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【試し読み】バリー・ランセット著/白石朗訳『ジャパンタウン』冒頭3万字公開!

この本について

バリー・ランセット『ジャパンタウン』は〈私立探偵ジム・ブローディ〉シリーズの第一作で、2013年にアメリカで刊行されると、バリー賞最優秀新人賞の受賞、「サスペンスマガジン」誌の最優秀デビュー作品の一つに選出など、絶賛の声が相次ぎました。J・J・エイブラムズによるテレビドラマ化の話も進んでいる注目作です。日本語版の刊行を記念し、本文冒頭3万字を試し読み公開します。

サンフランシスコで古美術商と私立探偵を営むブローディのもとに、市警の友人から一本の電話が入る。ショッピングモール「ジャパンタウン」で、日本人一家が惨殺される事件が起き、日本で生まれ育ち、日本の事情に詳しいブローディに助言を求めてきたのだ。
唯一の手がかりは血まみれの紙片に残された一文字の漢字。この漢字の謎を追っていくうちに、娘にも危険が迫る。愛する娘を救うべく、ブローディは強大な日本の秘密組織に立ち向かうが、そこには驚愕の真相が――。

第一日 白浪のあとはなけれど
1
サンフランシスコ

 現場に到着したときには、ジャパンタウンのコンコースは二種類の赤で彩られていた。ひとつは少女の華やかなワンピースの緋色。もうひとつは液体で、前者よりもずっと人間的な液体の赤だった。この惨劇がニュースの電波に乗れば、市の役人たちの顔が三つめの赤い色に染まることだろう。
 しかし、この件がわが家の玄関先にやってきたのは、ニュース番組のアナウンサーたちがジャパンタウンの虐殺事件をおしゃべりのネタにするよりもずっと前だった。
 緊急の呼出メッセージを受けとってから数分後、わたしはクラシックカーも同然の臙脂色のカトラス・コンバーティブルでフィルモア・ストリートを飛ばしていた。真夜中の電話がかかってくるまでは、夜なべ仕事に精を出していた─十八世紀につくられた日本の茶碗の修繕である。金継ぎと呼ばれる陶磁器の修復技術を学んだのは、かつて京都から車で一時間の信楽に住んでいたときだ。カトラスの幌をおろしているいまもなお、茶碗のふちの缺けた親指ほどの部分の修繕につかっている漆のつんとするにおいが鼻に感じられた。漆が乾燥したら仕上げに飾りをほどこす――液体で溶いた金粉を継ぎ目に描きこむのだ。しょせん修復作業だが、適切にほどこせば陶磁器の元の風格も復元できるのである。
 わたしは路面にタイヤがゴム痕を残すほどの急ハンドルで左折し、ポスト・ストリートにはいっていくと、ふたりのギャングが走らせていた火炎のような赤いボディのマツダ・ミアータの前に割りこんだ。凜とした冷たさの夜風が顔と髪のまわりで渦を巻き、最後まで残っていた眠気をきれいに吹き飛ばしてくれた。ふたりのギャングの車もトップをおろしてあった――どうせ、そのほうがなににも遮られずに標的を直接狙えるからだろう。
 ふたりの車がこちらに追いすがってきた――ミアータのタイヤのうるさい音にも負けないほどの大声でふたりがわたしを罵っているのがきこえ、リアビューミラーには宙に突き立てられた拳も見えているなか、ほっそりした車体のスポーツカーがわたしの車のリアバンパーにぐんぐん迫ってきた。
 次にミラーに出現したのは拳銃。つづいて男の胴体部分。いずれも夜空を背景として刻みこまれた不気味な影のエッチングだった。しかし次の瞬間、ミアータのドライバーは前方で警察による道路封鎖がおこなわれているのを見てとり、あわててブレーキを踏みこむとUターンしはじめた。この急激な方向転換のせいで拳銃をかまえていた男の体が車体側面に叩きつけられ、道路に落ちそうになった。男は両手をぶんぶんふりまわしてなんとか窓枠をつかむと、ミアータのクッションの利いたバケットシートに体を落とした。同時に車は欲求不満の叫びめいたエンジン音も高らかに遠ざかっていった。
 彼らの気持ちはわからないでもない。もし個人的な招待を受けていなければ、わたしもおなじことをしたはずだ。しかし、選択の余地はなかった。助っ人要請がかかったからだ。

 電話が鳴ると、わたしは有毒な漆のしずくが肌に触れないよう、慎重な手つきでゴム手袋を引き剝がすようにして脱いだ。昼間は店の仕事があふれるほどで身動きがとれないので、修復作業は娘を寝かしつけたあとの夜に進めるようにしている。今夜は茶碗だった。
 サンフランシスコ市警察のフランク・レンナ警部補は、ただの挨拶で時間を無駄にしたりしなかった。「頼みがある。今度はデカい事件だ」
 デジタル時計の薄緑色に光る数字に目をむける。夜の十二時二十四分。「おまけに、いい時間じゃないか」
 警部補は電話の反対側であげたうなり声で、謝罪の意を表明した。「コンサルタント料はいつもどおり払うとも。ま、充分な額ではないかもしれないが」
「なんとか食っていけるさ」
「そいつを肝に銘じておけ。それで、おまえに見てほしいものがある。野球帽をもってるか?」
「ああ」
「かぶったら深く引きおろし、目もとを隠せ。野球帽とスニーカーとジーンズ。支度をととのえたら、なるべく早く来てほしい」
「どこへ?」
「ジャパンタウン。歩行者専用の屋外ショッピングタウンだ」
 わたしはなにもいわなかった――片手で数えられるほどのバーとコーヒーショップの〈デニーズ〉以外、ジャパンタウンは夜のあいだ店じまいすると知っていたからだ。
 レンナ警部補がいった。「いつこっちに到着できる?」
「十五分後――いくつか法律を破れば」
「十分で来い」
 そして九分後、わたしは車で道路封鎖スポットへ近づいていた――ブキャナン・ストリートの歩行者専用のショッピングタウンがポスト・ストリートにぶつかる終端部に、さまざまな警察車輛が乱雑にとめられて通行を阻んでいる。バリケードの先に目をやると、監察医用のワゴン車と三台の救急車が見えた。いずれも後部ドアをあけはなし、暗く洞窟めいた車内のようすをあらわにしていた。
 バリケードまであと百メートル弱のところで、ジャパンセンター前に車を寄せ、エンジンを切った。くたびれた黒革のシートから体を滑らせて車外へ降りたち、騒がしいほうへ歩いていく。渋面に無精ひげが目立つフランク・レンナ警部補が、地元警察官たちの集団からひとり離れて、現場までの道のりの半分ほどでわたしを迎えた。
「今夜は警察が総員出動かい?」わたしはいった。
 レンナは顔をしかめた。「そのようだな」

 サンフランシスコ市警察にとってのわたしは、日本に関係する事柄すべての面のアドバイザーという立場だ――ジム・ブローディという名前で身長百八十二センチ、体重八十六キロ、黒髪で青い瞳の白人であるにもかかわらず。
 どんな関係があるのか? わたしは法執行機関に献身的に勤めていたアイルランド系アメリカ人のいかつい父親と、父よりも繊細な性格で芸術を愛していたアメリカ人の母親のもとで東京に生まれ、その地で十七歳まで暮らしていた。金銭的余裕がなかったため、わたしは目の玉の飛びでるような学費のアメリカ人向けインターナショナルスクールではなく、ふつうの公立学校に通い、日本の言葉と文化をスポンジのように吸収した。
 同時に東京という日本の首都でもトップクラスの師ふたりから空手と柔道を教わり、母親のおかげで日本の美術というすばらしい世界に目をひらかれることにもなった。
 両親を太平洋の反対側の国に引き寄せたのはアメリカ陸軍だった。父のジェイクは東京西部の治安維持を担うアメリカ軍憲兵の一部隊を率いていて、そのあとロサンジェルス市警察に就職した。しかし命令にすなおに従えず、やがて東京に引き返して、この都会では初めて、調査とセキュリティ全般を専門とするアメリカ流の探偵社を設立した。
 わたしが十二歳の誕生日をむかえると、父はいずれわたしをブローディ・セキュリティ社の一員とするべく、週一度の訓練をはじめた。わたしは父やほかの調査員に同行し、オブザーバーとして関係者との面談や張りこみや調査旅行などをともにした。オフィスにいれば、脅迫や不倫や誘拐などが関係したいろいろな案件について、スタッフたちが推測をかわしあっている会話に耳をかたむけ、そうでなければ古い案件のファイルを丹念に読んだ。彼らの会話は粗削りでリアルそのもの、六本木のディスコや原宿の破格の安居酒屋での夜遊びの一千倍はおもしろかった――とはいえ四年後には、わたしは偽造の身分証明書をつかって、その手の店でアルバイトすることになるのだが。
 十七歳の誕生日の三週間後、楢崎滋――父ジェイクのパートナーであり、わが家で夕食をとるときには、滋の愛称の〝シグおじさん〟だった──がわたしを〝監視任務〟に連れていってくれた。日本の大手電機メーカーの副社長と地元のやくざ組織の見習い連中がからんでいた恐喝事件の調査で、情報をあつめるための張りこみ仕事だった。具体的な行動は起こさず、関係者とも接触しない。それ以前にも同様の任務に同行したことは何十回もあった。
 わたしたちは路地に乗り入れてとめた車内に腰をすえて、もうとっくに夜の営業をおえた街の焼鳥屋をかれこれ一時間もただ監視していた。
「どうしたのかな。ひょっとして店をまちがえたのか」楢崎はそういうと、車を降りて確かめにいった。
 楢崎が店を一周して車に引き返そうとしていたそのとき、店の横手のドアからひとりのちんぴらがいきなり飛びだして棒術用の木の棒で楢崎を殴り、そのすきに残りのやくざ連中がほかの出入口から逃げだした。
 楢崎が力なく地面に倒れると、わたしは車から出て大声で叫んだ。敵はわたしに狙いをつけ、ぎろりとにらみつけつつ、棒を野球のバットの要領でかまえた。ひと目でちんぴらに棒術の心得のないことがわかった。ちんぴらが突進してきた。運がよかったのは、男の棒が短かったことだ。そこでわたしは男が前に出した足が位置を変える瞬間を見すまして、靴で男の膝小僧を蹴りつけた。男は悲鳴をあげて倒れ伏した――これで稼いだ時間は、楢崎が立ち直って男を押さえつけるのに充分だった。そのあと楢崎はわたしを家に連れ帰り、この土産話をきいた父は、息子のわたしを誇りに思ってくれた。
 あいにくだったのは、壊れかけていた両親の結婚の絆がこの出来事をきっかけにすっかり壊されてしまったことだ。父ジェイクは自分が帰化した日本が大好きだったが、母はどうしても馴染めなかった。この国で母はとこしえの部外者になった気分、小柄なサイズ6のまま大きくならない人々の海で、ひとりだけサイズ14の服を着た大柄な青白い顔の白人の気分だった。〝わたしを危険にさらす〟この行為は、危なっかしくも高く積みあげられた藁の山に載せられた最後の一本だった。母はわたしを連れてロサンジェルスにもどり、ジェイクは東京に残った。この一時的な取決めがやがて恒久的なものになった。
 しかし、それはもう十五年前のこと。そのあいだにはずいぶんいろいろなことが起こった。母は他界し、わたしはサンフランシスコに居を移して、美術品売買への足がかりをつかんだ――ジェイクにいわせれば〝軟弱な商売〟だが、わたしにも母とおなじく、この世界がたいそう魅力的に見えた。とはいえ、この世界にもこの世界なりの鮫どもが泳いでいる。
 そのあと、いまから九カ月前、何年も言葉をかわしていなかった父が急逝した。わたしは葬儀のために飛行機で日本を訪れ、このときには本物のやくざとぶつかりあうことになった。それも、〝シグおじさん〟こと楢崎滋が相手にしたようなケチくさい見習いの三下ではない。わたしは彼らを敵として――からくも――もちこたえたが、それはわたしが伝説の茶匠、千利久が所持していたとされ、長いあいだ行方不明だった茶碗の行方を突きとめる過程でのことだった。この出来事は新聞の見出しになり、わたしは日本で英雄のような存在にまつりあげられた。
 これも、わたしがジャパンタウンに招かれた理由のひとつだった。くわえて、わたしにはサンフランシスコ市警察にはない情報網や伝手がある。というのも父ジェイクが――わたしたちが断絶状態になっていても――わたしに会社の半分を遺してくれたからだ。
 両親がともに他界したいま、わたしは両親の仲を裂いた稼業に引きこまれたことになる。これが三十二歳といういま、気がつけば美術店とセキュリティ会社の両方をこなすという軽業を強いられるようになったいきさつだ。片や洗練のきわみ、片や荒事のきわみ。
 要約すれば、わたしは下手に動けば周囲の迷惑になる人間をたとえた〝瀬戸物屋にはいりこんだ雄牛〟そのままだった──その瀬戸物屋を経営しているのもわたしだが。
 そして今夜わたしは、この先どんな展開が待っているのかについて、心底からわるい予感をおぼえていた。

2

 同僚の警官たちの好奇の目からわたしを守るため、レンナ警部補はわたしのシャツのポケットに警察IDをクリップでとめ、ポケットのフラップを垂らして顔写真を巧みに隠した。もともとレンナは納屋のような巨体なので、警官の一部隊くらいの視界なら単身でふさげる。わたしはやや身長が高く肩幅もまずまず広いが、それでもNFLの大半のディフェンス・ラインマン以上に太い体幹の雲つくような百九十センチの偉丈夫のそばにいれば目立たない。レンナがだれかに銃をむけて〝動くな〟と吠えれば、まっとうな頭のある者なら従う。
「あっちだ」レンナはいった。「二度見たがるやつはいないな」
「心強いお言葉」
 レンナはわたしのジーンズと軽いフランネルのシャツをながめ、頭にかぶっている野球帽を見て目をいぶかしげに細めた。「そのHTというのはなんの略なんだ?」
「阪神タイガース」
「そりゃなんだ?」
「大阪を本拠とする日本のプロ野球チームだ」
「野球帽をかぶってこいといったのに異国の雰囲気をもちこむ気か? なんでそのへんの普通の人のようにできない?」
「これもわが魅力のひとつだからね」
「ま、どこかのだれかはそう思うかもしれないな」レンナは頭をぐいっと動かして、警察の身分証を示した。「だれかにきかれたら、潜入捜査官だと答えておけ。ここにいても、いないことになっている警官。だれからも弁が立つとは思われていない警官ってことだ」
 レンナの小揺るぎもしない灰色の瞳が疲れをのぞかせている。これは相当ひどいようだ。
「了解」
 レンナ警部補はまた一歩さがり、考えをめぐらせている視線でわたしの全身を見つめなおした。
「なにか問題でも?」
「今回は……いつもとは勝手がちがう。ええと……盗品がらみの事件じゃない」
 レンナの言葉の裏に疑いの響きがききとれた――わたしの関心が人々のつくった品から、人々が壊すものに変化したのではないかと訝っているのだろう。このところ、わたしもおなじ疑問を感じていた。
 レンナと初めて会ったのは数年前。レンナと妻ミリアムがアウター・リッチモンド地区のギアリー・ストリートの突きあたりにある〈ブリストルズ・アンティーク〉にやってきたときのことだ。ふたりはショーウィンドウに飾ってあった、胡桃材をつかったイギリス製の抽斗つきサイドテーブルに惹かれて店に来た。妻のミリアムがテーブルを指さすなり、夫のフランクは不自然なほど静かになって、ちらりとわたしに目をむけた。ミセス・レンナの瞳のきらめきを見れば、この家具にすっかり心を奪われていることはわかった。ずっと夢に見ていたのかもしれない。思いがつのって眠れぬ夜を過ごしたのかもしれない。妻の購買欲を抑えられずに夫がついに屈するまで、妻はひたすら懇願し、食い下がっていたのだろう。すばらしい芸術作品に心を奪われるというのは、そういう状態になることだ。そしてテーブルはまぎれもなく逸品だった。
 わたしとしては象眼細工がいかに卓越したものであり、帯状の木工装飾細工がいかに優雅なものであるかと、選り抜いたコメントをいくつか述べて取引を完了させてもよかった。わたしにはそれがわかっていたし、レンナにもわかっていた。しかしレンナの顔つきと妻が身につけている控えめな装身具を見れば、この家具を買うことでふたりの暮らしが苦しくなることは見てとれた。そこでわたしはレンナの妻を、おなじくらい優美な十九世紀のペンブロークテーブル――天板の左右が折り畳み式で中央に抽斗のある小テーブル──のところに案内した。先ほどのテーブルよりも一世紀新しく、価格は四分の一。いずれ時がたてば、こちらの家具の価格もあがることでしょう──わたしはそうも話した。
 この日に芽生えたレンナとわたしのあいだの絆は、それからの歳月を通して強まってきた──ふたりが購入したペンブロークテーブルの風合いに似ていなくもなかった。当時のわたしは、ヨーロッパのアンティーク家具を専門にあつかっている老ジョナサン・ブリストルのもとで、美術商としての訓練をまもなくおえようとしていた。いまはロンバード・ストリートに自分の店をかまえ、店では日本の美術品を重点的にあつかい、くわえてわずかながら中国や朝鮮やヨーロッパの美術品もあつかっている。初対面ののち、レンナは自分が担当する事件の捜査にアジア関係の情報が必要になると、おりおりにわたしのもとを訪ねてくるようになった──会うのはたいてい夜で、クラフトビールの〈アンカー・スティーム〉をジョッキで飲むか、そうでなければ上等のシングルモルトを飲みながら話をした。しかし、レンナが事件現場にわたしを招いたのは今回が初めてだった。
 レンナがいった。「かなり凄惨な場面になるぞ。そっちが望むのなら、あした現場の写真をもっていってもいい。もうこれ以上は見なくてもいいんだ。ここにはおまえさんの知りあいはひとりもいないから、いまなら何事もなく立ち去れる」
「もうこっちに来てるんだ。見たも同然だよ」
「本当にそういえるかな? 象眼細工や線条細工とはかけ離れた世界だぞ」
「ああ、わかってる」
「あとから、おれが警告しなかったとはいうな」
「公平な話だね」わたしは点滅をくりかえしている警察関係のまぶしいライトに目を細めながら、そう答えた。
「ここには公平のかけらもないさ」レンナはひとりごとのように低くつぶやいた。その言葉が警察のバリケードの先にあるものを示していることを、わたしは察しとった。
 わたしたちの頭上はるかに高いところを強い寒風が吹いて濃霧のつくる土手を押しやり、その結果、この都会のもっとも高くそびえている山々を陰鬱な霧の大波で包みこんでいたが、いまわたしたちが立っている平地は剝きだしのまま、気まぐれな山猫のような風が吹いていた。
「夜も遅いというのに、ずいぶん大勢来ているんだな」わたしはショッピングタウンの出入口に群れている制服と私服の警官たちをながめわたしながらいった。「特別な理由でもあるのかな?」
「みんな、現場をひと目見たがってるんだ」
《こいつは本当に陰惨なことになりそうだな》レンナに導かれて殺戮ゾーンへむかいながら、わたしは思った。

 そこから二百メートル弱離れた建物の屋上では、本拠地を離れて任務についているあいだはダーモット・サマーズと名乗る男が腹這いになって、いましがた現場に到着した人物ともども〝爆心地〟へむかうフランク・レンナ警部補を監視していた。
 サマーズは暗視機能つきの双眼鏡の拡大率をあげ、眉を寄せた。ジーンズ、フランネルのシャツ、一部を隠した身分証。あんな服装で現場にあらわれる市警官がいるわけがない。
 潜入捜査官か? そうかもしれない。しかし、それならどうして警部補がわざわざ出迎えたのか?
 サマーズはこの新参者に双眼鏡をズームインしていった。大股の足さばきには気になる点もないではなかったが……いや、法執行機関の人間ではない。双眼鏡を下へ降ろしてカメラを手にとる。望遠レンズのピントをあわせ、新参者の写真を数枚撮影する。
 このときには野球帽の《HT》の文字に気がつき、サマーズのうなじの毛がちりちりと逆立った。日本のプロ野球チームの帽子? 凶報だ。しかし自分はまさにこういった凶報を見つけるために報酬を払われている──見つけたのちに除去するために。それこそ曾我の十八番だ。殺害後の現場をこうやってひそかに監視していれば、だれかに足をすくわれることはない。
 サマーズは新参者が乗ってきたカトラスにカメラをむけると、ナンバープレートのクローズアップ写真を撮り、さらに車体を数枚ほど撮影し、プレートの番号を連絡した。二十分もすれば、所有者の名前などの個人情報が判明するだろう。
 それを思うと、サマーズの引金にかかった指がひくひくとした。標的の抹殺作業は完璧だった。殺害作業中は仕事の現場からはずされるかもしれないという思いが頭をかすめたが、これは天国から送られてきたボーナスである。このぶんだと、この先もアクションシーンが見られるかもしれない。

3

 休憩エリアにはさまれた部分に、殺戮ゾーンが出現していた。
 ブキャナン・ストリートのうち、ポスト・ストリートとサッター・ストリートという東西を走る二本の道にはさまれた一ブロックは、もうずいぶん前に歩行者専用のショッピングタウンに改装されていた。それまでの黒く冷たい舗装が除去されて、やさしい雰囲気の赤煉瓦が敷きつめられ、コンコースの左右にはたちまち鮨屋や指圧パーラーなど、数十軒もの新しいショップがならんだ。そしてこの一ブロックぶんの遊歩道に、ベンチやオブジェを配した二カ所の休憩エリアがもうけられた──もともとは買物客が心身を休める場所として設計された場所だ。いまその休憩エリアは、死ぬまで忘れられそうもない光景のフレームになっていた。
 近づいていくと、映画撮影用の可動式クリーグライトの強烈な光が犠牲者たちを浮かびあがらせていた──大人が三人、子供がふたり。
《子供たち?》
 腹がぎゅっと締めつけられ、胃のなかでなにかが凝固しはじめた。犯罪現場であることを示す警察の黄色いテープで円形に囲まれたなかでは、子供をもつ親の最悪の悪夢が現実のものになっていた。少年と少女の、いずれも小さくて身だしなみのいい遺体が二体見わけられた。だれかの娘さんだ──しかも、多少の誤差はあれ、わがジェニーとおなじくらいの年齢だった。その近くに男がふたりと女がひとり、横たわっていた。家族。さらにいうなら日本人の家族だ。旅行者。ただの殺人現場ではない。神聖冒瀆の場だ。
「地獄だな、フランク」
「わかってる。どうだ、耐えられるか?」
《なんで子供たちまでここにいなくちゃならなかった?》
 レンナがいった。「いまなら抜けだせる。最後のチャンスだ」
 わたしは手をふって、その提案をしりぞけた。元気に動きまわっていた家族を、何者かが皆殺しにした──超強力な武器による犯人たちの攻撃のあとには、切り刻まれた肉や引きちぎられた布地、固まりかけた血しぶきがつくるトスサラダが残されていた。
 胃の底で酸っぱいものが波立ち騒いでいた。「よっぽど頭がいかれたやつの犯行だな。およそ正気の人間にできることじゃない」
「最近のギャング連中のシマをうろついたことがあるのか?」
「一本とられた」
 両親が離婚してロサンジェルスに引きもどされると、わたしはそれからの五年間を同市のサウスセントラル地区というギャング連中が横行する街で暮らした。そのあと二年間、ここサンフランシスコのミッション地区の薄汚れた部屋に住んだのち、サンセット地区のまっとうな部屋に住めるだけの余裕が生まれ、結婚後はいま住んでいるイースト・パシフィックハイツの家具つきアパートメントに移った。そんなわけで、それなりに死体を目にした経験もあったが、ここの光景はギャングランドで展開されるどんなシナリオをも凌駕していた。五体の遺体のあいだにぬらぬら光る赤紫色の血だまりができていて、見るからにねっとりした血液が煉瓦の隙間ぞいに広がりつつあった。
 わたしは神経を落ち着けようと深呼吸をした。
 ふいに、母の死顔が見えた。苦しんだ顔。絶望している表情。いまわのきわになって、周囲で展開されている恐怖に気づいた顔つき。
 ここの光景にわたしは呼吸を奪われ、体の力をすっかり吸いだされた。自分はこれだけの光景に耐えられる人間ではなかったのかもしれない。四肢が鉛のように重かった。わたしはジーンズのポケットに両の拳を突っこみ、ぎりぎりと歯を食いしばって激怒をこらえた。
 この家族はジャパンタウンをのんびりそぞろ歩いていた──次の瞬間、彼らはいきなり異国の地で暗闇と死に直面した。

 白浪のあとはなけれど岡崎のよせきし音はなほ残りけり

 もう何年も昔、結婚するずいぶん前のこと、美恵子がこの言葉をわたしの耳にささやきかけてきたことがある──わたしが母の死に感じていた悲しみを癒そうとしてのことで、そのときがこの和歌との二回めの出会いだった。そのあと美恵子が殺され、ジェニーとわたしが美恵子をうしなった苦しみのただなかに残されたときにも、この和歌が自然に頭に浮かんできた。そしていままた、おなじ和歌が立ちあらわれてきた。理由もわかった。この和歌には、もっと大きな真実がくゆらせる芳香、何世代も昔にまで遡れる叡知の心なごむ本質が埋めこまれているからだ。
「ちゃんと話をきいてるか?」レンナの声。
 わたしは自分だけの悪魔たちのもとから、おのれを引きずり離した。「ああ」
 レンナはありもしないおはじきを口のなかで転がすようにしながら、わたしの返答に考えをめぐらせていた。たっぷりと生えている黒髪が、警官らしい無表情な目とごつごつした顔の上にかぶさっている。レンナはいかつい顔に深々と皺の刻まれた男だったが、その皺の輪郭はソフトだった。レンナの顔がキャッチャーミットなら、ちょうどいい崩れ方をしているといえそうだ。
 レンナは犯罪現場を仕切るテープに近づいて声をかけた。「トッド、調子はどうだ?」
 テープの内側では鑑識技官が血液のサンプルを採取していた。髪を短く刈りこみ、大きな耳はピンク色だ。「いい面もあるが、おおむねわるいな。いまは深夜で、ここは商業地域だ──だから現場が汚染されていない。それがいい面だ。その反面、ヘンダースンがいつもよりもでかい声で文句を垂れてる。おれたちがあつめた証拠からは──いくらやつが超特急で鑑定してるとはいえ──結局なにひとつ明らかにならないだろうといってる。やつは微細破片や繊維や痕跡を採取して大急ぎでラボに引き返したが、ずっと渋い顔だった。繊維は古いものだよ。射殺犯人のものではなさそうだ」
「どんな種類の痕跡を?」レンナはたずねた。
 トッドはちらりとわたしを見やってから、レンナに目顔で問いかけた。レンナは無言の問いに答えた。
「こいつはトッド・ホイーラー。こっちはジム・ブローディ。この事件の捜査でアドバイザーをつとめてもらってる──ただし、この件はくれぐれも内密にな」
 わたしとトッドは会釈をかわした。
 トッドが頭を動かして、一本の路地をさし示した。「ここんとこ雨は降ってないから、レストラン横のあの路地から靴痕が採取できた。靴底は柔らかくてクッションいり、おそらく静音タイプだ。となると、靴底に溝のないローファーかモカシン・タイプだ。狙撃犯は待ちかまえていたのかもしれないな」
 レンナとわたしはともに路地へ目をむけた。日本食のレストランと呉服店にはさまれた照明のない細い通路で、裏の公共駐車場へ通じている。建物の上階からバルコニーが張りだしているので、路地は薄暗い影に包まれている。左右にならぶショップを見わたした。遊歩道の反対側にも路地があったが、最初の路地ほど身を隠すのに適してはいなかった。
 胃が痙攣し、わたしは被害者たちに注意をもどした。被害者たちはたがいに寄り添い、あちこちで腕や足が交差していた──小さな棒切れを積みあげ、その山を崩さぬよう一本ずつとっていくゲームのグロテスク版に見えた。クリーグライトの荒々しく強い白光のせいで、くぼんだ眼窩に眉弓の影が落ち、丸い頰骨やシックなヘアカットやスタイリッシュな服が浮かびあがっていた。年に三回、わたしが太平洋を飛行機で横断するたびに目にしていた人々と共通する顔だちだ。
 この日本人たちは東京から来たらしい。
 それどころか、昔の日本だったら、この情景がやがて浮世絵に仕立てられたかもしれない──浮世絵が〝浮世〟という日常の暮らしや明るい題材から離れた時代ならば。うちの店にも、幽霊や妖怪を描いた浮世絵や血みどろの場面を描いた無残絵などに目のない得意客が何人かいる。そういった絵は、いまわたしの眼前にあるスペクタクルとくらべれば迫真性こそ劣るものの、この域に迫っている作品もないではない。当時の浮世絵やそれに類するいろいろな絵は、日々の事件を世間に伝えるという第二の役割もあった。浮世絵などの絵は芸術作品というよりも、むしろ近代以前のデータストリームとして機能していた。そういった背景があったからこそ、浮世絵は壊れ物用のつかい捨ての緩衝材として西欧へ流出した──こんにち新聞紙が梱包に利用されるのとおなじだ。
 レンナが低い声でうなるようにいった。「じつに手早い殺しだな。オートマティックの銃器で至近距離からだ。一秒に四、五発。排出された薬莢がピーナツの殻みたいに散らばってる。くそ野郎は薬莢を残していくことに頓着しなかったらしい」
「とんでもない思いあがりだ」わたしはいった。「おまけに高性能の銃器をつかっている……つまりどういうことだ? 犯人はサイコか、それともギャングか?」
「どっちでもおかしくないな。いっしょに来てくれ、見てほしいものがある」
 レンナは両手をポケットに突っこみ、現場の反対側へ歩いていった。わたしはそのあとを追い、ふたりで母親にいちばん近い場所に足をとめた──ここまで来ると、さっきとちがう角度から子供たちを見ることができた。男の子の口は力なくひらき、アイスブルーに変色した唇が上下に割れていた。少女の長い黒髪が舗装の煉瓦に扇状に広がっていた。少女はピンクのコートの下に、きらきら輝くような赤いワンピースを着ていた。ワンピースは見たところ新品で、まさしくわが娘が着たいと夢見ている種類の服に思えた。
 わたしは手をかかげ、目にはいるまぶしい光をさえぎった。女の子の指は赤ん坊時代のままのふくよかさで、その指が血にまみれた毛むくじゃらの塊めいたものをつかんでいる。その塊がなんなのか、見当がついたように思えた。
「あれは、くまのプーさんか?」
「ああ」
 突然、肺にはいっては出ていく冷たい夜気が意識されてならなくなった。今夜、生者と死者の世界をへだてているのが黄色く薄い警察のテープだけだということも意識された。大好きなおもちゃを抱き寄せたまま舗装の煉瓦に横たわっている弱々しい少女は、胸騒ぎがするほどジェニーに似ていた。
 レンナは母親の遺体にむけて、あごを動かした。「あれに見覚えがあるかい?」
 わたしの目は、先ほどとはちがう場所から現場をひととおりながめていった。わたしたちが立っているところから二メートル弱のところ、母親の遺体近くの血だまりに一枚の紙片が浮かんでいた。紙片には漢字が書きつけてあった。繊維の多いノート用紙の白い表面に書きつけられた漢字は、不規則で気ままな形に足を広げた巨大な蜘蛛のように見えた。
 漢字は、日本語の書き文字システムを構築している主要な建材である──もともとは千数百年前に中国からとりいれた表意文字だ。紙片に滲みた血液が乾燥して古い肝臓を思わせる茶色がかった紫色になり、そのせいで漢字の下半分がぼやけてしまっていた。
「どうだ、見覚えは?」レンナが質問をくりかえした。
 クリーグライトのまぶしい光を避けようとして左へむけた体が──瞬時に凍りついた。
 仮借ない純白の光が照らしだしていたのは、妻が死んだ翌朝にわたしが見つけたものとおなじ漢字のようだった。

4

 いちばん覚えているのは骨だ。
 調査官とそのチームの面々は、妻の実家の前庭にある芝生に黒いビニールの防水シートを広げ、焼け跡から品物を回収するたびに灰にまみれた残骸をきちんと整理してならべていた。いったん溶けて形もさだまらなくなった金属。焼け焦げたコンクリート片。そして人目につかないところに立てられた可動式の衝立の裏側では、拾いあつめられた焼け焦げた骨がだんだん積みあがりつつあった。
 それから二カ月、わたしはもてる時間すべてを費やして、歩道にスプレーペンキで書きこまれていた漢字の正体を突きとめようと奮闘した。そうすることで目的ができたし、自身の悲しみと戦う手だてもできた。美恵子の死にまつわることで受けとるべきメッセージがあるのなら、なんとしても知っておきたかった。
 多くの専門家に電話をかけた結果、アメリカと日本の数多くの専門家を紹介された。しかし、問題の漢字を読めた人はひとりもいなかった。見たことがある人さえいなかった。そもそも実在しない漢字だった。何巻にも及ぶ漢字辞典にも出ていなかった。言語学データベースにも存在しなかった。何世紀も昔までさかのぼる地方データベースにも存在していなかった。
 しかし、その漢字を実際にこの目で見たわたしはさらに調査をつづけた。そのときに応用したのは、行方不明になっている美術品をさがしだすときにわたし自身がつかうテクニックだ──そして、やがて手がかりが見つかった。白黴だらけになったような鹿児島の大学図書館の空気がよどむ一隅で、萎びたようなひとりの老人が近づいてきた。老人は、わたしがあちこち問いあわせをしていることを小耳にはさんだので問題の漢字を見たい、といってきたのだ。ただし話をするにあたって、あくまでも匿名のままにしてほしいと主張した。わたしは了承した。三年前──老人はそう話した──広島の郊外住宅地の公園にあった死体の横で、おなじ漢字を見かけた、と。さらにおなじ漢字は十五年前、福岡のある殺人事件の現場でも見つかったという。しかし、わたしが見つけた唯一の目撃者であるこの老人は明らかになにかに怯えており、わたしがこれ以上の詳細な情報を引きだす前に姿を消してしまった。
 レンナはわたしが問題の漢字を追求していることを知っていた──わたしが何度も日本へわたっていたあいだ、娘のジェニーの面倒を見てくれたのはレンナと妻のミリアムだった。父親であるわたしが生者ではなく、もっぱら死者とつきあっていたあいだ、ふたりはわが娘をなぐさめてくれたのだ。
 わたしはレンナ警部補にたずねた。「もっと近くで見てもかまわないか?」
 レンナはかぶりをふった。「まだ動かすわけにはいかないな。おまえをテープの内側に入れるわけにもいかない。しかし、ここから見た範囲ではおなじ漢字だと思うか?」
「九十パーセントの確率で」
「確率をあげるにはどうする?」
「血の染みのない状態で見ることだ」
 レンナがこれに答える前に、パトカーのそばからレンナを呼ぶ大声があがった。レンナは小声でぶつくさいいながらその場を離れ、ひとりの私服刑事とひたいを寄せあって話しこみはじめた。ふたりの話の中身はききとれなかった。そのあとでレンナは、ひとりの女性刑事に合図を送った──シナモンブラウンの髪、しっかり筋肉のついた体、化粧はしていない。女性刑事は警察の集団からひとり離れた。
「なんでしょう?」
「コレッリ?」レンナはいった。「前にも経験はあるか?」
「はい、二回あります」
「オーケイ。では、話をきいてくれ。これからだれかとふたりでチームを組み、明かりがついている家を片端からまわって聞きこみをしてほしい。まっとうな時間になったら……そうだな、朝の六時になったら、それ以外の家もまわる。あとは並みの警官もかきあつめてブキャナン・ストリートに送りだし、ショッピングタウンの左右両側のアパートメントの聞きこみをさせて目撃者をさがさせろ。丘の上から犯罪現場を見おろせる家があれば残らずあたれ。被害者家族が宿泊していた都インにもだれかを派遣して、徹底的に調べさせろ。なにか見聞きした者がいないかどうか、被害者家族のだれかがホテルのスタッフに接触していなかったかどうかを確認するんだ。あらゆる勤務シフトの従業員から話をきけ。必要があれば、相手をベッドから引きずりだしてもいい。わかったな?」
「はい」
 足に頼った警察の捜査で有益な情報を手に入れられるとは思えなかった。例の漢字についての手がかりはなかったが、殺人犯の正体について、その半分の手がかりすらなければ、レンナの努力が結果につながることはあるまい。
「よし。では次。ホテルの勘定書と被害者家族の荷物、それに電話の発信と着信の全データのコンピューター・プリントアウトをつくって、おれのところにもってきてくれ。客室を徹底的に調べて指紋や繊維の標本を採取するように命じること。また日本領事館に行って、被害者家族の知人がこの街に、この州に、そしてアメリカ国内にいるかどうかを──この順番で──調べて、名簿をつくるんだ」
「オーケイ」
「通りがかりの目撃者は見つかったか?」
「いいえ」
「コーヒーショップのなかには?」
「目撃者はいませんでした。しかし、あの店は被害者家族が最後に食事をとったところです。大人たちは紅茶とケーキ、子供たちはサンデーを食べました。三夜連続での来店だったそうです。そのあと家族は、ホテルへ帰ろうとしたところを撃たれました」
 そういってコレッリという女性刑事は、ジャパンタウンの終端部の先に見えている、都インの青いネオンサインを指さした。ネオンは、このコンコースの北端を示す赤い鳥居の左右の柱のずっと先で、やさしげに光っていた。
 一般的な鳥居は、空へむかってそびえる赤い二本の柱──左右ともに内側へ傾斜している──の上に、笠木と島木、および貫と呼ばれる横木を水平な手すり状に配してつくられている。鳥居は日本固有の宗教である神道の象徴的建造物だ──一般的には、社殿と呼ばれる神殿にまで通じている参道を示し、ここから先は神聖な土地だと人々に知らせている。しかしここにあるのは装飾目的の鳥居で、ジャパンタウンというショッピングモールの北側入口の目印というだけだ。商業地域の境界を示すのに鳥居を利用するのは、どことなく神聖冒瀆にも思えた。
 レンナが唇を引き結んだ。「しかし、目撃者はいない?」
「ええ」
「音をきいた者は?」
「〈デニーズ〉店内にいた人々の大半が銃声を耳にしています。しかし、ここは治安のよくない公営住宅にも近く、店内の人たちはギャングによる発砲か、そうでなかったら花火だと思ったようです」
 いいかえれば、夜の店外にわざわざ出ていって音の正体を確かめようとした者はひとりもいなかった──となる。
「オーケイ。このエリアは封鎖だ。警察が必要な情報を引きだすまでは、だれひとり外へ出すな。また神さまじきじきの許可証でもないかぎり、だれもなかに入れるな。わかったか?」
「わかりました」
「それからな、コレッリ──」
「なんでしょうか?」
「ブライアント・ストリートの本署に連絡して、おれの部下連中をそっくりこっちによこせと要請してくれ」
「それについては、リストで次の仕事になっています。しかし──」
 レンナは訝しげに目を細くした。「しかし──なんだ?」
「かなりの人数を動員することになります。この事件が騒ぎの火種になるとお考えですか?」
「政治がらみの馬鹿でっかいクソの塊が降りそうな予感があってね。どうしてそんなことを?」
「いえ、お気になさらず」
 コレッリは新しく見出した動機を胸に走っていき、レンナはわたしがすわっているベンチへ足音高く引き返してきた。「一家のパスポートからわかった身元がコンピューターで確認できた。夫婦は中村浩と栄子、子供が美貴と憲だ。心当たりは?」
「ないな。だいたい日本には中村姓の人間が百万人はいるんじゃないかな」
「スミスやジョーンズみたいなありふれた苗字なのか?」
「そのとおり。一家の住所は東京じゃないのか?」
「まだわかってない」
「きっと東京だ」
「ほんとに?」
「ああ。髪形や身だしなみや服。あの一家は東京者だな」
「それがわかってよかった。吉田公造はどうだ? ふたりめの男性被害者だが……」
 わたしは肩をすくめた。
 レンナはショップのならぶモールに目をさまよわせた。「その答えも想定内だ。さて、おれの記憶をリフレッシュさせてくれ。例の漢字のことを残らず話してほしい。いまだにあの字が解読できない理由もだ。簡潔にな」

 カリフォルニアの海岸から三キロと少し沖合に出たところで、三十代初めの男が船長十メートルのスポーツフィッシャーマンの船尾に腰かけていた。ボルボのエンジンを二基積んだこのボートを操縦していたのはジョゼフ・フレイ船長だった。ボートは太平洋のうねる大波のあいだを雄々しく抜けてエンジン音を響かせながら、サンフランシスコの八十キロ北方にあるフンボルト湾を目指すルートを進んでいた。乗客と三人の連れは、北部カリフォルニアの沿岸で釣りをしたがっている裕福なアジア人ビジネスマンを装っていた。釣り道具はフックにかけられ、オイルで手入れされている。スチールの水槽の底に生き餌がうようよと群れていた──青く細長い魚たちが月明かりをうけてすばやく泳いでいた。
 過去二週間で彼らがフレイ船長のボートで海に出るのは、これで三回めだった。フレイは彼らが常連客になってくれればいいと思っていた。この前の週末、一行はサンフランシスコの南にトローリングに出て、市街とサンタクルズのあいだにある三カ所の良好な釣り場で糸を垂れた。そのあと四人は翌日からはじまるIT関係のコンベンションに出席するために、サンタクルーズで下船していった。さらにその前の週末は、市街からまっすぐ五キロの沖に出て、本気の深海釣りに取り組んでいた。そして今回の旅でフレイ船長の大事な得意客一行は、北へむかう道々でお気に入りの釣り場で釣糸を垂らしたのち、フンボルトで上陸する予定になっていた。一行はそこから夕方の飛行機でポートランドへ行き、そこで地元企業の会議に出席するという。
 フレイ船長が知らなかったのは、一行がこの顔ぶれで旅行をするのはこれが最後だということだった。もっとはっきりいえば、今回の乗客たちはきょうを最後に、最低でもあと五年間はベイエリアに足を踏み入れることはない。
 そのような行為は〝曾我の掟〟で禁じられている。
 男たちのひとりが船首近くでフレイを会話に引きこみ、アイナメ科のリングコッドの最良の釣り場はどこかとたずねていた。ボートに一貫して北むきのコースをとらせつつ、フレイ船長はこれからの海岸線沿いの海にある最適な地点を詳述しながら、船首のずっと先にあって、まだ見えていない釣り場を熱心にさし示した。フレイ船長にはまったく気づかれないまま、船尾の男は足もとの黒いスポーツバッグのジッパーを引きあけると、ジャパンタウンの仕事につかったウージー型サブマシンガンをとりだして船外へ落とした。サブマシンガンは泡立つ三角波に落ち、深さ約千四百メートルの海底の泥へむかって旅立った。

5

 わが悪夢がぶりかえしていた。
 バリケードのあたりにあつまっている制服警官の一群に目をむける。海から吹く寒風に対抗するため、巡査たちの多くは夏の青い制服の上に黒いレザージャケットを羽織っていた。一方、刑事たちはトレンチコートかヘビーデューティ仕様のパーカを着て背中を丸めていた。話をしている者も話をきいている者もいる──その少なからぬ者が、わたしたちがいるここ、左右にならぶショップがつくる通廊の奥へちらちらと視線をむけていた。
 いや、正しくはちがう。
 彼らは死体へ視線を投げていた。
 不安はありふれた感情だ。いまその不安が暴力と絶望を語っていた──司法警察官にはめったに見られない流儀だった。しかしこの不健全な組みあわせこそ、四年前に妻が死んでから、わたしが毎日をともにしていた感情にほかならない。妻が死んだのは、両親の移民手続関係の書類仕事を手伝うために飛行機でロサンジェルスへ来たときだった。

 電話で起こされたのは午前六時四十九分だった──警察は隣人からわたしの番号を入手していた。わたしはいちばん早いロサンジェルス国際空港行きのシャトル便に飛び乗り、レンタカーで現場へ急行した。着いたときには、火災調査官がまだ現場での仕事を進めていた。
 わたしが自己紹介すると、調査官は同情の顔になった。「こういったケースだとどうしようもないね。古い家は、どうしてもあちこちガタがくる。電気系統に基準以下の部品がつかわれていたとか、大地震と大きな余震で部品に負荷がかかった場合もある。配電ユニットから電線チューブがはずれて、いっしょにケーブルがはずれることもある。はずれた先が普段つかっていないコンセントだと、だれも気づかないんだ。そこへもってきて、ロサンジェルスはここ何年も炎暑つづきで、木造家屋は干からびてる……そんななか、なにかのタイミングで剝きだしの電気ケーブルが垂れて梁に接触すれば──たちまち発火だ。この家の被害者のなかに喫煙者がいたのならともかく、まあ、おおかた原因はそんなところだね」
「いや、タバコはだれも吸ってなかった」
「だったら、ああ、そういうことだ」
 わたしは茫然としたまま歩道に立ちすくみ、なおもつづく調査をなすすべもなく見まもっていた。前夜この家で寝ていたのは妻とその両親、および訪問中だった妻の叔父の四人だった。
 例の漢字に気づいたのは、現場検証が一段落するのを待っているあいだだった。美恵子の両親の家はわたしが昔住んでいた家から五ブロックしか離れていなかったので、周辺の土地鑑はあった。この地区はさまざまな人種が共存してギャングが猖獗をきわめ、あたりはよくある目ざわりな落書きだらけだった。わたしが驚いたのは、地元のエルサルバドル系ギャングの縄張りを示す落書きのなかに、いきなり日本語の文字が埋めこまれていたからだ。漢字は歩道にスプレーペンキで書きこまれていた──黒と赤と緑のペンキをつかっていたのは、ギャングがつかう高度に抽象化された神聖文字っぽい文字にわざと似せるためだろう。心得のない者の目には漢字もまわりに溶けこんでしまい、珍しくもない無意味な破壊行為の一例にしか見えまい。しかし日本語が読めれば、その漢字だけが3Dグラフィックなみの鮮やかさで浮かびあがって見えるはずだ。
 アジア系ギャングもこのあたりを地回りしているので、漢字は珍しい存在ではない。しかし、妻が死んだばかりの家のすぐ外で見つかったうえに、近所に住む旧友からこの漢字を以前に見かけた覚えがないといわれたことで、わたしは疑念をいだいた。
 問題の漢字がこの地区のほかの場所ではいっさい発見されていなかったことや、どんな辞書にも収録されていないことを確認したのち、わたしは日本へ飛んだ。日本ではひとりの老人が図書館の隅へわたしを追いつめ、秘密を明かしてくれた。自分の命が心配でならなかったのだろう、わたしが背をむけたとたんに老人は姿を消した。しかし、ほかにもあの漢字を目撃した者がいる──ショッキングではあるが、殺人現場にかぎって見た者がいる──という事実は、まさに天からの贈りものだった。
 ただし、そう思っているのはわたしだけだ。
 本来気にかけるべき人々は気にかけてもいなかった。
 広島で日本の警察にアプローチしたわたしは、同情的ではあったが妙に恩着せがましい対応をされた。そんな事件があったことを記憶している者も、判読不能な漢字の話をきいたことがある者もひとりもいなかった。そもそも、市街地近郊の住宅街には数百もの公園が点在している──彼らはそう教えてくれた。それから、いかにも気乗り薄ではあったが、わたしが適切な書類を作成して提出するのを許可したのち、際限のないお辞儀と、なにか新しいことが判明したら連絡するという約束の言葉とともに、わたしを静かに出口へ案内した。新情報が浮かびあがることはなかった。ロサンジェルス市警察は書類作成の手間もかけず、わたしを笑って門前払いした。二週間後、火災調査官が火事は偶発的事故だったと結論づけ、警察は捜査を終了した。

「簡潔にな」レンナはわたしに釘を刺した。
 わたしは指を広げて髪を梳きあげた。「火事のあと、わたしは思いつくかぎりの人に会った。あらゆるところに足を運んだ──例の漢字が中国語由来だという可能性も視野に入れて、台湾とシンガポールと上海にも行った。成果はゼロだ。あの漢字を見たことがある人さえいなかった。鹿児島で会った老人がいなかったら、わたしは正気をうしなっていただろうね」
 レンナは話をききながら、空想のおはじきを口のなかで転がしていた。「でも、得るものもなにかあっただろうが。両者がおなじ漢字なら、捜査のとっかかりがひとつ増えるわけだし」
「ちがう漢字のはずがあるものか」
「よし、わかった。フィフス・ストリートの〈M&Nタヴァーン〉を知ってるか?」
「もちろん」
「じゃ、午後四時ごろに会って早めのディナーにしないか? 鑑識の連中が顕微鏡で調べおわっていれば、あの漢字をもっていくよ」
「こっちは異存なしだ」
「あの紙はきれいになるかな?」
 わたしはうなずいた。「書道用の墨がつかわれていれば、濡れてもダメージを受けることはない。乾燥した日本の墨には耐水性がある。だからこそ、昔の掛け軸の文字や絵がいまも残っているわけだ」
 レンナの目が輝いた──わたしの想像が今夜初めて耳にする明るいニュースだといいたげに。「うれしい話だ」
「うれしくもあり、あいにくな話でもある。前の事件の漢字と一致したら、それはそれでトラブルを背負いこむことになるからね」
 レンナは浮かない顔でうなずいた。「おまえさんがいいたいのは、どっちの事件でも複数の被害者がいるってことか」
「ああ」
「あまり有望な話じゃないな。ただ、すべて話せといったのはおれだ。さっきの鹿児島の老人だが、日本の二件の殺人事件で被害者が全部で何人だったか、いっていなかったか?」
「いや。ただし、自分なりにある疑念をいだいているとはいっていたな」
「というと?」
「犯人はきわめて几帳面な連続殺人鬼ではないかと思う、といったんだ」

6
午前六時三十八分

 ノックの音がしたとき、わたしはスクランブルエッグとトーストを手早く用意しながら、尺八の名人のひとりである横山勝也の初期のアルバム《ZENⅡ》を流していた。この作品で横山は名匠ならではの穏やかさで、感情のこもった演奏をきかせてくれる。ほかの作品ではひとつの音を長く伸ばして吹き、山地を吹き抜けていく風のような、かすれてしゃがれた音を響かせもする。横山にかかれば、尺八は泣きわめきもするし、さめざめと泣きもするし、変化しつづける音はいまにも崖から落ちてしまうかのようであり、冷厳な真実を真摯に求めつづけてもいる。わたしが多少は知っている事柄のすべてを。
 わたしがドアの鍵をあけると、わが六歳の娘のジェニファー・由美子・ブローディが、「おはよう、父さん」といいながらスキップして部屋に飛びこみ、期待の顔つきでわたしに両腕を伸ばした。おなじアパートメントの上の階に住んでいるクラスメイトのリサ・マイヤーズの家でのお泊まりから帰ってきたのだ。
 わたしはすばやいハグで娘を床からすくいあげると、片腕で抱きかかえながら急いでキッチンへ引き返し、空いている手でスクランブルエッグをつくりつづけた。ジェニーがわたしの頰にキスをした。長く伸ばしている黒髪のピッグテールが顔の前で左右に揺れると、ジェニーはあくびをして、眠たげな笑みをむけてきた。いずれ前歯が生えそろって笑みを完成させるのだろうが、いまは隙間を見ていると胸が痛くなり、娘が永遠に六歳のままでいればいいと思った。ジェニー本人のためというよりは、このわたしのために。
 ジェニーは鼻の頭に皺を寄せた。「これ、なんのにおい?」
「父さんが茶碗の修繕につかっている漆のにおいだよ」
 茶碗につかっている漆は、二日かけて乾燥させなければ、仕上げの金粉はほどこせない。そこで茶碗を炉棚の上に置き、埃よけにビニールでつくった間に合わせのテントをかぶせておいたのだ。
 ジェニーが不思議そうな目でわたしを見つめた。「父さん、大丈夫?」
 娘はなにも見逃さない。ジャパンタウンから帰ってきたあと、わたしは冷蔵庫に残っていた〈アンカー・スティーム〉を何本か飲んだうえに、最高の米から醸造した新潟産の日本酒をかなり飲んだ。例の漢字のことをなにも解き明かせなかったせいもあって、だらだらとかなり飲んだ。あの漢字は十中八九わたしの妻が葬られる理由になったと見ていいし、今度は日本人一家の全員を市の死体安置所に送る原因にもなった。今回のジャパンタウンの事件では心底震えあがって当然だが、現実には事件は冬眠中だった怒りに燃料を注いだ。怒りはわたしの精神の暗い領域からとぐろをほどいて伸びあがってきた──長すぎた冬眠をようやくおえ、体を伸ばして鎌首をもたげる蛇そっくりに。
 わたしは娘を床におろした。「ごめんな、ジェン。父さんはあんまり眠れなかったんだ」
 ジェニーは壁の穴を指さした。「あの穴はなあに?」
 三杯めと四杯めの日本酒のあいだに、わたしはあの漢字が呪わしくてならず、硬い石膏ボードを拳骨で突き破ったのだ。そんな馬鹿な真似をしても拳の骨が十あまりも折れずにすんだのは、ひとえに格闘技の訓練を受けていたからだ。しかしいくら護身の心得があっても、娘の鋭い精神をあしらえるテクニックは身についていなかった。
 わたしの顔がわずかに赤らんだ。「ゆうべ、父さんの怒りが外にあふれてしまってね」
「どうして?」
「ひとことではいえないよ」
「父さん、わたしはもう六歳よ。話してもらえばわかるもん」
「うん、それはわかってる。でも、話はあとにしてもらえるかな?」
「うん。でも忘れないからね」ジェニーはそういうと、〝もう小さい子供じゃないもん〟という表情をわたしにむけ、儀式っぽいしぐさでわたしにサンフランシスコ・クロニクル紙の朝刊を手わたし、ピンクと黄色のストライプ模様の怪物なみに大きなビーンバッグチェアにどさりと体を落とすと、目を閉じて楽しげなため息を洩らした。わが娘の宇宙に幸せがありますように。
 新聞の一面に目を走らせて、殺人事件の記事があるかどうかを確かめた。記事はなかった。社会の好奇心という圧力がない状態でサンフランシスコ市警察に捜査の時間を与えるため、市の役人たちがかなりしっかり蓋をしたようだ。驚くべきは、警察が猟犬のようなマスコミをうまくかわしていることだ。この猶予も長つづきはしないはずだが、たとえ数時間でも、やかましく吠える犬がいないのはありがたい。
 目を閉じたままジェニーがいった。「母さんにも会えればいいのに……中国人の男の人に会えたみたいに」
 わたしは新聞を読むのをやめた。「中国人の男の人というのはなんの話かな?」
「廊下で目をきょろきょろさせてた変な男の人。あの人、うちの新聞を盗もうとしてたみたいだけど、わたしが驚かせたの」
 ジェニーがうちの部屋とリサの部屋をしじゅう足音高く往復していることにアパートメントの住民のひとりから苦情が出て以来、ジェニーは音をたてずにおなじルートを行き来するというテクニックを完成させていた。そんなわけだから、娘がいきなり姿を見せたことで驚かされた人がいたらしい。うちの新聞を盗もうなどという人間が本当にいたとは思えなかった。しかし、親としてのアンテナにひっかかったのは、娘のいった〝変な〟という部分だった。
「その人はなにか話してたかい?」
「わたしの名前を教えてほしいって」
 全身を冷たい大波が洗った。「教えたのか?」
「うん」
 全身が氷と化した。「それで?」
「かわいい名前だねっていってくれて、それからミスター・コルトンが何階に住んでいるか、知ってるかってきいてきた」
 頭のなかで警報が大音量で鳴っていた。このアパートメントにはコルトンという住民はいない。
「それはいつのことかな?」
「さっき、うちに帰ってくる前」
 わたしは急いで窓に近づいた。この建物に一基だけのエレベーターはのろのろ運転で悪名高い。四階のうちの部屋からはゴールデンゲート・ブリッジの壮大な光景ばかりか、前の道路もよく見わたせる。ジェニーがわたしのところへやってきた。五秒もしないうちに、バギーパンツとゆったりしたTシャツを着て、野球帽を前後逆にかぶり、そのつばがうなじに接しているアスリート体形のアジア系の男が歩道に出てきて、北へむかって歩きだした。バイク乗りがつかうような細いエアフォイル・サングラスで目もとを隠していた。
「あの人かい?」
「うん」
 思わずあごに力がはいった。「部屋から出ないで、ドアには鍵をかけておくこと。父さんはすぐにもどってくるからね」
 ジェニーの両目に不安がなみなみとたたえられた。「どこへ行くの?」
「あの中国人の男の人と話をしたいんだ」
「いっしょに行ってもいい?」
「だめ」わたしはドアへむかった。
 ジェニーがわたしの腕をつかんだ。「わたしを置いてかないで、父さん」
 その言葉の真意は《外へ行かないで》であり、行間に《わたしをひとりにしないで》という気持ちがひそんでいる。
「でも、ほっとけないんだよ、ジェン。あの人はほんとなら、この建物にはいってきたり、おまえに話しかけたりしちゃいけなかったんだ」
「だったら、ミスター・キンベルにまかせればいいんじゃない?」
「中国人の男の人がおまえに話しかけたことで、これは管理人さんの仕事じゃなく、父さんの仕事になったんだよ。リサちゃんのうちで待っているかい?」
「ううん、ここで待ってる。でも、ほんとにすぐもどってきてくれる?」
「心配するな。父さんはあの人と話をするだけだ」
 わたしは娘をハグしてから急いでドアから出ていった──娘を残していくことにうしろめたさを感じたが、ここでなんの手も打たず、ちんぴらを脅かして遠ざけておかなければ、またここへ姿をあらわすかもしれず、そのときは比べものにならないほど暗い気分になるはずだ。
 男との対決は、できれば警告の言葉とともにおわってほしかった。しかし腕力に訴えるような場面にいたっても、その用意はある。格闘技の訓練を受けていたことが役に立っていた。犯罪とは無縁な日本で十七年間も暮らしたあとで住んだロサンジェルスのサウスセントラル地区の境界付近は、ひとときも気を抜けるところではなかった。美術品のフリーランス学芸員として働いていた母が、むらのある収入を補うためにドラッグストア〈ライトエイド〉のレジ係などの仕事をこなすかたわら、わたしは日本で学んだ空手と柔道が錆びつかないよう、地元の二カ所の道場で修行に励んだ。
 ごみくず連中が近づいてきて嗅ぎまわりだすこともあったが、わたしが二、三人の鼻を踵で蹴りつぶしてやると、みんな尻尾を巻いて逃げていった。しかしその一方、もっと強い連中があらわれた場合にそなえて腕をさらにあげておく必要があるのもわかっていた。助けは隣家の住民のかたちであらわれた──隣人には、韓国陸軍の特殊部隊の経験があったのだ。この男はわたしを庇護の翼のもとに入れ、実の息子といっしょに訓練をほどこしてくれた。おかげで、わたしのスキルにテコンドーが追加された。男の訓練のおかげで、わたしの意識のレーダーは二倍に強まり、本能はさらに鋭くなった。
 わたしは小走りに道を進みながら、さまざまな可能性に考えをめぐらせた──いずれもあまり思わしくなかった。わが家のあるアパートメントは二重ドアに高性能のデッドボルト錠でしっかり防犯対策がなされ、不審者の侵入をはばんでいる。しかしテクニックをそなえた者の前には、決して難攻不落ではない。先ほどのホームボーイは服装こそ怠惰なストリートキッズ風だが、身ごなしはいかにも密命を帯びた人物のようだった。アパートメントから出ていくときには、ずっと顔を伏せていた。泥棒か小児性愛者ならではの、人目を避けることが習い性になっている者の身のこなしだった。
 二ブロック歩いたところでホームボーイに追いついた。人さし指にぶらさげたキーホルダーに車のキーがあったことから、近くに車をとめていることが察しとれた。わたしはホームボーイの肩に手をかけた。わたしの手が触れたとたん、手の下で逞しい筋肉が動いた──わたしの獲物になるはずの男は液体のような滑らかな動きでするりと逃げだすと、すかさず身をひるがえし、わたしにむきなおってきた。
「なにかご用ですか?」
 見た目にそぐわない言葉づかいだった。広げた足の両方にバランスをとって体重をかけた姿勢をとっている。両手はリラックスしていたが、体の左右でいつでも動けるようにかまえていた。キーホルダーはすばやくサイドポケットに吸いこまれていた。
 わたしはいった。「うちのドアの外でいったいなにをしていた?」
「どこのうちのドアの前にも行ってません。通りすぎただけです」
 ホームボーイは焦茶色の肌で、髪を肩まで伸ばしていた。農夫のような太い首に金のチェーンがかかり、ミニチュアのアラビア風の短刀の飾りがさがっていた。このチェーンもストリート風に見せる扮装のひとつだ──太い猪首は、雄牛のように逞しい肩とよく鍛えぬかれた二の腕につながっている。百八十センチの身長に九十五キロほどのがっしりした体──身長ではわたしが二、三センチまさっていたが、体重は相手が十キロ近く多いだろう。顔は扁平で日焼けし、アジア系だ。ただしどこの国かはわからない。
「じゃ、だれを訪ねていたんだ?」
 男の右目がひくひく引き攣った。「あんたに教える義理はないね」
 ホームボーイのかぶっている野球帽は小粋な角度で傾いてはいなかったし、そればかりか、見る者が見ればわかる〝世界に挑みかかる態度を示す傾き〟でもなかった。Tシャツもスラックスも、新品で買ってきた店の雰囲気が残っている。ストリートパンク連中は往々にして小ざっぱりときれいなファッションを見せびらかしたがるが、この男の服にまとわりついている〝さっきまで店の棚にならんでいた商品〟の雰囲気は、パンク連中なら店で服を仕入れて外へ出てきた瞬間に、まず消したがるものだ。この男がストリートキッズだったら、わたしはリトルマーメイドだ。
「わたしは気のいいナイスガイだから、おまえの話を信じたいのは山々だ。だがおまえが名前を明かさなければ、これからふたりでしんどい思いをすることになるぞ」
「最後に一度だけ──あんたに教える義理はない」
「そうともいえない。おまえが話しかけたのはうちの娘だからね」
「くたばれ」男はいい、わたしに背をむけた。
 要約するなら、この男はうちのすぐ前の廊下をうろつき、わが家のドアの近くを……わたしの娘のそばをうろついていたのだ。ただそれだけの理由でも、この男が鞭で打たれて怯えればいいと思っていた。今後もうちのアパートメントがあるブロックに足を踏み入れるつもりなら、その前にたっぷり考える材料を与えておきたい。
「そう急ぐな」
 二回めにわたしが腕を伸ばすと、男はさっきと同様に流れるように優雅な動作で左足を軸に体をめぐらせ、同時に右手をわたしののど目がけて突きだしてきた。格闘技の身ごなしだ。声帯を打ち砕かれるよりも早く、わたしは腕で相手の手を払いのけた。
 それからすかさず男のあごにむかってパンチを入れた。男がパンチをさえぎろうとしたので、わたしは男を死角から殴った。粗暴きわまるストリートの流儀だ──男にとっては予想外だったのだろう。ストリートを経ていない格闘技は、マットの上では通用しても、リアルな世界では命とりになる。しかし反対に両方を組みあわせれば──すぐれた本能をもそなえていれば──すこぶる強力な刃を獲得できる。東京で武道を習いだしたとき、父からそう教えられた。
 男はこの一撃でよろけはしたが、ぎょっとするほど迅速に立ち直り、空手でも柔道でもない手足の動きで反撃してきた。おかげでこちらは片目をうしないかけた。
 わたしはあとずさった。「わたしの家に近づくな、このゴキブリ野郎」
「そっちこそ出すぎた真似はよせよ、おっさん。いま消えてくれたら、命は勘弁してやる」
 わたしの耳がぴくんと動いた。男が最後に口にした言葉には、ほんのかすかに外国語のイントネーションがあった。中国語でもマレー語でもなければ、もっと歯切れのいい韓国語でもない。日本語だった。
 つまり、この男は泥棒でも小児性愛者でもない。わが家のあるアパートメントにはいってきたのは、わたし目当てだ。わたしの日本とのかかわりは長く深い──それこそ、ゆうべの犯罪現場までつながっている。
「なにが目当てだ?」わたしはたずねた。
「おまえが消えること。あるいはめった切りにされることだ」
「そんなことになるものか」
 マジックテープが剥がれる音がした。次の瞬間、男の右手で金属がぎらりと光った。
 ナイフ。
 警報が脊椎を駆けくだって、体内にアドレナリンがあふれだした。スチールは大きらいだ。スチールのナイフは下衆野郎御用達の武器だ。ホームボーイの手にあるナイフは両刃で、片方はぎざぎざの鋸刃になっていた。柄の部分にはカスタムメイドで指をあてがう溝がつくられていて、特別な戦闘テクニックをうかがわせた。鋸刃はすっぱりと切る以上のことができる──鋸刃は犠牲者をざくざく無慈悲に切り刻めるのだ。
 わたしは半分しゃがみこんだ──四肢から力を抜き、肩をすぼめ、ナイフから目をそらさず。ホームボーイは右にまわりこんで、わたしをフェイントで刺すふりをした。恐怖がうなじをそろりと撫であげた。恐怖を克服すれば生きのびられるかもしれない。恐怖を甘く見れば、たちまち死ぬ。そういった例はこれまでストリートで何十回と見てきた。
 わたしはすかさず相手と反対方向にまわってフェイントをかわし、そのあいだもナイフと男の両足から目を離さなかった。
 襲撃者の唇が歪んだ笑みをつくった。「おや、どうした? もうおしゃべり気分じゃなくなったのか?」
 目を刃物に貼りつかせたまま、わたしはこの挑発を無視した。せせら笑いを返しもしない。わたし自身の言葉で応じたりもしない。
 こんなふうに、ひたすら一点に集中していたことで命を救われた。
 男はわたしが答えると予測していた。この餌にうかうかと食らいついていたら、わたしは死んでいただろう。
 わたしがまわりながら離れると同時に、ジェニーのいう中国人は手首をスナップさせた─その瞬間、ナイフが右の手から左手にひらりと移動し、わたしがむかおうとしていた場所のあまりにも近くに出現した。これまで見たことのない動きだった。似た動きさえ見たことがなかった。ナイフそのものがわたしを追尾しているかのようだった。
 ホームボーイの所作は完璧だった。一歩でわたしに迫る──ナイフの刃があってはならないほど迫ってきた。上体をひねって後方へ反らし、宙を高速で横切っていくナイフから逃れる。あごのすぐ下の空気をナイフが乱したのが感じとれた。スチールの切っ先とわたしののどは数ミリしか離れていなかった。
 男の次の動きは、最初の攻撃の発展形だった。スチールの刃のスピードはまったく落ちず、考えぬかれたすばらしい動き方を見せている。ナイフの持ち手を一瞬にして変えたことで、わたしは一気に体の動きをとめなくてはならず、そのせいでバランスをうしない、のどのあたりを無防備にさらすことになった。これで自衛するには──わたしが実行したように──ぎりぎりの土壇場で上半身を一気にひねるしかない。しかしこの動作では、足を前に突きだして無防備にする姿勢をとるしかないし、そうなれば目をつぶっていても見逃すはずのない標的になってしまう。
 相手の作戦がいかに狡猾かは見抜けたが、攻撃を押しとどめる力はわたしにはなかった。ナイフはなんの害も与えずにのどの近くを通りすぎ、ふたりを隔てる空間に弧を描いて下へむかい、わがリーバイスとその下の腿の肉をざくりと切り裂いた。痛みにうめき声が洩れ、膝が力なく折れた。わたしは片足で跳びすさり、精いっぱいすばやく貴重な空間を相手とのあいだに確保した。傷口から血がどくどくと流れでてきた。
 こいつは本物の天才だ。最初の攻撃にしくじれば、第二の攻撃が確実に用意されている──それも体の自由が利かなくなるような攻撃だ。さらにその次は命とりになるだろう。
 攻撃者がわたしにとどめを刺すべく腹部を狙って突進してくると同時に、わたしはすばやくあとずさった。それから左へ踏みだして、弱ったほうの足で軽く蹴るふりをした。相手の予期していない攻撃だろう。男がためらった隙を逃さず、ナイフを握っている男の手を横ざまに払いのけ、手がたいジャブをあごにお見舞いする──打撃にまんまと体重の一部をかけるパンチだった。男が顔をしかめてあとずさった。こちらにとってはまぐれの当たりだ。パンチが決まったのは純粋な幸運のたまもの。こちらは片足が不自由で、相手にかなわない状態だ。男が前へ進むのを邪魔することはできても、完全にとめることは不可能だった。
 ホームボーイはいったん動きをとめ、目に軽蔑の光をのぞかせた。「なかなかすばやいな、おっさん。だが、まだ足りないぞ」
「うちに近づくな」
 わたしの防御の壁を突破できても、それまでにわたしからどれほど痛めつけられるかを考えていたらしく、男の顔に迷いがよぎった。それなりの時間を稼いで、まわりに目撃者がいなければ、男がわたしに突進してくることは、おたがいにわかっていた。しかし男は目に見えない力に押さえられているらしく、思いとどまっていた。
 男はナイフをふり動かした。「かわいらしい娘さんだ。あの娘から先に切り刻んでやったほうがよさそうだね」
「娘は無関係だ。またおまえの姿を見かけたら後悔させてやるからな」
「無関係なものか。ずっぽりはまりこんでるよ。おまえもだ。自分で気づいている以上にな」
 男はさっとあとずさり、刃物で身を守りながら退却しつづけ、手近な角を曲がって姿を消した。
 怒りに燃えていたわたしは走って男を追いかけたかったが、足の切り傷からは血が惜しげもなく流れだしていた。ジーンズのベルトを引き抜き、出血を抑えるために太腿の上のほうをきつく締める。ホームボーイが最初にナイフをふるったあのときに刃先が届いていれば、出血はいちばん小さい心配事になっていたはずだ。男の戦闘テクニックは以前にお目にかかったことのないレベルだったし、わたしがいまも足で立っていられること自体が奇跡だ。
 どう考えてもわたしは死んでいて当然だった。ここよりも人目につかない場所だったら、男は目的を達していたはずである。きょうのところ、男は思いもよらないわたしの抵抗で思いとどまったが、男が口にした脅し文句からすると、男の撤退は恒久的なものというよりも戦略的なものだと考えたほうがよさそうだった──《無関係なものか。ずっぽりはまりこんでるよ。おまえもだ》

7

 帰宅したわたしを迎えたのは、耳をつんざく疳高い悲鳴だった。
 ジェニーがわたしに駆け寄り、両腕でしがみついてきた。血に染まったジーンズがパニックの引金を引いた。つづいてベルトを代用した止血帯を目にし、わたしが足を引きずっていることに気づくと、ジェニーは限界を超えた。顔をわたしの腹に押しつけたまま、しゃくりあげて泣きはじめたのだ。全身が震えていた。わたしはそんなジェニーの体に両腕をまわした。ジェニーが泣き声をあげるたびに、胸を引き裂かれる思いだった。
「父さんなら心配ないよ」わたしが両腕を腰から引き離そうとすると、ジェニーは抱きついている腕にますます力をこめてきた。
 ジェニーは泣いて真っ赤になった目でわたしを見あげた。「父さんは死んじゃう?」
「まさか、死ぬもんか」
「痛くない?」
「ぜんぜん。痛そうに見えるだけだよ」
 わたしはジェニーをソファまで連れていき、横にならんで腰をおろした。ジェニーの頰が涙に濡れて光っていた。わたしは娘の手をとった。
「わたしのせいね、父さん」
「なんでそんなふうに考えるんだい?」
「わたしが父さんにあの男の人のことを話したから」
「あの人は〝知らない人〟だよ。そういう人のことは、父さんに話さなくちゃだめだ」
「でも──」
「よくききなさい。おまえがあの男をこの家から外に押しだしたんじゃない。おまえのせいで、あの男が父さんを襲ったのでもない。おまえはわるいことをひとつもしてないんだ」
「でも、もしも──」
 わたしはジェニーの手を握る手に力をこめた。「このことは前にも話したね。ときには、いやなことが起こることもある。でも、そういったことからは逃げ隠れできない──なかでも、怖い出来事からは逃げられない、ってね」
 涙をたたえているジェニーの目は、わたしの言葉をひとつもきき洩らすまいとしていた。わたしが口にしなかったのは、説明のつかないホームボーイの脅迫の言葉だった。
 わたしはいった。「いいことがあっても、わるいことがあっても、それでも世界はまわりつづける──いいね?」いったん言葉を切り、父と娘のあいだだけの決まり文句を理解したしるしに、ジェニーがうなずくのを待つ。「世界がわるいものをもたらすときもある──たとえばビリーが腕の骨を折るとか、ケルターさんが喘息になるとかね。でも、いいことだってあるだろう? 先週のリサのバースデイパーティーとか、父さんとふたりで行った水族館とか」
 ジェニーは気が進まないながらも同意していることを示したいのか、下唇を突きだした顔でうなずいた。「うん、いいこともあるし、わるいこともある──たとえば、母さんが死んじゃったこととか」
「そうだね。おまえのいうとおりだ。母さんは火事で死んでしまった──でも、いまでもおまえと父さんを見守ってくれてる。いいことがあったら、わたしたちはいっぱい楽しむ。わるいことに出会ったら、そこからなにかを学んで前へ進むんだ」
 ジェニーは下唇を噛んだ。「父さんにはどこへも行ってほしくない」
「これからしばらくは、ずっといるつもりだよ」わたしは娘の願いに隠されている不安をなだめるためにいった。「父さんを信じるんだ」
 ジェニーは顔をあげて、わたしと目をあわせた。「父さんはどうしていつも、おっかないことばっかりしてるの? ほら、お祖父さんのお仕事とか」
 わたしは深々と息を吸いこんだ。ブローディ・セキュリティ社は父からわたしへの置土産だった。依怙地なまでに父と疎遠になったことの責任の一端がわたしにあったというのがいちばん大きな理由だが、わたしは父がはじめたことを続行させる道をえらんだ。父の死後に、父がつくりあげたものへの敬愛の念を表したのだ。たいした金にはならなかったが、父ジェイクのはじめた事業を継いでいることが気にいっていた。しかし、この仕事が幼いジェニーの心に傷を残すのなら、考えなおすほかはない。そしてわたしはもうストライクをひとつとられている。九カ月前、若いやくざの男に殴打されて土産の傷をつくって帰宅したことがあった。それを見たジェニーは、残っている父親もうしなうのではないかという不安にとりつかれて、うろたえ騒いでしまった。
 わたしはいった。「もし本当にわるいことになったら、父さんはあの仕事をやめる。それでいいね?」
「ほんとに?」沈黙。それから──「足はちゃんと治る?」
「もちろん。おまえの父さんはタフガイだ。おまえこそもう大丈夫かい?」
「うん。父さんが大丈夫なら、わたしも大丈夫」
 ジェニーは涙の残る顔で微笑むと、またしても両腕でしがみついてきた。わたしもジェニーを抱き返し、小さな体のぬくもりをたっぷりと浴びながら、娘がわたしの人生のどれほど大きな部分を占めているのかにあらためて驚嘆していた。娘のためなら、どんなことでもしよう。娘をこの苛烈な世界から守り、赤の他人がずかずかとわたしたちの生活に土足で踏みこみ、すべてを変えてしまうこともあるという残酷な事実から守りたかった。しかし、足を引きずって歩くことや出血はおよそ否定できるものではない。世界はまわりつづけている。
「よし、じゃ学校へ行く支度だ」わたしはいった。「そろそろ時間だぞ」
「うん」
 ジェニーが着替えているあいだ、わたしたちは話をした。ジェニーは昂奮を抑えられない口ぶりで、近々おこなわれるタマルパイス山への学校の遠足のことを話していた。わたしは娘が新しいジーンズを穿き、蛍光色の花々の上を蛍光色の蝶々が飛んでいるイラストがついたお気に入りのTシャツを着るのを手伝ったのち、娘をせっついてサマースクールへ送りだした。昼間に公園でたくさん遊ぶことで、朝の出来事が心に残した傷が消えるといいのだが。
 しかし、すっかり立ち直って息もつがずにしゃべりつづけている娘の態度のすぐ下に、いまも不安がしつこく残っていることが見てとれた。母親が死んで以来、ジェニーは父親であるわたしの身をいつも案じている。きょうの出来事も、そんなジェニーの心配に裏づけとなる理由を与えただけだった。
 ジャパンタウンとレンナ警部補をひとまず脇へ押しのけたとしても、ひょっとしたらブローディ・セキュリティ社とその業務が、わたしとジェニーのあいだに楔を打ちこんでいるのではないか──かつて、会社が両親のあいだに楔を打ちこんだように。父ジェイクはぐんぐん成長するおのれの会社と結婚し、自宅でやるべき仕事をやらないことが珍しくなくなった。だからわたしは、どんな仕事をしようともジェニーや妻の美恵子をそんな目にあわせるなと自分にいいきかせてきた。しかし父の死後、わたしは父の名前を冠したセキュリティ会社をつづけたいという強い思いに駆られた。父にとって重要な存在だった会社のスタッフの面々は、わたしにもまた重要な存在だった。
 しかし、ジェニーにはかなわない。
 それもまた事態を紛糾させるだけだった。わたしはレンナに、じっくり考えると約束したし、いうまでもなく例の漢字の謎もしつこく謎のまま残っている──くわえて、この先どんなことになるのかという問題もあった。

〈続きは本書でお楽しみください〉

著者と訳者

著者:バリー・ランセット(Barry Lancet)
アメリカの小説家。講談社インターナショナルに勤務後、米国で本格的な執筆活動を始める。『ジャパンタウン』は〈私立探偵ジム・ブローディ〉シリーズ第1作。続刊に『Tokyo Kill』『Pacific Burn』『The Spy Across the Table』(いずれも邦訳未刊)がある。
Twitter:@barrylancet

訳者:白石朗(しらいし・ろう)
翻訳家。キング、グリシャム、デミル等、ミステリ、ハードボイルド系作家の翻訳を多数手がける。
Twitter:@R_SRIS

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