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日常と非日常|千早茜 第24話

 お気に入りの居酒屋が開店した。関西の緊急事態宣言が解除された日だった。
 近くを通りかかるたび「当分の間、休業します」の貼り紙を見ては、早くここのカウンターに座りたいな、と思っていたので、すぐに行った。

 懐かしい暖簾をくぐる。「いらっしゃいませ」の声。花瓶には花水木といった季節の花がしゃんと美しく生けられ、カウンターには太いアスパラガスや青々としたそら豆が盛られ、ショーケースには鮮魚がぎっしりと並んでいる。
 けれど、入り口には除菌アルコール、大将も女将さんもスタッフも皆マスク姿。粋なしつらえを乱しかねない衛生グッズにもう違和感はない。この店はこういう対策でいくのか、と頭と体が判断している。休業要請がでなかった飲食店のコロナ対応は様々だったから。

 それでも、ずらりと書かれたお品書きを眺めているだけでもう幸せだった。ああ、好きなものを好きに選べる自由。家の食事だって好きなものを作れるけれど、「あれ、食べたい」と思い、買いものに行って準備して、できあがる頃には最初の気分ではなくなっていることもある。「食べたい」と思ったものを口にして、その場で作ってもらえる素晴らしさ。感動に震えていると、つきだしがやってきた。オクラの胡麻和えと鰻巻き。鰻、食べたかった……と涙目になりながら日本酒を頼む。

 角のたった刺身に惚れ惚れし、鱧がでていたので落としをお願いする。あたたかくて、ふわふわの鱧を梅肉で食べると、京都の初夏を実感する。皿に飾られた青紅葉。季節の感覚が戻ってくる。旬の野菜を天麩羅にしてもらい、木の芽のそえられた鯛のあら煮をつつく。飲み足りなかったので、もずく酢とイカゲソ焼きを追加して、締めは宝石のようにきらきらしたイクラ丼。満喫した。

 店内は以前より静かな気がした。ほとんどの客が二人連れで、一人でやってきて、さっと食べて帰る人もいる。酔って大声になる人もいない。人と人との間に透明な膜がうっすらとある気がした。気のせいだろうか。それとも、自分が他人に対して無意識に距離をつくっているのか。
 一人でふらりと入ってくる常連たちが「ひさしぶり」「どうしてた」と声を交わす。連絡先も知らない、SNSでも交流しない、店でしか会わない間柄ってあるな、と思う。そういうものを忘れていた。

 緊急事態宣言下で、一度だけ外食に行った。知人の店が一日一組だけで営業していたから、応援の気持ちもあって予約をした。その店は祇園にあって、歩いて行ったが、街中は見たことがないくらい人がいなかった。行き交う人とぶつからずには歩けない先斗町もまっすぐに見通せた。
 人のいない街はちょっと怖かったし、SNSに、徒歩で行ったとか、貸し切りだったとか、外食したことを言い訳がましく書いている自分も嫌だった。悪いことをしているわけではないのに。美味しいものを食べるなら人目を気にせず大いに楽しみたい。今はそういうときではないのだと感じた。
 もう、そういう空気はなくなっていて、外食でなくては得られない食の悦びが自然にわきあがってきてほっとした。

 居酒屋の雰囲気にぼうっと浸っていると意識が遠くなってきた。お酒もまだ二合目で酔ってはいないのに、まわりの人の声があまり頭に入ってこなくなる。美味しいとは思うのに、どこか現実ではないような奇妙な感覚。食べ終えると、もう家に帰りたくなった。まだ九時過ぎだというのに。前ならば、飲み足りないとバーに移動して、その後も夜食を求めて彷徨っていた。

 でも、もう眠い。頭が疲れていた。すっかり外の刺激に弱くなっている自分に気づく。
 自粛生活中は早寝早起きをして、なるべく規則正しく過ごしていた。晩酌はしていたが、免疫が落ちないように深酒はしなかった。家族以外の人と喋ることはほとんどなく、仕事もメールでのやりとりばかりだった。家の中での生活は自分のペースでできることが多く、予想外のことがあまり起こらない。一歩、外へ出ると、空も、草花も、すれ違う人も、店のお品書きもどんどん変化していって、それらの情報を入れるだけで脳が疲れていく。

 家に向かって夜道を歩きながら、明日は家にいようと思った。もともと自分の心身に耳を澄ます生活を好んでいたが、コロナ禍の中での、なにより健康を優先すべきという空気は自分の生活スタイルには割と合っていた。無理に人に会わなくてもいい、ひきこもりでも構わない。悪くなかったし、非日常はそれなりに日常になっていた。ふと、自分が今どこにいるのかわからなくなった。
 緊急事態宣言下の非日常に不安を感じながらも慣れていき、早く元の生活に戻りたいと言っていたくせに悪くなかったなんて、人間は勝手だ。いや、私が勝手なのだろう。毎年、暑いのは苦手だ夏は嫌だと言いながら、夏の終わりには名残惜しくなるようなものかもしれない。

 なにが日常で、なにが非日常か。これからも変化していくのだろう。自分勝手に懐かしんだり、価値観をアップデートしたりしながら。もう「日常」を定義するのも難しい気もする。新しい生活様式が提案されても、生活なんて徐々に作られていくものだ。生活はなまもので多様性にあふれている。違う行動をする誰かをことさらに責めたりせず、そのときの自分にとって最善の選択をしながら生きるしかないのだと思う。

 帰り際、居酒屋の大将は外まで見送りをしてくれた。「ありがとうございました」と頭を下げながら、そのときだけマスクを外して笑顔を見せてくれた。こちらも頭を下げ下げ去りながら、マスクの下で笑顔になった。常識や日常が変わっても、このとき、嬉しいと思った気持ちは忘れずにいたいと思った。

2020年5月22日

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。 
Twitter:@chihacenti

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