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びっくりするほど軽い|村山由佳 第20話

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 一般的に言って猫というのは、どこかへ連れて行かれるのが苦手な生きものだ。リードつきで外を散歩したり、飼い主に抱っこされて外出したりといったことが、犬に比べてはるかに少ないのはそのためだろう。
 家の中でさえ、主導権を握っているのは猫のほうだ。猫が自分の意思で飼い主(=下僕)の膝に飛び乗った場合、下僕はそのお猫さまのお気が済まれるまでじっとしていなくてはならず、そのくせ下僕の側から抱きあげて膝にのせたりしようものなら、即座にご気分を害されて飛び降りてしまわれたりする。
 いま我が家で留守番をしている四匹の猫たちにしても同じで、〈もみじ〉亡き後、私の側から抱き上げても必ずじっとしていてくれる子は〈銀次(ぎんじ)〉ひとりしかいない。その彼だって、家の中でならまだしも、抱かれたまま外を歩かれたりしたらさすがに暴れだすんじゃないだろうか。
 それなのに──である。
 Yさん宅から百メートルくらい離れた家まで歩いて帰る間、その小さな猫は、私に仰向(あおむ)けに抱っこされたまま、ずっとごろごろと喉を鳴らして甘えていた。両手の爪で私の着ているフリースの胸のあたりにきゅっとしがみついているのだけれど、両脚はだらんとリラックスしてまったく力が入っていない。
「不思議な子やねえ、あんたはほんまに」
 揺らさないようにゆっくり歩きながら、私は、腕の中の猫に話しかけた。
「ケージもなーんも要らんのん」
 ふぬ。
 と、猫が返事みたいに短く鼻を鳴らす。
「なんでなん? はじめっから、うちらと一緒に来る気やったん?」
 ふぬ。
「いったいどこが良かったんな」
 今度は返事がない。深く透きとおったブルーの目がこちらを見つめ、ゆっくりと一つまばたきする。
 妊娠中のお腹(なか)はころんころんに張っているのに、こうして抱いていると、びっくりするくらい小さくて、軽い。そういえば二十年ほど前、〈こばん〉の娘の〈真珠(しんじゅ)〉も最初の発情でいきなりもみじたち四姉妹を身ごもり、自分の誕生日を過ぎてまもなく産み落とした。もしそんなふうだったとしたら、この子もまだ一歳になっていないのかもしれない。

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 夕陽の名残りの山吹色にふんわりと染まった空気がみずみずしい。さっきYさん宅に向かって歩いていた間はあんなにきょろきょろとあたりを見回したのに、帰り道はただひたすら、この子の目しか見ていなかった。
 家の前までたどりつき、梅の木の下をくぐって庭に立つ。サッシを開け放った網戸越し、居間にはすでに明かりが点(とも)り、さっきと同じ椅子に座っている背の君の姿がくっきり見える。
 雑誌か何かを読んでいた彼は、ふと目をあげて庭先に佇(たたず)む私に気づくなり、のけぞって驚いた。
「うわっ。もう連れてきよった!」
 ふふん、と笑った私を、腕の中の猫が不思議そうに見上げてくる。
「あんなにびっくりせんでもええやん、なあ?」
 ついさっき自分が感激のあまりボロ泣きしたことも棚に上げて、私は共犯者の気分で彼女にささやきかけた。
「さ。一緒におうち入ろか」

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 外ではおとなしく抱かれていた猫も、初めて入る家の中、それもよく知らない人間(大人六人と四歳児一人)がひしめく中に連れられてきて、さすがに緊張したらしい。最初の十五分ほどは、居間のソファの後ろへ隠れたり、台所のレンジ棚の下に入り込んだりしていた。
 何か食べさせれば落ちつくかも、と戸棚を物色したところ、猫用のまぐろ缶を発見した。ちょうど二年前まで亡き父とここで暮らしていた〈青磁(せいじ)〉のものだ。賞味期限は少々過ぎていたけれど問題なさそうだったので、小鉢に入れて台所の床に置いてやると、猫は物陰からすっとんで出てきて、んまいぃ、んまいぃ、と歓喜の声を漏らしながら食べ始めた。
 しゃがんでそれを見守る私の背後から、姪(めい)っ子の息子が、たたたっと走って覗(のぞ)きにくる。とっさに逃げ腰になった猫をなだめながらふり向き、
「にゃんこがびっくりしちゃうから、そうっと動いてあげて。そうっとだよ」
 そう教えると、彼は、こちらが笑ってしまうくらいの抜き足差し足で隣へやってきて、何も言わずにゆっくりしゃがんだ。
 青い目でちらりとそれを見上げた猫が、安心したようにまた続きを食べ始める。私は、その背中に手を置いて言った。
「うんとやさしーく触ってあげてごらん」
 おそるおそる手をのばし、私の小指のすぐ隣あたりを自分の指先でそっと撫でた彼は、そうしても猫が逃げないのをさとると、私の顔を見て嬉しそうに笑った。

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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作

※この記事は、2020年2月14日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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