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深夜一時のサービスエリア|村山由佳 第21話

 父がいなくなり、近くの施設でお世話になっていた母もいなくなった今、この家を訪れる機会はどうしてもこれまでより間遠になる。時々は庭草を刈ったり、窓を開けて風を通しに来なければならないけれど、兄夫婦や姪(めい)っ子夫婦は横浜(よこはま)方面、私たちは信州(しんしゅう)に住んでいて、皆それぞれ仕事もあるとなると、せいぜい二、三カ月に一度になってしまうだろうか。
 とりあえず冷蔵庫の整理をかねて、皆で適当な夕食を済ませた。
 まぐろ缶でひと足先にお腹いっぱいになった猫はすっかり落ちつき、もう誰が立とうが歩こうが知らん顔だった。急いで食べ終えた私が床に脚を投げ出して座ると、すぐさま隣でごろんと寝転がり、太腿(ふともも)にもたれかかってまた喉を鳴らし始める。
「まさか本当に連れて帰ってくるとは思わなかったよ」
 と兄が苦笑する。
 いや、私もだ。そうなったらどんなにいいかと祈るような気持ちでいたけれど、Yさんのご家族が承知して下さるかどうかについては最後の最後まで半信半疑だった。
 昨夜(ゆうべ)、弔問にいらした時、Yさんの奥さんは〈私はあんまり猫が……〉と言ってらしたし、お姑(しゅうとめ)さんもさっき、〈子猫が生まれたらまた外猫が増えてしまうところだったからかえってありがたいくらいですよ〉なんて言って下さったけれど、そう言いながら、ご家族でこの子をけっこう可愛(かわい)がっておいでなのは間違いなかった。

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「えっらい迷惑な話やでな」
 と、背の君が言う。
「向こうの立場からしたら、母親を亡くした直後の相手から、『猫譲っとくなはれ』て言われてんで? おまけに、『去年の今ごろ最愛の猫を見送りましてんわ』とまで言われてんで? ふつうの神経があったら、ちょっと断られへんやろぉ。ひどいやっちゃな、お前は」
 言いながらもその手は、私が膝にのせた猫をずいぶん愛(いと)おしげに撫(な)でくりまわしている。猫のほうもご満悦で、ぱっかーんと両脚をひらいて仰向(あおむ)けになり、お腹(なか)を撫でさせている。
 Yさんのご家族には、ほんとうに感謝してもしきれないし、無理をお願いして申し訳なかったとも思う。でも、昨夜のあの時と違って私にはもうとうてい、〈ダメで当たり前のことですし、その時はもちろんあきらめますから〉なんて言えなくなってしまっていた。猫のほうもそうなのかどうか、片時も私のそばを離れようとしない。
 まだ実感が湧かないままその身体(からだ)を撫でながら、名前をどうしよう、と思った。
 Yさん宅で呼ばれていた〈大福(だいふく)〉も特徴をとらえているしユーモラスで可愛らしいのだけれど、できればやっぱり自分たちで考えてやりたい。お互いに、名前をつけ、その名を受け取る、という手順を経て初めて、結びつけられるものがある気がするのだ。
 顔と耳、手足と尻尾はチョコレート色。肩の窪(くぼ)みのところがうっすらココア色、それ以外の毛は優しいミルク色で、どこを触ってもふわふわのつるんつるんだ。
「すごいわあ、この子の毛」と、私は言った。「ほら、背中もお腹も〈もみじ〉並みにしっとり。ここまで毛の質の柔らかい子、なかなかおれへんで」
 ほんまやなあ、と同意した背の君が、ふと言った。
「〈絹糸(きぬいと)〉は?」
「え?」
「名前」
「ああ、ええやんそれ」
 と私。
「ほんまかいや。芸妓(げいこ)か花魁(おいらん)みたいやけど」
「うん、時代劇に出てきそう。ふだんは〈お絹〉ちゃん」
「おう、可愛らしやんか。どや、お絹。お〜き〜ぬ」
 半分うたた寝をしていた猫は、呼ばれて薄目を開けると、いかにも眠そうにまばたきをしてよこした。

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 兄たち家族に見送られ、お絹を連れて千倉(ちくら)の実家を出発した時には、夜も九時半をまわっていた。
 物置小屋と化している離れを探してもペット用のケージは見つからなかったので、半透明の持ち手つきピクニックバスケットのようなものにペットシーツとタオルを敷き、ふたが開かないようガムテープで留めてある。
 もみじがいなくなってしまった寂しさに、ここ一年近くは車で遠出するたび、もみじによく似た三毛猫のぬいぐるみを同乗させていた。物言いたげな文句たらたらの目つきと、鼻の横のお醤油(しょうゆ)ジミがそっくりで、助手席の私がその子を膝にのせていても、背の君はイタイなどと言わずに黙って好きにさせてくれていた。
 しかし、今は仕方がない。ぬいぐるみに「ごめんよう」と謝りつつ後部座席に座ってもらい、私はお絹を入れたバスケットを抱きかかえる。
 ところが、あれだけおとなしかった彼女が、走り始めてまもなく大声で鳴き始めた。出たがって頭でぐいぐいとふたを押し上げたり、側面の格子部分にばりばり爪を立てたりしながら、ひっきりなしに、あおう、あおう、あおう、とわめく。
 無理もないか、と我慢していたけれど、高速道路に乗る手前でとうとう背の君が叱った。
「やかましのう! こっから何時間もずっとそれかい」
 大声ではなかったのに、鳴き声は一旦ぴたりとやみ、そこから先はちょっと遠慮がちになった。
 ただし、ふたを押し上げる力は相変わらずだ。不安で必死なのが伝わってくる。
 料金所のETCレーンを通過するまで待って、私は言った。
「飛び出さんようにちゃんと押さえてるから、ふただけちょっと開けたってもかまへん?」
 背の君は、ちらりと横目でバスケットを見た。
「絶対こっちへは来さすなよ。みな死ぬぞ」
「わかった」
 ガムテープをはがし、ふたをまず細く開けて手を差し入れる。中のお絹が、すがりつくみたいに私の手に冷たい鼻面をこすりつけてくる。用心しながらふたを開けると、彼女はぴょこんと立ち上がり、けれど私が抱きかかえるようにするとすぐに腰を落として座り、暗い窓の外へ目をこらした。もう、鳴かなかった。
 いつもならもっとこまめに休憩を取るところを、安全運転ながらもできるだけ先を急いで、いよいよ停まったのは埼玉県のはずれの上里(かみさと)サービスエリアだった。今まで走ってきた関越(かんえつ)自動車道から上信越(じょうしんえつ)自動車道へと分岐してゆくすぐ手前に位置している。ここまで来れば、あと一時間半ほどで我が家だ。

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 深夜一時をまわり、フードコートは営業しているけれどスターバックスはとっくに閉まっている。かわるがわるトイレを済ませ、自販機で飲みものを買ってきた私たちは、ようやくシートを倒して腰を伸ばした。
 どちらの口からも、長々とため息が漏れる。ハンドルを握っていた背の君はもちろんだけれど、私のほうもいつもよりかなり消耗していた。
「ちょっとだけ寝さしてもらうわ」と、背の君が言う。「お絹のやつ、しばらく自由にさしたりぃさ」
 後部座席の足もとには、猫砂を入れた箱が置いてある。
「おしっこしたなったら、そこでしてええねんよ。な」
 言い聞かせて、私たちは目を閉じた。背の君は仰向けに、私は横向きに。
 と、ほどなく車内をひととおり点検し終えたお絹が、後ろから運転席と助手席の間に飛び移ってきたかと思うと、ギアハンドルの根もとを踏み、ハンドブレーキを踏んで、背の君のお腹の上によじのぼった。そこで、ちんまりとうずくまって香箱を作る。
「……信じられへん。なんや、お前」すでにめろめろの声が響く。「何をそんなに懐いとんねんな。ったく、どこまで行っても可愛(かい)らしのぉ、ええ?」
 さっそく喉を鳴らし始めたお絹を抱きかかえたまま、背の君が三十分ばかり仮眠を取る。
 外灯にうっすら照らされた暗がりで、私は、泣きたいような幸せな思いを胸の中に転がしながらふたりを眺めていた。


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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作

※この記事は、2020年2月21日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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