海老の頭|千早茜「こりずに わるい食べもの」第9話
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海老の頭|千早茜「こりずに わるい食べもの」第9話

 寿司屋や和食の居酒屋で生の海老を頼むと、海老の頭を炙ったり揚げたりしたものを「よかったら」という感じでそっと小皿にのせてだしてくれる店がある。カリカリした歯応えのあるものがとにかく好きなので嬉しい。食材を無駄にしない心意気も素晴らしい。海老の頭を噛み砕けば、中からはとろりと濃厚な海老味噌があふれだす。この店また来よう、と心に誓う瞬間である。

 思いがけない海老の頭に喜ぶとき、いつも白っぽい冬の海が浮かぶ。昔の記憶だ。いや、記憶と言っていいのかすらもちょっと定かではない。ただ、海老の頭の、凝縮された旨みと歯の間でバキバキと砕ける殻の感触を覚えている。

 二十代の前半だった。まだ小説家デビューする前で、経験のためにとにかくいろいろな仕事をしてみようと思っていた頃だった。朝はパティスリーで仕込み、昼間は診療所や役所、夜はカフェ、休日は美術館というように、常に三つ四つのバイトを掛け持ちしていた。
 若かったとはいえ、いつも疲れていた。空き時間があれば眠り、深夜やたまの休日は小説を書いていた。私が小説を書いていることを知らなかった当時の恋人は苦笑交じりで「いつも眠そうだね」と言っていた。

 恋人は写真をやっていて、思いつきで車を走らせてちょっとした遠出をするのを好んでいた。誘われると、「明日の○時に京都市内に戻ってこられるのなら」「道中寝ていてもいいのなら」と消極的に応じて車に乗った。運転する恋人を気遣う体力も余裕もなかった私は、ほどよく揺れる車内で熟睡した。大体が夜の移動だったせいもあるだろう、すごく深い眠りで、交通標識を一度も見ることもなく、「着いたよ」と声をかけられて起きたらいつも知らない場所にいた。竹田城跡だったり、養老天命反転地だったり、寝ぼけた目で見る思いがけない景色の中で、恋人は嬉々として写真を撮っていた。当時、私はほんのすこし投げやりだった。知らない場所に突然連れてこられる奇妙な違和感はなんとなく気分に合っていて、積極的に楽しむわけでもなくぼんやりと撮影する恋人を眺めていた。

 ある夜、恋人がバイト先に迎えにきた。日付が変わるぎりぎりの時間だったと思う。「寝ていていいから」と言われ、また車に乗せられた。後部座席で体を丸め、糸が切れたように眠った。
 眩しさで目が覚めた。窓の外が真っ白だった。しばらく呆然として、波の音で海だと気づいた。車のドアを開けると、さらさらとした砂に足が埋まった。水平線の涯は灰色の空と混じり合っていて、砂浜には人の影すらない。さびしい冬の海岸だった。恋人の姿もない。

 風と波の音の中、立ち尽くす。ふと、死んだのかな、と思った。車が事故を起こして、夜の間に死んでしまったのかもしれない。まあ、それならそれで仕方ないとまた車に戻って寝ようとした。
 突然、ものすごい空腹を覚えた。死ぬのは仕方ないと思えるが、空腹には抗えそうもなかった。鞄や車の中をあさったがなにもない。コンビニを求めてふらふらと砂浜を歩きだす。
 けれど、行けども行けども、建物すらない。絶望しかかったとき、こうばしい匂いがした。潮風をかき分けるようにして、ちょっと焦げたような匂いを追う。ざくざくと砂を踏んでしばらく行くと、漁船が見えてきた。そばで長靴を履いた男性たちがなにかを囲んでいる。芳ばしい匂いの煙はそこから流れてきていた。テトラポッドの陰からぐうぐうお腹を鳴らして見つめていると、一人の男性が私に気づいた。
「おいで」と猫を呼ぶように手招きする。躊躇していると、網の上で炙っていた親指くらいのものを摘まんで見せてきた。「もう海老の頭しかないけど、ほら」。たたっと体が動いた。知らない人から食べものを貰うのは苦手なはずなのに駆け寄って、男性たちが「ほれ、ほれ」と与えてくれる海老の頭を噛み砕いた。「腹、減っていたんだな」と笑われた。海老の頭をすべて食べてしまうと車に戻ってまた眠った。

 次に目を覚ましたとき、車は高速道路を走っていた。恋人は「ずっと寝ていたね」と背中で言った。助手席にはカメラが置いてあった。自分の吐く息は磯の香りがした。
 あの海はどこの海だったのだろう。訊かなかったし、海老の頭を貰ったことも言わなかった。ただ「猫になった夢をみたよ」とだけ言った。
 夢と現実のはざまのような日帰りの旅は何度したのか覚えていない。もう一度したいとも思わない。ぼんやりした記憶の中で、海老の頭の食感だけがくっきりしている。

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illustration 北澤平祐

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連載【こりずに わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神(いおがみ)』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞を受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞を受賞。著書に『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』『男ともだち』『西洋菓子店プティ・フール』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『さんかく』『ひきなみ』などがある。
Twitter:@chihacenti

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