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いよいよ、お産|村山由佳 第31話

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「ぜんぜん食うとらへん」
 背の君の言葉にはっと起きあがる。
 見るとほんとうに、お皿の中身がそのままだった。
 毎晩寝る前には、古い印判(いんばん)の皿にキャットフードをひと並べする。かつては〈もみじ〉が使っていたその皿の、底の部分に描かれた藍色の模様がちょうど隠れるくらいの量を入れておくので、わずかでも減っていればわかるはずなのだ。
 ということは、少なくとも昨夜から今までの約九時間、〈お絹(きぬ)〉は自分の意思で絶食していることになる。これまで一度もなかったことだ。
「いよいよ今日かな」
 私が言うと、背の君はお絹をそっと抱き上げた。
「産むんかい」
〈うん?〉
 と、お絹が喉をのけぞらせて彼を見上げる。お腹(なか)こそ大きいけれど、顔つきや体つきはまだまだ幼い。
 床に下ろすと、彼女はしきりに鳴きながら部屋をうろうろした。産室にと物陰に用意しておいた浅い段ボール箱や、〈真珠(しんじゅ)〉がもみじたち四姉妹を産み育てたアンティークのバスケットなど、それぞれ気に入らないわけじゃないんだけど今ひとつ、といった感じで、入ったり、出たり、入ったり、出たり。
 その合間に何度も横になるのは、もみじの写真を飾ってある祭壇がわりのチェストの真下、冷たい床の上だ。どうやらそこがいちばん落ち着くらしい。

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 身体が熱いのかもしれないけれど冷えてもよくないだろうと、私はそこへ横長のクッションを持ってきて据えた。
 長座布団よりひとまわり大きいサイズで、厚さは十センチほど、乗ってもあまり沈まないくらいしっかりと中身が詰まっている。紺と白の太いストライプ柄のそれは、前の年、もみじの最後の数日を見守るために私が添い寝をするのに使い、そばで仕事をする間はお尻に敷き、本当のおしまいには彼女自身がその上で息を引き取った、曰(いわ)く付きのクッションだった。
 置いてやると、とたんにお絹はその上に乗って、ごろりと身体を横たえた。
「おお、具合良さげやんか」と、背の君。「どや、お絹」
〈うん?〉
「そこがええのんか」
〈うん〉
 私たちは思わず笑い出しながら、とりあえず彼女をそこに残して、寝ぼすけの若夫婦を起こし、急いで朝食を済ませ、そしてかねてから約束していた通り、いつもの動物病院の院長先生に連絡をした。
 二週間ちょっと前、南房総(みなみぼうそう)から連れて帰ってすぐのお絹を診察して下さった時、院長先生は言った。
「じつはですね、私、こういう仕事をしているのに猫のお産だけはまだ見たことがないんですよ」
 意外すぎてびっくりしたのだけれど、
「ブリーダーさんとかを別にすると、最近では飼い猫の多くが避妊手術をするでしょう。それもあって、お産を目撃する機会そのものが少なくて」
 言われてみれば、なるほど、と思う。
 そもそもお絹が妊娠したのは、ひろびろとした田舎で、外を歩きまわり自由に恋をしたからだ。いわば昔ながらの環境にあるそういう猫たちは、お産もどこか外の暗がりで済ませることが多い。彼らなりに吟味して選んだ場所で上手に産み落とし、数日たって自分自身も落ち着いてから初めて子猫を家に連れてくる。
 そんなふうに考えてみると、獣医師という立場にある院長先生が、猫の自然妊娠やお産に遭遇したことがないというのは、むしろ当然のことでもあるのだった。
「ほんなら、産みそうンなったらすぐ知らせますわ」
 言い出したのは背の君だった。
「先生どうせヒマですやろ。遊びに来がてらぶらっと」
「誰がヒマやねん」
 と、お約束のように横から突っ込む。
 もちろん背の君もわかって言っている。先生が毎日朝から晩まで診察に追われていることも、手術やら急患やらで休む間がないことも──もみじがお世話になっていた間じゅう、その様子を間近に見てきたのだから。
 それでも、本当にたまたま、お昼休みとか診療の終わった夜などに生まれてくるようなら、間に合って見て頂けるかもしれないし……というわけで、お絹が産気づいたら一応お知らせする旨、その時に約束していたのだった。

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 電話に出た院長先生に、昨夜から今朝までの状況を話し、
「たぶん、今日のうちに産むつもりなんじゃないかと思うんです」
 そう伝えると、先生は興奮気味に言った。
「ほんとに、ほんとに伺ってもいいんですか?」
 もちろんこちらは大歓迎である。
 でも、いくら連休の最中といっても病院は……。
「今日は水曜日なので」と、先生は言った。「ふだんでも休診日なんです」
 ──なんとまあ。
 電話を切ってそう伝えると、背の君はなぜか得意げに言った。
「そんなニオイしとってん、俺」
 私たちのやりとりを、お絹は相変わらずだるそうに寝転び、目を細めて眺めていた。
 ストライプ柄のクッションばかりか、考えてみればチェストの真下のその場所こそは、もみじの最期を見送った場所なのだった。

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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

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※この記事は、2020年5月1日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

※集英社の「青春と読書」誌上で、姜尚中さんとの猫対談が行われました。


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