読者の心をつかみ、NHKの朝の情報番組では旅コーナーのレポーターを務め、女性誌では時代を先取りした田舎暮らしエッセイを連載されて……傍目にはきらきら順風満帆な作家生活の始まりに見えますが、ご自身の感覚としてはいかがでしたか。
 
村山 あのころはとにかく無我夢中でした。最初の担当編集者Sさんがものすっごくパワフルなブースターのような方だったので、私はロケットみたいに飛ばしてもらっている感じでね。月のうち1週間は旅レポで出かけていて、連載を持って、年に3冊単行本を出す、という生活は確かに忙しかったですけれど、作家はみんなこんなものなんだろうと思っていたんです。あのころはテレビもほとんど観ていなかったし、今みたいにSNSとかで他の作家の様子を窺えるような時代ではなかったし。ましてや私は情報の孤島のような鴨川(南房総)に住んでいたから。親鳥のSさんに、かえったばかりのヒナの私は当然のようについていった。
 Sさんとはその後いろいろあって、私にとって決定的だったある出来事については、エッセイ新刊の『記憶の歳時記』で初めて書きました。でも、やっぱりあの方がいなかったら今の私はないと思いますし、私はずっと編集者に恵まれているんですよね。
 バブルの残り香があった時代のおかげもあると思います。海外取材も行かせてもらったし、わりあい好きにやらせてもらえました。当時からすでに、若者の活字離れや本離れが深刻な問題だと言われてはいましたけれど、それでもまだ業界には勢いがあったんですよね。小説で新人賞を取ったら、仕事を辞めて退路を断って作家に専念する、というようなことが普通にあった時代でした。
 
──今は新人賞を取っても、編集者から「当面は仕事を辞めないでください」と言われるのが一般的だとか。
 
村山 そうですね。その意味では、今デビューする作家の方たちとはだいぶ状況が違いましたけれど、それがいいのか悪いのかはわかりません。出版業界の状況が変わって、無理やり夢から覚めさせられるような時代も通ってきましたから。

「ライトノベル的なものは早くやめたほうがいい」と言われた時代

──年3冊ペースで刊行していた単行本のうち、1冊は「おいコー」(『おいしいコーヒーのいれ方』)ですね。完結まで26年にもわたって、切ない青春恋愛のシリーズを書きつづけるというのは、容易なことではなかったのでは……。
 
村山 書き始めたときは等身大だった主人公たちを、自分自身が歳を重ねていく中でどう描いていくか、というのは相当苦労しました。実は、文芸のほうで3冊ほど本を出した時点で、編集者や新聞記者さんたちから「ライトノベル的なものは早くやめたほうがいい」という助言も多くいただいたんですよ。そういうものを書いていると軽く見られて、文学賞をもらえないと。でも、「おいコー」を読んで「小説って面白いんだ」と思ってくれて、私のほかの小説に手を伸ばしてくれる読者がとても多かったんですよ。ふだん本を読まない人にも面白いと思ってもらえる、私をこれまでたくさん救ってくれた小説というものの間口を、もっと広げる可能性がある。だから私はこれを捨てるわけにいかない。続けてきたのにはそういう意地もありましたね。続けてきてよかったし、長年愛してくれた読者に満足してもらえる形で終わらせることができて、本当によかったなと思います。
 
──村山さんがそうして「おいコー」と一般文芸の両輪で書き続けてきた間に、ライトノベル等で活躍する作家に対する世間の見方も、だいぶ変化してきたのでは。
 
村山 そうですね。ラノベやBLで活躍されてから文芸のほうで大きな賞を取ることも、今では珍しくありませんし。やっぱり、みなさん力があると思います。ラノベや若い読者向けのジャンルで書くのって、作家としての基礎体力をすごく鍛えられるんですよ。物理的な刊行ペースが早いということもあるし、何より、面白いかつまらないか、読者からとても正直な反応が返ってきますから。読者に鍛えられますよね。

むらやま・ゆか
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞、09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞、21年『風よ あらしよ』で吉川英治文学賞を受賞。著書に『猫がいなけりゃ息もできない』『命とられるわけじゃない』『星屑』『ある愛の寓話』『Row&Row』等。

田舎からの出奔と離婚。
初めて自分自身をまな板に載せた

──無我夢中で走ってこられた「青春恋愛小説の名手」としての作家業と、鴨川での素敵な田舎暮らし。それが10年ほどで破綻はたんを迎えますよね。鴨川を飛び出して離婚を経て、性愛を正面から描いた小説『ダブル・ファンタジー』が大きな話題となりましたが、やはりこれは大きな転換点だったのでしょうか。
 
村山 その前に、直木賞の受賞後第一作として『天使の梯子』を書いたときが最初の転換点だったかな。性的なこと、体から始まる恋愛を書こうと、第一章まで仕上げたところで、当時私の原稿を全部読んでいた最初の旦那さんに猛反対されたんです。『天使の卵』の続編として読者が望んでいるのはこういうのじゃない! って。でも私は脱皮したくてしたくてしょうがない。毎日大げんかをして、結局、私は意思を通せなかった。今となってみれば、『天使の梯子』という作品にとってはあのような形に落ち着いて良かったと思うんです。でも、物書きとしての私自身にとっては不完全燃焼感が残ってしまった。それで、初めて自分自身をまな板に載せるような小説を書こうと挑んだのが『ダブル・ファンタジー』でした。
 それまでは料理をするみたいに、こういう味わいのものを食べてもらいたいから素材はこれにしよう、どう切ってどう火を入れよう、そういう書き方をしていたんです。「今回はよくしみたおふくろの味にしよう」とか、狙う味わいはいろいろでしたけれど、毎回共通していた考えは、奇をてらい過ぎず、誰もが「ああ、おいしかった」と感じるものにしようということですね。
 
──そんなシェフ・村山由佳が、『ダブル・ファンタジー』で初めて自分自身を題材にした。どんな味わいにするかは決めていたのでしょうか。
 
村山 いいえ、まったく。初めて結末を決めずに、連載のストックもほぼない状態での週刊誌連載でした。自分を素材にどんな料理ができるのか、私自身が一番ハラハラドキドキしていました。だから、今読んでもしばしば生っぽすぎるところがあったりするけれど、そういうところもひっくるめて過渡期の作品として、少なくとも私には必要だったんでしょうね。
 この本は、読者からのレビューの賛否が真っ二つに割れたんです。それまでの本は、面白かった、切なかった、泣きました、といったおおよそ想定内に収まっていて、それを見て「狙い通り伝わった、よかった」と受け止めていたんです。だから、こんなに評価が割れることは初めてで。最初は凹みましたけど、悪い評価もこれだけの熱量で書くにはずいぶん熱心に読んでくれたんだなぁと思えてきました。凹みますけどね(笑)。

作家に擬態している、という不安がずっとあった

──結果として『ダブル・ファンタジー』は文学賞をトリプル受賞し、作家としてさらに大きく飛躍されました。ところが『記憶の歳時記』には、当時の心境がこう書かれています。「ベストセラーになっても文学賞をもらっても、もちろんそのつど嬉しくはあったけれど何かこう、大きく誤解されているのではないかという不安が消えなかった。(中略)じつは私には才能なんかろくになくてただ作家っぽく擬態しているに過ぎないのに、いったいどうしてバレないんだろう、いつになったらバレるだろう、そう思えて苦しかった」。これには仰天しました。
 
村山 WEB連載でこの回が公開されたときに、デビュー以来の長年の読者からも「後ろに倒れるくらいびっくりした」と感想をもらいました。でも、掛け値なしの本音なんですよ。
 だまそうと意識しているわけじゃなくて、私は「ふり」や模倣をするのが上手いんです。絵でも刺繍でも音楽でも、なんとなく器用にまねをして、上手くやることはできてしまう。でも、本物になったことは一度もなかった。物書きも同じで、職業にはできたけれど、どこか本物じゃないんじゃないか、という不安が常にあって。『風よ あらしよ』を書いて吉川英治文学賞をいただくまでは、ずうっとそうでしたね。あの作品を書き上げて、これは自分にしかできない仕事だと、初めて心の底から自分の作品を誇りに思えたんです。だから今は、ようやく「本物の」作家としてリスタートしたところ、という感覚でいますね。

自分の中の「三カメさん」が強すぎる

──例えばハードボイルド小説の作家がダンディな服装をするとか、作家が人前に出るときに作風に合わせたキャラクターを演じることはあると思います。でも、村山さんは鴨川暮らしなどのライフスタイルもまるごと、エッセイで発信されてきました。それなのに「ふり」をしている感覚だったというのが、意外です。
 
村山 私は、自分の少し後ろの上空にカメラがあって、自分をじーっと見ているという感覚がどうも強すぎるみたいなんです。主観カメラでも相手視点のカメラでもなく、第三者的という意味で自分の中の「三カメさん」と呼んでいるんですけれど、その三カメさんが「自分の暮らしも何もかもを、作家らしく擬態するために利用しているんじゃないの?」という目で見てくる。三カメさんの前では私は演技者としてそこにいて、いい子や妻や作家に擬態している。三カメさんがずっと見張っているので、素の自分というのがよくわからない。いまだにそういう感覚です。
 でもね、唯一、猫といるときだけは三カメさんが消えるんですよ。三カメさんが消えると、世界がぐっと近くなって、自分の中に視点が戻ってくる。自分が世界の中にちゃんといるという実感が得られる。だから大袈裟ではなく、私にとって猫は、あらゆる世界の取っかかりなんです。三カメさんの呪いを解いてくれるから。
 
──そういった感覚は、いつごろからあったんでしょうか。
 
村山 四つ、五つのときからかもしれないです。母に叱られたり、母の機嫌をそこねないよう嘘をついたりしたとき、猫と一緒にお布団に入って、こっそりと本当のことを打ち明けていた。猫がいつもそばにいてくれて、唯一彼らの前でだけは、素の自分でいられる。大人になってもずっとそうでしたね。今は、相方の〈背の君〉がもともと従兄弟ということもあって、母のことも含めてなんでも話せるようになったので、だいぶ楽にはなっているんです。でも、猫のいない生活というのはやっぱり考えられない。
 
──愛猫の〈もみじ〉を見送る過程が綴られたエッセイ『猫がいなけりゃ息もできない』は、村山さんの人生にとって猫がいかに不可欠な存在なのか、ひりひりするような切実さで伝わってきます。続編となる『命とられるわけじゃない』では、猫との奇跡的な出会いがありますね。
 
村山 さきほどの撮影中も私にずっとついて歩いていたストーカーこと、〈お絹〉ですね。彼女との巡り合わせはちょっと出来過ぎなくらいでしたけれど、本当に、あのときよくぞ私を見つけてくれた、と思います。彼女がいなかったら、もみじ亡き後の私は、低空飛行がもっともっと長いこと続いていたと思います。恩寵おんちょうのような出会いです。ありがたい。

「かーちゃん」にぴたりと寄り添う、お絹こと〈絹糸〉。背景には壁一面の本棚とキャットウォーク
17歳で今生を旅立った愛猫〈もみじ〉。季節の花々と、彼女が好んだ白湯を供える(本人提供)
執筆が終わるのをじっと待つお絹。この後、腕に肉球の跡がくっきりついていた(本人提供)

聞き手・構成=高梨佳苗/撮影=露木聡子/ヘアメイク=加藤志穂
(PEACE MONKEY)
(「青春と読書」2023年11月号掲載のインタビューを元に再構成)

【後編に続く】


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