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「わるい」懊悩 千早茜「ときどき わるい食べもの」

[不定期連載 はじめから読む

illustration:北澤平祐


「わるい食べもの」の連載がはじまったのが二〇一七年十一月、もう六年も前のことだ。その間にコロナ禍があり、京都から東京への引っ越しもあった。「わるい食べもの」の単行本は三冊が刊行された。世の中も、私の環境も変わった。
 実はここ一年ばかり、気になっていることがある。「わるい食べもの」は正直であることが信条だ。なので、黙っていると隠しているようで落ち着かない。書いてしまいたい。

 私はもう暴食をしていない。
 東京に引っ越してから二年半、「暴食野郎」で書いたようなスナック菓子の無茶食いはしていない。それどころか、一日一枚と公言していた赤ガーナも多くて一日半分くらいしか食べなくなったし、パフェのはしごもあまりしなくなった。ケーキを一日に十個や十五個も食べることもなく、五個以内でおさまっている。

 我慢しているわけではない。我慢などしないのも「わるい食べもの」の信条だ。したいと思わないからしないだけである。しかし、北澤平祐さんが「わるい食べもの」のキャラクターとして描いてくれた「けものちゃん」は、私のSNSのアイコンとなり果物を貪り続けている。スナック菓子を手にした「けものちゃん」がぶっ倒れている「暴食野郎」のLINEスタンプが、友人や編集者から送られてくるたびに、嘘をついているような気分になる。

 今の自分は大人しい。相変わらず米と餅は好きで、これ!と思ったら食べ続けるという癖はそのままに四日連続で酢橘すだちご飯を食べたりしているが、まあ節度は守っていて暴食というほどでもない。「わるたべ」と略して愛読してくれている読者からしたら「そんなの『わるたべ』じゃない!」と言われかねない有様。でも、私は「わるい食べもの」を体現するために生きているのではないのだ。「わるい食べもの」に殉ずるために自分を曲げるなんて、それこそ「わるい食べもの」ではない。

 考えていると苦しくなった。矛盾に矛盾が絡んだ面倒なことをぐだぐだと吐きだすと、担当T嬢は屹然きつぜんとして言った。「整理しましょう。つまり、千早さんはもう悪い食べものを食べていないから『わるたべ』と称せないと言いたいのですね。しかし、そもそも『わるい』とは、食べものだけを指していましたっけ?」
 違う。「わるい食べもの」の目指すところは、偏見や雑音に負けず、身体に悪いとされるものでも、世の中から悪いと糾弾されても、自分が好きなものを好きに食べる「わるいやつ」でいることだ。だとすると、個人の食の自由が完全に認められる世の中になったら、私の食べ方は「わるい」ものではなくなる。それが「わるい食べもの」が終了、もしくは成仏するときだ。
「確かに、最近の千早さんは自由が侵害されることも、食で嫌な目に遭うことも減りました」

 それは、まあ、そうだ。「わるい食べもの」を書くことで、周りの人に警戒され、会食に誘われなくなったり、店を選ぶ際は細かに希望を訊かれたりするようになった。食の趣味の合う人としか食事に行かなくなった。東京という新しい土地で、食いしん坊の知人も増えた。東京は広く、たくさんの人がいる。他人の食に口を挟むような人たちからは距離をおくことができる。その結果、ストレスも減り、暴食に走ることがなくなったのかもしれない。
 T嬢は続けた。
「しかし、完全に自由というわけでもないでしょう」

 おっしゃる通り、成仏できるくらい平和かと問われればそうではない。飲食店で新婚だと知った料理人に「たくさん子供、産んでね!」と飯が不味くなるような軽口を叩かれることもあれば(なぜタメ口)、初対面の人に「なんでそんなに食べることが好きなのか理解できないですねー」と薄笑いされることもある。私の食生活にあなたの理解などひとかけらも必要ではないことをどう伝えたらいいか、指の関節をぼきぼき鳴らしたくなる。

 少し前、食いしん坊夫婦と行きつけの飲食店で同席した。妻のほうに私は仕事でお世話になっており、彼女のパートナーは顔見知り程度だった。その方は食通で有名で、あらゆるジャンルの飲食店を網羅している印象の人だった。自然に一緒に注文して食べる感じになり、メニューを見て私がどちらにするか悩んでいると「ここは両方いっておきましょう」と厳かに言い、旺盛に飲んで食べておられた。しかし、昔は極度の偏食で、食べられるものが少なかったらしい。後日、どうしてなんでも食べられるようになったんですかね、と妻のほうに問うと「まずいものにも味がある、と思ったら楽しくなったみたいです」と言っていた。

 おお、と思わず感嘆の声がもれた。好きとか嫌いとか言っているうちは辿り着けない食の境地があるのだな、と思った。「わるい食べもの」の成仏で終わりではなかった。外野の雑音をすべて消しても、いまのままの私ではどんなものも楽しんで食べることはできないだろう。食においての完全な自由は、「わるい」を越えた先にあるのかもしれない。そこではどんな景色がひろがっているのだろう。食の旅はまだまだ続きそうだ。

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【ときどき わるい食べもの】
次回2024年2月更新&定期連載になります!

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で09年に泉鏡花文学賞、13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞、22年『しろがねの葉』で直木賞を受賞。小説に『男ともだち』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『ひきなみ』など。エッセイ集に『わるい食べもの』『しつこく わるい食べもの』『胃が合うふたり』(共著・新井見枝香)がある。
Twitter: @chihacenti

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