しつこくつきまとうもの|千早茜「しつこく わるい食べもの」第30話【最終回】
※更新は終了しました。千早茜『しつこく わるい食べもの』2021年2月26日発売
夜の飲食店街が暗くなった気がする。私が住む京都でも、仕事で訪れる東京でも。きっとコロナのせいだと思いながらも、以前より外食が減り、三名以上での会食もしなくなった自分もこの暗さに加担しているのだとわかっている。ラストオーダーの時間も心なしか早くなった。まだ皿には料理が残っているのに、ついぎりぎりまで追加してしまう。満たしたいのは時間なのか胃なのかわからなくなる。この先どうなるんだろうね、あのお店なくなったら嫌だね、と話しながら、自分はどうしていきたいのかと自問する。好きな飲食店を助けたいと思いながらも、助けるための食は果たして純粋な食欲なのかと考える。こんな悩みが生まれることを、この連載をはじめる頃は想像もしていなかった。
変わらないものはない、ということを単行本『わるい食べもの』の中で書いた記憶がある。悔いたはずなのに、やっぱりわかったつもりになっていたのだと、コロナ禍の中で思い知らされた。もしかしたら一生、私はそのことを身体で理解できないのかもしれない。食べることは不変と思いたいけれど、いまはとても疑いがある。この先、食べずに生きる術を人類は見つけてしまうかもしれない。それをつまらないなと思う私の感情も、慣れや病気が奪っていかない保証はない。
食べることには正直でいたかった。自立した大人として生きているのだから、食べることくらい自由にしたかったし、その意志が肯定される世の中であれ、と思ってはじめた連載だった。行きたくもない飲み会や形式だけの会食で食べたくもないものを食べなくてもいいのだと書き連ねるつもりが、緊急事態宣言下になってみれば、それすらも恋しくなる。自分の中の自由の意味すら状況によって変わってしまうことに気づいた。
嗜好品への愛着は増した。先日、ずっと行ってみたかった雑貨屋に行った。感染防止のために予約制をとっている小さな店は、古い英国の茶器やアクセサリー、北欧のデザイナーのポーチやトレイやコースター、凝ったカードや色とりどりのノートブックといった美しいものでいっぱいだった。どれも店主がひとつひとつ選んで並べていることがわかり、豊かな気持ちになった。
私は茶用の盆を二つ買った。包んでもらっている間、店主とお喋りをした。「ままならないことも多いですが、毎日、お茶をしています」と彼女は言い、「私もです」と頷いた。マスクの下で微笑んでいるのが伝わってきた。
仕事の合間に数十分、好きな茶器で好きな茶を淹れ、甘いものを食べる。胃を満たす目的でないその時間が、自分が信じるものを肯定してくれる気がした。世の中が変わっていったとしても、好きな香りや好きな時間は変わらないことを確認したかったのだと思う。自粛期間中は儀式のように茶をしていた。いや、昔から、揺らぐと茶を淹れていた。自分のかたちを確かめるように。それで先の不安がなくなるわけではないけれど、自分が自分でいる時間を作ることが私にとっては大切だった。
ひとりの茶の時間、家族との食事、友人との食べ歩き、飲み会、様々な食の場にそれぞれ大切な自分はいて、生活習慣が変わると、そこにいた自分は失われたように感じてしまう。だから、喪失感がある。どんなに自炊が充実しても、外食で得られる喜びとは違う。人との食事が恋しくてオンライン飲み会をしても、現実と同じではなく、欠けているという感覚が残ってしまう。食べものにそんな寂しい味はつけたくなくて、オンライン飲み会はすべて退けたが、実のところ、変化に慣れてしまいたくなかったのだと思う。
今回の連載では、コロナに関わる回に書いた日の日付を入れている。リアルタイムで文字をつむぐことに恐れがあったのもあるが、いま思えば、どこかで変化を受け入れたくない気持ちがあった。外食や会食への制限が一時的なものであって欲しかった。いまもそう思っている。
本当は日付なんて入れずにつらつら食べものへの文句や称賛を書きたい。感染や飲食店の心配なんかしたくない。なにも考えずに欲望のままに美味を追いかけたい。この食い意地は、もう業みたいなものだと思っている。それでも、しつこく、しつこくつきまとう食に今年ほど救われている年はない。
illustration 北澤平祐
〈了〉
連載【しつこく わるい食べもの】
ご愛読ありがとうございました。
千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。
Twitter:@chihacenti