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いい大人|村山由佳 第18話

 私たちのいる駐車場と、猫との距離は三十メートルくらい。
 猫にしてみれば、いつもの空き地に見慣れない車が何台も停まり、そのそばに真っ黒な服を着た人間がガヤガヤと十人も集まり、おまけに中には何をするかわからない小さな子どもも一人交じっているわけで、そりゃ警戒して睨(にら)みたくなるのも無理はない。
 せめて安心させてやりたくて、私は声を出さずにニカッと笑いかけてみた。
 とたんに猫はYさん宅の塀から離れ、こちらをめがけて小走りに近寄ってきた。が、十五メートルくらいのところで不安げに腰を落とし、座り込む。
 そばへ行ってよしよしと撫(な)でてやりたいのだが、今まさに兄夫婦が深々と頭を下げ、お世話になった司祭さまご夫妻にご挨拶しているというのに、私一人が猫のほうへすっ飛んでいくわけにもいかない。これでも一応、いい大人なのだから。

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 細くて強い猫の視線を背中に感じながら、司祭さまの運転する車を見送る。テールランプが角を曲がって見えなくなったとたんに、ふり返った。
 まっすぐにこちらを見つめる青い瞳。
 姪(めい)っ子の息子が近づこうとすると逃げ腰になるのだが、私だけがそばへ行くと自分から走り寄ってきて、黒いストッキングに身体をすりつけた。
「うわあ、人なつっこいねえ」
 昨日までのいきさつを知らない姪っ子が、びっくりしたように言う。
「猫好きの人のことはわかるのかな」
「さあ、どうだろう」
 言いながら私は、小さな猫を撫でまわした。よしよし、後でね。祈りをこめて言い聞かせ、みんなと家へ戻って、まずはそれぞれ普段着に着替える。
 棺(ひつぎ)がなくなって、居間はいっぺんにがらんと広くなった。母に供えてあったスタンド花のほとんどは、花首だけをちぎって棺にありったけ詰めたから、残っているのは少しだけだ。後で、Yさんのお宅へ持っていくつもりだった。隅っこへ寄せてあったソファをこれまでの定位置に戻し、兄がコーヒーを淹(い)れ、甘いものやスナック菓子をお供に、皆ようやくほっと息をつく。自宅でのごく内輪の家族葬であっても、そして父の時に比べれば余裕であっても、やはり気持ちは張りつめていたらしい。
「由佳んとこも今日軽井沢(かるいざわ)まで帰んの? 大丈夫?」
 兄の親友が心配してくれる。
「うん、そのつもり。今夜じゅうには帰っておかないと明後日(あさって)が〆切なんだわ」
「運転はクニヲさんでしょ」と、義姉の妹が言う。「今のうちにちょっとでも奥の部屋で寝ておいたら?」
「おう、せやな。しんどかったら後でそないさしてもらうわ、おおきに」
 背の君(今さらですが名をクニヲといいます)の言葉にかぶせるように、
「あ、ニャンニャン」
 姪っ子の息子がサッシの外を指さした。
「え、うそ、またあの子?」
 見ると、庭先に案の定、あの猫が来て座っている。
 こんなふうに目が合うのは、これでもう何度目だろう。一度として餌をやったわけではないのに、どうして、何が目的でこうも熱心に通ってくるんだろう。
 我慢できなくなった私は外へ出ていき、さっそく盛大に甘えてくる猫を抱きあげて庭石に腰を下ろした。雨上がり、薄陽(うすび)は射(さ)してきたけれど草も土もまだ濡(ぬ)れているから、焦げ茶色をした猫の足やおなかはびしょびしょだ。
「んもう、何してんのんな。冷やしたらあかんでしょうが、あんた妊婦さんやのに」
 ふむー、と猫が鳴く。
 泥が服につくのもかまわず抱きかかえ、あっためてやった。そのまんま、兄の親友が帰っていくのを見送り、そのまんま、義姉の妹夫婦が帰っていくのを見送る。

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 時折、姪っ子かその息子がサッシをさらさらと開けて覗(のぞ)き、猫まだいるの? とか、寒くない? などと気遣ってくれた。
 兄も顔を覗かせ、猫が私におなかを撫でさせ、すっかりくつろいでいるのを見て苦笑する。
「確かに、それだけ懐けば可愛(かわい)いのもわかるけどなあ。さすがに、連れて帰るのは、クニヲがうんとは言わんだろ」
 そう、まさにそこだった。
 昨日の晩、ベランダで待っていたこの子を抱っこした私が、〈こんな子がうちの子になってくれたらええのに〉と言った時、背の君の返事は〈ほんまやの〉だった。でもそれはあくまで、よその可愛い猫を見て夢のような願望を口にした私への軽いあいづちに過ぎなかったと思うし、私だってまさか自分が、その半時間後にYさんに向かってあんなことを切り出すとは想像もしていなかったのだ。
「クニヲは?」
 と訊(き)くと、兄は言った。
「今シャワー浴びて、ついでに風呂洗ってくれてる」
 午後四時。そろそろ日も傾いてきた。意を決して、猫を膝から下ろす。
 ええー、と文句たらたらの彼女に言った。
「すぐ後から行くから、おうちで待っといて」
 ほんとにぃー?
「ほんとにすぐ行くから」
 ふうーん。
 まだ少し疑わしげな猫を残して家に入ると、背の君はちょうど風呂場の掃除を終え、タオルを首にかけ、Tシャツとトランクス姿でダイニングの椅子に腰を下ろしたところだった。
 冷たいお茶を飲んで、ぷはー、と息をつく背の君の前に、私も座った。
「お疲れさん。お風呂掃除、おおきにな」
「おう」
 汗のにじんだ顔を、そばに置かれていた小冊子を手に取って扇(あお)いでいる。兄夫婦や姪っ子の一家は、それぞれに、台所や自分らの使った場所を片付けながら荷物の整理をしている。
 煙草(たばこ)に火をつけた背の君に、私は思いきって言った。
「あのな。これから、Yさんとこへお花持って行くねんな」
「まだやったんかいな。早(は)よ行ってこいよ」
「行くけどもやな。それで、あの……あの猫のことやねんけど」

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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作

※この記事は、2020年1月31日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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