ロシアンルーレットで食欲爆発|千早茜「こりずに わるい食べもの」第10話
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ロシアンルーレットで食欲爆発|千早茜「こりずに わるい食べもの」第10話

 注射が嫌いだ。静脈注射も筋肉注射もどちらも大嫌いだ。わけのわからない汁を体内に注入されるのが気持ち悪いのだ。まだ血を抜かれるほうがいい。
 予防接種会場とか地獄だ。そんな嫌なことを列を成して待つという状況に耐えられない。小さい頃は学校だろうが病院だろうが脱走した。しかし、大人はそうはいかない。このコロナ禍においては特に。

 今夏、新型コロナウイルスのワクチン接種を受けた。一回目も二回目も最高気温三十四度の猛暑日だった。マスクが本当につらい。ごくごく水を飲みながら会場に行き、注射をした瞬間に『千と千尋の神隠し』がよぎった。雨の晩にカオナシが油屋に入ってきたとき、湯婆婆が「ん? なんだろうね、なんかきたね」と呟くのだが、まさにそんな心境である。異物が入り込んできた気配に体がざわっとした。一回目はそこまでではなかった。腕の痛みや微熱は翌日にきた。しかし、二回目はそうはいかなかった。打った途端に腕がずんと重くなる。体が「あ、こいつ知ってるぞ。またきやがった」とびりびり攻撃態勢に入る。

 まずいまずい、と最寄りのデパ地下へ走った。好物でも買って不穏な気配をごまかそうと思った。高級な緑の葡萄を一房、桃、肉屋の焼豚、冷麺セット、水茄子の漬物、どら焼き、ちょっといい卵や豆腐や野菜なんかを欲望のままに購入する。コンビニにも寄り、スナック菓子を好きなだけ、ハーゲンダッツのバニラ、この夏一番夢中になった台湾スイーツ「五種具材のトウファ」、清涼飲料水、炭酸水なども買い込む。家には前日に用意した愛する「オーボンヴュータン」の焼き菓子や洋梨のコンポート、いただきもののクッキー缶や最中もある。テーブルにずらりと並べ、最高の眺めだと悦に入って写真を撮り、友人に「療養食」と送ったら「楽しくなってないか?」と言われた。いや、もう楽しくするしかないでしょ、と思う。

 そもそも予防接種がロシアンルーレットにしか思えない。スプーン一杯にも満たない量で体を変化させられるなんて信じがたいし恐ろしい。それを自ら入れるのだ。免疫ごめん体すまんと騙しているような申し訳ない気持ちになる。なので、せめて美味しいものを用意して、副反応の間は自分の細胞たちに楽しく過ごしてもらうしかない。病気ではないのだ、なにを食べたっていいだろう。念のため、診察をしてくれた医師に尋ねてみたが「とんでもない激辛でなければ好きに食べて大丈夫です」とのことだった。とはいえ、知人も友人も高熱で水分しか摂れなかったという人が少なくなかった。いまのうちに栄養をつけておこうと、接種したその足で担々麺を食べた。

 食べ終えて帰宅し、ふと担々麺を選ぶのはめずらしいなと思った。普段はそこまで麺類に執着がなく、せいぜい食べても蕎麦くらいなのに、見かけた担々麺の赤い文字に引き寄せられた。不思議に思いながら蜂蜜レモンをホットで飲んで、焼き菓子を食べていたら、なんか足りないという気分になった。朝の残りの味噌汁とご飯を温めてわしわしと食べる。まだ足りなくて、買ってきたばかりのスナック菓子を開封する。あれれ、と思いながらも手が止まらない。体の奥に熱の萌芽のようなものを感じた。早めに入浴を済まして、洗濯物も片付け、粥を鍋一杯に作り、それだけ食べて寝ようと思うのに、つい焼豚を切ってしまう。食後に、また菓子と茶も用意する。暇だから食べてしまうのかな、と考えながら、結局いつもの時間にベッドに入った。

 二時間ほどで目が覚めた。熱がでてきている。けれど、熱のせいで起きたのではなかった。お腹がすいていた。焼き菓子の箱を開け、種類も確かめず包装紙を破る。大好きな店の菓子は茶を淹れてじっくり味わいたいのに、食欲が牙を剥いていてその余裕がない。貪り食って寝床に戻り、一時間半後ふたたび空腹で起きた。またも、ガサガサと菓子をあさる。今度は熱もあがっていたので解熱剤を飲んだ。これで眠れるだろうと思ったが、夜明け前にぱちりと目が覚める。顔ほどもある葡萄の房を掴んでもりもりと食べた。そのまま眠らずに冷麺を茹でて、梨も切った。いつでも食べられるように米も二合炊いた。
 そんな感じで私は食べまくった。食べても食べても足りなかった。副反応を心配して看病にきてくれた人は、暗い中、睡眠もろくに取らずカサコソ食べ続ける私を見て、「野性……」とドン引きしていた。なんだか生き生きして、肌艶もすこぶる良くなっていたそうだ。

 結果、「療養食」は一日でなくなった。熱が続いたら困ったことになっていたが、接種翌日の夕方には腕の痛みと共に食欲も嘘のように鎮まった。体が「もう要りません」と言っていた。胃は「もう勘弁してください」と若干悲鳴をあげていて、カフェインを多く含む茶を飲んだらすぐに吐いてしまった。そして、とろとろと眠くなった。

 気になったのでSNSで呟いてみると、接種後に食欲増進した人が散見された。担当編集者の中には、高熱のさなか豚丼とソフトクリームと流行りのマリトッツォ二個を一気食いしたという強者つわものもいた。ネットで調べてみると「暴風雨のごとき空腹」という表現もあった。まさに、そんな感じであった。食欲が猛威を振るっていた。「免疫細胞がフル稼働するためカロリーを欲する」と書かれているものもあったが定かではない。副反応かどうかすらわからない。予防接種は本当にロシアンルーレットな気がする。結果的に、こんなエッセイを書けた自分にとっては「当たり」だったのかもしれないが。

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illustration 北澤平祐

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連載【こりずに わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神いおがみ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞を受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞を受賞。著書に『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』『男ともだち』『西洋菓子店プティ・フール』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『さんかく』『ひきなみ』などがある。
Twitter:@chihacenti

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