東の食の海原へ|千早茜「こりずに わるい食べもの」第1話
20年以上住んだ京都を離れ、はじめての東京ひとり暮らし。さて、何を食べようか? 偏屈でめんどくさい食いしん坊小説家による人気エッセイ、シリーズ第3弾始動!
※シーズン2『しつこく わるい食べもの』好評発売中
二月の終わりに引っ越しをした。
大好きだった京都を離れて、仕事の場だった東京へ。
思えば、京都での暮らしは人生の半分になっていた。だからというわけではないけれど、東京で暮らしてみてもいいかもしれない、と思ったのだった。引っ越しの主たる理由は別にあるけれど、とりあえず、東京で三年間、ひとり暮らしをしようと決めた。
引っ越しは選択の連続だ。物件探しに始まり、引っ越し業者、ネット契約、なにを持っていき、なにを処分するか。特に今回は身軽でコンパクトな暮らしにしようと思っていたので、半年以上前からとにかくものを選別し、捨てた。押入れの奥やクローゼットの上段から毎日のように不用品が発掘され、最初は「わ、こんなものあったんだ」と懐かしんだりしていたが、だんだん心が無になっていく。何年も積んだままの本、一度しか着ていない服、大箱いっぱいに集めた昔の医療器具、まったく趣味ではない貰いものの食器やタオル、空のクッキー缶の山や包装紙、惰性で使い続けていた古びた家具……売っても僅少な金額にしかならないものばかりで、友人たちに連絡して欲しい人を探す。それでも、捨てるしかないものが多くを占めた。自分の生活がいかに無駄なものであふれていたかを目の当たりにし、なんだか虚しくなってしまった。捨てても捨てても減らない不用品の山は、日々の選択を先延ばしにした結果だった。いつか使うかも、の「いつか」はない。
しかし、食べものは違う。食べものの「いつか」はとっておきであり、先の楽しみであり、ご褒美であり、好物が家に「在る」という安心感だ。食材は鮮度が命。保存食だって調味料だって酒だって賞味期限がある。いつ食べるか、いつまでに使うか、買った瞬間から選択を迫ってくるのが食材だ。生鮮品などは、高慢で傷つきやすい姫君のようで、放置してなどいられない。
あまり好みではないものを貰ってしまった時も、なるべく早く食べたり料理したりするようにしていた。食べるのを先延ばしにしても美味しくなることはほぼないから。なので、捨てる食材はほとんどなかった。
ストック食材の無駄のなさは、廃棄と荷造りでささくれていた私の心に平穏をもたらしてくれた。けれど、ふと一抹の不安がよぎる。関西のスーパーでは当たり前のように売っている「旭ポンズ」は東京にはあるのだろうか。「本田味噌」の「西京白味噌」は? 「豆富本舗」の「福よせ」は? 「雲月」の「小松こんぶ」は? 「柳桜園茶舗」の「香悦」は? 「虎屋」の京都限定の羊羹は? 東京の友人たちは「東京にはなんでもある」と言う。新宿伊勢丹デパ地下の美味の収集力を心から信頼もしている。でも、京都のように「あ、食べたい」と思ったときに徒歩で買いにはいけないだろう。それは、困る。
かくして、私は前作『しつこく わるい食べもの』の「告白します」で書いたような壮絶な買い占めに走ってしまった。なにが身軽でコンパクトな暮らしだ。みるみる食材ストックの段ボール山ができていく。
でも、店の味は持ってはいけない。京都の好きな店の食べ納めをしなくては、と京都にいた時間をなぞるように、昔に住んでいたマンションの近くのパン屋や大学時代に好きだった喫茶店へと足を延ばした。日常的に使っていた和食屋やビストロ、大好きなパティスリーにも時間を見つけてはせっせと通った。悔いのないように食べ尽くそうと思った。なのに、年明けに二回目の緊急事態宣言が発令され、少なくない数の飲食店が休業してしまった。
コロナを呪った。いままでも憎んでいたが、歯ぎしりするほど呪った。別れの時間すら奪うのか、コロナめ。京都に戻ってくるころには好きな店はなくなっているかもしれない。コロナ禍になってからどれだけの店が消えてしまったか。時間短縮や予約制で営業してくれている大好きな店をなんとか巡り、京都を離れた。
ほとんど寝ずに、発つぎりぎりまで仕事をしていた。朝の光にくらくらしながら新幹線に乗っていると、最愛のパフェ店のシェフからメッセージが届いた。
お店を愛してくれてありがとう。パフェを食べる前の笑顔を見るのが作り手としては最高の瞬間でした。また我が家に帰る気持ちで帰ってきてくださいね。待っています――
仕事でふらふらのときでも、ぱあっと目の前が華やかになるパフェを作ってくれる店だった。もうしばらく食べられないのかと思うと、画面が涙で滲んだ。パフェ(の店)との別れが一番感傷的なんてどういうことだ、とちょっと笑った。
引っ越し業者がすべての荷を置いて帰っていったのは、もうすっかり夜だった。時短営業要請で付近の店もやっていない。京都の好物が詰まった段ボール箱はすぐに開けられる場所に置いてあったが、コンビニに行き、黒胡麻まんをひとつ買った。
まだカーテンもついていない窓の向こうに、煌々としたビル群と満月が見えた。ペットボトルの緑茶とあたたかい黒胡麻まんを口に運びながら、自由だ、と思った。この部屋には必要なものしかない。真新しい調理器具も揃っている。知らないこの街で、これから好きなものを探していける。食の海を渡るための、はっきりした好き嫌いの羅針盤も持ちあわせている。
さあ、どこまで自由になれるだろう。
illustration 北澤平祐
連載【こりずに わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新
千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞を受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞を受賞。著書に『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』『男ともだち』『西洋菓子店プティ・フール』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『さんかく』『ひきなみ』などがある。
Twitter:@chihacenti