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ハチワレ|村山由佳 第35話

 昔、私が子どもの頃に家で飼っていた犬は、家族の誰一人として妊娠に気づかないうちに、ある朝いきなり六匹の子を産んだ。朝の光の中、自分の身に何が起こったのかわからないままの母犬が、お乳を吸われながら途方に暮れた上目遣いで私を見たのを覚えている。
 くり返しになるけれど、〈もみじ〉たち四姉妹が生まれてきた時だって思いっきり安産だった。一匹目が出てきた時だけは狼狽(うろた)えてきりきり舞いをした母猫の〈真珠(しんじゅ)〉も、二匹目から後はまるで古(いにしえ)からお母さんをやってますというふうに、ヘソの緒を噛(か)み切り、胎盤をきっちり食べて始末し、子猫を舐(な)めて乾かし……と、終始落ち着きはらって対処していた。
 雑種の犬や猫のお産なんて、たいていはそんなものなのだ。そうでなかったら、安産祈願のお詣(まい)りにわざわざ戌(いぬ)の日が選ばれるはずがない。
 この日〈お絹(きぬ)〉が産んだ一匹目の三毛こそ、たまたま逆子で難産だったけれど、こんなことはよっぽど特殊な例だろうと私はすっかり気を抜いていた。二匹目はさすがに頭から生まれてくるはずだ。ドラマティックな出来事なんかもう要らない。それでなくとも私生活ではこれまでいろいろやらかしてきたのだから、せめて猫のお産くらい落ち着いた気持ちで見守りたい。
 お絹は、小さな体でよく頑張っていた。初乳を飲んだ子猫がやがて疲れて眠ってしまうと、彼女はそろりと体を起こし、産箱から出てきて久しぶりに水を飲み、カリカリを少しだけ食べた。
「あらあ……」
 床に横座りになったインチョ先生が、コーヒーのマグカップを片手に呟(つぶや)く。
「これは、まだしばらくかかるかもしれませんねえ」
 そう、前例はある。何を隠そう我が家の〈楓(かえで)〉がそうだったのだ。里親募集の貼り紙を見て迎えに行った時、もとの飼い主さんが言っていた。〈サスケ〉ともう一匹のきょうだいが生まれて一晩たった翌朝、まるで思いだしたみたいにひょっこり生まれてきたらしい。
 お絹の第二子もそうなるのだろうか。みんなで待つこと二時間、午後三時をまわっても、さっぱり産気づく気配がない。一匹目を産む間は緊張と興奮に引きつっていた顔も、今はすっかり元のごきげんさんモードに戻っている。千倉(ちくら)から彼女を連れ帰って十九日、私たちは微妙な表情の違いもかなり見分けられるようになっていた。
「一匹産んだことで産道も広がってますし、めったなことはないと思うんですけど……何かあったらすぐ連絡して下さい。とんできますから」
 そう言って、夕方、インチョ先生とミホちゃん先生は帰っていかれた。

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 まさに十九日前、猫のお産をまだ見たことがないというお二人に、
〈先生どうせヒマですやろ。遊びに来がてらぶらっと〉
 などと失礼なことを言って誘った背の君は、今になってすっかりどや顔だった。
「ええかお絹、俺のおかげやぞ。俺があの時センセらを誘わなんだら、お前今ごろエライコトなっとんねんからな」
 ちっちゃい子猫が一匹増えただけでも、ユニクロの浅い段ボール箱は狭苦しく見える。試しに、かつて真珠がもみじたちを産んだ時のバスケットに子猫を移してみると、お絹は自分もそちらへ入り、ずっとそこでそうしていたかのように横たわってお乳を与え始めた。
 改めて、どれだけ母体が小さいかわかる。真珠が横たわった時はバスケットの長辺にぴったりだったのに、お絹ときたらようやく一隅におさまるくらい。その彼女が産んだわりには、一匹目の三毛の頭はずんぐりと大きい。尻尾から出てきたぶん、頭は産道の狭さに押しつぶされずに済んだのかもしれない。
 若夫婦の協力のもと、四人交代で見張りながら気もそぞろで夕食を済ませてもなお、二匹目が生まれてくる気配はなかった。
 とうとう私は、ノートパソコンと資料本と枕をバスケットのそばに持ってくると、チェストの前に置いたままのストライプのクッションに横になった。
「大丈夫かいな、風邪ひくぞ」背の君が心配してくれる。「こっちで寝たかておんなじやろが」
 そう、ベッドの枕元までだってほんの三メートルくらいしか離れていない。でも、きっとまんじりともできないにきまっている。それに、もみじの最後の二日間このクッションで添い寝した時の気持ちに比べたら、生まれてくる命を待つための睡眠不足なんて、ただただ喜びでしかない。
 入浴を済ませた若夫婦が、ボディソープのいい匂いを漂わせながら「おやすみ」を言って二階の客間へ引き取ると、しばらくは頑張ってくれていた背の君もやがて寝息を立て始めた。
 腹ばいになって資料を読みながら、夜中の二時、三時と起きていたけれど、いろいろあった一日だ。さすがに疲れて目を閉じた。
 すうっと睡魔に襲われるものの、眠りはひどく浅い。顔のすぐ真横にバスケットがあり、お絹の息遣いや、時折もぞもぞと子猫が動く気配が感じられるおかげで、十分か十五分ごとに目が開く。真上の壁掛け時計の針がちっとも進まない。
「お絹ちゃん。まだなん?」
 小声で訊(き)くたび、彼女は優しく喉を鳴らし、まるで〈そんなに慌てなーい〉とでも言うかのようにゆっくりまばたきをした。
 五時半、までは覚えている。
 びくっとなって見上げた時計は、六時ちょうどだった。部屋はもう薄明るい。
 枕から頭をもたげ、しわしわしょぼしょぼする目を懸命にこらしてバスケットの中を覗(のぞ)くと、昨日の子猫が隅っこのほうでウゴウゴと蠢(うごめ)いていた。
(……ん? なんか黒っぽくなってる?)
 目をこする。
 違う。黒っぽいのは生乾きだからだ。しかも、昨日の三毛はといえば、お絹のお乳を吸っている。ということは……。
「生まれとる!」
 思わず大声で叫ぶと、
「えっ、なんて?」
 寝ていた背の君がすぐに反応した。
「もう生まれとる! なんか黒っぽいハチワレが一匹。三十分前は影も形もなかってんよ、ほんちょい寝落ちした隙に」
「無事か」
「無事や。お絹に舐めてもろとる。ほんま、たった今生まれたとこやわ」
「そうかあ。ひとりで産みよったかあ」
 彼もよほど疲れていたのだろう。立ちあがって見に来ることはせず、「無事なんやったら後でええわ」と、またすぐ静かになった。

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 三毛より十七時間も遅れて生まれてきたくせに、ハチワレの二匹目のほうがひとまわり大きく、四肢も太い。鼻の下にうっすらと口髭(くちひげ)みたいな模様があって、それが左右で不釣り合いなのがユーモラスだった。オスか、それともこの子もメスだろうか。もちろんどっちだっていい、どっちだって嬉(うれ)しい。
 ヘソの緒も胎盤も、すでにお絹がきっちり始末した後だった。ハチワレがお絹のおっぱいに吸いつくまで見届けてから、私も再び横たわり、目をつぶる。
 九時を過ぎたらインチョ先生に電話をして、二匹目が無事に生まれた報告をしなくちゃ。さて、三匹目はいつになることやら……。
 思った次の瞬間、意識が飛んでいた。 

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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作を書店で見る

※この記事は、2020年5月29日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

※『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』の刊行に際して、姜尚中さんとの猫対談が行われました。


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