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#7 CHATTY CHATTY と『オッペンハイマー』 宇野常寛「ラーメンと瞑想」

※このエッセイは、小説的な内容を含みます。登場する人物と団体は、基本的に架空のもので実在のものとは関係ありません。ただし、取り上げているお店はどこもとても、とてもおいしいのでオススメです。
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design:Kawana  Jun


1.赤狩りとアカデミー賞

  少し前の話になるがTと映画『オッペンハイマー』を観に行ってきた。
 水曜日の朝の九時からの回のチケットを取り、新宿バルト9近くのカフェで待ち合わせた。
 時期的には話題を集めていたタイミングだったはずだけれど、さすがに平日の朝の回はいていた。
 上映時間は約三時間、やや寝不足だったけれど退屈せずに見通すことができた。

  今年度のアカデミー賞で作品賞を獲得した同作は、「原爆の父」と言われるオッペンハイマーの半生を描いた作品だ。大戦中のオッペンハイマーは原子爆弾開発計画である「マンハッタン計画」の中心人物であり、計画を成功に導いたことで大戦の「英雄」となった。しかし彼個人はそれが実際に大戦末期に使用され、広島、長崎で民間人の大量虐殺が発生したことに強く心を痛めていた。そのため戦後に反核運動にコミットしたことが知られているが、同時に彼はマッカーシズムによる「赤狩り」の対象となり不名誉な後半生を送ることになった。

  映画の監督はクリストファー・ノーラン――彼のキャリア的にも、作品の内容的にも、同作は露骨なほどにアカデミー賞を「獲りに行った」作品だったと思われる。そして実際に、そう考えても差し支えない内容ではあった。政治的な題材、リベラルなメッセージ性、「骨太」な物語と人物描写……しかし、僕が気になったのはまったく別のことだった。それはノーランがところどころ、オッペンハイマーに作家としての自己を重ね合わせているように思えたことだ。

  同作を観た人間の少なくない人々が、その構成に戸惑うだろう。それはオッペンハイマーが物理学者としての地位を確立し、マンハッタン計画に参加する過程を描くパートに、戦後にオッペンハイマーが「赤狩り」により地位を追われていく過程が、時系列を無視して断続的に挿入されているからだ。ここでノーランはオッペンハイマーが「赤狩り」の対象になったことを、彼の人生における不意の出来事として描写する。他者の気持ちを慮ることができず、そのために恋人の自殺や妻のアルコール中毒を間接的に引き起こしてしまうオッペンハイマーは、まったく無自覚に関係者の不興を買い、そしてそのために「赤狩り」の対象にリストアップされてしまう。そしてそのオッペンハイマーの無自覚さは、原子爆弾の開発とその大戦中の使用が同義であることを強く認識しないまま、彼のその開発を進めさせてしまう。その結果彼は戦後に広島と長崎で起きたことを知り、後悔することになる。

  ノーランはおそらく、ここで観客に問いかけている。オッペンハイマーは大戦の英雄から一転して、赤狩りで地位を失ったと考えられている。しかし、違う。彼は何か大きな欠落を抱えていた。その欠落が彼を「原爆の父」へ向かって邁進させ、そして同じ理由から彼は「赤狩り」の対象になったのだ、と。
 ノーランはここで、オッペンハイマーの人生を量子力学のメタファーを用いて描く。つまり、量子力学では時間は必ずしも連続しない。たとえば、電子が一瞬でエネルギーレベルを変えるときなどに瞬間的にジャンプすることがある。そしてこの映画においても。オッペンハイマーの人生がときに時間をジャンプして描かれる。そのために彼の経歴について詳しくない観客の多くが、これがいつの時代の出来事なのか、とくに序盤は混乱しながら観ることになったはずだ。
 これはどういうことか。おそらく、ここでノーランが提示したかったのは、ここで起きていることが、原因があり、そして結果が生まれるという因果関係の産物「ではない」ことだ。いや、正確にはそこには因果「も」存在する。映画の中でオッペンハイマーが赤狩りの対象になるのは、成り上がりの政治家ルイス・ストローズの不興を買ったから、とされる。しかし、人間の心理に無関心なオッペンハイマーはそのことを自覚できない。彼にとって、自身が国家のために推進した原子爆弾開発が大量虐殺を引き起こしたことも、自身の周囲に対する振る舞いが反感を育てたことも、全て「不意の出来事」なのだ。
 このアプローチを、どう解釈するべきか。僕はノーランがオッペンハイマーの人生と量子力学を重ね合わせることで、劇映画という制度を問い直しているように思えた。僕たちは、人生を劇映画に喩えがちだ。人生のハイライト、人生のラストシーンなどという比喩を「何気なく」用いてしまう。これは小説という形式が近代人の世界認識の方法そのものであったように、現代人のそれは劇映画という制度に表れていることを意味している。ノーランは、そこに介入する。そうすることで現代人が劇映画のように世界を見ることで忘却している、確率論的にしか起こり得ない世界――実際には出来事の因果が存在しても、人間にはそれを認識できない世界――のことを想起させている、それも劇映画を用いてアイロニカルに。それが僕が映画館を出たときに考えていたことだった。 

2.雨の新宿御苑

  その日、僕とTは瞑想のために、映画の感想を話しながら新宿御苑に向かった。僕はこの御苑が好きで、特にカブトムシやクワガタが発生する夏場は週に何度も足を運ぶ。だから二千円の年パスを持っている。一回の入園料が五百円なので、四回行けばもとが取れる。晴れていれば、平日の昼間は訪れる人も少なく瞑想にもってこいなのだが、この日は雨だった。なので、僕とTは新宿門から入って、少し南側に向かって歩くと見えてくる東屋、というか休憩所に向かった。

  天気が悪いせいか、その木造の和モダンな東屋には、僕たち以外にまったく人が居なかった。Tは腰を下ろして結跏趺坐になり、僕はその隣に静かに腰を下ろした。そしてスマートフォンで瞑想用のアプリケーションを立ち上げると、鐘の音が東屋に鳴り響いた。

獣の世界に物語はなく
神の世界に幻想はなく
獣と神の世界には、過去も未来も演劇性もなく

  瞑想中、僕の脳裏に蘇ってきたのはここに来るまでにTと交わした映画の感想と、それについての議論だった。その日、映画を観た直後に僕はもう一つ考えていたことがあった。それはノーランが自身をオッペンハイマーに重ね合わせているのではないかという推測と、その態度についての疑念のようなものだった。僕はそのことについてTに話した。しかし彼は苦笑しながら、僕を宥めた。
「映画作家であるノーランに、映画と重ねるなというのは酷ではないですか?」
「Tさんは、ウエルベックしかりノーランしかり、作家の物語ることについての自意識を表現したものに甘すぎます。それは作品を手っ取り早く重層的に見せかけることはできるかもしれません。しかし、その一方で安っぽい自己憐憫のぬるま湯の中で、表現を生み出す思考と感性を際限なく甘くします。百行アイロニカルな自意識についてレトリックを駆使しても、最後の一行のうすっぺらい自己憐憫が救済されることにはなりません」
「自意識と世界は分けられないからですよ。自意識もまた自然の一部である以上、それを除外しては現実は描けません。ノーランはオッペンハイマーの自意識を単純な物語から解放することで劇映画的なものに捉われない自意識の現実を描けたとも言えるのでは?」
「人類史にとってオッペンハイマーの関与した核兵器開発は決定的なターニングポイントだったと言っていいでしょう。しかしノーランの、映画史に対する介入が同じレベルのものだと僕には思えません。ゴダールにはその権利がある。しかしノーランのそれは自意識過剰です」
「作家は自己の人生から自由ではありませんし、その外部に立てると考える方が傲慢ですよ。全ての作品は自画像でしかないんです。ノーランはオッペンハイマーを自らの似姿として捉えようとした。そして自己自身も含めて量子的なものとして、偶然性が支配する世界を表現したんです」

  瞑想の終わりを告げるハープの音が鳴り、ゆっくり目を開けると、Tが痛そうに足を崩していた。
 スマートフォンを取り出して見ると、ちょうどいい時間だった。今から足を運べば、開店同時に入店できるだろう。
 僕たちは前もって調べていた店に向かって歩き始めた。目標は新宿のグルメバーガーの名店「CHATTY CHATTY」だ。この日に僕たちは、朝からバルト9で映画を観て、新宿御苑で瞑想し、そして「CHATTY CHATTY」でハンバーガーを食べようと計画していた。我ながら、最高の計画だった。あとは天気さえ良ければ言うことがなかったが、雨の新宿御苑も、それはそれで情緒があっていいものだと思った。十年ほど前に、新海誠のアニメ映画に雨の新宿御苑で男子高校生と女性教師が密会する、ほのかにエロチックなシチュエーションが描かれていたことを僕は思い出した。しかし、僕はとっくに男子高校生ではなくなっていて、眼の前にいるのは美しい女性教師ではなく、筋肉質の男性だった。
「エルビスバーガー、楽しみですね」
 そして彼は、目を輝かせて言った。 

3.ハンバーガーと量子力学

  エルビスバーガーとは、かのエルビス・プレスリーに由来するハンバーガーだ。プレスリーは存命中、肉や野菜を挟んだホットサンドにピーナッツバターとバナナを加えたものを好んでいた。このプレスリー風ホットサンドがハンバーガーに応用されたものが、エルビスバーガーだ。僕は数年前に、とあるウェブの記事をきっかけにこのバーガーの存在を知った。
 都内でこのエルビスバーガーを提供している店を探してみつけたのが、この新宿の「CHATTY CHATTY」だった。新宿と言っても新宿御苑の大木戸門のそばなので感覚的には新宿と四ツ谷の中間といったところだ。僕は十年ほど前に、グルメバーガーを食べ歩いていた時期があり、この頃にこの店を知り、最近はよくUber Eatsなどでも利用していた。しかし、この店のメニューにあのエルビスバーガーがあるとは知らなかった。僕は灯台下暗しとはこのことだと小躍りして、CHATTY CHATTYの店舗に久しぶりに足を運んだ。店舗ではUber Eatsでは頼めないメニューがたくさんあり、エルビスバーガー以外にも聞いたことのない、そして字面からしておいしそうなハンバーガーがたくさんあった。僕は目移りしながらも、初志貫徹だと自分に言い聞かせてエルビスバーガーを頼んだ。それから、僕は新宿のバルト9で映画を見た後は、この店でエルビスバーガーを食べるようになった。

  その日、僕たちがCHATTY CHATTYを訪れたのは開店直後で、僕たちがその日の最初の客だった。平日の、雨の日はさすがに空いているなと思ったのだけど、間もなく次から次へと客が訪れて席は埋まり、店の外には傘をさしたテイクアウト注文の行列が形成され始めた。あと、十分遅れたら入店できないタイミングだった。僕たちはたぶん、その日新宿に雨が降っていたおかげでこのハンバーガーにありつけたのだ。

  僕は一応メニューを確認して、やっぱりエルビスバーガーを注文した。Tはそれなりに迷っていたが、結局僕と同じものを頼んだ。
 そして運ばれてきたエルビスバーガーは圧倒的に過剰だった。肉厚のハンバーグパティに、負けないくらい厚切りのベーコン。その上にバナナがのって、ピーナッツバターがたっぷり。これだけで何キロカロリーあるか想像もつかない「怪物」がそこにはあった。そして僕はこの「怪物」を目にするたびにこう思うのだ。ここには、完全な自由がある、と。ハンバーガーの肉は、ハンバーグとベーコンの両方があっていいし、しょっぱいソースと甘いピーナッツバターが同居していてもいい。そしてそこにはバナナがはさまっていてもいいのだ。
「コース料理と異なり、ハンバーガーは主菜も副菜も同時に提供されます。ある意味量子力学的な食べ物です」
 あふれる肉汁とピーナッツバターに手をベタベタにしながら、Tは上機嫌に続けた。
「ピーナッツバターにバナナ……デザートすらもここには含まれていることになります」
 まさに、コース料理を嫌う我々のための食べ物ですね、と付け加えた。Tはつまり、従来の劇映画とはコース料理のようなものであり、この「量子力学」を中心的なモチーフとして用いた『オッペンハイマー』はハンバーガーのようなものだと言っているのだ。そしてコース料理の形式性を嫌い、自分なりの組み立てで料理を味わう僕のスタイルに近いのは、後者であるはずだ、と。しかし違うのだ。僕が『オッペンハイマー』に感じた違和感は、そういうことではないのだ…… 

4.あの日、長崎は晴れていた

  僕はエルビスバーガーを夢中で食べ終えると、ベタベタになった手をお手拭きで拭いながらTに話し始めた。
「僕は子どもの頃、二回ほど長崎に暮らしたことがあります。二回目の頃は小学生でした。毎年八月九日は夏休み中の登校日で、体育館に集められて全校集会が開かれました。そこで当時はまだたくさん存命だった被爆者を呼び、体験を話してもらいました。当時は嫌で嫌で仕方がありませんでした。しかし、僕は今ではいい経験だったと思います」
「その体験が、この映画の評価にどう影響するのですか?」
「あの日、長崎が爆撃されたのは晴れていたからです。正確には曇り空の日に一瞬だけ晴れ間がのぞいたときに雲の切れ目から爆撃されたと言われています。二発目の原子爆弾を積んだB29の爆撃目標は小倉でした。しかし、その日小倉は曇っていた。厳密には以前の空襲の残煙が空を覆っていた。そのため、爆撃目標から外され、第二目標だった長崎が爆撃されました。そして何万人もの人々が一瞬で焼き殺されました。僕は偶然性とは、このレベルのことを言うのだと思います。起きていることの規模が大きいとか、小さいとかそういうことではなく、書き換えようのない、取り返しのつかないことのレベルでしか偶然性というものを考えても意味がないと思うのです。晴れていた、ただそれだけで何万人もの人が死ぬ。この残酷さに比べたとき、いくらでも回復できる個人の名誉など、どうでもいいことではないですか?」
「言っていることはわかりますが、物語ることの自意識を無視してはそれこそ虚構になってしまうのでは?」
「少なくとも、それが偶然性の支配する世界を考える上で、適切な素材だとは思わないということです。ノーランの男性性への拘泥、ファミリー・ロマンスへの執着は彼の作品を、それを通してしか描けないものに到達させるのではなく、本来の問題を矮小化し、狭く空疎な籠の中に閉じ込める効果をもたらしています。『インターステラー』で主人公が宇宙の果てまでたどり着き、そこで超次元の知性と接触したとき、そこで回復されたものがせいぜい娘が一緒に入浴するのを拒否する程度のことに傷つく「父性」だったことに、僕はひどく落胆しました。誤解しないでください。こうした主題を選ぶことがダメだと言っているのではないのです。人類の未来や宇宙の神秘を、方便として用いた結果としてこれらのものが矮小化されていること、そしてこの手法が結局ノーランが描く父性や家族の追求も安易なものにしてしまっているのでは、と指摘しているのです」
「宇野さんはノーランに思い入れがあるんでしょうね。だからこそ落胆している」
「『ダークナイト』以降のノーランはジョーカーの次元を描けていない。それが僕の判断です。ファミリー・ロマンスと居場所のない男性性に囚われたトゥーフェイスと、それらから超越した純粋悪としてのジョーカー。そして、その両者の間に立つバットマンの三層構造で、かの映画は成立している。しかし以降のノーランは物語を描こうとすると、トゥーフェイスの次元にとどまることしかできていない。『ダークナイト ライジング』のベインの存在、『インセプション』のコブのトラウマ、『インターステラー』の物語そのもの……」
「しかし、近年のノーランはそういったものたちから距離を置いているのではないですか?」
「『ダンケルク』も『TENET』も物語ではなく形式に劇映画の存在意義を見出そうとした作品だと考えられます。どちらもアプローチは違いますが時間芸術としての劇映画の可能性を追求したものだととりあえず考えればよいでしょう」
「この『オッペンハイマー』も似ていますよね?」
「しかし『オッペンハイマー』からはファミリー・ロマンスが相対的に後退しています。代わりに作家としての自意識が侵入しています。この映画で描かれたのがオッペンハイマーの名誉という書き換え可能なものをめぐる物語であることと、この映画がノーランにとってオスカーを獲るための映画であったことは結果的にかもしれませんが、重なっています。その結果として彼が量子力学的な世界観を背景に劇映画という制度をアップデートするという試みが挫折していると僕は考えます。それが、先程述べた運命や偶然性というものを、彼が矮小化し、捉え損なっているという問題です」
「今でももっとも評価しているのは『ダークナイト』なんですね?」
「エルビスバーガーの偉大さは、その過剰さにあります。ハンバーグの上に追加されたベーコンは必要以上に厚く、バナナの上に塗りたくられたピーナッツバターは必要以上に甘い。バットマンに捕縛されたジョーカーはこう言います。『絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき、こういうことが起きるわけだ』と。ハンバーグの上に重ねられた厚切りベーコン、そしてバナナの上にたっぷりかけられたピーナッツバター、肉々しさと甘さ。ここには二つの過剰さが激突しています。まさに『絶対に止めることのできない力』と『絶対に動かないもの』の衝突です」
「ノーランにとって『ダークナイト』は、特にジョーカーはエルビスバーガーにおける厚切りベーコンとピーナッツバターのようなものだったのかもしれないと?」
「そしてノーランをこの過剰さに向かわせたものは、『バットマン』という固有名が長い時間をかけてコミックや映画の中で、複数の作者や二次創作的なアプローチも含めて複雑に発展させていった生態系のようなものです。豊かな自然のようなものが、彼の自意識の外部に存在した。そしてその自然との対峙が、ノーランに過剰さを要求した。僕はそう考えています」
「それは『ダークナイト』が究極的には他人の作品だったからだと?」
「今日、新宿に雨が降っていたようにあの日、長崎は晴れていた。僕はそのレベルにしか、自然とか、偶然性とか、そういったものは成立しないと思います。そして、それはトゥーフェイスの、つまり自意識のレベルでものを考えるのではなく、ジョーカーの、つまり自然のレベルでものを考えることを意味します。もしかしたらここに、ノーランという作家の限界があるのかもしれません」

  グラスに残っていた飲み物――コカ・コーラ ゼロ――を飲み干すと、僕はTを促して席を立った。
 店を出ると、いつの間にか通りに沿って行列ができていた。
「雨が降っていなければ、僕たちはエルビスバーガーを食べることはできなかったかもしれないですね」
 その日、新宿は雨だった。もし雨が降っていなければ、僕はこの映画をこう捉えなかったかもしれない。そう思いながら、僕は傘を開いて歩き始めた。

 (#8に続く)

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連載【ラーメンと瞑想】
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宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生まれ。批評誌〈PLANETS〉編集長。著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)、『水曜日は働かない』(ホーム社)、『砂漠と異人たち』(朝日新聞出版)、『ひとりあそびの教科書』(河出書房新社)、『チーム・オルタナティブの冒険』(ホーム社)など。立教大学社会学部兼任講師も務める。

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