第14話 次は絶対にやらせない|宇野常寛「水曜日は働かない」
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第14話 次は絶対にやらせない|宇野常寛「水曜日は働かない」

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 2021年の8月8日の夜、僕は珍しくテレビの生放送を見ていた。僕は基本的にテレビの生放送を見ない。自宅や仕事場でテレビをつけっぱなしにする(昭和後期から平成期の)習慣がそもそもないし、見たい番組はほとんどインターネットの配信サービスで見ることができるのでその必要もない。仕事柄、NHKオンデマンドとNetflixとディズニープラスとHuluとバンダイチャンネルに入っていて、ときどきこれにParaviを加えて全方位的に武装しているのでもはや死角はない。若干自慢話的な方向に話が逸れたが、特に僕は民放のバラエティ番組とワイドショーとCMのノリが本当に苦手で、ものすごく気分が萎えるのでうっかりそういうものが目に入らないように暮らしている。あの、いまだに「あえて」バカなふりをするのが「イケている」大人の態度であるという勘違いしたから騒ぎ――80年代的な「政治的に振る舞わない、という態度こそがもっとも政治的に洗練されている」という選択から、思想的な背景を抜き去ったただの空疎さ――は本当にサムくて仕方がないし、「24時間テレビ」的な視聴者をバカにしきった感動の押し売りにも軽蔑しか感じない。そんな僕がなぜ、週末の夜にテレビの生放送を見ていたのかというと、それがオリンピックの閉会式の中継番組だったからだ。

 知っている人も多いと思うのだけれど、僕はこの2度目の東京オリンピックにはちょっとした――いや、かなりの――こだわりがあった。僕はたぶんこの国の言論界でも数少ない、招致段階からの反対論者だった。その計画段階からの無内容さ、杜撰ずさんさ、そして懐古主義的な態度について知る機会があり、これはこのままではとんでもないことになってしまうのではないかと考えたのだ。どこかの広告代理店が仕掛けた、招致への支援を都民に呼びかけるポスターを街で目にしたときは、なんだか目にしているこっちが恥ずかしくなるような思いがした。それはテレビタレントをはじめとする「有名人」たちが「私、◯◯は東京オリンピックの招致に成功したら××します」といった「公約」を掲げるものだった。それも開会式のどこかに見切れるとか、ホラン千秋がゴリン千秋に改名するとか、テレビ村の内輪ネタの目立つ、どうしようもなくつまらないものばかりだった。招致運動が行われていた2010年代初頭の東京都民はオリンピックの招致に対する支持が相対的に低く、それが招致のネックになっていた。そのため、こうした広告が街頭に溢れることになったのだが、僕はこの時点でオリンピックをこの街に呼びたい人たちの愚かさ、というかボタンの掛け違いのようなものを強く感じていた。オリンピックに冷ややかな人々は、多かれ少なかれ僕のようにこの平成初期のテレビや広告の「ノリ」をカッコ悪いと思っている可能性が高い。もう少し具体的に言うと、このころ僕は30代の半ばにさしかかっていた。そして、僕の世代あたりから本格的にいわゆる戦後中流のライフスタイルとは異なった生き方をする層が目に見えて現れ始めていた。終身雇用にこだわらず転職を重ねてキャリアを形成し、夫婦は当然共働き、郊外の一戸建てを買うことを人生の目標にするのではなく都心の賃貸マンションをライフステージに合わせて渡り歩く(そもそも郊外の住宅地から1時間以上かけて都心の職場に通勤するというスタイルが専業主婦の存在を前提とした旧時代的なものだ)、そして情報収集は新聞やテレビといったオールドメディアに頼らない……。この層が近代オリンピックという、まさに20世紀前半のナショナリズムが世界を席巻した時代に国威発揚の装置として利用され(その筆頭がアドルフ・ヒトラーだった)、この30年あまり(1984年のロサンゼルス大会以降)は実質的にテレビの生中継番組の素材として経済的にも、存在感的にも成り立っていた前世紀の遺物に対して相対的に冷ややかになるのは、少し考えれば(というか、人並みの繊細さがあれば)分かるはずだった。しかし、このキャンペーンを仕掛けた広告代理店とその背後にいる発注者たちは間違いなくそのことに気づいていなかった。これは、招致が成功するとかなり薄ら寒い2020年が待っているのではないか。僕はそう思った。

 そして、不幸なことに招致は成功してしまった。東京都がより本気で招致を狙っていたのはそれ以前の大会であったとも言われているが、他候補の事情の変化もあって2020年の東京大会が決定した。そして、繰り返すがこの2020年大会はこの段階から既に無計画さと杜撰さのかたまりだった。この夏、招致運動の際に東京の夏の気候についての虚偽の記載があったことが発見され批判を浴びていたが、そもそもこのオリンピック招致そのものが事実上無内容だったのだ。
 1964年のオリンピックは少なくともコンセプチュアルではあった。そのやり口には、もちろん、批判されるべき点が多々あったことは間違いなく、そもそもこのような国威発揚装置としてのオリンピックが現代に相応しいとも思えない。しかし、そこには明確な意図が、狙いが、戦略があった。復興から高度成長へ。1964年の東京オリンピックは国威発揚の儀式であると同時に、日本の経済を躍進させ、環境整備を進めるための錦の御旗だった。首都高速道路、東海道新幹線、そして東京そのものの都市改造。1964年大会は、これらのものを急ピッチで推進するための大義名分として活用された。そして、このときの東京大会は結果として、その後のオリンピックの一つのモデルとなった。参加国と開催競技の増大はオリンピックの規模的な肥大を呼び、開催都市の負担増を引き起こした。その結果1976年のモントリオール大会は事実上経済的に破綻し、そのツケは当地の住民たちがその後何年にもわたって高税というかたちで支払うことになった。この問題の解決策は2つあった。まずは1984年のロサンゼルス大会が大々的に採用した、グローバルなテレビ番組の素材としてオリンピックを売り、その放映権料をもってして経済的に成り立たせる手法だ。これは今日のオリンピックの経済構造の基底をなしている。中にはテレビで中継しやすいかたちにルールが変更されている競技まであるというから驚きだ。2つ目は1964年の東京大会がそうしたように、それが開催されようがされまいがその都市に必要だった都市改造の錦の御旗としてオリンピックを利用するという発想だ。これによって、オリンピックの「ために」つくられる施設や都市の整備は基本的になくなる。莫大な費用がそこには投じられるが、それはオリンピックとは無関係に、その後の市民生活の質の向上や生産性の増大があれば「もとが取れる」と考えるわけだ。現在のオリンピックは、概ねこの両者の手法の併用で運営されている。そして2020年の東京大会は後者において完全に失敗した。そもそも、コンセプトらしいコンセプトもなく、ただなんとなくオリンピックの招致に成功すれば国威発揚になるという20世紀半ばから進歩しない安直な発想と、土木や建設を中心に景気が良くなるというこれまた前時代的な経済観に基づいて極めて安直に招致されたのがこの2020年の東京大会だった。実際問題として、2020年の東京大会で1964年のような向こう半世紀にわたって活用できるレガシーを、首都高速道路や東海道新幹線のようなものを挙げることは不可能だろう。そんなものは、ハナから存在しないのだから。しかしオリンピックは何の意図もなく呼んでいいものではないのだ。

 繰り返すがこうなることは最初から明白だった。だから2020年の大会の開催地が東京に決定された直後から、僕は動き出した。このオリンピックはきちんと批判しなければならない。それも、ただ反対するのではなく問題の本質を明らかにするために、具体的で、建設的な批判をしなければいけない。そう考えて僕は「対案」を示すことにした。同世代の若い学者やアーティスト、起業家を集めて僕たちの2020年の東京大会のアイデアをまとめ、発表すること。それが僕の発案した「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」だった。
 僕たちの定めたコンセプトは2つある。それは市民が「参加」できるオリンピックにすること。そしてオリンピックとパラリンピックを融合させることだ。前者はチームラボの猪子寿之の発案だ。彼は2012年のロンドン大会を仮想敵に置いた。その開会式の、映画のように作りこまれた映像を主体とした演出は1984年ロサンゼルス大会以降の「テレビ的な」オリンピックの象徴であると彼はとらえていた。そこで猪子は2020年大会は「インターネット的な」新時代のオリンピックであるべきだと考えた。彼のプランでは、開会式は街頭の市民と競技場の選手たちが一緒に参加して行われる。街頭のホログラムでつくられたデジタルアートに市民が触れると、そのホログラムは変化する。触れるとそこに花が咲き、蝶が舞う。そしてその変化は競技場の、開会式の現場のインスタレーションにも反映される。こうして、市民一人ひとりがほんの僅かでも、開会式の演出に参加できる。これが彼の考える「インターネットの時代の」オリンピックの開会式だ。もちろん、競技中継は情報技術を駆使してどんどん競技場から街頭へとはみ出していく。当時公開した棒高跳びの模様が立体映像として、そのまま渋谷のセンター街に表示されるイメージ画像に心躍った人も多いはずだ。アスリートの活躍をテレビで見て、それに感情移入するという20世紀的なものを乗り越えモニターの中の「他人の物語」を「自分の物語」にすることが、誰もが自分の体験をシェアすることに喜びを感じているこの21世紀に必要だと僕たちは考えたのだ。
 そして乙武洋匡がかねてより主張していたオリンピックとパラリンピックの融合案を実現することにも、僕たちは挑戦した。オリンピックが、というよりも近代スポーツそのものが前時代的で、もっと言ってしまえばナチス的な五体満足主義と親和性が高いことは自明であり、だからこそ今日ではパラリンピックの併設が重視されている。そこでもう一歩踏み込んで、この五体満足主義を破壊しようと考えたのが乙武のアイデアだ。そしてこのアイデアを実装するために知恵を絞ったのが稲見昌彦らサイボーグ技術の研究者、そして井上明人を中心とするゲーム研究者たちだった。特に井上は、多様な身体をもつメンバーを揃えることが攻略上有利になるあたらしい団体スポーツを「開発」し発表した。それくらい、僕たちは本気だった。
 東京の都市開発も真剣に考えた。建築家の門脇耕三と社会学者の南後由和を中心にチームを組み、ひと夏東京を歩き回り、考えに考えた。その結果としてまとまったのが「東京5分割計画」だった。東京を一つの街としてとらえることをポジティブに諦め、それぞれのエリアに合った開発を、それぞれの特色を伸ばすかたちで提案した。湾岸エリアは特区として大胆な規制緩和を行い、外国人の長期滞在もシェアリングエコノミーもドローンもすべて解禁する。そして山手線内は現代的なクリエイティブ・クラスの職住近接の「歩ける」街として再編する……といった具体的なプランを一つ一つ練り上げていった。
 計画は僕の雑誌『PLANETS』のある号をまるまる一冊このオルタナティブ・オリンピック・プロジェクトに充てて発表した。しかし、残念ながらこの本はほとんど話題にならなかった。2015年の2月、この国の人々はほとんどオリンピックに関心がなかった。ちょっと早すぎたんじゃないか、といろいろな人に言われた。しかしそれは違うと思った。むしろ、遅すぎたくらいだった。実際に、少しでも来たるべき厄災のダメージを軽減するためには、これでも遅すぎたくらいだった。

 その後、2度目の東京オリンピックは大きな「炎上」を2回迎えた。まずはザハ・ハディドの案が採用された新国立競技場の建設が、その費用の高騰を理由に白紙撤回された。これは、コンペティションから施工への工程を考えたときに、これから予算を調整しようという段階で批判を浴びたものだと思われ、おおよそ理不尽なものであったことは疑いようがない。そしてその後は公式エンブレムの盗作疑惑が持ち上がった。こうして、この2度目の東京オリンピックはまず「どこかで甘い汁を吸っているやつがいる」「そいつを叩きのめすことで、自分はまともな側だと安心したい」という大衆の欲望のはけ口として消費されていった。そしてその後に始まったのはいつの間にか膨大に膨らんだ予算の各自治体の押し付け合いだった。それは「うっかり呼んでしまったオリンピックのダメージコントロール」以外の何ものでもなかった。
 このころ僕はテレビワイドショーのコメンテーターを務めていた。この種の話題が持ち上がるたびに、前述したようなそもそも、この東京オリンピックはかなりまずいかたちで進んでいること、競技場やエンブレムの問題は表層的なものでしかないことを述べてきたが、誰も聞く耳は持たなかった。

 そして、疫病を理由に2020年から1年延期されて、オリンピックは開催された。疫病の抑制に逆行する強行開催は内外の批判を集めたが、それは最後まで行われてしまった。開会式は、無残なものだった。開催が迫ると、開会式の演出に関わったクリエイターのスキャンダルが次々と露呈し、彼らは社会的に抹殺されていった。そして、実際に行われた開会式の演出はとりあえずかたちだけを取り繕った、事実上無内容なものだった。内外の世論を無視して強行開催されたオリンピックに協力しても良いと考える少数のクリエイターのパフォーマンスと、国内政治のコネクションによって強引に差し込まれた伝統芸能の類とが何の演出もなくただ併置された、小学校の学芸会をただ巨大にしたような寒々しい時間だけがそこにはあった。しかしそれは半ば予測されたもので、僕は特にこれ以上の感想を抱かなかった。それはまるで、既に進行している状況を前にしながら、ことに当たる上でのそれぞれの体面のことばかりを議論している会議を見ているような気分だった。僕の頭の中に、ある一節が浮かんだ。「戦線から遠のくと、楽観主義が現実にとって代わる。そして最高意思決定の段階では現実なるものはしばしば存在しない。戦争に負けているときは特にそうだ……」コロナ・ショックの始まったときから、いやその遥か以前から「戦争」は始まっていたのだ。ただ、そのことに気づくのが遅すぎたのだ。それも、決定的に。「だから、遅すぎたと言っているんだ――」そう叫びたいのを、僕はずっとこらえながらこの夏を過ごしていた。

 そして閉会式の生中継を眺めていると、あるタイミングでちょっとたまらなくなった。それは、次回2024年のパリ大会への引き継ぎを告げるトレーラー映像が流れたときだった。2024年パリ大会のコンセプトは「オリンピックを競技場から、街へ」――各競技はパリ各地の歴史的な名所や建築物で行い、オリンピックを市民に解放する――というものだった。それはこの2020年大会に猪子寿之が提案した構想に限りなく近いものだった。そして僕の携帯電話にメッセージの着信があった。猪子からだった。彼も僕と同じ中継を見ていて、そして驚愕したのだ。このとき、僕は自分たちが決定的に敗北したことを改めて痛感したのだ。そして2024年のパリ大会が、このタイミングでそれを宣言したということは2つの戦いに必ず勝利するという宣言でもあった。それはテロリズムと、新型コロナウイルスの2つの「敵」との戦いに勝利するという宣言なのだ。その自信がなければこのタイミングで、このような宣言を世界に向けて発信できるわけがない。そこに映し出されたパリの市民たちは老若男女のすべてが多様な人種で構成され、そしてワクチンの接種の完了した彼ら彼女らが広場に集まって歓声を上げていた。それは僕たちが夢見た2020年の姿を上書きして、更にその先のビジョンを示すものだった。そう、僕たちはオリンピックに間に合わなかったのだ。僕たちはこの国から、この国だからこそこのタイミングで世界に伝えるべきメッセージを見つけ、それをかたちにしようとした。しかし、それはできなかった。守る側はあのころの思い出を守ることしか、そして攻める側はどうすればあいつらを引きずり降ろして自分たちがそこに座れるかしか考えていなかった。未来を作ろうと思っている人は、僕たちが考えるよりもずっとずっと少なかった。それが、この国の現実だった。猪子は「悔しい」と述べた。この人がこのようなことを口にするのを、僕ははじめて見た。それだけに、無念さが伝わってきた。「猪子さん、辞めるつもりだったでしょ?」僕は彼にメッセージを送信した。「オリンピックを止めることはできなかったけど、俺たちの勝負は終わっちゃあいない。やりようは、まだある」僕は最後の文を送信して窓から空を見上げた。「やりようはまだ、あるさ……」そこには夜空に黄色く光る飛行船が浮かんでいた。その船体には「Ultima Ratio」の文字が印字されていた。

 最後のくだりはあるアニメ映画のパロディだが、猪子寿之とLINEで悔しさを共有したのは本当の話だ。実際の文面は、ちょっと恥ずかしいので引用しない。そして、僕は走りに出ることにした。行き先はいまさっきまで閉会式が行われていた、あの新国立競技場だ。胸が一杯になって走り出したと書きたいところだけれど、最初から今日は自宅で閉会式を見た後、気温の下がるこの時間に走ろうと決めていた。僕はこの数年の間に、週に2度か3度都内を走るようになっていた。高田馬場の自宅から5キロメートル走ると、ちょうど新国立競技場の前に出るので、そこで引き返し往復10キロの道のりを走るのが僕の習慣だった。僕はこの数年間、オリンピックそのものには反対していたけれどこの巨大な建築が少しずつ出来上がっていくのを自分の目で確認するのを毎回楽しみに走っていた。しかし大会が近づくと、僕たち一般市民はこのエリアから警備上の理由で閉め出されてしまって、僕の定点観測は強制終了させられてしまった。この外苑前のエリアは皇居の堀と並んで東京の市民ランナーの集まる場所で、スポーツを楽しむ市民にとってはとても大切な場所だった。たいしたことではないのだろうが、こういうたいしたことではない部分に、このオリンピックを市民とともに作りあげていこうという考えが根本的に存在しないということがにじみ出ているように思えた。もちろん、僕たちの「オルタナティブ・オリンピック・プロジェクト」ではこの外苑前のエリアの再開発も提案していた。この外苑前には大きな競技場や体育館がいくつも並ぶが、その他の施設はほとんどなく飲食やショッピングも難しいし、市民が気軽に休めるスペースもない。このエリアをただ目的(スポーツ大会などへの参加)を果たして帰る場所ではなく、隣接する代々木エリアも含めてぶらぶら歩ける場所にすると新宿と原宿/渋谷の2つの商業圏が「歩ける」ストリートでつながり、東京の街がガラッと変わる……そんな議論もしていたのだが、実際のオリンピックはその真逆の方向で開催された。

 僕は走りながら考えた。僕たちはオリンピックに間に合わなかった。しかし僕たちの勝負はまだ終わってはいない。あれから6年、実際のオリンピックは1年延期された上に想像以上に無残なかたちで開催された。これは、僕たちの完全な敗北を意味していた。しかし、僕たちはとっくの昔に自分たちで走り始めている。猪子寿之は世界中に自分たちの「ボーダレスな」価値観を表現したアートを展開しているし、乙武洋匡はこの国に決定的に欠けている多様性を啓蒙するために、自分をアイコンにして義肢のプロジェクトを推進している。門脇耕三は開催中のヴェネチア・ビエンナーレの日本館キュレーターとして、サスティナビリティを重視した家屋のリノベーションを問題提起的に展示して話題を集めている。そして僕は「遅いインターネット」という今日の情報環境に流されない運動をはじめ、いくつかのメディアを立ち上げている。あのころ、僕たちはオリンピックというモニターの中のアスリートの活躍に感情移入するための装置を、「ばらばらのものを、ひとつにまとめる」時代の象徴を変えようとした。そしてオリンピックを変えることで「ばらばらのものが、ばらばらのままつながる」あたらしい社会のビジョンを世界に示そうとした。そして、負けた。だが、僕たちはもう何年も前から、次の勝負を始めている。そしてもうモニターの中のランナーに感情移入する装置をアップデートするのではなく、自分の足で走ることを考えている。テレビの前で競技スポーツを見る観客となり他人の物語に感情移入するのは20世紀のスタイルで、21世紀は自分の物語をシェアする時代だ。僕たちはだからこそ、古いものの象徴としてのオリンピックをどうにかすることを考えたのだが、それができないのなら自分たちが走る。それだけだ。
 今日もワイドショーとツイッターでは、問題を解決することや、問題自体を問い直すことではなくどう回答したら他のプレイヤーの関心を買えるかという基準でしかものを考えられなくなった人々が、何も生み出さないゲームに興じている。だから僕たちはそれぞれ、そのような不毛なゲームに背を向けて、まったく別の方向に走ることで価値を生み出そうとしている。「次」には必ず間に合わせるために。僕たちは負けた。でも、次は必ず間に合わせる。
 走り出してちょうど5キロ地点に、新国立競技場が見えてきた。ほんの少し前まで、開催反対のデモ隊で賑わっていたらしい付近も、僕が走ってきたころには解散して辺りは静まり返っていた。大会の関係者や、青いユニフォームTシャツを着込んだボランティアたちが、まばらに歩いていた。彼らをすり抜けるようにして、僕は競技場に向けて走った。近づけるのは裏側のほんの一部の区間だけで、僕はそこから競技場の写真を撮った。そして、猪子に送った。コメントは添えなかった。それで十分、伝わるはずだったからだ。僕たちはオリンピックには間に合わなかった。でも僕たちはとっくの昔に自分たちの足で走り始め、そして今も走り続けている。次は必ず間に合わせるために。

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連載【水曜日は働かない】
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宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)など多数。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。
Twitter:@wakusei2nd

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