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村山由佳 猫がいなけりゃ息もできない 第9話「催眠誘導」

二度の離婚を経験し、現在は軽井沢で猫5匹と暮らす作家の村山由佳さん。「思えば人生の節目にはいつも猫がいた」というムラヤマさんがつづる、小さな命と「ともに生きる」ということーー。
書籍の表紙を飾ったこともある、人気の姐さん猫〈もみじ〉の写真も満載。
※本連載は2018年10月に『猫がいなけりゃ息もできない』として書籍化されました。

 子どもの頃から私は、自分の態度や言葉によって誰かの気分を害してしまうことがこの世の何より苦手だった。原因がたとえ自分でなくても、相手が怒っているという状況、それだけでいたたまれなかった。
 だから、目の前に不機嫌な人がいると、悪いことなんか何もしていなくても謝ってしまう。何とかして機嫌を直して欲しいと思うあまり、慌てて先回りしては下手に出てしまうのだ。
 夫婦の間でもそうだった。
 別々の人間がひとつ屋根の下で暮らしていれば、こまごまとした対立が起こらないほうがおかしいのに、相手がちょっとでも苛立たしそうにするとたちまち、自分が途中のどこかで何かを間違えたせいだと思って狼狽(うろた)えた。諍(いさか)いが起こるやいなや自分の側が先に譲ることで、問題がそれ以上大きくなるのを避けようとしてきた。

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 旦那さん1号の言うことのほうがこの場合間違っているのではないかと、そんなふうに思ったことはもちろんある。正直、何度もある。ふつうの夫婦であれば当たり前の話だろう。
 でも、へたに反論すれば事態はもっとややこしくなるし、彼の怒りも収まりにくくなるわけで、それくらいだったらさっさと形だけでも謝ってしまったほうが楽だと、当時の私は思ったのだった。言いたいことを言って相手の怒りの炎に油を注ぐよりも、飲み込んでしまったほうがむしろストレスが少ない。
 もっと厄介なのは、そうして謝り続けているうちにいつのまにか、
(こんなにも相手を怒らせてしまうということは、やっぱり私が悪いのかもしれない……)
 という気分になってきて、しまいには、そうだ、そうに違いないと自分から信じてしまうことだった。洗脳、というよりは、自分で自分を催眠誘導したかのように。

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 とまあそんなわけで、猫を飼う・飼わないについても、いちばん初めの対立から後は話し合いの機会を持たないまま(否、どうせ無駄だと先にあきらめたまま)、長い歳月が過ぎてしまった。ようやく猫のいる生活を迎えられてなお、本当に言いたい言葉はやっぱり言えず、あらゆるものごとについて旦那さん1号ときちんと対峙するのを避け続けた結果、私たちはとうとう夫婦という関係を解消することになってしまったのだった。
 もう我慢できないから別れたい、だなんて、いきなり言いだされた彼のほうこそ、
〈そういうことなら早く言ってよ〉
 と面食らったに違いない。
 どちらもそれぞれに至らなかったはずだけれど、そのことに関しては、本当に私のほうがいけなかった。申し訳ないと、今は素直に思う。

※本連載は2018年10月に『猫がいなけりゃ息もできない』として書籍化されました。

村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ、軽井沢在住。立教大学卒業。1993年『天使の卵―エンジェルス・エッグ―』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。2009年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。エッセイに『晴れ ときどき猫背』など、近著に『嘘 Love Lies』『風は西から』『ミルク・アンド・ハニー』『燃える波』などがある。

※この記事は、2017年8月22日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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