第18話 渾然一体のバナナリーフ|金原ひとみ「デクリネゾン」
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第18話 渾然一体のバナナリーフ|金原ひとみ「デクリネゾン」

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 なんか意外とちっちゃい……でもすごい重量だな。そんなことを呟きながら、蒼葉はビニール袋を持って玄関から戻ってきた。ダイニングで今日戻しのゲラに目を通していた私は、ちょっと前からワクワクして手につかなくなっていた原稿をローテーブルに放り投げる。
「どんな感じ?」
「なんか未知の物体って感じ」
 蒼葉が袋から取り出した四角い緑の塊を見て歓声を上げる。トトロがメイに渡した、木の実を包んだ笹の葉の包みを大きめのお弁当サイズに肥大化させたような見た目だ。厳重にラップに包まれたそれを解くと、何だかあまり嗅いだことのない葉っぱの匂いがふわふわと湧き上り、不思議な匂い、と言い合いながら私たちは鼻を近づける。留めていた楊枝を抜き縦に横に包んでいるバナナの葉を開くと、葉っぱの生ぬるい匂いからどっとスパイシーな匂いに変化し、食べログなんかで見てはいたけれど目の前にするとやっぱりすごいインパクトだ、というビジュアルがでんと登場する。バスマティライスに、ゆで卵、丸いコロッケ、キャベツらしき紫の漬物っぽいもの、パイナップルとにんじんと豆のカレー、何かしらの菜っぱとココナッツ炒め、それぞれ別々に味付けがされていると思しき白身魚、チキン、インゲン、茄子、ズッキーニ、全てぎゅっと長方形に形成されている。スリランカカレーのバナナリーフ包みだ。ぎゅっとされているせいで小さく見えるけれど、スプーンを入れると窮屈そうに固められていたお米やおかずが水を得たようにむくむくと膨らんでいくのを見て蒼葉が堪えきれずといったように笑う。
「すごい量だな。これって、このまま食べていいの?」
「なんか全部混ぜて食べるらしいよ。でも最初はどれがどんな味なのか分析したくない?」
 だね。と蒼葉は呟いて、これはやっぱりキャベツ、インゲンめっちゃ辛い、ズッキーニの苦味がほぼ消えてる、などと感想を漏らしながら食べていく。私はバナナリーフの存在感に圧倒され脇に押しやっていたフードパックのビリヤニを頬張る。ちょっと前にいつもインドやネパールのお店にいくと大抵マトンやダルのカレーにナンのセットにしてしまうため、まともにビリヤニを食べたことがほとんどないことに気づき、気づいたら気になって仕方なくなって、ビリヤニの美味しい店を検索して辿り着いたスリランカ料理のお店を調べていたら、ビリヤニよりも気になるスリランカカレーのバナナリーフ包みを発見したのだ。
「ねえそれって、インゲンとか茄子とかもカレー味なの?」
「多分。なんか混ぜてなくても味の判別がすごく難しいな。まあ少なくともスパイシーだしカレーっぽい味がするよ」
「それぞれ違うカレー味なの?」
「うん。それぞれ違う。いろんな味がひしめいてる」
 ビリヤニとバナナリーフを交換して、私も次々色々なおかずの部分をご飯と一緒に口に運ぶ。ビリヤニも辛いけれど、こっちも地味に辛い。とはいえ、日本のいわゆる激辛ものとは全然違う。YouTuberが大騒ぎしながらのたうち回るような辛みではなく、井之頭五郎が滲み出る汗を拭きながらしみじみ呟く「なかなか辛いな……」的な辛さだ。頭に五郎を思い浮かべつつ、ちょっと前、二人で涙を流し鼻水をかみ氷を頬張ったりしながら食べきったペヤング獄激辛の麻婆味を食べた時のことが蘇って、頭皮にかきはじめた汗もあってあのショッキングとも言える辛さが襲ってくるような錯覚に陥る。こんなものを好んで食べる人がいるのだろうかと自分で買っておいて訝ったものの、しばらくするとまたあの罪人の死後の世界を彷彿とさせる食体験に心惹かれ手が伸びてしまうだろうと予測もしていた。
「なんか、国別でご飯決めるのもいいかもね」
「ああ、イタリアとか、フランスとか、中国とかってこと?」
「あ、世界地図回してダーツ投げて刺さった国の料理にするとか」
「でもうちダーツないよね。ルーレットアプリとか使ったらいいんじゃないかな」
 若者に見られがちな傾向だけれど、蒼葉は合理的で、めっちゃ合理的だな! と思うこともあれば、合理的だな……と思うこともある。彼の無駄のなさ、無駄への「何でそんな」というナチュラルな疑問を目の当たりにすると、言いようのない寂しさに襲われる。大衆から無駄と言われがちなものに傾倒し崇め救われてきたからだろうか。無駄を減らすことに躍起になっている人は、自分自身が無駄だと気づいてしまった時どうするのだろう。本当に無駄ではないことなんて、無駄の中にしか存在していないのではないだろうか。でもこういう話をすると蒼葉は困ったように笑うだけで何も言わなくなるから、私はもうこういう話はしない。
 不要不急とか無駄とかいう言葉に敏感な私は、蒼葉がほとんどのことをスマホで終わらせているのを見ると辛くなる。そして、蒼葉が大した直しもないのに幾度も卒論を見直し見直し文章や構成についてああかなこうかなと聞いてくると嬉しくなる。延々パソコンに向かってマイナーチェンジを繰り返しているのであろう蒼葉に、かつてなくシンパシーを感じるのだ。
「でも例えば南アフリカとか言われてもよく分かんないよね」
「うーん、アフリカだからクスクスとかじゃない?」
「じゃ、クロアチアとかは?」
「私クロアチア行ったことあるよ。トルコっぽさとスペインっぽさが融合してる感じだった」
「へー。美味しそう。いいね、ランチで毎回異国を味わうって」
「今の期間を最大限楽しまないとね」
 私の言葉に、蒼葉は晴れやかな笑顔を見せつつ、志絵ちゃんその辺パイナップル入ってるから気をつけてねと、酢豚やピザなどおかずに甘いものが入っているのが苦手な私に忠告してくれる。
 四日前、吉岡さんからコロナ陽性の報告がきた。天野さんとの距離はギリ一メートルあるかないかってところだったから、一メートル以内にマスクなしで十五分以上って定義はギリギリ満たしていないということにして保健所には報告はしないということでもいいと思うと吉岡さんは言ってくれたけれど、三時間近く一緒にご飯を食べてもいたし、皆でわいわいしながら焼肉を食べていたことが私自身も不安にさせた。でも逆に、濃厚接触者になったと言えば全ての対面の仕事はスムーズにリモートか延期に変更してもらえるけれど、濃厚接触者であるかもしれないことを隠してこれから十日ほどの対面の予定を変更してもらったら信頼を損なうかもしれないし、予定変更せず誰かに感染させてしまったら最悪だし、もし発症してどこからか感染が公になり、またどこかで吉岡さんのコロナも公になり、「トークショーの時に罹ったのでは」と推測されひどい憶測により吉岡さんや私が猛烈に叩かれる可能性もなくはないかもしれないと最悪のケースにまで想像が及び、大事をとって濃厚接触者に指定してもらうことにした。保健所からも連絡が来たものの、症状がなければ検査は受けなくてもいいですと意外なふわっと加減で言われ、陰性であった場合も最後に陽性者と会った日の翌日から二週間行動制限をお願いしますと言われたため受けないでいいやとなった。
「さっき吉岡さんから連絡がきて、私濃厚接触者になっちゃったんだけど、一応家庭内隔離した方がいいかな」寝室からリビングにいる蒼葉に電話を掛けそう聞いたけれど、濃厚接触でそこまでする必要あるかなと蒼葉は言った。例えば私がもし陽性で自宅療養を選んだ場合、蒼葉は私の療養終了後の二週間後まで外に出れないんだよ。と最近知ってショックだったことを伝えた。濃厚接触の定義はマスクなしで一メートル以内に十五分なのに、一緒の家にいた場合別部屋で隔離をしていても濃厚接触となるというのは何だか納得がいかないし、科学的でない気もするけれど、とある編集長が家族の濃厚接触者となり、厚生労働省にまで電話をして確認したと言っていたからそれは覆らない事実なのだろう。
「それって、同じ家にいたら感染のリスクが高いからってこと?」
「そう。だからもし私が発症したら、療養期間の十日と療養後の二週間、一ヶ月近く蒼葉は行動制限することになる。でももし蒼葉が今日実家に帰ってしまえば、私が陽性になったとしても明日から二週間の隔離で済む」
「複雑だな。でもコロナって感染してから発症まで大体五日程度って読んだけどな」
「そうなんだけど、二週間行動制限をってことは、やっぱり二週間後に発症する例もなくはないんじゃないかな」
「俺は実家には帰らないよ。それにもし志絵ちゃんが発症したなら、隔離は仕方なくても同じ家でちゃんと様子を把握してたい。自宅療養で孤独死って例もあるんだし」
 二人でいたって搬送先が見つからなきゃ死ぬかもしれないけどと思いつつ、でも急激に症状が悪化する例もあるっていうよなと思い直す。どうしたらいいのかよく分からなかった。今は私情を抜きにして考えるべきなんじゃないかと思うけれど、俺もうワクチン打ったし、という蒼葉の言葉で何となくまあいいかと吹っ切れて、じゃあいいかということになった。何だかぼんやりしていて、接種券と一緒に送られてきた案内状すらロクに読んですらなさそうかつ「予約取れたら打つよ」と言いつつ自治体の接種予約サイトにログインすらしていない様子の蒼葉に不安を感じていた矢先に大学の職域接種があると聞き、今は大規模も個別も全然予約取れないから接種が嫌じゃないなら大学で打っときなよと勧めたのだ。
 私たちはソファに並んで座って、メモパッドに行動制限解禁日の日付を書き込み、これから何をするか話し合った。
「えっと、俺が買い物とか行くのはいいんだよね?」
「蒼葉は濃厚接触者じゃないからね。私が発症したら行けなくなるけど」
「じゃあ、早いうちにちょっと非常食的なもの買い溜めしとく?」
「そういうのはAmazonでまとめ買いしようよ。重いし」
「そっか。なんか陽性になった時のために消毒液とか買っとく? 解熱剤とか」
「あー、じゃあ消毒液Amazonで買うね。解熱剤はストックあったはず」
「じゃあ、別に特にやるべきことってないのかな」
「意外とないね。でもしばらく一緒にお買い物に行けないね」
「志絵ちゃんが一緒じゃないと安い野菜と安い肉ばっかりになるね」
「えー、たまにはいいお肉買ってよ。あ、じゃあさ、行動制限中はお昼ご飯毎日ウーバーイーツにするっていうのはどう?」
 なにその贅沢。と蒼葉は笑って私の太ももを撫でる。
「長期間外に出れない自分へのご褒美」
「でも、昨晩のおかずの残りとかあったらどうするの?」
「昨日の残りは翌日の夜ご飯に食べればいいじゃん。とにかくお昼は食べログでブクマしつつずっと行けてなかったお店とかのご飯を毎日食べるの」
 いいよと蒼葉は笑った。じゃあ俺は毎日走ろうかなと言うから、私に罪悪感与えたいの? と言って胸に飛び込む。何となく自主隔離でも楽しい生活は送れそうだと楽観視しながら、私は隔離期間中に入っている予定を変更してもらうため何件か電話を掛けた。気になさらないでくださいとリスケやZoomへの変更を快諾してくれる編集者や記者が心から有難かった。こんなに仕事相手を有り難く思ったことはないかもしれないとさえ思ったけれど、冷静に考えれば今濃厚接触者や感染者に対して「はあ?」「マジかよ」的な態度を取ろうものなら社会的信用をなくすのは間違いないから当たり前の反応とも言える。
 十年くらい前よく食べていたけれど閉店してしまったカレー屋が昨年三駅隣に復活したと聞いて以来いつか行こうと思いながら食べれていなかったカレー屋の激辛チキンカレーと大辛グリーンカレー、近所だけどいつも並んでいるから結局いつも入らないローストビーフ専門店のローストビーフ丼とビフテキ丼、前に編集者から教えてもらった老舗メキシカンのタコス三種セットとタコライスときて、今日はずっと前にブックマークしていたけれど駅と駅のちょうど中間にあるせいでなかなか行く気になれないスリランカ料理屋に注文したのだ。近所の大きなスーパーに行く蒼葉に、日本のっぽくないビールを全部一本ずつ買ってきてと頼んでいたため、毎回冷蔵庫を眺めて料理に合いそうなビールを探すのも楽しみの一つになっていた。スリランカのビールはなかったけれど、今日はキングフィッシャーというインドのビールを合わせた。
「なんか何を食べてるのか分からないけど美味しいね」
 完全に全てを混ぜ合わせたバナナリーフの中身は、それぞれの味が活きているんだかいないんだかさえ分からない。でもとにかくこれまで自分が食べてきたカレーを覆すカレーだった。
「だね。よく分かんないけど美味しいし、しっかり辛いし、形容し難いけどすごい味。志絵はどっちの方が好き?」
「難しいな。最初はビリヤニの方が味がまとまってて美味しい気がしたけど、混ぜ合わせてからはバナナリーフの方が難解でより深い気がするし、なんて言うかビリヤニはカレーチャーハンみたいな誰が食べても美味しい味なんだよね」
「確かにチャーハンっぽいよね。すごく美味しいけど、多分誰が作ってもある程度は美味しいみたいな」
「そうそう。それに比べてバナナリーフはちょっと、この店でしか奏でられないハーモニーが生まれてる気がする。想像を超えてくるって意味で、食の喜び的にはバナナリーフの方が強いかな」
「確かに、この中身も季節によって変わるんだろうし、次もまた食べたいのはバナナリーフかもね。バナナリーフは味が記憶できないし毎回変わるだろうからまた食べたくなる、ビリヤニは味が記憶できて安定感があるからまた食べたくなる、また食べたくなる動機が違う感じだね」
 普段表現力も言葉も乏しい蒼葉だけれど、料理やご飯のことに関してはよく話すし、味の分析もなかなか鋭い。私が真っ先に避けたビリヤニの中に埋もれていた木の破片のようなスパイスにも齧り付いて味を確認していたし、ビリヤニって家で作れないのかなと検索しては「元々は宮廷料理で、手間がかかるからお祝いの時用のご飯なんだって」と残念そうに話し、やっぱりお店で食べるに限るねと締めくくった。ウーバーイーツの活用は、自粛期間を楽しく過ごすための提案として最適だったと改めて思う。

 それでも段々倦んではきて、もういやだ外に出たい人に会いたいお店でご飯を食べたい外でお酒を飲みたい排気ガスの匂いを嗅ぎたい電車のあのちょっと嫌な匂いを嗅ぎたい人混みを縫うようにして歩きたいスーパーで人にカゴを当てられてイラッとしたいすれ違うセンスのいい服を着ている人を観察したい誰かの落とし物に気づいて拾ってあげたいそして落とし物を拾われたいパスモの残金不足で改札バンされたい。とにかく家で執筆とZoom取材とご飯とネトフリとセックスの繰り返しという生活に倦んでいた。この苦しみを先月コロナに罹患して十日間ホテルで療養生活を送っていた和香に伝えると、分かるわ十日くらいなんてことないって思ってたけど私全然無理だった部屋が狭くて閉所恐怖症になりそうだったしホテルのご飯ロクなもの出なかったし差し入れとか持ってきてもらうこともできないし自宅療養にしとけば良かったって思ったし窓の外の人を見て私は一生もうあっち側には戻れないんじゃないかって不安だった、と捲し立てた。そして「刺激が欲しいならセックスライフに革命でも起こしてみたら?」という和香の浅はかな提案により、私はアダルトグッズを検索し手錠や足枷、鞭やニップルクランプを購入し、最近あまり使っておらず仕舞い込んでいた玩具も充電し直した。意欲はあったけれどあまり刺激を求めない蒼葉と思うように動けないことにストレスを感じる私の組み合わせでは何だか道具をうまく使いこなせない猿のようなことになってしまい、面白かったけどまあいつものセックスの方がやりたいようにできていいかもねというレベルの出来となった。それでも、最近日常と化していたセックスが存在感を増し、改めて二人が時間や想像力を費やし豊かにしていくべきものと再認識できたのは良い経験ではあったし、これからも二人でいろんなものを試していこうという総意が互いへの思いを深めたような気はした。
 結局全くもってコロナの兆候は出ないまま行動制限期間は最終日を迎え、翌日いつもより早起きをして入念に化粧をするとほぼ体と一体化していた部屋着からミドル丈ワンピースに着替え、十一日ぶりにハイヒールを履いて外に出ると、私は蒼葉とお気に入りのスープカレーのお店に向かった。蒼葉はお気に入りのロースト玉ねぎと厚切りベーコンスープカレーを、私は夏期限定の海老と夏野菜のココナツスープカレーを頼む。ここは常に期間限定メニューがあり、通常メニューも二十種ほどあってかつどのスープカレーもかなり味が違い、どれを頼んでもものすごく美味しいため密かにコンプリートしたいと思っているのだが、あれ美味しかったよなとつい以前食べたものを注文してしまうことが多いためまだまだ道は長い。レストランは大きく二種類に分かれる。自分でこの味を再現してみたいと思うものを出す店と、この味は絶対に再現できないから食べるためにはこの店に来なければと思う店だ。後者の方が圧倒的にリピート率が高い。そしてこのスープカレー屋はその最たる店で、この店でスープカレーを食べて以来他のスープカレー屋に入ると必ずこの店の方が美味しかったなと物足りなさを感じ、ここに来るまでその物足りなさが続くため別のスープカレーの店に行くこととこの店に舞い戻ることがセットになってしまうほどの中毒性がある。
 安定の美味しさに唸り絶賛し酔いしれ、ドラッグストアとスーパーと八百屋で買い物をすると、一旦家に帰ってジャージに着替えてラケットを持って近くの公園でバドミントンをした。たくさんの家族、子供連れ、小学生くらいの子供たちのグループ、散歩をしているらしき老人たち、筋トレ器具があるため懸垂や段差を使ったトレーニングをしているランニングついでに寄った風の人たち、スープカレー屋でも思ったけれど、こんなにも他人を温かく見つめられたのは初めてかもしれない。いや、そういえば新生児の理子を連れて退院した日なんかも、こんな気持ちだったような気がする。あの時小さなひよこの刺繍の入ったおくるみに包まれた神々しい存在を恭しく抱えてタクシーに乗り込み窓の外を眺めながら、私は今みたいな気持ちになっていたように思う。入院も一週間ほどだったし、母子同室の孤独も味わっていたし、あの時も今と同じような隔絶感を抱いていたのかもしれない。
 今日はほんと風がないね、そうだねいつもよりちょっと涼しいしバドミントン日和だね、あ、ごめん、大丈夫取れる、言い合いながらラリーを続けていく内、交わす短い言葉たちのどちらを自分が、どちらを蒼葉が口にしているのか分からなくなっていく。世界の現実味がまだ薄い。なんとなく出産入院のことを思い出していたせいか、薄い現実と同時進行で記憶が蘇り続ける。タクシーから降りマンションに入り、いつもの場所に帰ってきた瞬間私はこの世が赤ん坊が支配する世界になっていることに改めて気づく。どこかで新生児に、私は魂の一部分を明け渡していたのだ。そんなことではいけない。私は私で、魂は誰にも明け渡してはならない。そう思うのに、私の世界にはすでに理子が君臨していた。私は彼女を見上げながら、こんなに大きな存在とどう付き合っていったらいいのか分からないと困惑していた。こんな大きな重いもの請け負えない。無理だ。負け戦を自分から始めてしまったような気分だった。この出産は間違いだったかもしれない。私は大切な私を喪失してしまった。そう思った。そうやって、私は自分の大切な部分と引き換えに、大切なものを手に入れたのだ。いつもそうだあれもこれも全て手に入れるわけにはいかない。これまで死ぬほど好きで仕方なかった男たちを、次の男を手に入れるのと引き換えに手放してきたのと同じことだ。私は自分にそう言い聞かせ無我の境地で育児を始めたけれど、理子が大きくなるにつれて、喪失したと思っていた私が少しずつ戻ってきたことに気づく。戻ってきてホッとする気持ち、愛おしく思う気持ちもあったけれど、どこか「人は死ぬまで変わらないんだな」という呆れに近いものもあった。
 バドミントンを始めて一時間半ほど経つと、なんとなくお互い終わるきっかけを喪失したかのような惰性感が漂い始めたけれど、私たちはきっかけを喪失し続けた。そろそろ終わりにしようか? どちらかがそう言えばもう片方は必ず同意するだろうという確信があるのに、ラリーが続くのがそれなりに楽しくもあってその言葉はどちらからもなかなか出てこない。あ、ごめんという蒼葉の言葉と共に大きく逸れて落ちた羽根を拾った瞬間、ベビーカーを押す女性がこちらに向かってきているのが目に入り私は動きを止める。猫のような泣き声を上げる小さな赤ん坊がそこには鎮座していて、みじろぎもせずただ声だけを上げていた。本人はもっと大きな声を出したいのに、本人の体格や体力的にこれ以上は無理という感じで、見ていて切なくなる。あの子の代わりに声を張り上げて大声で泣き叫んでやりたくなる。鳥も鳥かごからある日突然解き放たれたら、こんな風に世界や他者とのバランスを崩してしまうのだろうか。久しぶりの外で、全てとの距離感が分からず全てがオブラートに包まれない生のまま私に追突してきているようであまりにも強い刺激にどうしたらいいのか混乱していた。
「志絵?」
 ベビーカーが通り過ぎても尚そのベビーカーを押す母親の後ろ姿を見つめていると、蒼葉が砂を踏む音をたてて歩み寄り声を掛けた。振り返るとどうしたのと蒼葉が驚いている。熱い涙が両目からこぼれ落ちていた。
「私は戻ってきた」
「うん。無事に自主隔離が終わって良かったね。いつ発症するか分からなかったし、志絵ちゃんはワクチンも打ててなかったし、不安だったよね」
 そういうことではない。そう思いながらも、背中を撫でる蒼葉の優しさに身を委ねる。確かに私は外の世界に戻ってきた。でもそうじゃない。私は理子の君臨していた世界から理子が君臨しない世界に戻ってきたのだ。自分以外の誰かが非論理的に君臨する世界に生きるのは辛い。宗教のように自分が納得できる論理に基づく君臨だったら違うかもしれない。でも、恋愛相手や子供や親のように、ロジックとは全く別のところで己の頭上に君臨するものがある世界にはとてつもない重力が働き、生きているだけで疲弊していく。その世界では己の理想や祈りなんて無意味で、ただ無条件な君臨の下に根拠不明な赦しや施しや責め苦が徒に現れる。
 私は誰かの君臨する世界に疲れていた。でも今、誰も君臨しない世界に一人で存在しながら、それでも私は疲れている。誰も君臨していない世界に疲れている。一人で生きることの辛さを、私は一方的な宗教を喪失して改めて自覚したのだ。思えば私は、ずっと盲目的な恋愛をすることによって誰かを我が世に君臨させ半分意識的に自分を操っていたのかもしれない。そしてその果てに生まれた理子にそのバトンは渡された。そして再びそれを失い、君臨ではなく並走を望む蒼葉と結婚し、私は今一人だ。一人で立ち、一人で生き、一人で自分を支えている。かつてこの世界に君臨した吾郎も理子も、行哉もその他の元彼たちも、もう私の世界に君臨しない。私をどうしようもない力で救いも苦しめもしないのだ。でも私が猪に激突されて訳の分からない行動をとるのはそうした何者かの君臨によって己の中にあるエネルギーをコントロールできなかったからかもしれない。だとしたら今自分で自分を統制しているこの世界では、私は激突されずにいられるのかもしれない。いやどうだろう。直人は私の世界には君臨していなかった。やはり並走派だった。でもどこかで、直人が私の世界に圧倒的な存在として君臨してくれないことに、私は苛立っていたような気もする。その役割を押し付けたがっていたのかもしれない。だとしたら、今こうして蒼葉と役割を押し付けあったりせず穏やかな生活を送っていることは、何かは分からないけれど新しい何かへの第一歩なのかもしれない。
「志絵ちゃん? 大丈夫? そろそろ帰る?」
 ポロポロと流れる涙が止まらない。引きこもり生活の中で世界との距離感が分からなくなってしまったから、自分のこともコントロールできないのだろうか。
「美味しいケーキが食べたい」
「そっか。ごめん俺財布置いてきちゃった。志絵ちゃん持ってる?」
 首を振ると、じゃあ一旦財布取りに帰ろうかと蒼葉は前向きな言葉を口にする。頷くと、蒼葉の胸に顔を埋めた。疲れたね、行動制限がんばったね。抱きついたまま離れられずにいると、子供たちがガン見してるよと頭を撫でながら彼は言う。本当はケーキなんて全く食べたくなかった。それでも何か一つワガママを言わなければ針でついたように爆発してしまいそうだった。
「理子に会いたい」
 それでも本当の望みが口をつく。最初からそう言えばいいのに、私はワガママであるという表明をしてからでないとこの望みを口にできないという自分の面倒臭さにうんざりする。
「電話してみる?」
「今日はいい。明日電話する」
 二週間前、濃厚接触者になったと話すと理子はまじ? 大丈夫? ママもコロナなんの? とひとしきり騒いだあと、夏休み中何日かそっち泊まりに行こうと思ってたのになーと残念そうに言った。娘との時間がとある五十代男性との濃厚接触によって奪われたのだと思うと耐えがたく、私はわざと両目のピントを外して現実感覚を薄れさせるよう努めた。
「十一日後に行動制限終わるから、そしたらおいでよ」
「でも最後の方は宿題溜まってるからなー」
「宿題が溜まるのは自然の摂理じゃないよ。理子が溜めるから溜まるんだよ」
「そうだけど! でも! 分かるでしょ」
「分かるけど。早めに終わらせて遊びにおいでよ。また三人でご飯作ろう」
「がんばるー。ママも濃厚接触がんばってね」
「濃厚接触じゃなくて、行動制限ね」
 これからナツナと遊びに行くところでと話していた理子は、慌ただしく「じゃまたね」と言ってLINE通話を切った。最近、理子から知らない友達の名前が出てくることが増えた。三年に上がるタイミングでクラス替えがあったからだろう。理子には信じられないくらいたくさんの友達がいて、余すところなく自分の生活を謳歌している。彼女はあまりにも人生を楽しんでいて、いつかあまりに人生を楽しんでいるという理由で誰かに殺されてしまうのではないかという想像に囚われて逃れられなくなるほど、人生を楽しんでいるように見える。何だか怖くなって、怖くなっている自分にウケた。

 家に帰って先にシャワーを浴びると、私は髪も乾かさないまま玄関に近いところにある理子の部屋のドアを開けた。掃除をする時はここも掃除機をかけたり、時々換気をしたりするためたまに入っているが、がらんとした部屋は娘の不在をあまりにも雄弁に表現していて自分の心が可視化されたような気になるのが辛くてどこか避けている自分がいる。
「うちの勉強机こっちに送ることってできる?」
 送ることってできる? その微妙なニュアンスには、この依頼で悲しむであろう私に対する申し訳なさが含まれているのだろうか、ただ単に面倒臭いことを頼む申し訳なさか、それとも単に国語が苦手で話し言葉もあまり成長しないまま中学生になった故の言い回しだろうか。夏休みに入る前、唐突に送られてきたLINEに、「できるけど、そしたらうちに来た時勉強できなくなっちゃうよ」と返信した後、家を出て以来理子がこの家に泊まったのは先月の一回だけだったのによく来ている風な言い方をする自分が惨めに感じられ、惨めさをどうにかしようと「勉強机が欲しいならそっちに届くように買ってあげようか?」と連投した。
「いいの? やった!」
 理子は無邪気だ。送ることってできる? という言葉も、本当にただ単に「送ることってできるのかな?」という疑問から発せられた言葉に違いない。私はあけすけな彼女を通して、常に人や自分の表層を剥いで中を見たいという欲望から逃れられない自分の卑俗さを知る。
「どこに置くか決まってる? 吾郎はいいって言ってるの? きちんと寸法測って合うもの選んでくれれば買ってあげるから、自分で選びな。後でおしゃれで手頃な家具のネットショップいくつか送るよ」
 前に勉強机はいらないかと聞いた時には、リビングで勉強するからいいと言っていたのに、彼女の心変わりは何が原因なのだろう。
「ありがと!」
 理子は言葉が少ない。蒼葉もそうだ。彼らはまるで言葉を、必要なことを伝えるための事務的なツールだと思っているかのようだ。言葉は霊的なもので、この世に存在するどんな事物よりも奥深くまで自分に侵入し支配し良くも悪くも己を変化させる恐ろしく、また尊い存在なのだと私は彼らに伝えてきたつもりだったけれど、それで彼らにとっての言葉が変化した様子はまるでない。家具のショップを三つほどリンクで送ったけれど、ありがとうのスタンプが送られてきただけで、まだこれがいいという連絡はない。これがいいと言われたら、私はまた私たちを繋ぐ糸が一本切り離されたような気になり、虚しさを抱えたまま吾郎の家の住所を入力し机を購入するだろう。購入ボタンを押す自分を想像しながら、もうすでに虚しくなった。この虚しさを共有できる人がいないことは、救いのようにも罰のようにも思えた。吾郎は無神経さ鈍感さによって、蒼葉と理子は未だ子供としての視点しか持たないことによって、私のこの疎外感を理解できないだろう。直人だったら理解してくれそうだけれど、彼は新婚で、これから新しい彼女との間に子供だって儲けるかもしれず、そんな人に共有して欲しいとは思えない。あるいは蒼葉の母親であれば、私のこの思いを寸分違わぬ形で共有できるかもしれないと、無駄なことを考える。結婚から半年以上が経つが、バレていないのかバレていて何も言わないのか、蒼葉には何の連絡もきていないようだ。
 なるようにしかならないし、なるようになっていくものを自分の手で食い止めたり変化させたりすることはできない。誰かの意思とは別のところで、いや、全ての人の意思と全ての人の置かれた状況の総合的な結果として、誰も予測できない時刻表に従っているかのような無慈悲さで、全ては動いていく。
「志絵ちゃん?」
 振り返るとタオルを首にかけた蒼葉が部屋の入り口から私を覗き込んでいた。
「びっくりした。一人でケーキ買いに行っちゃったのかと思ったよ」
「この間理子がデスク欲しいって言ってたから、どんなの使ってたか見てみようと思って」
 そっか。ドライヤー先使う? 蒼葉に頷いて私は立ち上がる。食べたいものを食べ、欲しいものを手に入れることができる、もう、好きな時に外に出れる。それでも私は不自由で、こんがらがっていて、近所のパティスリーで買ったショートケーキはきっとショートケーキが好きな理子を想起させ、私はまた悲しくなるだろう。

illustration maegamimami

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連載【デクリネゾン】
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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』『パリの砂漠、東京の蜃気楼』『fishy』 等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。

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HB[エイチ・ビー]は、集英社グループの出版社・ホーム社の文芸サイトです。2017年11月にウェブサイトを立ち上げ、2020年にnoteへ引っ越しました。小説やエッセイを中心に、毎日をより楽しく過ごすための、さまざまなコンテンツをお届けします。