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【試し読み】千早茜 わるい食べもの 「猫と泣き飯」

※本連載は2018年12月に『わるい食べもの』として書籍化されました。

 アニメ『千と千尋の神隠し』におにぎりを食べながら泣く有名なシーンがあるが、あんがい泣きながらものを食べた経験のある人は多いようだ。失恋や失敗といった人生の挫折時、進学や就職で独り立ちした時など、苦さや寂しさを噛みしめながら、それでも生きていくために食べるという姿は切ない。

 けれど、私はというと、あまりそういう記憶がない。幼少期に生け簀のある店に連れていかれ、魚が目の前で調理されて、恐怖のあまり泣き叫んだことはある。父に「命を無駄にするな」と叱られ食べたら、非常に美味で「おいしいー」と言いながらまた泣いた。一度泣くと人は強くなる。その後、アフリカに行き、レンジャーが目の前でシマウマやインパラを撃ち殺しても、調理されれば平気で食べるようになった。

 嫌なことや挫折がない人生だったわけはない。しかし、泣くというのは出す行為で、食べるというのは入れる行為だ。両方を同時にするなんて器用だなと他人事のように思う。一番身近な人間である殿に「食べながら泣いたことある?」と訊くと、「えー、食べる時は食べるし、泣く時は泣くで、別でしょ。涙だからきれいな感じするだけで、排便しながらコーラ飲むみたいなもんじゃない」と言われた。眩暈がするくらい同じ思考回路であった。
 つまり「泣き食べ」というのは、食欲も涙腺も我慢できない状況ということだ。そんな切羽詰まった局面は人生にそうそうないだろう。記憶をさかのぼると、ひとつだけ思い当たることがあった。

 大学生の頃だった。サークルの後輩が子猫を拾った。しかし、彼は数日後に海外旅行の予定があり、しばらく預かってくれないかと頼まれた。
 後輩が慌ただしく置いていった子猫はぼさぼさの毛玉で、段ボール箱に敷いたタオルの上で手脚を投げだしていた。自分の表情が曇るのがわかった。まだ自分で毛づくろいができず、香箱を組むこともできない猫。抱きあげる。ぐにゃぐにゃしている。ぴゃーと鳴く。ぼんやりとしたクリーム色の子猫はあまりに小さく無防備で頼りなかった。

 世の猫好きを敵にまわしそうなので弁解するが、私は幼体の未熟さが怖い。それが小動物ならなおさらだ。漫画『動物のお医者さん』で傍若無人の変人、漆原教授が「小さいのはコワイよ。ちょっと血が出ただけで死んじゃうからな」と言うシーンがあるが、心から同感する。人間の赤子も同じく怖い。とにかく存在が不安で、可愛いなどと思う余裕がない。早く大きくなって自分の身は自分で守れるようになって欲しい。

 おまけに私には猫の飼育経験がなかった。シェパードやローデシアンリッジバックといった大型犬しか飼ったことがない。やつらは子犬の頃から骨格ががっしりしている。手の中の子猫のようにぐにゃぐにゃしていない。
 しばらく眺めてみたが、子猫は動きが鈍かった。腹が異様に膨らんでいて、細い四肢では腹の重みに耐えられないようで、立ちあがろうとしてはぷるぷる震えていた。おいおい大丈夫か、とますます不安になる。

 突然、子猫が下痢をした。小さな体からは想像もできないような量をぶちまけた。タオルを替え、お尻を拭いてやる。移動のストレスかなと思ったが、しばらくするとまた下痢をする。弱々しい声で訴えるように鳴いている。言葉を喋ることができない小さな生き物と対峙していると不安がどんどん大きくなり、近所の動物病院へと走った。

 診断は消化不良だった。後輩が成猫用の餌を与えていたせいで、消化できなかった食べものが溜まって腹がぱんぱんに膨れていたのだ。一度お腹が空っぽになるまで絶食させることを言い渡され、子猫を連れ帰った。
 薬と水だけ与えて下痢が治まるのを待った。最初、子猫は寝てばかりだったが、お腹がへこんでくると段ボール箱を出て、私のあとをついてまわるようになった。目をぎらぎらさせて、ひっきりなしに鳴く。言葉なんか通じなくても子猫が空腹なことはわかった。

 食べられない生き物の前で自分だけ食べるのがはばかられたので外で食事を済ませ、それ以外の時間はなるべく子猫のそばにいた。子猫は私の姿を認めると泣き続け、疲れると眠り、目覚めるとまた鳴いた。声が嗄れ、足がふらついても、諦めずに鳴いた。
 辛かった。ついつい言われた期限を守らずに餌を与えてしまいそうになる。こんなに小さな体で絶食に耐えられるのかという恐怖もあった。子猫が餓死する夢をみて夜中に何度も起きた。

 やっと下痢が止まり、ほぐしたササミと米を煮たものを子猫に与えた。ぐったりしていた子猫は飛び起きて、皿に頭を突っ込んだ。つんのめって顔を汚し、がっついて噎せながらも、子猫は一心に食べた。うにゃうにゃうにゃとなにやら声をあげていた。「落ち着け、落ち着け」と笑いながらも胸が苦しかった。満腹になった子猫が寝てしまうと、簡単に親子丼もどきを作ってどんぶりによそった。

 ひとくち食べて、飲み込みにくいと思った。優しいはずの卵の味が鼻につんとして、気がついたら涙がこぼれていた。吸い込む鼻水がしょっぱい。しゃくりあげながらも箸を動かし、子猫を起こさないよう音をたてずに白米をかき込んだ。自分の掌に載るほどの小さな命が助かったことの安堵。そして、あんなにも必死に生きようとしている生命を目の当たりにした衝撃で、うまく感情を抑えられなくなったのだろう。食べろ、と自分が自分に命令していた。無心で食べろ、と。人以外の生き物はそうやって食べて生きているのだ。涙など流さずに。

 元気になった子猫はやんちゃものになった。安心しつつも、距離を置いて接した。情が移るのを恐れたのだろう。
 旅から帰った後輩を叱りつけ、ちゃんと責任を持って飼える人を探させた。二年後、彼から転送されてきた写真にはぴんと背筋の伸びた猫が映っていた。強い目を美しいと思った。

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※本連載は2018年12月に『わるい食べもの』として書籍化されました。

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補、吉川英治文学新人賞候補となる。近著に『人形たちの白昼夢』『クローゼット』『正しい女たち』など、クリープハイプ・尾崎世界観との共著に『犬も食わない』がある。本書が初のエッセイ集。
Twitter @chihacenti

※この記事は、2018年7月11日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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