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第8話 実は免許も持っていない|宇野常寛「水曜日は働かない」

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 なんて美しい模型なのだろう……そのとき、僕は思った。それはとあるメーカーの創業何十周年かを記念して製作されたミニカーで、そのメーカーがはじめて製造した自動車の模型だった。直線の多い当時の自動車のデザインは今日の基準で眺めるとそのほとんどが無骨に見える。しかしその車は無骨さの中にも最大限の優雅さと洗練を求めていたように僕には思えた。しなやかなボディラインに、クリーム色とワインレッドのカラーリング。その模型はその車の魅力を大胆に抽出し、そしてアピールすることに成功している。そう、僕はその自動車のデザインの美しさと同じくらい、ミニカーの模型としての完成度に感嘆していた。

 僕は模型が好きで、ミニカーもそれなりに集めている。しかし、自動車そのものについての関心はほぼないと言っていい。自分でああいったものを運転したいという気持ちがほとんどないのだ。大学生の頃に親が運転免許を取得しなさいとお金を振り込んでくれたのだけど、それは本を買ったり、旅行にでかけたりしているうちにいつの間にかなくなってしまっていた。あれから20年間、僕は運転免許というものを持たずにこの現代社会を生き抜いてきた。しかし、不便を感じたことはほとんどなかった。社会人生活をほぼ東京のそれも新宿区という都心近くで暮らしてきた僕に運転免許は無用の長物だった。強いて言うならレンタルビデオ店の会員証をつくるときに運転免許証がない僕にはパスポートに加え、公共料金などの払込みの記録が要求されて閉口したことがあるくらいだろう。僕にはああいった大きくて重いものを自分で動かしたい、という欲望がほとんどない。しかしあの複雑な構築物の構造や意匠をしっかり把握したいという欲望はたぶん人並み以上に強い。だから僕はいろいろな模型を集めている。ミニカーだけではない。飛行機、動物、倉庫や住宅などの建物……。模型とは、ひとつの批評だ。不思議なことに単にサイズを縮めただけでは、人間はそれを本物っぽく感じることはない。むしろその形状の特徴を抽出してアピールするデフォルメが働いたもののほうが本物っぽい模型になる。模型とは、人間がものの形状や空間を把握するメカニズムをハックすることで、本物っぽく見せるゲームでもあるのだ。だから僕は模型を欲望する。そのものの形状を、批評的に縮小することで(デフォルメすることで)再現されたそれは、その物の本質だけを抽出し、所有を可能にした物体だ。だから僕は、自動車ではなくミニカーを収集する。それは何かの代替ではない。自動車を何台所有しても、自動車という形状と人間との関係を批評的に抽出して立体化した存在は手に入らない。自動車を手足のように運転することで、自動車という機械の本質を体感することはできるかもしれない。しかし、自動車という形状の本質に触れることはできない。僕の欲望を叶えてくれるのは、運転免許証ではなくミニカーなのだ。

 このミニカーを、どうにかして手に入れたい。そのとき僕は強く思った。しかし問題がそこで発生した。その広告記事で紹介されているミニカーは市販されているものではなかったのだ。調べてみるといわゆる販売促進のためのグッズとして使用されているそのミニカーを手に入れるためには、そのメーカーのディーラーを訪ねてそこに置いてある応募ハガキのアンケートに答えて投函することが必要なようだった。もちろん、それだけでミニカーがもらえるわけではなく、抽選で若干名が当選してミニカーを獲得できるという仕組みだった。当選の確率は極めて低かった。しかし、あらゆるくじは引かない限り当たらない。僕はとりあえず応募だけしてみようとGoogle Mapsを検索した。すると、そのディーラーが家の近所にあることに気づいた。自動車そのものにはまったく興味がない僕は、このとき家の近所に、それもいつものランニングコースの側にそのメーカーのディーラーがあることをこのときはじめて知った。
 これはしめたものだと僕は思った。さっそくこの近所のディーラーに出かけてキャンペーン応募用のハガキを貰ってこよう。そう考えた。しかし問題が一つあった。僕は生まれてこの方、ディーラーというものに足を運んだことがなかった。そのため一人で行くのは少し不安だった。そこで僕は友人に連絡した。この連載の初回に登場した、毎週水曜日の朝に僕と一緒にランニングをしているあのT氏だ。せっかくいつものランニングコースの側にディーラーがあるのだから、T氏に付き合ってもらおう。そう考えたのだ。T氏は二つ返事で僕の提案を呑んでくれた。たぶん暇だったのだと思う。なんせ僕たちは「水曜日は働かない」のだから。

 そしてある晴れた水曜日、いつものように朝のランニングを終えた僕とT氏は新宿区某所にある某ディーラーに現れた。僕は週に何度もこのディーラーの前を通っていたはずだったけれど、こうして足を踏み入れるのははじめてだった。僕はまずそのディーラーの建物が、とても豪華な作りなのに驚いた。一瞬、ここはランニング帰りに汗だくになった全身をスポーツウェアに包んだ中年男性が足を踏み入れてはならない領域なのではないかという考えが頭をよぎった。その嫌な予感は、一歩建物の中に足を踏み入れた瞬間に確信に変わった。ふかふかの絨毯の感触が僕の履いていたアディダスのランニングシューズ(スター・ウォーズのコラボレーションモデルだ)越しに伝わってきて、そして香木のようないい匂いが鼻孔をたちまち満たしていた。その計算された心地よさが既にお前たちは場違いだと告げていた。しまった、と僕は思った。瞬間的に間違えて入ったていで(かなり無理があるていだが)180度回頭してここから逃走しようと考えた。幸い、このときの僕は全力疾走が可能な靴を履いていた。しかし、気づいたときは既に手遅れだった。僕たちは入店した瞬間に男性の店員に捕捉されていた。
「いらっしゃいませ」
 スキンヘッドの、いかつい男性だった。年齢はおそらく40代後半、肌はよく日焼けしていて意志の強そうな眉を薄めに整えていた。竹中直人から愛嬌を抜き去って、大柄かつ筋肉質にした人を想像してもらえればいい。シワひとつない高そうなスーツに身を包み、胸のポケットからは丁寧に折り畳まれたチーフが覗いていた。まだ暑い時期だったのに、ワインレッドのネクタイが根元まで締められていた。年齢やそのこなれた話し方から、おそらくはこのディーラーの店長的な管理職ではないかと僕は想像した。そしてその店長(仮)は僕らの正面に立つと瞬時にこう告げたのだ。
「どのようなお車をお探しでしょうか」
 どのような車も探していなかった。と、いうか僕はこのときはじめて、ディーラーを訪れた人間は自動車を購入する意思があるという前提で接客されることを知った。僕のよく足を運ぶ書店や玩具店ではこのようなことは絶対にない。30分ほど店内を物色して、結局何も買わずに出ていっても、(そりゃ内心嫌な客だとは思われるかもしれないが)何も言われない。しかしディーラーは違うのだ。一歩足を踏み入れたら最後、必ずこの客にこの店に展示してある自動車のどれかを選ばせるという強い意志のもとに食らいつくような接客が行われるのだ。

 僕は正直言って、面食らった。まさかディーラーがこのようなものだとは知らなかった。とてもじゃないけれど、ミニカーのプレゼントキャンペーンに応募したいのでハガキを取りに来ただけとは言えない雰囲気だった。まして実は運転免許すら持っていないと知られでもしたら、どんな顔をされるか分かったものではないと思った。演じなければならない。僕は瞬時にそう判断した。店長(仮)が百戦錬磨の手練であるように、僕もまたそれなりに幾多の修羅場を潜り抜けて来た人間だ。生の全国放送で閣僚クラスの政治家とやり合ったことも一度や二度ではない。頭の回転とマウンド度胸は並大抵の人間には負けはしない。……と、妙な対抗意識を燃やして僕は向き直った。
「基本は通勤とか、買い物とか、そういった普段使いのためのものでいいんですけれど、アウトドアが好きで出かけることもたまにあるので、そういうときに不便でないものがいいですね」
 こうして、僕と店長(仮)との戦いが始まった。

 と、いうか今思うととてもとても申し訳ないのだけれど、店長(仮)は僕のでっち上げた適当なストーリーによく付き合って、展示中の自動車を何台も説明してくれた。僕はそんな彼に、ただひたすらそれっぽいことを話し続けた。実はこれまで、自動車を所有することにメリットは感じてこなかった。しかし、こうしてコロナ・ショックが全世界を覆う中で考えを改めた。やっぱり自動車を手元において、いつでも、どこでも、好きなところに自分の力で行くことのできる生活がどうしても欲しくなった。しかし、どんな車でもいいわけではない。やはりこだわって作られた美学のある車に乗りたくて、ここにやって来たのだ、と。クラッチとはなにかも説明できないくせに、僕は店長(仮)の説明の合間を縫って、こうした適当な物語を彼に聞かせた。もちろん、時間稼ぎのために。僕はその間、例の応募ハガキがどこに置いてあるのかを必死に目で探していた。カウンターの上、接客用のテーブルの上、マガジンラックの脇の棚……しかしどこにも見当たらなかった。
 代わりに発見したのは、女性店員に飲み物をサーブされるT氏の姿だった。そう、最初は僕と一緒に店長(仮)の話を聞いていたT氏は、いつの間にか離脱し、女性店員と何かを仲よさげに話していたのだ。僕は絶望した。あいつ、逃げやがった……と思った。T氏は店長(仮)の猛烈なアピールと、それを適当なでっち上げ話でかわす僕とのやり取りの生む気まずさに耐えきれず、どさくさに紛れて逃げ出したに違いなかった。
 そして僕が店長(仮)に3台目の車をアピールされていた頃には、T氏の姿はディーラー自体から消えていた。僕は本当に泣きたくなった。南極に置き去りにされたタロとジロの気持ちが、このときはじめて分かった気がした。そりゃあ、巻き込んだ僕が悪いのだけれど、何も僕を置いてひとりで逃げなくてもいいじゃないか。

 完全に心が折れた。僕はハガキの探索を諦めて、その場を離脱することにした。適当に話を切り上げて帰ろうとすると、店長(仮)は資料を送付したいから住所と電話番号を教えてくれと食い下がってきた。僕は、ホームページから資料はもう請求してあるととっさに思いついたウソを述べて、逃げ出すようにディーラーから脱出した。丁寧に説明してくれた店長(仮)には、とても参考になりましたと丁寧に告げて去った。いったい僕は、何をしているのだろうという根本的な疑問が湧き上がってきて、胸が押し潰されそうになった。

 建物を一歩出ると、まだ残暑の季節の生ぬるい熱気がアスファルトから湯気のように立ち上っていた。惨めだった。目当てのハガキを獲得することもできず、友人にも見捨てられ、僕は孤独に路上に立ち尽くしていた。

 僕はとりあえず僕を見捨てて逃げたT氏に連絡しようと携帯電話を取り出した。インターネット電話のアプリケーションでT氏に呼び出しをかけて、電話を耳にあてたそのときだった。すぐ目の前の喫煙所で、一人の男が煙を吐いていることに僕は気づいた。そのポーズはまるでモデルのようにキマっていて、その流れるような仕草はまるで俳優のように優雅だった。そして右手にタバコを挟む彼のもうひとつの手には、僕に見えるように数枚のハガキが握られていた。T氏だった。そう、彼は気まずさにいたたまれなくなり逃亡したのではなかったのだ。むしろ僕が店長(仮)につかまっている状況を見かねてその場を離れ、別の店員につかまってお茶をサーブされたりしながらも見事に応募ハガキを発見し、それを採取して僕を待っていてくれたのだ。
「宇野さんがなかなか離してもらえそうにないので、僕が取ってきておきましたよ」
 T氏はタバコをくゆらせながら、僕に微笑んだ。
「まったく、宇野さんとつるんでいると本当にロクでもないことにばかり巻き込まれますね」
 彼とはもう10年以上の付き合いだが、それは僕がこれまで目にしたどのT氏よりもカッコいいと感じた瞬間だった。

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連載【水曜日は働かない】
毎月1回・水曜日更新

宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)など多数。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。
Twitter:@wakusei2nd

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