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思い込み|村山由佳 第15話

「おいー」
 と、まずツッコんだのは兄だった。本気でびっくりしたというより、本気にしていないらしい。
 私はそちらを見ず、背の君のほうも見ないようにして、奥さんに言った。
「ものすごく可愛(かわい)がられてる子なんだなっていうことは、見ていればよくわかります。なので、決して無理にとはお願いしません。ただ──個人的なことですけど、ちょうど去年の今ごろ、十八年ほども一緒にいた〈もみじ〉という猫を亡くしましてですね。それからはどんなに可愛らしい猫を見ても、ああやっぱりもみじは特別だったんだと思うばっかりで、この先はもうあんなふうに愛せる猫は現れないんだろうってあきらめかけていたんです」
 奥さんは、黙って私を見ている。
「でも、今日、あのシャム猫ミックスの子が、ほとんど初対面の私にどうしてだかものすごく甘えてくれて……Yさんのお宅からここまで鳴きながらついて来るし、ついさっきもずーっとベランダで待っててくれて、そんな姿を見たら、何だかもう胸がいっぱいになっちゃって」
 言いながら自分でも、なんて勝手な理屈だろうと思った。もし誰かが我が家の猫たちをひょいと見て、たとえば「〈銀次〉くんて可愛いですね、里子に出す気はないですか」などといきなり言い出したら、間違いなく思うだろう。てめえ、ふざけんな。
「おい。あんまり無茶言うたらあかん」
 と、とうとう背の君が口を挟んだ。
 そう、まったくそのとおりだ。
「ごめんなさい、こんなお願いをしてしまって」
 心の底から言って、私は頭を下げた。
「ご迷惑だとは思いますが、ちょっとだけ考えてみて頂けたら嬉(うれ)しいです」
「こら」
 と背の君。
「ほんとに、ダメで当たり前のことですし、その時はもちろんあきらめますから」
 ええかげんにせえよ、ほんまにお前はー、と彼がぶつぶつ言う。
 奥さんが、私をじっと見る。やがて、言った。
「よくわかりました。いいですよ」
 まずは〈ふざけんな〉と言わないで下さったことにほっとして、私は再び頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます。明日の葬儀が終わったところでまたご挨拶に伺わせて頂きますので、その時にお考えを聞かせて頂けたら……」
「いえ、そうじゃなくてあの子」
「え」
「お連れ下さっていいですよ」
 えええええっ、という驚きの声さえ出なかった。口がぱっくり開いて、閉じることもできない。
 お腹(なか)の底から太い束になって衝(つ)きあげてくる歓喜を、いやいやいやいや、となけなしの理性が抑え込む。
「あの、あの、お返事は今じゃなくていいんです。お嬢さんやご家族の皆さんにも相談なさってからにして下さい。やっぱりダメってことでも、それはそれでかまいませんから。あの猫ちゃんの幸せがいちばんですから」
 そうですか、と奥さんは落ちついた声で言った。じゃあ、そうしてみますね、と。
 きっと困らせてしまっている。玄関先まで見送りに出たものの、もう何も言えなくて、私はもう何度目か、深々と頭を下げた。

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 部屋に戻ると、兄と背の君がそれぞれの表情で私を見た。
 兄のほうは〈まったく何を言いだすやら〉の呆(あき)れ顔で、背の君のほうは〈ほんまに言いよった〉の呆れ顔だ。
「もしも明日、いいって言われたら、ほんとに連れて帰るつもり?」
 と兄貴。
「うん」
「だけどそんな、衝動的にさあ」
 私は黙っていた。
 衝動的じゃない、とはとうてい言えない。むしろ、どうしてここまで強い衝動に駆られるのか、わかるなら誰か教えてほしい。
 ただもう、離れたくないのだ。あの子と一緒にいたい。焦がしたチョコレートに青いスミレの花を添えたみたいなあの子の顔が、心に焼き付いて消えてくれない。
 でも、兄が不思議に思うのも無理はないのだ。Yさんのお宅からここまでついてくる間のあの子の様子も、ベランダで待っていた彼女が私を見て鳴いた時の表情も、じかに見てはいないのだから。
 いや、たとえ万人が見ていたとしたって、お前の勝手な思い入れだと言われたら反論はできない。たまたま寂しくてたまらなかったところへ、たまたまあの子が常軌を逸するほど人なつこくて、たまたま通りかかった相手にも過剰に甘えてきたというだけのこと、それを運命的な出会いじゃないかなんて思うのはただの思い込みであり感傷に過ぎない。そう、きっとそうなんだろう。

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 その晩、私と背の君は、スタンド花とともに最も大きな正面のアレンジメントをそろりそろりと脇へ寄せ、昨夜より少し窮屈な感じで布団を敷いた。
 肌寒い夜だったけれど、室温をあまり高くするといろいろな不都合が起こる。
「ドライアイス抱いて寝たはるキミコさんかて寒いんやから」
 などと言い合って、しっかり布団をかぶる。
 背の君は、あれきり猫の話に触れない。たしなめようともしないかわりに、期待も口にしない。こちらの気持ちを尊重しようとしてくれているのか、それとも彼自身も判断に迷っているのか、確かめるのが何となく怖いから私も黙っている。
 いずれにせよ、Yさんがいいと言ってくれるかどうかまだわからないじゃないか。いま何をどれだけ考えたところでどうしようもない。
 もしも、もしも本当に連れて帰っていいと言って下さったとしても、あのとおり外を自由に歩き回っている猫だから、さあ帰りましょうという時にすぐ近くにいるかどうかわからない。もし見つからなかったらどうしよう。後の予定や差し迫った〆切を考えると、どうしても明日じゅうに帰らなくてはいけないのだが、そうなったら日を改めてまた迎えに来ることになるんだろうか。その頃にはきっともう、何匹かはわからないけれど子猫が生まれてしまっているだろう。授乳中の母猫を子猫から引き離して連れ去るなんてあり得ないし、となると完全に乳離れするまで待つしかない。でもその間に、万一あの子の身に何かあったりしたら──。
 いやいやいや、だからそもそもYさんがいいと言ってくれるかどうかまだわからないじゃないか。いま何をどれだけ考えたところでどうしようも……。(←エンドレス)
 輾転(てんてん)反側している私に、
「おう、早(は)よ寝ぇよ」
 暗がりから、背の君の低い声が言った。
「明日は、長い一日やぞ」

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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作

※この記事は、2020年1月10日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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