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第18回 人生最初のメリークリスマス 佐藤友哉「妻を殺したくなった夜に」

北国の地方都市を舞台に、少女連続殺人事件をめぐる中学生男女の冒険を描く、佐藤友哉による青春ミステリー。
[毎月火曜日更新 はじめから読む

illustration Takahashi Koya


 母親が、じっと見ている。
 朝にゴミを出すとき、昼寝から起きたとき、夜のニュースを見ながら歯をみがくとき、いつもこのような目をしていた気もするが、そうでないような気もした。
 とはいえ、れいの曖昧な状態でもないらしく、母親はたしかに意思のある目をこちらに向けていた。なのにそこにあるのは違和感だった。見船みふねならよろこんで、「多重人格ですね。犯罪者によくあるパターンです」などと分析しそうだが、そんなふうにも感じられなかった。
 とりあえずさとるが思ったのは、どうせなら母親には、鬼女のようなわかりやすい形相になっていてほしかったということだけ。
 脱衣所のライトに照らされたまま、親子はもう長いこと向き合っている。
 悟はさきほど、「……母さんが、犯人だったんだね」と指摘してみせたが、反応はなかった。それは母親の心を動かす一言ではなかった。
 ならば……ことばをつづけるしかない。
「どうして殺した」
「あ?」
「どうしてとおるを殺した」
「あ? 透はまだ帰ってきてないでしょ」
 母親がおどろいた顔をしたことに、悟はおどろく。
 なにを言ってるんだ?
 だって透は、
 透はここに、
「透はここにいるじゃないか」
 悟は床下収納に隠されたビニール袋を、乱暴に引き裂いた。
 透の死体がはっきりと姿を現して、腐臭があたりに広がった。
 それなのに母親は、ビニール袋の中身を見下ろしながら、
「なによあんた、豚でも捨てたの?」
「……ここにいるのは透だ。母さんが殺した透じゃないか。忘れたとは言わせないぞ」
「豚なんて捨てちゃだめよ」
 母親が近づいてくる。
「こないで」
「お腹すいた? 焼きそばならあるけど」
「こないで」
「キャベツも食べなさいよ。あんたはいつも野菜を残すから……」
「こないで!」
「怒鳴ることないでしょ。キャベツは栄養がたっぷりなのよ」
「こないで!」
「焼きそば食べないの?」
 母親が近づいてくる。
 悟は逃げようとした。
 逃げ場はなかった。
 うしろにあるのは浴室だけ。
 母親が近づいてくる。
 そのとき、
「動かないで」
 母親の背後……キッチンの奥に、見船が立っていた。
 猟銃をかまえて。
 見船は銃口を母親に向けると、
「さっきはよくもやってくれましたね、浅葉あさばくんのお母さん……いえ、浅葉道子みちこ
「なにそれ」
「猟銃です」
「そんなオモチャをふり回して、馬鹿じゃないの」
「オモチャかどうか、ためしてみます?」
「み、見船さん」
「どいて浅葉くん。散弾だから、あなたにも当たってしまうかも」
「でも……」
「みんなの仇討ちです。これは私の悲願です。だからどいて」
「ちょっとあんた、そんなオモチャをブンブンやるのはやめなさい」
「ブンブンなんてやってませんが。あと、こっちにきたら撃ちますよ」
「焼きそば食べる?」
「忠告しました」
「焼きそば食べないの?」
 母親は腰を落として洗濯物をつかむと、乱暴にほうり投げた。
 洗濯物が宙を舞い、見船の視界を隠す。
 その隙をついて突撃する。
 母親は見船を床に突き倒すと、猟銃をうばった。
 そして倒れた見船に銃口を押し当て、ためらうことなく引き金に指をかけた。
 なにも起こらなかった。
 2度、3度と引き金に力をこめても、弾が発射されることはなかった。
 母親はつまらなそうに、「ほらオモチャだ」とつぶやいて、猟銃を逆手に持ち直すと、それで見船の頭をなぐりつけた。
 ガキンと、やけに金属的な音が響いた。 

 見船の額が割れた。
 鮮血が噴き出し、母親の服に赤い飛沫しぶきが飛び散る。
 母親は猟銃を捨てた。
 そして見船の髪をつかみ、重たい買い物袋でも引きずるように、その体をキッチンの隅まで移動させた。
 地獄にも似た光景を前にして、悟はなにもできなかった。
 毎日の食事を作り、制服にアイロンをかけ、風邪をひいたときには髪をなでてくれた母親の手が暴力をふるうところを見せつけられて、全身が凍りついていた。どうすることもできなかった。
 なのに母親は自由に動き回っていた。手を洗い、キッチンの戸棚から中華鍋を取り出し、そこに大量のサラダ油をそそいだ。それからガス台のスイッチをひねると、青白い炎が鍋底を熱しはじめた。なんのつもりだ。から揚げでも作るのだろうか。
「熱々の油を、あんたの顔面にぶっかけてあげるね」
 母親はぐったりして動かない見船に言った。
 から揚げのほうが100倍マシだった。
「母さんやめて。そんなことはやめて……」
 しかし母親は息子の願いを聞かず、ひたすら油を見つめている。
「聞いて……母さん、聞いてよ。くそ、なんで無視するんだよ!」
「悟、静かにしなさい。人が油の温度をチェックしてるときに、声をかけたらだめ」
「殺すつもり?」
「殺しちゃいけないの?」
「なんでそんな当たり前のことを聞くんだよ。殺すのはだめにきまってるだろ」
「おなじこと、透も言ってたわ」
「透?」
「透ね、帰ってきたのよ」
 帰ってきた?
 家を出たあとに、帰ってきた?
「ちょっとまって……。どうして透は帰ってきたんだ。だって透は、母さんが犯人ってことに気づいて、それで家を出たんだろ?」
「ねえ悟、母さん、いいこと思いついちゃった」
「答えろよ」
「こいつの顔をアジみたいに開いてさ、そこに油をぶっかけてみましょうよ。創作料理みたいになりそうでワクワクしない?」
 母親は悪魔のような宣言をして、包丁を中華鍋に入れた。
 鍋から煙が立った。
 意味がわからなかった。
 油に入れた包丁を、どうやって取り出すつもりなのか。それとも母親は、そんなことも考えられなくなっているのか。悟は頭をくらくらさせながら、それでもなんとか現実的なことばを口にした。
「母さん、警察に行こう」
「警察?」
 いっぽうの母親は、新種の虫の名前でも聞いたような反応だった。
「そうだよ、警察に行くんだ。それで母さんがやったことを、みんな話そう。話せばわかってくれるよ。もしわかってくれなくても、弁護士がついてくれるから、母さんに言いたいことがあるなら、裁判で証言すればいい。だから……」
「あんた、そんなこと言えるようになったんだね。大きくなったんだね」
「僕はもう中学生だ。母さんがいなくちゃ生きられない子供じゃない」
「中学生は子供でしょ」
「子供じゃない」
「じゃあ聞くけど、ゴミが出るのはだれのせいなわけ」
「ゴミ?」
「肉のパックとか、野菜のクズとか、そういうゴミはね、あんたたちにご飯を作ってるから出るものでしょう? なのに、あんたたちは料理もしないし、ゴミ捨てもしないくせに、文句ばかり言うじゃない」
「なんだよそれ」
「ゴミの話だけど?」
 通じない。
 中華鍋から立ち上る煙が、はげしさを増す。
 このままでは、見船は包丁で顔面を切り裂かれて、その傷口に油をぶちまけられてしまう。
 やめろ。
 やめろ。
 やめてくれ。
 悟は祈った。
 同時に、その祈りがとどかないことも理解していた。
 母親はやる気だ。
 それをとめる者はいない。
 自分以外は。
 今この瞬間、世界を変えられるのは、自分だけ。
 その事実に気づいたとき、悟の体は自動的に動いた。
「やめろって言ってるだろおお!」
 脱衣所からキッチンに駆け出すと、母親にぶつかった。
 母親の足がもつれる。
 悟は渾身の力で、その体を冷蔵庫まで押しこんだ。
 すると見船がのっそりと起き上がり、落ちていた猟銃を手に取った。
「くひっ」
 そして母親に猟銃を向け、
「くひひ……馬鹿ですね。馬鹿で愚かな人間ですね。引き金が動かなかったのは、安全装置が機能していたからですよ……」
「安全装置?」
「知らなかったんですか? やっぱり馬鹿ですね。本を読まない馬鹿は死ね」
 見船は引き金の近くを操作すると、猟銃を撃った。
 炸裂音が響く。
 冷蔵庫にいくつもの穴が空き、キッチンを照らすライトが割れた。
 しかし母親には命中しなかった。
 頭に負った怪我のせいで、照準の合わせ方が甘くなったのか。あるいは悟がじゃまで仕留めきれなかったのか。
「あらま」
 どちらにせよ、自分が無傷であることに気づいた母親はリビングに駆けこんだ。
 見船は猟銃を杖のようにつきながら、母親のあとを追う。
 悟はふたりのあとを追う。
 電力が復旧したリビングには、季節はずれのクリスマスツリーが輝いていて、テレビにはやはり、季節はずれの『グレムリン』が流れていた。
 テレビ画面には、主人公の母親とグレムリンが戦うシーンが映っていた。主人公の母親は、クリスマスツリーに隠れていたグレムリンを相手に包丁をふり回していた。
 いっぽう悟の母親は、弾の動線から逃れようといそがしく動き、クリスマスツリーの裏に回った。
 見船がふたたび撃つ。
 クリスマスツリーが音を立てて倒れた。
 だが弾はクリスマスツリーの土台を砕いただけで、今回も母親には当たらなかった。
 母親はグレムリンのように俊敏な動作で、テレビ台の裏に飛び移った。
 見船がぼたぼたと血を落としながらなおも近づくと、テレビに猟銃を向けた。
「見船さん!」
「まだ殺しません」
「まだ?」
「事件の犯人にはこれから、罪の告白という大切な見せ場が残っていますからね。さあ、浅葉道子……あなたの罪をすべて話してもらいましょう」 

  見船はあきらかに重傷だった。呼吸は荒く、頭からは大量の血が流れ、制服を赤く染めている。猟銃をしっかりとかまえ、テレビの裏にいる母親に狙いをつけているが、制服のスカートから伸びる脚はふらついていた。その様子はまるで、見船好みのホラー映画に出てくる登場人物のようだった。
「大丈夫?」
 悟は思わず聞いた。
「あなたこそ大丈夫ですか」
「僕は……なんともない。母さんが犯人だってこと、ちゃんと知ってたから」
「ほう」
「それよりいったい、なにがあったの? 見船さん、気分が悪くなって家に帰ったんじゃなかったの?」
「そうですよ。浅葉道子が犯人である可能性に気づいて、気分が悪くなったんです」
 見船はテレビから視線と銃口を離さず、
「浅葉くん、あなた今日学校で、浅葉道子が水沢みずさわ夫婦に会いに行ったと、舞草まいくさみのりに話したでしょう?」
「それが?」
「私、そんなの聞いてないんですけど」
「聞かれなかったから」
「これだもの」
 見船は乱れた息を吐き、
「それを聞いて、浅葉道子が犯人かもしれないと思い、一足先に帰ったんです。そして、寝室で眠っている浅葉道子に直接たずねたら、いきなり飛びかかられて、昏倒してしまいました。浅葉くんが帰ってきてくれなかったら、死んでたかもしれません」
 学校で見船の調子がおかしくなったのは、舞草みのりの家庭事情を聞いて、気を滅入らせたからだと思っていたが、そうではなかったらしい。
 それにしてもなぜ見船は、悟の証言から母親が犯人かもしれないという考えに至ったのだろう? ひょっとして最初から母親を疑っていて、それでこの家に入りこんだのか?
「浅葉くんはいつ、母親の犯行に気づいたんですか」
 だがそれを問う前に見船が聞いた。
「さっき、『上野原うえのはらメンタルクリニック』で、宮島みやじまって刑事と会ったんだ。それで刑事から、岸谷真梨子きしたにまりこ飯田幸代いいだゆきよのことを聞いて……」
「岸谷真梨子と飯田幸代? どうしてその名前が出てくるんですか」
「透はその子たちから、なんかその、言い寄られていたらしいんだよ」
「言い寄られていた?」
「気になるでしょ」
 テレビ台の裏から声が響く。
「そんなこと聞かされたら、どういうことだろうって気になるでしょ。あのね、学校の先生から電話があったのよ。トラブルってほどじゃないけど、クラスの女子といろいろあって、それで透がこまってるって……。それを聞いて私、気になったわ。死ぬほど気になったわ。だから本人たちに聞いてみたの」
 母親がそんなことを言ったので、見船がぎょっとしてたずねた。
「聞いてみたって、どこで」
「もちろん、この家で。あの子たちをつかまえるのを、お父さんに手伝ってもらったの」
「……浅葉圭介けいすけは、あなたに弱みでも握られていたんですか?」
「そういうのじゃないの。お父さんは私のお願いを、いつだって聞いてくれたわ。だからね、悟と透が学校に行ったあと、お父さんの車にすぐ乗って、あの子たちをつかまえに向かったの」
 母親はそう言って、
「あんた、『倉橋くらはし商店』って知ってる? あそこの裏手は路地になってて、少しくらい車をとめても目立たないのよ。そこでしばらくまってたら、あの子たちが歩いてきたから、車から飛び出して、『私、透の母親なんだけど、透が交通事故に遭って大変なの! 透が会いたがっているから、いっしょにきて』って言ったわけ。疑いもしなかったわ。だれにも見つかることなく、家に連れこむことができた」
「それで?」
「言ったはずだけど。本人たちに聞いてみたんだってば。なんかね、他愛のない話だったわ。席替えのときに、透の隣になりたくてほかの子とけんかしたとか、いっしょに帰りたくて、学校から透のあとをつけたとか……ね、他愛のない話でしょ」
「それで?」
「それで殺した」
「意味が……わかりません。いったいどこに、殺す理由があるんですか」
「殺す理由は私がきめる」
 そして悟は気づく。
 見船が母親の犯行を見抜いたのは、水沢夫婦のもとに母親が出向いたのを知ったことがきっかけらしい。それだけでどうやって真相に至ったのかは不明だが、見船のことだから、母親と水沢夫婦のあいだにつながりがあったという情報だけで、むりやり推理を進めたのだろう。
 いっぽうの悟は、岸谷真梨子と飯田幸代が透と接点を持っていたと聞いたことで真相に気づいたが、それは推理でもなんでもなかった。ほとんど直感だった。
 悟と見船は、犯人を見つけるまでのアプローチがちがう。
 それはつまり、ふたりの知っている真実が異なっているということ。
 見船は知らない。
 犯行の動機を知らない。
「見船さん、母さんは……」
 悟は言った。

 「母さんは、自分の家族に近づいてきた女を殺していったんだ。そうだよね、母さん?」

 「ええ」
 母親はテレビ台の裏でうなずいた。
「……ちょっとまって」
 見船はめずらしくほうけた声を出して、
「そんな、それだけのことで、ふたりの子供を殺したっていうの? ちょっと近づいてきたくらいで殺したの? なにそれ……狂ってる」
「狂ってないわ」
「席替えとか、いっしょに下校したいとか、そんなのが理由になるとでも? 馬鹿なの?」
「あの子たちから話を聞いたあと、風呂場で殺したわ。風呂場って、片づけが楽でいいわね」
「狂ってる」
 見船はふたたび言って、
「浅葉圭介は、あなたの凶行をとめなかったんですか」
「人の夫を呼び捨てにしないで」
「答えて。あなたが子供たちを殺してるあいだ、浅葉圭介はなにをしてたんですか」
「さあ、テレビでも見てたんじゃない? お父さん、殺しを手伝うつもりも、とめるつもりもないんだから、そりゃ、テレビ見るくらいしかやることないでしょ。音量を馬鹿みたいに大きくしてさ、どうせまた、『トップガン』とか見てたんでしょ」
「…………」
「ああでも、死体の処理はお父さんにまかせたわ。なるべく遠いところに捨ててって頼んだのに、苑腹おんばら峠なんて中途半端なところに捨てるからすぐ見つかったし、ウチの白いワゴンも見られたみたいで、本当にだめね……」
 現実感がうしなわれていくのがわかった。
 母親の告白が異様なものになることを、悟は覚悟していたつもりだったが、それでも実際に聞いていると、その内容は、とても許容できるものではなかった。
 だからだろうか、悟から現実がどんどん遠くなり、しまいには眠たくさえなった。今にもその場に倒れこんで、深い眠りにつきそうだった。 

 「でもね、こんなことになったのは、『倉橋商店』の娘のせいなのよ。みんな、あの女が悪いんだから」
 母親がつづける。
 見船もまた現実感をうしないかけていたが、流れ出る血を肩でぬぐうと、
「倉橋詩織しおりですね」
「あいつ、お父さんと文通仲間だったのよ」
 知っている。
 倉橋詩織に宛てて書かれた父親のハガキを、悟たちは倉橋詩織の部屋で見つけていた。
「なんだっけ、『ムービーデータ』だっけ。そんな雑誌にある文通コーナーで、知り合ったんだって。いい年した男が中学生と文通して、それがなんだっていうのよ」
 母親の文句はもっともだった。
 いったい父親は、倉橋詩織と文通をすることで、なにを得ようとしたのだろう。
 魔が差した?
 映画仲間でもほしかった?
 そのとき悟は、母親が通っていた『草壁くさかべジャズダンス教室』の「馬鹿息子」こと、草壁奏一郎そういちろうのことばを不意に思い出す。
 草壁奏一郎はこんなことを言った。
 ……あいつらは毎日毎日、欲求不満で苦しんでいる。若いときに手に入れられなかったものを欲望している。
 ……たとえば、おそろしく若い子とつき合っておけばよかったとか。
 足の踏み場もないほど、ビデオテープと本が占拠する部屋の中で、草壁奏一郎はたしかにそんな妄想を口にして、悟もまた納得したのだった。だがこれが真実なら、悟からすればそれだけの理由で、父親は倉橋詩織と文通していたことになるのだが。
「あとから全部聞いたんだけどさ、お父さんはあの女と、買春してたんだって」
 母親がもっとひどい真実を口にして、
「でもね、それはあの女のほうから持ちかけてきたことなの。お父さんは最初、ちっともそんなつもりじゃなかったんだって。だから、悪いのはあの女。お父さんは悪くない。だってあいつ、だましたんだもの」
「だましたというのは」
「あいつ、お父さんと関係を持ったあとで、脅迫したのよ。未成年を強姦したって警察に通報されたくなかったら、カネを払えって。あの女、いつもそうやってカネを稼いでいたみたい」
「倉橋詩織が、そんなことを?」
「あの女の友だちに、上野原って女がいるんだけど、そいつとグルになってカネを荒稼ぎしてたんだってさ。あいつから直接聞いたんだから、まちがいないわ」
 見船はことばをうしない、それは悟もいっしょだった。上野原が、あの天使のような上野原が、そんなことを? たしかに上野原も売春をしていたらしいが、だからってそんな。嘘だ。嘘だ。
 母親がつづける。
「お父さんは脅されて、それでしかたなく関係をつづけたんだって。あの女とやるたびにカネをせがまれて、とうとうお金がなくなって、集めてた古い時計を売っぱらって、それでも足りなかったから、私のヘソクリにまで手を出して、それで私が気づいたのよ」
「あなたはそのときに、浅葉圭介を追及して、すべてを知ったわけですね。ずいぶんと怒り狂ったんじゃないですか?」
「怒るより……恥ずかしくなっちゃった」
「恥ずかしい?」
「お父さんは私に恥をかかせたのよ」
 母親はそう言って、
「やられっぱなしってわけにはいかないから、私、お父さんを交えて、あの女と喫茶店で会ったのね。びっくりしちゃった。あいつは本当に、クソみたいなやつだった。私のことずっと馬鹿にしてきて、あんたみたいなオバサンなんてみっともないとか、変に若作りして気持ち悪いとか、男は若い女にしか興味がないとか、いろんなことを言ったの。ねえ、ひどいでしょう?」
「ひどいのは、人殺しのあなたです」
「あいつの味方をするわけ?」
 テレビ台の裏から、険悪な声が響く。
「人殺しの味方はできない。それだけです」
 見船は猟銃をかまえ直して、
「倉橋詩織の脅しなんて、そんなもの、ねのけたらよかったじゃないですか。夫婦で困難を乗り越えたらよかったじゃないですか。それもしないで殺しを選んだあなたに同情するつもりはありません」
「私はジャズダンスに通ってたのよ!」
「ジャズダンスが、そんなに重要なんですか」
「重要でしょうが! 私は恥をかかされたのよ……。若い女なら、恥ずかしくてどうにもならなくなったときには、ぎゃあぎゃあ泣けばいいけど、そういうわけにはいかないし、だいたい私は、毎日がんばって化粧して、体だって引き締めてるのに、その仕打ちがこれよ。中学生のガキにお父さんを取られたのよ!」
「倉橋詩織に嫉妬したの?」
「やめて。そんな下品なことばで納得しないで!」
 母親はなおも叫び、
「あいつはそれで、私たち夫婦をまとめて脅迫してきたわ……。これまでの倍のカネを払わなかったら、近所にも学校にもみんなバラしてやるって。もしそんなことになってみなさいよ。もう、ここでは暮らせないわ。世間になんて言われるか、わかったものじゃないわ」
「世間なんて、無視すればいいだけです。倉橋詩織がどんな脅しをしかけてこようが、それでまわりがなにを言おうが、無視すればいいだけです」
 そんなことを言えるのは、見船が世間を断絶していたからだ。
 これまでずっと、まわりの目を無視してきた見船は、世間の重圧というものがまるでわかっていない。
 しかし母親はそうではなかった。
 倉橋詩織から脅迫を受けて、さまざまなことを考えたはずだ。
 この家を捨てて新たな場所で生活すること。父親と別れてひとりで生きること。すべてをあきらめて倉橋詩織にカネを払いつづけること……。だがそれらは現実的ではなかった。都会ならいざ知らず、このような地方の町で、学校や職場を捨てて新たに生き直すというのは、あまりにも非現実だった。母親が今さらひとりで生きるのも、それとおなじくらい非現実。かといって倉橋詩織にカネを払いつづけるのもまた、この家の経済から見てもやはり非現実。
 非現実。
 非現実。
 非現実。
 いくつもの非現実を押しのけた先に、もっとも非現実なものが、現実味を帯びて浮かび上がってくる。
 それが……殺人。
「私とお父さんは、それでも最初はあの女に屈服して、カネを払ったわ。悟たちの学費を切り崩して、おばあちゃんから借金して、言われるままに払ったわ。そうしないと、私たち家族は、この町で生きていけなかったから……」
「だからって、それで殺すなんて馬鹿ですよ。大馬鹿者ですよ。2時間ドラマに出てくる退屈な犯人とおなじで、だからどうしたって話にしか聞こえませんが」
 見船はあくまで正しいことを言った。
「私だってべつに、あの女を最初から殺そうなんて思っちゃいなかったわ。殺したいほど憎かったけど、だからって本気でそんなことをするつもりはなかった……でもそんなときに、あの連絡があったの」
「連絡?」
「透の担任から連絡があったの。クラスの女子といろいろあって、透がこまってるって。その連絡を受けたとき……私、思っちゃったの」
「なにを思ったんですか」
「透も脅迫されてしまうって。私の暮らしがまた壊されるって」
「それは……飛躍のしすぎというものでしょう」
「思っちゃったんだもの」
 母親は鼻を鳴らして、
「殺す気はなかったの。私はただ、あの子たちが、どんな目的で透に近づこうとしているのかを知りたかっただけで……」
「拉致したくせに、よくそんなことが言える」
「本当なの! 私はこわかったの! だって、またカネをせびられたら、破産しちゃうから」
「小学生はそんなことしませんよ」
「私は中学生に脅されてたのよ!」
「実際、どうだったんですか。岸谷真梨子と飯田幸代は、あなたを脅しましたか?」
「しなかった。けど」
「けど?」
「けど殺した……。あの子たち、わんわん泣き叫ぶんだもの。そりゃね、いきなり風呂場に押しこめられて、おどろいたとは思うけど、だからって、ご近所にも聞こえるような声で泣かれるのはこまるのよ。それで私、しかたなく……」
「浅葉道子、ちがいますよね」
「あ?」
「あなたはそのとき、殺しのチャンスを前にしていた。あの子たちが家にいることをだれも知らない。浅葉圭介は自分の味方。そして相手は弱い子供……。しかたなく殺した? ふざけないで。あなたは殺しのチャンスにすすんで乗ったんです」
 見船はよどみない口調で、
「おそらく、あの子たちを『倉橋商店』の裏で待ち伏せしていたことがトリガーになったのでしょう。あなたはそこで、倉橋詩織に向けていた殺意をふくらませて、なんの抵抗もできない小学生にぶつけたんです」
「ちがう」
「殺してみてどうでした? スッキリしました? 万能感に打ち震えました?」
「ちがう」
 母親はくり返して、
「ちがうのよ。そうじゃないの。だって、あの子たち……私のことを、オバサンって呼ぶんだもの。悪気があったわけじゃないんでしょうけども、オバサンって呼ぶのは、あの女といっしょだわ」
「…………」
「オバサンオバサンって聞いてるうちに苦しくなってきて、それで……ね? ちがうでしょ」 

 「……岸谷真梨子と飯田幸代を殺したあなたは、その2日後、倉橋詩織を殺しました。それも、浅葉圭介に手伝ってもらったんですか?」
 見船はなにかを決定的にあきらめたような口調でたずねた。
「ううん、あの女は、私ひとりでやった。みんなが出払ったあと、栄北えいほく駅で待ち伏せしたのよ」
「栄北駅? 倉橋詩織は『倉橋商店』に住んでいたのだから、裏の路地で待ち伏せすればよかったのに」
「車があったらそうしてたけど、私、免許持ってないのよ。だから駅で待ち伏せしたわけ。ほら、あのへんに、だれにも見つからず殺せるところがあるでしょ」
「鶏荷川……」
 倉橋詩織の死体が見つかった場所だ。
「そのころはマスコミもいなくて、鶏荷川のあたりは静かなものだったわ。で、駅にやってきたあの女を見つけて、声をかけた。『おカネのことで話がある』って言ったら、だまってついてきたわ。それで鶏荷川の高架下に連れて行って、殺した。包丁で一突きしてね」
「最初から殺すつもりだったんですね」
 見船はほんの一瞬だけ、悲しそうな目をして、
「で、死体をバラバラにしたんですか?」
「ううん、殺したあとで、あの女のコートを脱がせて、それを持って帰ったわ」
「バラバラにはしなかったんですか? 報道ではたしか、倉橋詩織の死体はバラバラになっていたと……」
「知らないわよそんなの」
 母親は興味なさそうに答えて、
「でね、悟たちが寝たあとで、あの女のコートをお父さんに見せたわけ。それでもう、すべてはっきりすると思ったから。なのに、お父さんったら、そんなコートなんて見たことないって言うの。逃げたのよ。私がこんなにがんばったのに、お父さんはあいつの死から逃げたのよ」
 そうだろうか。
 父親は本当に、あのコートに見覚えがなかったのでは?
 なぜならあれは、上野原のコートだ。
『倉橋商店』に入ったとき、たまたまやってきた上野原から、倉橋詩織にコートを貸したという話を悟たちは聞いていた。
 これは想像の域を出ないが、売春相手と会うときに、友人のコートを着るのは抵抗があったのかもしれない。
 母親はつづける。
「だから次の日、はっきりした証拠を見せるために、死体の一部を持ち帰ろうと思って、また川に行ったのね。死体はそのままだったから、首を切ろうとしたんだけど、うまくいかないのよ。映画だと、首なんてスパスパ切れちゃうのに」
「現実と空想の区別はつけましょう」
「それであきらめて、髪とか、指とか、あと耳? そういうのを切ってたんだけど、疲れてきて、あと、頭がだんだん変になってきて、なにやってんだろうって気分になって……。ほら、どうせ死体が見つかれば、みんな明らかになるわけでしょ? だったら、無理に死体を持ち帰らなくてもいいかなって考え直して、帰っちゃった。それだけ」
「では、バラバラというのは……」
「指とかは切ったから、それがバラバラなんじゃないの?」
「死体の一部が見つかっていないという報道もありましたが」
「私じゃないわ。犬が食べたんでしょ」
 たしかにバラバラという情報は、警察の公式発表ではなく、マスコミが流した話にすぎない。死体の一部が切り取られていたという話が大げさに広がり、バラバラ死体が見つかったということになったのだろう。 

「その翌月、あなたは大島雫おおしましずくを殺しました」
 引き金に添えられた指に、ぐっと力が入った。
 見船は殺意と闘っている。
 自分はどうするべきだろうかと悟は考えようとしたが、思考はゆるいゼリーのように固まらない。眠気も消えない。
 事件の関係者だというのに、母親がその犯人だというのに、あいかわらず現実感から遠く離れたところにいた。
「浅葉道子、あなたの悩みは、倉橋詩織を殺した段階で解消していたはず。それなのに、どうして新たな殺人に手を染めたんですか。大島雫はなんの関係もないのに」
「あんた、あいつの知り合い?」
「友人でした」
「だったら知ってるでしょ。あいつ、『ビッグ・アイランド』のところの娘よ」
「…………」
「お父さんはね、『ビッグ・アイランド』に通ってたの。あの女に脅されて、おカネもないくせに、そんなところに通ってたのよ。しかも、ずっと前から! お父さんは私に恥をかかせる!」
 おどろくべき情報が出てきたというのに、悟の反応は薄かった。むしろ、ああそうだったのかと、かえってほっとした。
 父親はやはり、『ビッグ・アイランド』に関係していた。
 わかっていた。
 そんなのはわかっていた。
 だから今ここで、母親からその話を聞かされても、なんとも思わなかった。
 思わなかったが。
「……父さんのこと、母さんはそんなに好きだったの?」
 それでも、聞かずにはいられなかった。
 すると母親は、テレビの裏から暗い声で、
「悟、あんた、母さんの話を聞いてなかったの? 好きとかきらいとか、だれもそんなこと言ってないでしょ」
「でも、好きとかきらいとか、そういう気持ちもないのに殺すなんて変だよ。だって父さんは、べつにそのひとには脅されてたわけじゃないし……」
「そういうのじゃないの」
「じゃあなんだって……」
「あんたたちのためよ」
「僕たち?」

 「家族のためよ」

  そうなのか?
 本当にそうなのか?
 だったら自分は、家族なんて永遠に持ちたくない。
 そんな、殺すしかなくなるような契約など結びたくない。
 自分のまわりにうじゃうじゃ生活して、一見平和そうに見えるたくさんの「家族」も、ならば、好ききらいを超えた殺意をひそかにはらんでいるのだろうか?
 たしかにテレビや新聞に出てくる殺人は、家族間によるものが多かった。ではそれらは、家族という契約がつねに破られつづけている証拠なのだろうか?
「浅葉くん、だめ」
 見船がこちらを横目で見た。
「耳を貸してはだめ。あなたの人生を暗くさせる呪いのことばを聞いてはだめ」
 そう言ってテレビに銃口を近づけると、
「話をつづけましょう。大島雫には、どうやって接触したんですか?」
「お父さんに手伝ってもらった」
「浅葉圭介のことが、どんどん嫌いになってきましたよ」
「お父さんに連絡をつけてもらって、あいつと『ビッグ・アイランド』の前……小尻湖こじりこで会うことになったの。本当はもっと安全な場所がよかったんだけど、向こうが聞かないってお父さんが……。ウチのお父さん、相手に強く出られたらなんにも言えなくなっちゃうのよね」
「それで浅葉圭介は今回も、あなたのために車を走らせたと」
「おかしい?」
「べつにそうでも。殺人によって絆をつなぐ夫婦というのは、古くからころがってます。共謀して妻の愛人を殺したマニング夫妻とか、カネほしさに女を殺し回ったフェルナンデス夫妻とか……」
「そんなこと、なんで知ってるのよ」
「本を読んだからです」
「まともな本を読みなさい」
 母親はじつに母親らしい観点から注意して、
「まあそれで、みんなが寝静まった夜中に、小尻湖まで車で向かって、あいつと会ったわ。『ビッグ・アイランド』はすぐそばにあるし、まずいかなとは思ったけど、次の機会もなさそうだったし、殺した」
 母親はかんたんに白状した。
 どういう心理の流れがあったのかはわからないが、すでにこのとき、殺人のハードルは相当に低くなっていたのだろう。いくつもの殺人をくり返すうちに、母親は向こう側に行ってしまったのだ。見船が悲しそうな目をした理由を悟は知った。
「首を切断した理由は?」
 そうだった。
 大島雫は首を切られて殺された。
 胴体は『ビッグ・アイランド』に、そして生首は鶏荷川にあり、そのせいで悟は生首の発見者となった。
 母親はどんな理由で、大島雫の首を切り落とし、そしてなぜ、生首が鶏荷川に捨てられていたのか?
「それなんだけどね、お父さんが、帰っちゃったのよ」
「帰った?」
「そうよお」
 母親は急にいじけた声を出して、
「車を出してくれたのはいいんだけどさ、小尻湖の駐車場に到着したとたん、帰りたいって言い出したの。私はもちろん、だめって言ったけど、でも、帰っちゃったの。私を置いて帰っちゃったの」
「…………」
「ね、そんな反応になるでしょ。本当にひどいでしょ。それで、ひとりで帰ったお父さんにイライラしたのと、前のときにお父さんがシラを切ったから、こんどは生首を見せてやろうって考えたわけ……あ、今回はうまくいったわ。前の殺しで、首を切るむずかしさは学んでいたし、そのために新しい包丁も買ったから。で、やっと首を切り落としたあと、コートでくるんだの」
「コート?」
「あの女が着てたコートよ。あれ、まだ家にあったから」
 上野原が貸したコートで、大島雫の生首をくるんだ?
「コートって、血を吸ってくれるから便利だったな。それを持って、歩いて帰ったわ」
「『ビッグ・アイランド』のある小尻湖からここまで、かなりの距離がありますが」
「車がないんだもの。自分の足を使うしかないでしょう。寒くて死ぬかと思った」
 悟は想像する。
 寒空の下、生首をくるんだコートを抱えて家路を急ぐ母親の姿を。そしてそんな母親が翌朝、当たり前のように自分たちを起こして、朝食を用意してくれる様子を……。
 朝食?
「か、母さん、そのとき使った新しい包丁って、どうしたの?」
「家にあるわよ。ちゃんと使ってるよ」
「うっ」
「包丁って、それがどこで売ってるのか、警察はわかるんだって。だから凶器は捨てちゃだめなんだって。テレビドラマでやってたわ。母さんだって、それくらい知ってるんだから」
「ううっ」
「ごめんね悟、しょうがなかったの」
「うえええええ」
 胃の中身が逆流した。
 悟は吐いた。吐けるだけ吐いた。そんなことをしても意味がないことを、少女たちを殺した包丁で切り刻んだ食材は、すでに自分の血肉になっていることを頭では理解していても、それでも吐きつづけた。眠気が消え、胃液しか出なくなっても吐きつづけた。
 見船はそんな悟を無視して、
「それで、大島雫の生首を浅葉圭介に見せたんですか?」
「夜通し歩いて、朝がくるまでには家に帰ってたから、お父さんをすぐに起こして、コートごと渡してやったわ」
「浅葉圭介はなんと?」
「なんにも言わないのよ。なんにも言わないで、そのまま自分の書斎に、コートごと生首を持ってっちゃった。お父さん、ああいうとき、なにも言わないの。ずるいでしょ」
 母親は不満そうに鼻を鳴らし、
「それから何日たっても、お父さん、あのことを話題にもしないから、さすがにしびれを切らして、私のほうから聞いてみたのね。そうしたら、生首は鶏荷川に捨てて、コートは書斎の机に隠してるって言ったの」
「なるほど」
「でもお父さん、どうしてコートは捨てなかったんだろう」
「大量の血が染みこんだコートにさわったことで、あなたや浅葉圭介の指紋がベタベタついたのでしょう。それで迂闊うかつに捨てられなくなったのだと思います」
「ああ、そういうこと。あんたって頭が回るのね」
 母親は感心したように言った。
 いっぽうの悟は、自分の吐物を見るともなく見ながら、崩壊の予兆を味わっていた。
 壊れそうだった。
 自分を現実につなぎとめてくれる美しいものはないかと、頭の中を必死でまさぐる。
 そうして出てきたのは、血のついたコートだった。
 あれは、上野原のものだった。
 燃やさなければよかった。上野原と自分をむすぶものは、もうあれしかなかったのに。
「ある日、そのコートが消えたって、お父さんが言い出したの」
 母親の声がする。
「お父さんったら顔を真っ青にして、机に隠したコートがない、いつのまにか消えてるって、大騒ぎだったわ。だからね、心配することないって言ってあげたの。この家には私たち4人しかいないんだから、どう考えてもやったのは、悟か透のどっちか、あるいは両方でしょう? でも子供たちはコートのことを聞いてこなかった。コートを処分できればそれでよかった。じゃあ、私たちもだまっていればいい」
「おかしな家族。言えばよかったのに」
「案外、鈍いのね。それができないのが家族よ。とにかく私は、お父さんをがんばって説得したわ。大丈夫だからって。子供たちは見て見ぬふりをしてくれてるって」
「それで?」
「家に火をつけた。コートがどうなったのかわからないなら、この家にコートを隠してた痕跡を消さなきゃいけないからね」
 家を燃やしたのは、母親だった?
 家を守るために人を殺し、家を守るために家を燃やした?
 いったい、守るとはなんだろう。
「火災保険が下りてくれて助かったわ。おかげで家も直って、お父さんの仏壇を置けるようになったしね」 

  テレビに映る『グレムリン』は、物語の後半に入っていた。いたずら好きのグレムリンたちはバーに乱入して、人間の悪徳を再現するように、思いつくかぎりのめちゃくちゃをくり広げていた。
 そして悟の世界もまた、物語の後半に入ろうとしていた。
 次は、上野原殺しだ。
「悟の宿泊学習があった夜は、ヨーグルトに風邪薬を混ぜて、透を眠らせたの。あの子、薬にすぐ反応しちゃうのよ。それで透が寝たあとで、お父さんに車を出してもらって、大尻湖おおじりこに向かったわ。宿泊学習のしおりはチェックしてたから、いつなにをやるのかは知ってたし、だから暗がりに隠れて、私とお父さんとで、あんたたちが点呼されるのを聞いていたわけ。上野原って女が呼ばれるのを、じっと待ってたわ」
 あのとき母親は、自分たちの近くにいたのか。
 あの日の情景が浮かぶ。
 宿泊学習の夜。
 きもだめし大会がはじまり、クラスメイトが呼び出される。
 舞草みのりと水沢めぐみのペア。上野原と名越由香なごしゆかのペア。そして、悟と西沢健介にしざわけんすけのペア。
 彼らは森に入り、ライトを照らしながら歩きはじめた。
 そして、
「熊が出たの」
 母親がそう言って、
「あの女たちのあとをつけて、殺すチャンスをうかがってたんだけど、そしたらどこかから悲鳴が聞こえて、しばらくしたら、熊が出たのよ。そのせいであいつらバラバラに逃げて、どっちかわからなくなって……。それでとりあえず、当てずっぽうにひとりを選んで追いかけて、それで殺したの」
 だがそれは名越由香だった。
 悟は暗がりに隠れながら、その様子をひそかに見ていた。
 ヘッドライトをつけた黒尽くめの殺人鬼が、そのときは名越由香とは気づかなかったが、女子生徒を殺しているところを見た。
「殺したあとで、こいつじゃなかったことに気づいて、早くさがさなくちゃって思ったところで、悟、あんたを見つけたわけ」
「僕を……」
「あんたと、あの女がいっしょにいるのを見つけたわけ」
 そうだった。
 凶行を目の当たりにした悟は、放心状態の上野原と出会った。
「それであんたが、あの女の手を引いて逃げるのを見て、母さん、かっとなっちゃった。うん、あのときは本当に、腸が煮えくり返るような気持ちだったわ。もう本当に、どれだけあんたに声をかけたかったか……。悟やめなさい、こいつはウチの家庭を壊す悪魔なのよって、あんたも騙されているのよって、どれだけ言ってやりたかったか……なんだかずいぶん、怒りまかせに叫んだ気がするわ」
 叫んでいた。
 黒尽くめの殺人鬼……母親が、こちらを見ながら叫んでいた。熊よりもおそろしい声で叫んでいた。
「叫んで、追いかけて、追いついて、それであの女をぶっ殺した。首も切ってやった。やっと、スッキリしたわ。これでもう人を殺さなくてよくなったし、母さんを苦しませるやつもみんないなくなったから、本当にスッキリしたわ」
 息子の目の前で、初恋の相手を惨殺したことを、ほとんど誇らしげに語る母親のことばが、悟の崩壊を加速させる。
 力が抜け、膝をついた。自分の吐物で汚れたが、不快に思う気力もなかった。
 狂ってる。
 悟はそれだけを思った。
「狂っていると言ったのは、撤回します」
 にもかかわらず、見船はそんなことを言った。
 なんでだよ。
 狂ってるって言え。
 狂ってるって言えよ。
「浅葉道子、たしかにあなたの犯罪なんて、聞けば聞くほど、特殊なものじゃありませんでした。世の中には、10ドルほしさに人を殺すカスとか、好きな相手に声をかけられなくてその相手を殺すゴミとかもいます。そんな連中にくらべれば、よっぽど理解可能な甘い殺人でしたよ」
 見船はつづけて、
「私は優しくないので、あなたの凶行を、『まともな理由のない殺人』とは思ってあげないし、あなたのことを、頭の狂った人間とも思ってあげません」
「さっきは狂ってるって言ったくせに」
「撤回したじゃないですか。最初は面食らったので、そう言ったんです。たしかに、どこの家庭でもありそうな普遍的な動機が、ここまでの大犯罪になるというのは特殊かもしれないけど、それでもよくいる犯罪者と変わらない。あなたは身勝手な人殺し、典型的なロマンチストです」
「は?」
「ロマンチストは、古代では危険思想を持つ人間と見なされていました。そりゃそうですよね、世の中に愛想を尽かして、神の冒涜ぼうとくに手を染めるわけですから」
「なんの話?」
「私はこれまで、人殺しについて書かれた本をたくさん読んできました。切り裂きジャック。ヘンリー・リー・ルーカス。ジョン・ゲイシー。アルバート・フィッシュ……」
「だからなんの話」
「殺人という行為は、私をはげしくとらえました。殺人衝動に魅入られた人間が、殺人衝動をがまんしなかった人間の姿が、私にはキラキラしたものに見えたんです。アイドルやディズニー映画に出てくるお姫さまなんかとはちがう、本当の輝きに見えたんです」
 見船はテレビに銃口を向けながらそう言って、
「でもこうして実際の殺人者を前にして、さらには事件の被害者になって、私は今、あなたを軽蔑すべき存在として見ています。目が覚めた……とは言わないけど、自分の世界観を押しつけるロマンチストを、ちゃんと軽蔑できるようになりました。あなたたちロマンチストはどの時代でも、自分の理想にやられて日常を生き抜くことができず、そうして犯罪に手を染める。そうやって他人の理想と人生を壊す。それは、これからの人生を生きる私たちを苦しめて……」
「そんなことはいい」
「浅葉くん?」
「そんなことはいい。どうでもいい。どうでもいいんだよ見船さん」
「浅葉くん、あなた、どうしたの?」
「どうでもいいって言ってるんだよ」
「怒ってるの?」
 そうか。
 おれは怒っているのか。
 悟は新鮮な感情の中で言った。
「上野原さんやほかの人たちが殺されたのは、たしかにめちゃくちゃな理由だけど、でも母さんが殺したくて殺したんだろ? だったら、それはもういいよ。だって、どうしようもないことだったから。でも、透はちがう。透は死ななくてもよかった」
 悟はそう言って、テレビの裏に隠れた母親に向き直り、
「母さん、透を殺す必要はあった?」
「…………」
「宿泊学習の夜、透の食事に風邪薬を混ぜて眠らせたって言ってたけど、きっと透はとちゅうで起きたんだと思う。そして家にだれもいないことに気づいて、その次の日に大尻湖で殺しがあったことを知って、すべてを知ったんだ。ねえ、透が戻ってきたとき、そんな話をしたんじゃないの?」
「…………」
「透が家に戻ってきたとき、どんな話をしたの?」
「…………」
「透に自首をすすめられたわけじゃないよね。そうだよ、きっと透なら、そんなこと言わないと思うんだ。僕だって、母さんが犯人だと聞かされたらびっくりはするけど、自首しろなんて言わなかったと思う。ねえ、それなのに、母さんはどうして透を殺したの?」
「それは……」
 母親ははじめてことばをにごした。
 これまでずっと、異様としか思えない殺しをぺらぺらしゃべっていた母親が、はじめて言い淀んだ。
 悟は追撃するように宣言した。
「水沢夫婦を殺したのと、おなじ理由なんだろ」
 反応はなかった。
 それは肯定を示していた。
 悟と見船が以前から考えていたように、水沢夫婦は殺しのパターンがちがった。
 ターゲットが少女から、中年夫婦に移った。
 なぜか。
 殺す理由がちがうからだ。
 これまでの殺人は、母親の証言からも明らかなように、「殺したいから殺した」という、ある種のいさぎよさがあった。多少の工作はあったが、犯行が見つかってもかまわないし、それよりも殺したいという、まっすぐな殺意があった。
 しかし水沢夫婦を殺した理由はちがう。
「水沢夫婦はもしかして、母さんが犯人だってことを知ってたんじゃないの?」
 反応はなかった。
 それは後悔を示していた。
 ……やっぱり。
 動機は保身だ。
 自分の罪を隠したいという理由で、水沢夫婦を殺した。
 母親はそれとおなじ理由で、透まで手にかけた。
 実の子である透を殺したのは、保身という、じつに一般的な動機だった。
 悟にはそれがゆるせなかった。わけのわからない、理解不可能な動機ではなく、そこらへんに転がっている一般的な動機で、あんなにも頭のよかった透を殺したことが、自分の息子を保身のために殺したことが、どうしてもゆるせなかった。
 それが怒りの根源だった。
「母さんは自分の身を守ろうとして、透を殺したんだ。透はきっと、母さんを警察に売ったりしなかったはずなのに、母さんだってそれをわかってたのに、透を殺したんだ。よくも殺したな」
「…………」
「なんか言ってよ」
「…………」
「母さん」
「…………」
 母親はだまっている。
 だから悟は爆発した。
「透を殺しておいて、なにも言わないなんて卑怯だぞ。なんで……なんで殺した! 家族のために家族を殺すのかよ! そうじゃないだろ、母さんは自分のために家族を殺したんだ!」
 悟は立ち上がり、テレビに蹴りを入れた。
 テレビは大きくかたむき、うしろにいる母親に倒れかかる。
 母親はすばやくテレビをつかむと、火事場の馬鹿力とでもいうのか、押し返すだけでは飽き足らず、反対側に投げつけた。
 それは見船に向かって飛んでいった。
 突然のできごとに対応できず、見船はテレビに押しつぶされて床に倒れこんだ。
 母親はテレビ台を乗り越えると、見船の手から猟銃をうばった。
 見船はもがくが、上に載ったテレビがじゃまでどうにもできない。
 母親は銃口を、見船の咽喉に突っこんだ。
 ごぼごぼと、排水管が詰まったような音が響いた。
 母親は引き金を引いた。
「ばあん!」
 はげしい音がした。
 それは母親が叫んだ声で、実際には引き金を引いても弾は発射されず、見船の頭が砕けることはなかった。
「ああ、やっぱり弾切れだった。いくらなんでも撃ってこないから、おかしいなって思ってたのよ」
 母親は勝ちほこったように言った。
 見船はテレビにつぶされて動けない。
 そんなテレビから、『グレムリン』の音声が聞こえた。それはまるでグレムリンどもが、見船の腹を食い破ろうとしているようだった。
 母親はテレビを蹴り倒すと、じっと見船を見下ろして、
「あんたもウチの家族を壊すんだ。じゃあ死ね」
 見船に馬乗りになった。
 そして猟銃を棒のように見船の首に押し当てて、一気に押しこんだ。
 ごぼごぼごぼごぼと、さきほどよりもはげしい音が見船の口内からあふれる。
「母さん!」
 悟は母親に飛びつき、引き剝がそうとした。
 やわらかな感触が、悟の手に伝わった。それはいつも世界から守ってくれる、あの優しい感触だった。しかしそれは裏切られた。透を殺したのは、このやわらかな感触の持ち主なのだ。
 母親は動じることなく、猟銃で悟の顎を突いた。
 瞬間的に意識をうしなう。
 気づくと悟は床に倒れていた。
 母親は猟銃を乱暴に投げつけた。故意か偶然か、それは見船の頭に当たり、傷口がさらに開いた。
 見船はこれまで聞いたこともないような声で絶叫し、痛みが沸点を超えたのか、事切れたように気をうしなった。
 それを見届けた母親は、荒っぽい息を吐きながら立ち上がると、キッチンに戻った。
 キッチンには、煮えたぎった油があった。 

  悟は床に這いつくばり、見船は気絶している。
 顎の痛みはひどく、立ち上がることさえできなかった。痛みが頭に反響して、やがてそれは耳鳴りとなる。耳鳴りに混じって、ざあざあと雨の音が聞こえる。そういえば今は豪雨なのだった。あらゆる窓は閉め切られ、この家が大破局をむかえようとしていることを世界は知らない。
 ひとり動き回る母親は悟たちに背を向けて、コンロの火力をいじりながら、
「悟、あんたの言ったとおりよ。母さんは自分のために透を殺した」
「知ってる……知ってるよ」
「なのに、ごめんね。母さんったら、透を殺したときのこと、よくおぼえてないの。透が家に帰ってきて、口論になって、それからなにがどうなったのか、よくおぼえてないの。ずっと夢の中にいるような気がして、だから透を殺したなんて、そんなの、ちっとも……」
「母さんは逃げたんだ。透を殺した罪に耐えられなくなって逃げたんだ」
 悟は床に倒れたまま言った。
「なんで殺しちゃったんだろう。ああ、なんで透を殺しちゃったんだろう」
「もう、とぼけるのはよして。母さんは自分を守りたくて透を殺したんだろ」
「あの水沢とかいう夫婦ね、母さんの写真を飾ってたの」
「写真?」
「あいつら、娘が死んだあとに資料館を作ったでしょ。母さん、いやな予感がして、それで近づきになったら、やっぱり母さんの写真があったの」
「そんな写真、なかったぞ」
「あった」
「僕も行ったけど、そんなのは……」
 そのとき、血まみれの見船が、そっと両目を開いた。
 強い意志のこもった目を悟に向ける。
 悟は察した。気絶したふりをしているのだ。
 ふたりはまるで100年前からともに戦ってきた同志のように、視線を交わすだけですべてを了承する。
 見船は震える手を、自分のスカートに当てた。
 悟はそこに、わずかなふくらみを見て取った。
 あそこに……弾がある。
「悟も資料館に行ったのね? それなら話は早いわ。あいつらの娘、いろんな写真を撮ってて、それが展示されてたでしょ。母さん、そこに写ってたのよ」
 母親はあいかわらず背中を向けて、コンロの火力を調節しながら、
「ほら、なんか大きなものを撮った写真があったでしょう?」
 あった……とは思う。
 熊の背中のように、大きな影をとらえた1枚はたしかにあったが、でもそれがなんだというのか。
「あの写真は、母さんと父さんがくっついてるところだったの。殺しのとちゅうで父さんがいじけて、その場に座りこんじゃったのよ。それで、もういやだって言って動かなくなったの。あのひと、いつもそうなんだから。それで母さん、こまっちゃって、お父さんをとにかくはげましたの。そこを撮られたの」
 本当にそんな写真だったか?
 妄想じゃないのか?
 だがなんにせよ、母親は自分たちの姿を撮られたと信じこみ、保身という新たな動機のための殺人をかさねた。それは事実だし、そのせいで透は死んでしまった。それはけっしてゆるされるものではなかった。
 だれかが、裁かなければならない。
「あんなものが飾られてたら、見つかっちゃうかもしれないから、あの夫婦を殺して、家ごと燃やしたの」
 母親はまだ背中を向けている。
 弾も猟銃も、悟のすぐそばにある。
「母さんはもしかして、父さんも殺したの?」
 悟は言った。
「ちがう。お父さんは勝手に死んだの。そうよ、お父さんはだれよりも勝手なひとだった。だれよりも母さんのことをこまらせた」
「殺しをさんざん手伝ってもらったくせに」
「そんなふうに言わないで。父さんは殺人なんかじゃなくて、どんなことでも母さんに協力してくれたのよ。でもね、透が家からいなくなる前日、つまり、お父さんが事故を起こす前日だけど、そのときはじめて、拒否されたの」
「拒否?」
「あんたと透が寝たあと、ふたりでお茶を飲みながら、今後のことを話したのよ。そのときね、もう、母さんのことを手伝いたくないって言われたの……」
 母親はぶつぶつ言っている。
 悟はそっと見船のもとに這い寄ると、スカートに手をのばした。
 見船の体温と血が染みこむポケットをまさぐり、長い時間をかけて弾を取り出す。
 母親はまだなにかを言っている。
「それだけじゃないわ。おまえなんて最初から好きじゃないって、そんなことまで言われたの」
「…………」
「お父さんが、そんなこと言うひとじゃないのは、悟だって知ってるでしょ? でも、言ってきた。おまえなんて最初から好きじゃないって……」

 「殺したくなったって言われたの」

 「母さん、そんなことを言われるのは、しかたないって思うよ……ごめんね」
 悟は音を立てぬようにして体を起こし、猟銃を拾う。
 ずっしり重く、冷たかった。
「それだけじゃないの。まだあるの。母さん、怒鳴られたのよ」
「怒鳴った? 父さんが?」
「信じられないでしょ。それで怒鳴りながら、こんなこと言うの。おまえはなんだ、自分のことばかり言いやがって、おれがどんなにがまんしてきたか、おれがなにをうしなってきたか、そんなこともわからないなら殺してやる、さんざんそっちできめておいて、結局はおれに全部を押しつけるようなやつは殺してやる、おまえは自分だけいろいろやってるつもりでいるみたいだけど、本当はなにもしてないんだって……」
 なにがあっても声を荒らげず、まるで透明人間のように家の中にいた父親が、そんなことを言ったのは、覚悟をきめたからだろう。
 妻と敵対する道を選んだのだろう。
 キッチンに立つ母親は、自分自身のことばに傷ついているのか、ただ呆然と中華鍋の前に立っている。
 悟はその小さな背中を見守りながら、きわめて自然な気持ちで猟銃をかまえた。
 予感があったのか、母親がふり返った。
 目が合った。
 勝ち気で、なんでもずばずば言って、そのくせ妙に自信のなさそうな、いつもの母親の目が、そこにはあった。
 ああ、母さんがやっとこっちを見てくれたと悟は思った。
「悟……あんた、なにしてるの」
「銃を拾った」
「意味ないでしょ」
「弾がある」
「捨てなさい」
「いやだ」
「言うことを聞いて」
「いやだ」
「捨てなさい……早く、早く!」
 母親が迫ってくる。
 次の瞬間、見船が叫んだ。
「浅葉くん! 右側にある小さなレバーを引いて弾をこめたら、その下を押して! ガシャンってなったら撃てます!」
 震える手で、しかし言われたとおりに操作をすると、たしかにガシャンと乾いた音が響いた。撃てる。これで撃てる。撃ててしまう。
 悟は銃口を向けた。
 母親は動きをとめた。
 沈黙。
 やがて母親は、息子に銃を向けられたまま言った。
「お父さんが死んだのは事故じゃなくて、自殺だと思うの」
「うん」
 悟もそう思っていた。
「お父さんは結局、優しかったのよ。あんなに怒ってたのに、母さんを告発する勇気がなくて、それで自殺したの」
「うん」
 悟もそう思っていた。
「で、あんたは? 自殺するより、殺すほうが強いって考えてる?」
 母親がたずねる。
 父親は自殺した。
 透は殺された。
 悟は?
 そのとき、鍋が火を噴いた。 

 熱しすぎたせいだろう、油が発火した。
 中華鍋が燃え上がり、炎の花が咲く。
「あ、あ、ちょっと……」
 母親はガスコンロに駆け寄る。
 その様子はまさに、どこにでもいるお母さんという感じだった。
「ああああ、ああ、なによこれ、ああ」
 母親はこれまでの展開をみんな忘れて、家を守ろうと必死に動き回っていた。キッチンのまわりを右往左往して、換気扇をつけたり、タライに水を溜めたりと、テレビで見たコントのようにあくせくしていた。
 その様子を見守る悟は、なんだか無視されたような、母親は自分より家が大事なのかという気分になった。せっかく息子が猟銃を持っているんだから、少しはかまってくれよとも思った。
 白けた。
 もうちょっといえば、腹が立った。
 引き金に力をこめると、あっけないほどかんたんに弾が発射された。
 それは母親には当たらなかったが、中華鍋に直撃した。
 油がぶちまけられ、コンロの火と融合すると、一気に燃え広がった。
 火はおそろしい速度でコンロ全体を舐め尽くし、ちょうどタライに溜めた水をはこんできた母親の服に引火した。
 ぼうっという音とともに、母親の全身が炎に包まれる。
 火だるまになった。
「あ、あ、あ」
 意外というべきか、炎のかたまりと化した母親は暴れることなく、その場に立ち尽くしていた。タライが派手な音を立てて落ち、床が水浸しになった。
「あ、あば……」
 母親がふり返る。
 その顔にも炎が広がっていて、どんな表情をしているのかわからない。
 泣いているのか、
 怒っているのか、
 なにもわからない。
 換気扇をつけたせいで、そこに炎が吸いこまれ、キッチンがより強く燃えはじめた。換気扇に火が回り、まもなく脱衣所のドアに移った。
 透が燃えてしまう。
 そう思ったが、どうすることもできない。
「ぎ……あ、ああああ……」
 炎に呑まれた母親が、のろのろと動きはじめた。
 キッチンを出て、リビングにやってくる。
「やき……あ、あ、あ、ああ」
 脚を引きずるようにして進み、とうとう悟の目の前に立った。
 はげしい熱と光に包まれた母親が、こちらに腕をのばす。
「焼きそば……」
 母親は言った。
「焼きそばなんかいらない」
 悟は言った。
 母親が襲ってきた。
 悟は目をつむった。
 強い衝撃が全身に走る。
 気づけば悟は、リビングの窓際あたりに倒れていた。
 自分を抱きかかえるようにして、見船もまた倒れていた。
 どうやら見船が飛びかかって助けてくれたらしい。悟はその事実をぼんやり感じながら顔を上げた。
 さきほどまで自分がいた場所に、母親が横たわっているのが見えた。
 母親の体から発せられた炎はリビングの絨毯を焼き、さらにはクリスマスツリーを焼いた。クリスマスツリーに巻かれていた電飾が焼き切れ、ばちばちと音を立てた。
 周囲の炎によって、母親はよりいっそう燃えた。
 その体は、もう動かなかった。
 テレビに火が回る。
 テレビの中の『グレムリン』は、クライマックスをむかえていた。どろどろに溶けて骨だけになったグレムリンは、クリスマスのきらびやかな飾りの中、「ギズモ、クソッタレ」と捨て台詞を吐いて死んだ。それと同時にブラウン管にヒビが入り、テレビは炎に包まれた。映画は終わった。
 キッチンにもリビングにも、炎が充満していた。
 母親が命がけで守ろうとした家が、崩壊をむかえようとしている。
 そのような中で、悟は泣いていた。
 泣きながら、自分がこんなふうに泣くのは、この事件に巻きこまれてからはじめてということに気づいた。
「浅葉くん……」
 見船は悟に手をのばし、その顔を血まみれの胸に押し当てて、
「どうしたんですか。泣くことなんてないでしょう。終わったんです……。敵が死んで家が燃えたら終わり。家が燃えたらみんな解決。映画ではそうじゃないですか」
 しかしこれは映画ではない。
 現実だ。
 だからこそ悟は泣いているのだ。
「あのひとが言っていたことなんて、みんな忘れてやりましょう。あんなのは、悪魔のお経にすぎない。これからを生きる私たちには、なんの関係もないことです。そう……なんの関係もないの。くひひ」
 見船は笑う。
 悟は泣きつづける。
「知ってます? 惨劇を生きのびた映画の主人公たちは、続編が作られるまで、みんな幸せに暮らしているんです。どいつもこいつも恋人を作ったり、家庭を築いたりして、幸せに暮らしているんです。それは生きのびた人間の、くひっ、当然の権利だから……」
 見船は笑う。
 悟は泣きつづける。
「ねえ浅葉くん、やってやろうじゃないですか。来年はなんと、1990年ですよ。80年代はもうすぐ終わりですよ。くひひ……大人たちのつまらない暴力なんて、どうでもいい。幸せに生きてやろうじゃないですか。そうして来年の冬は、人生最初のすてきなクリスマスをむかえましょうよ。メリークリスマス。メリークリスマス。くひひひ、メリークリスマス」
 見船は笑う。
 悟は泣きつづける。
 中華鍋からはじまった火は、透が眠る脱衣所を燃やし、父親が眠る和室を燃やした。それはじきに、家全体を包むだろう。
 逃げなければならないのはわかっていたが、悟にはあと少しだけ時間が必要だった。
 子供らしく泣き切るまで、見船に抱かれていたかった。
 パトカーか、消防車か、あるいはその両方かもしれないが、サイレンの音が近づいてくる。
 次の映画がはじまるまで、悟は泣くことにした。

(了)

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連載【妻を殺したくなった夜に】
ご愛読ありがとうございました。

佐藤友哉(さとう・ゆうや)
1980年北海道生まれ。2001年『フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』でメフィスト賞受賞。2007年『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を最年少で受賞。他の著書に『クリスマス・テロル invisible×inventor』『世界の終わりの終わり』『デンデラ』『ナイン・ストーリーズ』『転生! 太宰治 転生して、すみません』『青春とシリアルキラー』等がある。
X:@yuyatan_sato

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