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金原ひとみ デクリネゾン  第7話「プルポとタコス」

illustration maegamimami
「であるから、私は繰り返し、繰り返しいうが、原子は少々斜に進路を逸れるに違いない。」
『物の本質について』ルクレーティウス著 樋口勝彦訳 岩波書店

 ほんと信じらんない。信じられる? 信じられないよ。数日前、そっちの家の近くで打ち合わせあるからその後飲もうと誘ってきた和香は、スペイン料理屋で落ち合うと即座にことの顛末をざっと説明し、最後にはそうまくしたてた。でもどこか和香の憤慨は”敢えて感”がある、と思いながら私は黙ったままフルートグラスを持ち上げ小さく頷く。
「何でちゃんと言ってくれないんだろ、マジで私のこと何だと思ってんだろ」
「和香、ウニプリンだよ。ここのウニプリン死ぬほど美味しいから」
 旦那が子供を連れて失踪し、まさに捜索願を出そうとしたその時、息子の愁の子供ケータイから和香に電話がかかってきて、ようやくその全貌が明らかになったのだという。
 和香の夫は昔バンドを組んでいた子持ちの元メンバーに、奥さんがしばらくいないから何日か泊まりにおいでと誘われ、向こうの子供も含めた四人でカミキリムシの採集やモンハンや釣りをやって遊び呆けていて、ママにメールしておいてと頼んでいたため愁が連絡しているものと思い込み、自分はiPhoneの充電器がなかったため連絡を受けられなかったというのだ。
「死ぬほど心配してたのにごめんごめんーってヘラヘラしてて、結局帰ってきたの一週間後だよ?」
「まあ、和香も一人の時間を持てて自粛のストレスから解放されたところもあったんじゃない?」
「そこまでストレス溜めてたわけじゃないけどね」
「帰ってきてからは、普通?」
「うん。学校も始まったし、旦那も少しずつ仕事再開し始めたし、まあまあ通常運転に戻ってきたかな」
 そういうことじゃなくて、と言いかけて止める。和香はきっと、何でもなかったと思いたいのだ。ちょっとした悪条件が重なって和香に連絡を取れなかったというシナリオを、信じたいのだ。実際に、旦那は嘘をついてはいないだろう。それでも連絡をしようと思えばできた条件下で彼が敢えて連絡をしなかったことには何らかの、小さなものかもしれないけれど、歯に挟まった鶏肉が取れないとか、ささくれが痛いとか、靴ずれが痛いとか、そういう不愉快が根拠となる理由が隠されているのではないだろうか。そう考えるのが自然だと思ったけれど、戻ってきた普通の生活を受け入れている様子の和香に敢えて言う必要はないのかもしれなかった。
「このまま一人で生きていければ、とか考えなかった?」
「逆に、私には家族が必要だって感じたかな」
 へえ、と意外な言葉に眉を上げ、クラッシュアイスの上に盛られた牡蠣の下殻を持ち上げる。めちゃくちゃ大きいねこの牡蠣、と和香はほとんど不快そうに言いながらレモンを搾った。一口では全く食べきれず、がぶがぶと何度もかぶりついていると、何だか生牡蠣を食べているというよりもおにぎりやハンバーガーを食べているような気になって笑えてきた。
「私には夫が必要」
 和香の言葉には迷いがなく、戦うように牡蠣にかぶりつくその態度一つにも、強い意思が籠っているかのようだ。
「夫との生活と不倫相手との遊び、夫とのセックスと不倫相手とのセックス、夫とする仕事の話と不倫相手とする仕事の話、夫と思い描くこれからの家庭の形とこれからぐずぐずに煮崩れていくことが予想できる不倫相手との関係の崩壊、私には全部必要。全部欲しい」
 人がこういう欲望を持った瞬間に雷が落ちて死ぬ世界であったならば、私たちはもう少し生きやすかったかもしれない。隣に座る和香に雷が落ちて感電する様子を想像しながら、どんな欲望を持った人もそれだけでは死に至らないこの世界を少し憎む。二人で時間をかけて牡蠣を食べ切ると、殻を重ねた。
「私は旦那のことが好き」
「不倫相手のことは?」
「好きだけど、不毛」
「根津くんとの夫婦関係は不毛じゃないの?」
「不毛」
「和香にとって不毛じゃない恋愛は存在しないんじゃない? ていうかそもそも恋愛って誰にとってもそれなりに不毛なものなんじゃない? 誰かを好きになって一緒にいたいと思って一緒に暮らしたり結婚したりする。子供を作ってコミュニティを形成してその一員として機能する。そのことに達成感とか満足感を抱けない人は今の時代多いんじゃないかな」
「志絵もそうなんじゃないの? だから結婚と離婚を繰り返してるんじゃないの?」
「私にとっては人生の要素全てが不毛だよ。不毛じゃないものがこの世に存在するって思えない。仕事をしてても子供を育てても恋愛してても生活してても、常に無駄って言葉がキーンっていう耳鳴りみたいに延々鳴り続けてる。こんな無駄感と皆共存してるの? ってポカンとする。それとも皆は私とは違ってそれらに確固たる価値を信じて生きてるの? って思う。でもそんなわけ多分なくて、皆壮大な無駄としっかり共存してる」
「夫は私の無駄をかき消してくれてる。無駄に火がつくと消火器で消してくれる。だから私は離婚できないししたくない。夫を失ったら私は無駄の大炎上で死ぬ」
「つまり和香は不倫することで無駄を炎上させて、それを夫に消してもらってるってこと? マッチポンプみたいに?」
「無駄だけでも、非無駄だけでも生きていけないと思う」
 湯気をあげるムール貝の酒蒸しにフォークを伸ばし、殻から身を剥ぎ取り口に放り込む。「この会話を聞いたらある種の人は殺意を抱くだろうね」。和香の言葉に笑ったけど、和香は笑わなかった。笑わずに次々ムールを殻から剥がして口に放り込んでいく彼女を見ながら、哀れみと共感を覚える。
「夫には無駄がないの。全てがあの人の意味になってる。全てを無意味から意味に変えていく。どうしてあんな生き方ができるんだろうって思う。彼は自分が目にするもの耳にするもの手に触れるものを全てかけがえのないものにしていく。彼は私の神。あんな人二度と私の前に現れない」
「離婚したいって言われたらどうするの?」
「全力で縋る」
 だったら不倫なんてしなければいいのに。皆が思うだろうことを私も思って、でも言葉にはしないで曖昧に笑った。彼女は正直だ。私は、吾郎にも直人にも縋れなかった。本当は二人とも必要だった。吾郎も直人も、私には本当は必要な存在だったのだ。それでも、不倫は止められないけど離婚もしたくない、と馬鹿正直な気持ちを吐露して縋ることはできなかった。その点、和香は潔い。キャリアも子供も夫も不倫も、全てを手に入れないと気が済まない自分勝手な女。世間からはそんなレッテルを貼られても仕方ない言動をとっているけれど、きっと和香は、自分を成り立たせるための薬を飲んでいるだけだ。耐性がついてどんどん薬の種類と量が増え、全てを無理やり飲み込んでいるだけだ。どの処方を無くしても、彼女はまともではいられない。発症して、炎上してしまうのだ。気がつくと、スパークリングの後にボトルで頼んだオーストリア産のオレンジワインがもう底をついていた。
 豪快な印象を与える女性店長にグラスの赤をそれぞれ注文すると、大振りの赤ワイングラスが出された。カウンターには私から一席空けて一組のカップルが、和香から一席空けて一人の女性客が座っている。入り口付近では三人の女性がスツールで丸テーブルを囲んできゃっきゃと料理にお酒に話に盛り上がっていて、奥まったテーブル席は見えないけれど、やはり三人か四人くらいの客が入っているようで時折わっと盛り上がる声が届く。飲食店が八時で閉まっていた緊急事態宣言下と比べると、人々はすっかり気を緩めたように見えるけれど、店側はテーブルや席を一つずつ空けることで客を50から60%ほどに制限しているようだった。
「愁くんの学校はもう通常通りの登校なの?」
「ううん。まだ一日おきの通学。理子ちゃんは?」
「今週から、毎日通学になったんだったかな。午後組と午前組に分けて、生徒は半分ずつにしてるみたい」
「志絵は、半分親を卒業したんだね」
 そうなのかな、と言いながら赤ワインを飲み込む。一口目で酸味が強くて苦手だと思ったワインは、飲み進めていく内に胡椒のようなスパイシーな香りが立ってきて、いつの間にか飲みにくさを感じなくなっていた。先週、蒼葉と理子と三人で食事に行ったけれど、あの吾郎の家で誕生日会をした時と比べると当たり前だけれど理子はよそよそしく、三人でいることの居心地の悪さを痛感するだけの会食となった。
「愁くんてYouTuberの動画とか見る?」
「ほっとけばずっと見てるよ」
「この間ご飯行った時、理子と彼氏の間で一番盛り上がったのがYouTuberの話だったんだよ」
「へー。大学生も見るのか。まあ見るか」
「理子がいなくなってYouTuberの動画見る人が家からいなくなったと思ったら、彼氏もたまにYouTuberの動画見ててさ」
 子供がちょっと大きくなったってだけって感じ? と冷笑的な態度で言う和香に肩を竦めてみせる。
「もちろんさ、私が子供の頃夢中になってたものとかに対して、私の両親も何が楽しいんだろうって思ってたと思うんだよ。漫画とか、好きなアイドルとかさ」
 そう思って、ずっと理子に対する苦言を呈したい衝動を押しとどめてきた。そこまで夢中になれるものがあること、好きなものがあることはいいことだと自分に言い聞かせてきた。
「でも中学生くらいになると、小説とか、映画とか、少し大人っぽいものを好むようになっていくでしょ? 難解なものを求めるようになっていくっていうか。和香は中学生の頃どんなもの読んでた?」 
「『嵐が丘』が好きだったよ。初読の時はきつかったけど、読み終えた後すぐにまた読み返して、何ていうか、中学生の一時期BGMみたいに『嵐が丘』読んでた」
「あー。確かに和香の小説は『嵐が丘』へのオマージュ感ある。私はバタイユだな」
「志絵のあけっぴろげな表現はあの辺の影響受けてる感じする。やっぱり若い頃に好きだった本って、その後に影響するのかもね」
「影響与えるっていうか、中学生くらいで自分の生涯をかけるべき方向性は、漠然と見えてくるものなんじゃないかな」
 言いながら赤ワインを飲み干し、同じものをもう一杯と注文する。理子はあのまま、歌い手、YouTuber、漫画アニメ、みたいな世界観で生きていくのだろうか。年齢に合った良質な本を私も吾郎も直人も何年にも亘って買い与えてきたけれど、理子が自分から欲しいと言った漫画以外の本は、マルチユニットクリエイターが自分たちの楽曲を小説化したという、漫画のノベライズのようなシリーズだけだった。その小説の成り立ちの説明さえ、私は理子から聞くだけでは理解できなかった。
「おかあさんといっしょ」的な番組を見ていた保育園時代から今の今まで、彼女の享受するエンターテイメントはさほど進化していないように感じられ、中学に上がった頃から漠然とした「このままでいいの?」という疑問が肥大し続けているけれど、世間的にも中学生というのはそういうものなのかもしれないし、小説家の中学生時代と比べるのはフェアではないだろうし、彼女からすれば私の主張は権威主義的に感じられるのかもしれない。私も結婚した頃、クラシック音楽や海外の古典ばかり薦め、私の好きな現代作家にいい顔をしなかった吾郎に対して権威主義的なものを感じて反発心を持っていたというのに、小説を好きになってもらいたいと願うのはあまりに自分本位なのかもしれない。
 理子が中学一年生の時、保護者会で知り合った保護者の女性が部活選びの話題になった時「うちの子文芸部がいいって言ってて……文芸部なんて陰キャと変人ばっかりだよー、って言ってスポーツ系薦めたんですよ」と笑いながら話しているのを聞いた時、「どうして理子は文芸部とか演劇部とかに一切興味を持ってくれないんだろう!」と心の芯が凍っていくような悲しみを感じた。結局理子は私の薦めには一切耳を貸さず、ソフトテニス部と剣道部を掛け持ちした挙句どちらもあまり気に入らなかったようで、二年に入ってからはバドミントン部と卓球部を掛け持ちしている。好奇心とやる気はあるけれど、特にどの才能もなさそうだ。
「ひかりは何だろうね? 意外と漱石とかって感じしない?」
 確かに! 小学生の頃から漱石読み漁ってた感じする。と声を上げ、じゃあ海外文学なら誰かなと聞くと、和香は待っていいのが思い浮かびそう……と言ったきり黙り込んだ。
「あ、ヘミングウェイとか!」
 先に言うと、和香は「あー大穴っぽい! ヘミングウェイ関西と親和性高そうだし」と口惜しげに言う。がんがん赤ワインを飲み進みながら若い頃誰が何を読んでいたか話で盛り上がりながら、白いTシャツからぐんぐん染みが抜けていく洗剤CM的な気分になる。最近、コロナのせいで仕事の打ち合わせはほとんどリモートかメール、インタビューもリモートで、必要最低限の会話で仕事を終わらせる習慣がついていて、こういう自分の趣味に触れていながら下らない無駄話をする機会が損なわれていたのだ。
「和香は根津くんと小説の話とかする?」
「するよ。私の小説についてとかはしないけど、普通に読んだ小説の話はするかな。一緒に連載読んでる作家も結構いるし。志絵の連載も旦那と二人で読んでるよ」
「そっちの夫婦間で批評されてると思うと嫌だな」
「批評ってほどの話はしないけどね。まあ今みたいな、誰々の何々を彷彿とさせるとか、こういう視点が斬新だとか泥臭いとか、最近だとコロナ禍小説について話したよ。日常からアプローチする方向と、非日常の方向からアプローチする方向の作家がいて、そのアプローチの仕方によって現代作家のカテゴリ分けがしやすくなるっていう話になった」
「私の彼氏はほとんど小説を読まないんだよ」
「不満なの?」
「一緒に住むようになって、あまりにも文化的な会話がないことに疲弊してきた。なんか、会話に飛躍がないって感じ。例えばタコス食べたいねってなると、お店探そう、か、レシピ調べよう、の二択になるんだよ。そもそもタコスの定義とはとか、スペインとメキシコでは同じトルティーヤでもなぜオムレツとトウモロコシの生地なのかとか、伝統的にトマトを食べる国とトマトの歴史が浅い国では人も小説もノリが違うとか、そこからマジックリアリズムとトマトとの関係性についてとか、そういう感じで話が広がっていったりしない」
「まあ、まだ若いし仕方ないんじゃない? ていうかマジックリアリズムについて語る大学生なんて文学かぶれっぽくて逆に引かない?」
「いや、マジックリアリズムとトマトの関係性について、だったら別にかぶれてる感じしなくない?」
「猛烈にタコス食べたくなってきた。ここはタコス的なものないのかな?」
 メニューを見上げて和香が言い、私は思わず笑って肩を叩く。ここは完全にスペイン料理だから、と言うと苦々しい顔で明日タコス食べに行かないとと和香は言う。
「彼と小説とか映画について話せば話すほど孤独感が強まっていく。私たちは本質的に共鳴できないって思う」
「それは仕方ないよね。大人になるまで読書を好んでこなかった人が突然読書を好きになったり、小説に救われるようになることは基本的にないからね。下手に勧めたり共有したりしようとして断絶強めるよりは、別クラスタだしってある程度割り切って付き合った方がお互いのためなんじゃない?」
「まあ、私だって突然大工仕事とか陶芸の仕事について専門的な意見とか聞かれても困るし、それでうまく答えられなくて相手が孤独を感じるとか言い出したら、ほんと付き合いきれないって思うだろうね」
 そりゃそうだ、と和香は笑って、タコのマリネを注文した。カウンターの向こうにある冷蔵ショーケース内のバットから取り分けられたタコは青唐辛子とパプリカとトマトと共にマリネされていて、ぶりっとした食感に眉を上げて唸る。
「あ、ひかりだ。合流してもいいかだって」
 震えたスマホを手に取り、「最悪やったわまだ和香と一緒?なら合流したいんやけどどのへーん?」という圧の強いメッセージを見ながら言う。今日はひかりにも声を掛けていたけれど、旦那の上司宅で食事会があるから無理ーとゲロ吐き顔をつけて返信を送ってきたのだ。裕斗くん一緒じゃないのかなと言いながら「いいよお店の場所送るー」とメッセージを返し、食べログで店舗情報を共有する。

 もう最悪やで。何も言わんと私を労ってや! うんざりした顔で繰り返すひかりの話を聞きつつ、私たちは近くの居酒屋に移動した。店の前での立ち飲みとコの字カウンターと二階の座敷席とを提案され、コの字のコーナーを三人で陣取る。古民家風の居酒屋は、法被を着た店員たちの威勢が良く、日本酒の相談をすると酒造元や製法についても詳しく教えてくれる。ここめっちゃええやん素敵やん! と嬉しそうなひかりは散々悩んだあと貝の浜焼き盛りと煮こごりとマグロのぬたを注文した。
 それぞれ一合ずつ頼んだ日本酒を回し飲みして「飲みやすい!」「辛口!」「フルーティ!」とそれぞれレベルの低い感想を口にすると、私と和香は聞き役に徹した。アパレルメーカーの販売部に勤める旦那が、コロナ以降売り上げの激減のせいか苛立っていることが多く、さらに部下の転職と異動が重なり人が減り担当部門が増え業務が増し、残業禁止出社率六割減を掲げる会社のせいで残業代の出ない仕事を家に持ち帰ることが続き、家庭内での不和が肥大。労を労おうという上司の厚意によって実現した食事会もまた、ひかりをうんざりさせる結果となったようだった。
「まーおもんないいかに売り上げ伸ばすか話と今コロナ出たらヤバい話ばっかして、ほんま仕事のことしか考えてへんのやなって呆れるわ。裕斗がぐずっても何しても気づきもせんと売り上げコロナ売り上げコロナ。私と奥さんが最近仕事ばっかですよねって愚痴ってても向こうは売り上げコロナ売り上げコロナ。なーんか終いには根性論的なこと言い始めて、あんな必死なってる上司たちおったら部下たちコロナかかったかな思っても言い出せんで」
 マグロのぬたに三人で手を伸ばしていると、だいぶお腹が膨れていると思っていたけれど意外にするすると入ってしまう。
「ひかりの旦那さんって、そんな仕事人間って感じの人だったっけ」
 和香が日本酒を手酌しながら言うと、いやーとひかりは首を振る。
「前まではあんなんやなかったよ。でもアパレルもかなり打撃受けてるし、倒産してる同業他社とか見て焦ってるんやろうな。コロナ拡大し始めた頃は、こんなマスク作ったら売れるんちゃう? とか、コロナ柄の服作る? みたいな話して二人で笑ってたんやけどな。五月くらいから、売り上げが前年比八割減とかなって目の色変わってったな」
「だったら、コロナが過ぎ去ればまた元に戻るでしょ。ほら、産後って皆余裕なくなるじゃん? 心身ともにやられてさ。私たちはホルモンの悪戯で産後とか更年期とかにおかしくなるし、男たちは禿げたりEDになるわけじゃん。今旦那さんは産後なんだって思ったらいいよ」
 私の言葉に笑いつつ、ひかりは憂鬱そうな表情を崩さない。
「まあな。でも今の旦那と暮らすのは苦痛やねん。裕斗までどっか父親の顔色窺ってるんやもん。よっぽどやで。前は商品について軽口叩いて笑い合ってたんが、今は私が軽口叩こうもんなら自社製品の生地とかデザインがいかに優れてるかのプレゼンが始まるんやで」
 ひかりの言葉を聞きながら、私は以前蒼葉に対して感じた違和感を思い出す。大学のゼミの四回生が行う発表会で何かの役割を与えられた彼が、その発表会の非合理的なやり方について愚痴をこぼしていた時、それはひどいとひとしきり文句を言い合い盛り上がった後、じゃあこうしたらいいんじゃないか、それが駄目ならこうするのはどうか、とあれこれ提案をした私に対して、彼は大学が古い体質だから仕方ないとか、システムの問題だから、と結局非合理的なやり方でやるしかないと結論づけたのだ。そして何故か最終的に私が大学側を批判し、彼が大学側を擁護するような構図が出来上がってしまい、そもそも彼が不満をこぼしたことが始まりなのに何故私は彼と対立するような構造が生じたのか不可解に思いながら、もやっとしたわだかまりを胸に残したまま私は無駄な提案を止めた。
「恒常的なストレスは、人からユーモアを奪うからね」
 和香の言葉が彼女自身に向けられているように感じられて、思わず和香の顔を見つめる。ひかりの向こうにいる和香は、私の視線に気づいてすんと澄んだような無表情のまま見つめ返してきた。大振りのイヤーカフが色白な彼女の顔を彩っていて、同時にイヤーカフはピアスよりも外すところが想像しやすくてより性的な要素が強い、と唐突にそんなことを思いつく。
「まあ今、会社全体がコロナに打ち勝とう、何とか力を合わせて売り上げ伸ばしてこう的なノリになってるんだろうし、そういう時に斜に構えた態度取りづらいっていうか、そのノリに乗らないと逆にきついみたいなところもあるのかもね」
 私の言葉に、つまり宗教団体の中に、その宗教を信じられんまま所属し続けるんはきついってことやんな、とひかりが同調する。唐突に、私は赤ん坊を育てていた頃のことを思い出す。私にとって、赤ん坊を育てることは宗教に入ることに等しかった。どんなに眠くても母乳かミルクを三時間おきにあげる宗教、赤ん坊が泣けば抱き上げる宗教、常にその存在を意識し一時間に一度はオムツが濡れていないか確認する宗教だった。だから、その宗教に入っていない吾郎が憎かった。最後に何時にミルクを飲んだか把握していない、どんなに赤ん坊が泣いても起きない、生活の延長に赤ん坊が追加されただけという意識で、オムツの濡れているサインも読み取れない、そんな吾郎が許せなかった。一人その宗教に加入させられた私は孤立感と、赤ん坊に対する責任感、吾郎に女として見てもらいたい欲望、の狭間で孤軍奮闘する内、宗教を共有していない人と暮らしていくことが不可能であることを知った。吾郎がエイリアンや犬だったら私は宗教の違いは気にしなかっただろう。でもそんな割り切りはできなかったし、二人で入ることを決めた宗教に、結局ごまかしごまかし加入しなかった吾郎をいつまでも許せなかった。
「でも、やっぱり甘えてると思うんよな。どんなに原稿が切羽詰まってても、仕事相手にひどい仕打ちされて頭に血上ったって、私は旦那に八つ当たりしたりはせんし、子供がビビるような態度取らんし。お前は会社に所属してへんからとか、たまに旦那が言うんやけど、個人で仕事してる人が外からのプレッシャーに晒されてないなんて幻想やでって思わん? そもそも私ら外から依頼される仕事だけで食ってんで? 固定給も福利厚生も一年先の保障もないんやで? って思わん?」
思う、と和香とハモった瞬間ホタテの殻に盛られた浜焼きが出され、ひかりが目を輝かせる。
「なにこれめっちゃあがるんやけど。ホタテとホッキ貝と、なんやろこれ、あ、牡蠣も入ってるやん最高やな」
 捲し立て、ほらほらあんたたちも食べ、と促す。私たちでっかい生牡蠣食べてきたから牡蠣はひかりが食べ、と言うと「志絵関西弁うつってる」と和香が笑った。
「そう言えば、今日裕斗くんも一緒だったんじゃないの?」
「食事会中私に完全ワンオペさせたんやから、って裕斗と帰ってもらったわ」
 三人の中で最も家庭が安定している様子だったひかりが旦那さんへの嫌悪を隠さないことに、私はどこか動揺していた。人の関係が崩れていく時、それは腐った食べ物を想像させる。どこかから腐っていき、いつしかぐずぐずに崩れたり、溶けていく食べ物。いつも、この間まで腐っている様子など微塵も感じられなかった関係が、意外なところから腐敗臭を放ち始め、気づくともう駄目になっているのだ。安定的な家庭を築いていた直人との生活が、ふと思い出される。全体的にごたついていた吾郎との結婚生活と違って、私の不倫が始まるまで、直人は最初から最後まで幸福な生活を与えてくれた。私にとって、あの幸福が崩れてしまったことは世界がひっくり返るような事件だった。
 スマホを見ると、理子の仲のいい友達の母親からLINEが入っていた。「明日学校の後そちらにお邪魔して勉強をすると聞きました。ご迷惑お掛けしますがよろしくお願いします。」というメッセージに何を返信したら良いのか分からない。明日彼女たちが勉強するのは私の家じゃなく元夫の家で、私はその話を理子から聞いてもいません。正直に言う気にはなれず、吾郎に「明日理子の友達が来るんだって?」と確認のメッセージを送り、「駅前で飲んでるなら迎えに行こうか?」という蒼葉からのメッセージに、「もう一人の友達も合流して、ちょっと遅くなるかも」と返信する。ひかりが今日体験したような夫との断絶を、いつか蒼葉との間に感じる日が来るのかもしれない。蒼葉は子供っぽいところがあるし、意見や主張も固まりきっておらず、まだ人格が確立しきっていない危うさがある。これから就活や就職を控えた彼が何からどんな影響を受け、どんな変化を遂げていくのだろうと思うと胸がざわついた。
「そうなの? 俺は聞いてないけど」。吾郎から返信が来て気が抜ける。確かに吾郎と理子の間にホウレンソウが行き届いているはずもなかった。「理子の友達のお母さんからメールがきたよ」と返信し、「お久しぶりです。少し前から理子は実父のところで暮らしていて、明日は実父の家で勉強をするようです。これまでと変わらず私も養育には携わっていくので、今後ともよろしくお願いします」と理子の友達のお母さんに送信した。送ってから文面を見直すと、何だこれ? と思った。唐突に、いろんな意味がよく分からなくなった。

 深夜二時、三軒目のバーを出たあと、私たちはコンビニで大量のつまみとチョコとinゼリーとカップラーメンとおにぎりとありとあらゆる酒を買い込むと不時着するように私の家に上がった。出迎えてくれた蒼葉は帰り道に電話で伝えていたとはいえ面食らった様子で、ベロベロではないけれどまあまあ酔っ払った二人に簡単に挨拶をした。もしかしたら本心では苛立っているかもと思っていたけれど、○○は今食べますか? ○○は? と逐一聞きながら冷蔵庫に詰めるものとテーブルに出すものを分けていく蒼葉はどことなく嬉しそうで、それぞれの飲むお酒に適したグラスと、ソファで寝る人用の毛布と枕も持って来てくれた。
「蒼葉くんも一緒に飲もうや」
「あ、僕は邪魔になると思うんで遠慮します。ゆっくり飲んでいってください」
 蒼葉は二人に頭を下げるとリビングのドアに手を掛け、「志絵ちゃん五苓散飲んだ?」と振り返って言う。あ、今飲む。と返事をすると、彼は安心したような表情で出て行った。
「五苓散ってなに?」
「夏バテとか気象病に効く漢方薬。今月に入ってから夕方以降にクラクラしたり頭痛になることが続いて、病院行ったら処方されたの。結構効いてくれて助かってる」
「へえ。なんか随分ナイーブな症状やな、毎年なん?」
「もともと暑さには強くなかったけど、少なくとも例年は病院に行くほど辛くはなかった」
「そっか。ええやん。優しい彼氏が自分の薬の心配してくれるんやから、志絵は幸せやで」
 私が今の生活にもやもやした思いを抱えていることに勘付いていたのだろうか。ひかりはそう言って、仕切り直しやなとビールを開けた。宴は四時まで続き、ひかりがソファで寝てしまうと、理子の部屋のベッドで寝てと和香に言い残して、私は寝室に向かった。眠っている蒼葉の横に滑りこむと、蒼葉は寝ぼけたまま私を抱きしめた。今日の話にちょうどいい言葉があったはずだ、と思いつき、思い出せそうで思い出せない言葉を探すようにぱっと目を開き、しばらく逡巡した後枕の下に挟んでいたスマホを手に取る。「シオラン アフォリズム 労働」で検索するとすぐに出てきた。「一般に人間は労働過剰であって、この上さらに人間であり続けることなど不可能だ」。ぼんやりした頭のまま、この一文をコピペしてひかりにLINEで送ると、私は何故かほっとして目を閉じた。目を瞑ったまま、起きた時ひかりと和香がすでにいませんようにと願う。楽しかったようで苦痛なような、苦痛なようで楽しいような、それでもどことなく悪夢じみた飲み会だったと思いながら、脳がしゅんとスリープ状態になっていくのを感じた。


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