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金原ひとみ デクリネゾン 第2話「小さく肥えた羊」

illustration maegamimami
「であるから、私は繰り返し、繰り返しいうが、原子は少々斜に進路を逸れるに違いない。」
『物の本質について』ルクレーティウス著 樋口勝彦訳 岩波書店
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 ぐつぐつと煮立った赤いスープにラム肉をまとめて投入し、菜箸でふるふると広げていく。火鍋を目の前にして二十分が経とうとしている私たちは、それぞれ頬を上気させ時折ハイボールやサワーのジョッキに手を伸ばしながら食べ進んでいた。山芋もう半ば溶けてんで、早よ食べや、カボチャもヤバいでぐずぐずやで。せっかちなひかりは和香と私を定期的に煽ってくる。ある文芸誌の編集長が商業主義に走りすぎてもはや売り上げ乞食と化している件について、有名作家の誰々がどこどこの担当編集者を切った、しかも阪神戦の最中に電話を掛けてきたからという理由で、という噂、どこどこの出版社の文芸は初版四千以下の作家を切り捨てる方針らしいという噂。同業ならではの話題で盛り上がっていた私たちは、火鍋の野菜が煮えた頃から明らかに口数が減っていた。
「ここまできたらもうにんにくがほくほくだから、この取り皿のスープににんにく五個くらい入れて潰して具に絡めて食べると美味しいよ」
「志絵は火鍋に対してまったくもってガチやな。匂いとかやばくならん?」
「いや、確かに火鍋のにんにくはそのまま食べるより崩した方が美味しいですよ。これくらいかなと思う量の倍くらい入れた方が美味しいです、明日のことを考える人はそもそも火鍋を食べる資格がないです」
 和香の言葉にまあ少なくとも五個くらいだよねと同調する。そんな入れんの? 旦那さんとキスとかできひんくない? とひかりは関西弁の強さとは裏腹に弱気だ。
「ひかりさんって、旦那さんと毎日キスするんですか?」
 ラム肉を頬張りながら和香が発した質問に、「まあ行ってらっしゃい的なんは割としがちかもしらんな。まあ毎日とは言わんけど」とひかりは曖昧な答えをする。
「和香ちゃんは? 毎日する?」
「私は感情が盛り上がらないとしないから毎日はしない。志絵ちゃんは?」
「相手によるな。相手がスキンシップに抵抗のない人なら毎日するし、ベタベタするのが苦手な人ならセックスの時くらいしかしなかったりもする」
 ひかりには二歳の息子が、和香には十歳の息子がいる。現代に於いて、働きながら子供を育てている女性は、難しいバランスを保っている。例えばひかりは仕事4家庭4恋愛2くらいの比率に見える。非常に安定していて危なげがないが、恋愛の割合が若干少なめであることに配偶者が不満を抱き浮気に走る可能性もなくはないだろう。しかし旦那さんも同じような比率に見受けられるひかりの場合、円満な家庭を家族三人で美しいレースを編み上げるかのごとく繊細に、そして綱引きの綱のように強固に紡いでいくことが可能だろう。彼女の家庭のような安定した人類の営みを眺めている時、私はそれだけで幸福な気持ちになれる。
 和香は仕事4家庭2恋愛4といった塩梅だろうか。家庭を顧みないタイプではないが、恋愛に対する攻めの姿勢は崩さない。恋愛指数が高めであるのは同じだが、私と和香の大きな違いは離婚の有無だ。彼女が子供を出産した頃に知り合い、それからちらほらと顔を合わせそういう話も聞いてきたけれど、彼女は婚外恋愛にのめり込みしっかりと激しい不倫をするが離婚という道は絶対に選ばないのだ。それは、仕事も収入も多い和香に代わって家事育児をほとんど担う献身的な夫がいるからこそ成立しているものかもしれないし、そういう夫だからこそ不倫相手に現を抜かしても、和香はホームに帰ることができるのかもしれない。
 もちろん一概には分けられない比率、バランスではあるものの、ほとんどの女性は大抵話しただけで「家庭寄り」か「恋愛寄り」か分かる。たまに家庭寄りの女性が、一つの出会いによって一瞬にして恋愛寄りに変貌を遂げることはあるが、その逆は見たことがない。恋愛への衝動は、一方通行、そして行き止まりなのだ。
「確かにめっちゃ美味しいけど明後日までキスはできへんな」
「私好きな人がにんにく臭くても全然気にならないけどな」
「ほんまに? 自分は食べてへんくても気にならん?」
「全然。何ていうか、にんにく臭ってちょっと内臓の腐った感じの臭いじゃない?」
 私の言葉にひかりは怪訝な表情を見せる。
「だから、好きな人に内臓の腐った感じの臭いがすんなって思われんのが嫌やって言ってんねんけど」
「この人が死んだらこんな腐敗臭がするのかなって思ったら、その人が今生きてて生身の肉体から腐った内臓っぽい臭いを放ってるってことが愛おしく思えてこない?」
「なあ和香、こいつヤバい奴ちゃう?」
「分からなくはないな。私もすごい年上の柔道やってる人と付き合ってた時、加齢臭と汗の臭いが入り混じった道着の匂いが好きだった」
 あんたら気色悪いな。まあそんだけ愛されてる男の方は嬉しいやろうけどな、でもそれってほんまに愛なんかな。変態性欲みたいなもんに近いんとちゃう? 言いながら、ひかりは器用に穴あきお玉を使ってどんどん野菜と肉を私たちの取り皿に取り分けていく。
「そう言えば、志絵ちゃんて新しい彼氏、理子ちゃんには会わせたの?」
「会わせたよ。三人で食事に行った」
 どうやった? どうだった? と二人が同時に顔を寄せる。
「何ていうか、硬かった」
「そりゃしゃーないわ社会経験のない男の子と、その子と十個も違わないアドレッセンスの女の子やろ? そんなん誰だって固まるわ。普通は連れ子同士で出会ってもおかしない年齢差なんやで」
 どっさりと豚肉を投入すると、重なったそれを少しずつ解けさせていく。阿吽の呼吸のように、和香がさっとお玉を手に取りアクを掬い取っていく。和香はこうしていろんなものが見えていて、いろんなことに気が付く人だから、不倫をしても家庭を壊さないでいられるのかもしれないと、責任逃れのようなことを考える。
 旦那さんは不倫のこと全く知らないの? 昔、不倫話を聞いていた時、唐突に気になって聞いたら、「どうだろうね」と和香は困ったように笑った。こうして和香が困ったように笑ったら、旦那さんも何も追及しないのかもしれない。そんな風に思った。和香は不倫相手とのことは饒舌に語るのに、旦那との関係については言葉が少なくなる。でもきっと、例えば子供を通じて知り合ったママ友なんかに対しては、旦那との関係を饒舌に語り、不倫相手のことなど噯(おくび)にも出さないのかもしれない。固茹で卵。和香を見ていてたまにそのイメージが浮かぶ。黄身と白身がきっちり分かれていて、どうやっても混ぜ合わせることはできない。それぞれの質が違うのだ。ポテトサラダに混ぜ込んでも、黄身と白身はバラバラだ。
「最近、理子のことが分からないんだよ。もちろん思春期なんてそんなもんだろうし、皆通る道なんだろうけど、不思議だよね。この間まで何を考えてるか大抵想像のついた子のことが急に何も分からなくなって、でも自分のことを好きな大学生の男の子の気持ちは大体分かる。でも彼のお母さんとかは、彼の気持ちが分からないのかもしれない。どうしてこんな不毛な恋愛してるのか、知ったら困惑すると思う」
「恋愛はフェティシズムと切り離せないから、気持ちが分かる分からないとはちょっと違うかもしれないよね。フェティシズムはシチュエーションとか経験則では測れないものだから」
 批評的な言葉を口にする和香を見ながら、彼女が不倫を繰り返している理由が分かるような気がする。和香は賢さ故に家庭という枠から少しだけ溢れ出してしまうのではないだろうか。そして賢さ故に、家庭を守り続けるのだ。それでも彼女には、いつか全てからあぶれてしまいそうな危うさも感じる。
「向こうの親と会うって話は出ないの?」
「彼はそろそろどうって言うけど、今はまだその気はないな。だってまだ半年だし」
「でも理子ちゃんには会わせたんでしょ?」
「理子にはこれまでも付き合ってる人は基本的に紹介してきたよ。我が子が恋愛してる相手と、我が親が恋愛してる相手じゃ、ちょっと重み違うじゃん?」
「つまり会わせたのは理子ちゃんのためで、彼のためではないってこと?」
「彼のためでもあったよ。この子が大学生とかになるまでこの子と私は切っても切り離せないってことが彼には現実的に理解できてないだろうって思ったから」
「彼は何か言ってた? 会った後」
「理子が硬かったことに関しては、母親の彼氏に会った時なんてあんなもんじゃない? って言ってた。でも理子は明らかに他の彼氏を紹介した時よりも心を閉ざしてたけどね」
「何でなん? やっぱ若いから?」
「分からない。思春期だからかもしれないし、若いからかもしれない。もともと蒼葉は、年上には丁寧でしっかりしてるって気に入られるけど、丁寧でしっかりしてるからこそ年下には慕われないタイプなんだよね。これまでの、二番目の夫なんかは特に、理子を猫可愛がりしてたから、そういうのと比べちゃうのかも。実父も理子には未だに甘いし。でも自分に甘い男しか受け入れられないなんてロクでもない女になりそうだけどね」
「まず自分を受け入れてくれる人かどうか、母親の彼氏を見定める時にそこを気にするのは当たり前じゃない? 自分が一緒にいたら邪魔になるんじゃないかとか、いつか追い出されて母親を取られるんじゃないかとか、二人の間に子供ができたら自分がどうなるかとか、普通にナイーブなこと考える歳でしょ」
「彼女には、私から愛されてる強固な自信があるはずだし、自分の立場を危惧するとは思わないけどな」
「自分を愛していた二人の父親を、理子ちゃんは志絵ちゃんの恋愛衝動によって失ってきたんだよ?」
 責めるような口調でもなく、ニュースを読み上げるアナウンサーのような淡々とした調子で和香はそう言う。
「それでまた、志絵の恋愛によって、彼女は自分の意思とは無関係に父親を得る」
 得るも失うもないよ。豚肉を頬張りながら答える。
「人は人を所有できない。子供も親も、互いの所有者、被所有者になる事はできない。これまでの二人の父親と理子は個人的に連絡を取ってるし、蒼葉と結婚したとしてもそれは戸籍上のことであって、彼があの歳で理子の父親としての役割を果たせるはずがない。それは名前のない別の関係になるでしょ」
「母親の誰かを好きっていう気持ち一つで、一緒に暮らしてた人が家から排除される気持ちが志絵ちゃんに分かる? これまで真剣に取り組んでたボードゲームを突然ひっくり返されて、気が変わったからルール全変更しますってぶった斬られるようなものだよ? 志絵ちゃんは円満な家庭の中で育ってきたから、その辺り楽観的っていうか、敢えて無神経な態度でやり過ごしてるところがあるんじゃない?」
「無駄に共鳴し合うことは、親子関係に於いては禁忌だよ。特に女同士ではね。私は母親をフナムシに見立てて共感を完璧に排除した関係を築くようになってから人と昆虫として共存することができるようになった。たまに人間の生活圏内に入ってくるからその度駆除剤を撒いてたら入ってこなくなったしね。それに比べたら私と理子は人同士として良好な関係を保ってる」
 タイミングを窺っていたひかりがハイボールを飲み干した勢いで、肉追加いるいらん? 海鮮もあんで? と声をかけ、私と和香は首を横に振った。ほら和香も飲み物ないやんなんか頼む? シメは絶対卵麺やと思うんやけど異論も認めんで、ひかりは次から次へと捲し立てる。普段がさつと思われがちな関西人は、関東人が真顔でスルーする寒々しい雰囲気が意外に苦手だったりする。
 煮詰められたこの店で一番辛い麻辣スープに投入された卵麺をお椀に取ると、再び掬ったにんにくを投入してぐずぐずに崩す。これまで投入してきた肉や野菜の旨み、大量の唐辛子から滲み出た唐辛子成分と肉から滲み出た脂が合わさってできたラー油、それらを煮込んで染み込ませどろどろに絡ませたちぢれ麺を口に入れると、にんにくやネギや花椒の香りが鼻に抜けていく。二人とも上気した顔で麺を啜っているのを見ながら、セックスした後の彼女たちはこんな顔をしているんだろうかと想像する。そう思ったら途端に、この店で火鍋を食べている人たちが卑猥に感じられた。店内に漂う異国感のある香りの中にたゆたいながら少し意識が遠のいていくような貧血に近い感覚に襲われたのは、麻辣に中枢神経をやられたのか、濃いハイボールの飲み過ぎか、それとも同業女性たちとの言葉のラリーのせいか。

 私西武新宿から帰るねと和香は言って、先に離脱した。現在の不倫相手であるSEの岡本さんは中野在住で、明大前在住の彼女が、私たちから早く離脱したかったために嘘をついたのか、西武新宿線沿線に新しい彼氏や彼氏候補がいるのかは分からない。
「和香はああ見えて必死なんやと思うで。連載たくさん抱えて、不倫もして、家庭も何とか回して、いっぱいいっぱいなんやと思うんよ。なんていうか、巨大な歯車でもって何十個もの歯車を回してるっちゅーか、自分が止まったら全部止まるっていう責任感の中で、何とかかんとか自転してるって感じがするんよ」
「和香ちゃんはいろんなことをそれぞれ頑張ってるけど、実際には全てが複雑に絡み合ってるんだろうね。彼女が不倫をやめたら、彼女は小説も書けなくなって、家庭も破綻してしまって、家庭がなくなったら不倫の意味もなくなるのかも。彼女のこと、固茹で卵って思ってたけど、考えてみれば黄身がなければ白身もないし、その逆も然りなんだよね」
「なんそれ。茹で卵って何の話なん?」
「家庭を維持しつつ、不倫を続けるっていう道もあったのかなって、彼女を見てると思わなくもない。そういう自分にあり得た世界線について最近よく考える」
「あり得たかもしらん世界線なあ。まあ、私たちはその世界線を想像して、絶望とか、希望とか、過去とか未来とかを打破したり、咀嚼したりして、消化していくんが仕事やからな」
 ひかりからそんな言葉が出てくるのが意外で、私は思わず隣を歩くひかりの目をじっと見つめた。何やの? ドヤってるかと思った? と振り向いてドヤるひかりに笑って、今度はゆっくり飲もうねと言う。せやな、またLINEしてや、と手を振るひかりと別れると、私は地下道へと続く階段を降りていく。
 すれ違う何百もの人々に、それぞれ今ここにいる目的があるのだということが、不思議だった。例えばゴキブリのように、人も餌と交尾を求め続けて行動していれば、まだ解しやすかっただろう。しかし人は、例えば小説を書いたり、小説を読んだりという、餌にも交尾にも結びつかないことをしなければ生きていけないのだ。その事実が情けなく、恥ずかしく、僅かに誇らしくて、でも僅かに誇らしい自分が恥ずかしくもある。
 改札を入っていつものホームに向かう途中、壁にもたれてしゃがみ込み、スマホを片手に持ったまま号泣している女の子が目に入る。手で顔を覆い体を震わせて静かに泣き続ける彼女を見つめながら、特に理由もなく早足だったのが急に減速する。同時に、馬鹿みたいに早足で行き交う人々がずんと速度を落としスローモーションに見える。昔の記憶が、枕に突き立てたナイフを一気に滑らせるように、ブチブチブチブチと心地よい感触と共に切り裂かれそばがらが溢れ出すように蘇る。九年前、始発が動き始めた時間帯の新宿三丁目の道端で、私はしゃがみ込んで泣いていた。吾郎からのあらゆる面に於ける拒絶に傷つき不倫を始めた私は、不倫相手であった直人の子供を妊娠し、離婚と出産を決意するも、吾郎に離婚を切り出す前に流産した。流産の手術を終えて一ヶ月が経った頃、不倫が吾郎の知るところとなり、私たちは離婚することになった。
 じゃあこれ出しといて、判を押した離婚届を吾郎が私に渡し、分かった今日明日は無理だから、明後日出しに行くという私の答えに「そう」と興味なさそうに答えて「じゃあ会社行くから」といつものように家を出ていく吾郎を見送りもせずじっと離婚届の二人とも曲がっている判を見つめていたあの日の夜、私はそれまであまり付き合いのなかった出版社の編集者と会食に向かった。朝まで飲んで酩酊した挙句、家に来ませんかと誘う彼の家に行くことになってタクシーを待っていたその時だった。吾郎からのメールが届いていることに気がついて開いて二行読むと、編集者の彼に「私やっぱり帰るんで乗ってください」と停まったタクシーを手で示した。え、どうしたんですか? 帰るなら送りますよと戸惑う彼に、いいです帰ってくださいとひどい態度を取り、怪訝そうな彼が乗り込んだタクシーが視界から消えた瞬間、私はその場にしゃがみ込んで声を上げて泣いた。「志絵と一緒になってからの五年間は、俺の人生の中で最も幸せな時間だった。」その言葉から始まる彼の長文は、もう嫌われているのだと諦め、もっと前向きに別の人との未来を考えようと無理やりシフトチェンジしようとしていた私にとって、凶器のような幸福だった。あらゆる方向から体のあちこちを串刺しにされているような痛みに全身を震わせた。
「あなたが生きている世界に生きているだけで死にそうなくらいあなたのことが好きだった」
 涙で不鮮明な視界の中震える指でその一言を送信すると、私はようやく無理やり立ち上がり、ふらふらとタクシーを求めて歩き始めた。あの時、あの編集者と寝ていたら、私はどうなっていたんだろう。今となってはどうしても、あの編集者と一瞬でも「ヤッていい」と判断した自分がこの世に存在したことが信じられないのだ。自棄になっていたのだろう。自分を求めてくれ理子のことも歓迎してくれる直人という後釜がいたというのに、私は完全に自棄になっていた。そしてその自棄の果てに出産を控え里帰りをしている奥さんの居ぬ間に担当作家を家に連れ込もうとしていた最低な男と寝そうになっていた私を、吾郎は離婚の直前に救ってくれたとも言える。

「なんかご飯食べに行かない?」
 午後二時に引越しを控えた吾郎の言葉に、四歳の理子はやったあと声を上げた。お気に入りの小さなバッグに次々とおもちゃを詰め、晴天なのに買ってもらったばかりの傘を持っていくと言い張り、理子は吾郎に抱っこされながら陽の光の下傘を開いた。手を伸ばして傘を振り回す理子に、吾郎は危ないよと笑って、理子を抱くその腕の力を強めた。
 大きな大学の敷地に隣接したマンションに住んでいたため、周りには学生向けのお店が多く、吾郎が選んだのはベビーカーを畳まずに入れるという理由でよく利用していたやはり格安の韓国料理屋だった。プデチゲとチヂミとエビチャーハンを頼み、私たちはビール、理子はお店がサービスしてくれたオレンジジュースで乾杯をする。
「最後のご飯がここか」
「別に最後じゃないよ」
 吾郎の言葉に、でも別の意味で最後だとも思う。そしてもはや、私たちはもう夫婦ではないのだと、一週間前に出した離婚届を思う。吾郎が家にいる間は、全く実感が湧かなかった。今日だって、業者に梱包を頼んだためまだいつもと変わらない部屋を見ながら、やっぱり実感が湧かなかった。
「理子ちゃんに唐揚げは?」
 理子の言葉に反応して、吾郎が唐揚げを追加した。バッグに詰めていたおもちゃを理子はご機嫌そうに出し始めた。何となく、離婚や別居を気取ったら情緒不安定になったりするのではないだろうかと思っていたけれど、「パパはこれから別のお家で暮らすことになるけど、保育園がお休みの日は会えるし、会いたければいつでも会えるからね」と説明した私に「どしてパパは別のお家なの?」と一言聞き「ママとパパは、これまでとは違う関係になるから」と説明すると、ふうん、と最近懐いている飄々とした保育士のリツコ先生を真似したように興味なさげな態度で頷いた。
「今日はパパのお引越し?」
「そうだよ、お引越し。このご飯が終わったら引越し屋さんがくるよ」
吾郎の言葉に、「ヘンリー3せいのおひっこし、と同じだよ」と付け足す。家にある絵本のタイトルを挙げると、理子は大きく頷いた。絵本というのは、圧倒的に経験値の低い子供たちに、パターン認識の力を培わせるためのものであるということを、私は子供を持って初めて気づいた。ほら、○○の○○と一緒だね、と理解しづらいであろう現象について絵本とそのキャラクターの名前を挙げると、それなりに複雑な案件に関しても簡単に納得してもらえることが多いのだ。
「Separation(離別)」という両親の離婚をテーマにした絵本を、昔吾郎が海外出張の際に買ってきて、いつか役に立つことがあるかもしれない、と子供部屋の本棚に並べていたのを苦笑して見ていた時のことを思い出す。あの頃から、吾郎は私よりも強く、離婚の可能性を色濃く感じ取っていたのかもしれない。絵本の割に難しい単語が多く途中で読むのを止めてしまったけれど、今あれを読むべきは理子ではなく私なのだろう。初めての結婚、初めての出産、初めての育児、初めての不倫、初めての不倫相手の子供の妊娠、初めての流産、初めての離婚。この五年の間にあった色々な初めての中で、私は無重力の中にいるような、自由を装った不自由さを感じていた。
 ソーセージやハム、野菜や豆腐、インスタント麺が入ったプデチゲがやってくると、私たちは黙々と食べ進める。理子ちゃんも! とせがむ理子のためにソーセージを取り分けてやる。おいしおいし、と言いながら食べていた理子が突然「からい!」と叫び、私は麺を啜りながらオレンジジュースを差し出す。ほんの一年くらい前まで、こんなふうに外食はできなかった。料理が出てくるまでに理子がぐずり始め、五分で料理に飽きると騒ぎ始め泣き始め、いつも私があやし、吾郎が食べ終えた後理子を店の外に連れ出し、私は一人で冷めたご飯を食べていた。何でいつも吾郎が先に食べるんだろう、この食事のスタイルはいつまで続くんだろう、という二つの不満を抱えながら、私は冷めたご飯を既に減退し始めた食欲をそれでも満たすために、機械的に噛み砕いていた。
 ようやく、私たちは三人で外食がまともにできるようになったのだ。そのタイミングで、私たちは離別する。「まだからい」と喉を掻き毟るような仕草をする理子に、お冷やの中から氷を指で摘み上げ口に放り込んでやる。
「しばらくは週末来るけど、志絵の都合もあるだろうし、その辺りはそっちの都合で考えてくれていいから」
 イラっとして、どういうこと? と突っかかる。離婚を決めた時も、理子との面会に関して吾郎は煮え切らない態度をとっていた。志絵の好きなように決めてという言葉に、てめえの子供だろてめえで考えろと私は静かな口調でキレた。
「志絵の彼も、きっとすぐ一緒に住むようになるだろ? 彼と暮らす中で、俺との面会が重荷になることもあるだろうから」
 吾郎の言葉の意味が分かりたくなくて、どういうこと? と更に分からない振りをした。
「俺と会い続けてたら、理子も彼に懐かないかもしれないし、父親として認識できないかもしれない」
「そんなのは私たちが操作することじゃない。父親云々なんて、今ある環境の中でその人自身の中で形成されていく感覚だよ。とにかく戸籍上も物理的にも吾郎は死ぬまで理子の父親だよ」
「こっちは、志絵と彼に気を使って言ってるんだけど」
「気なんて使わなくていい、吾郎と理子との関係について、私と彼のことを考慮に入れて考えないで。私は吾郎が出した毎週末に理子と会うという結論に全力で寄り添う。彼には有無を言わせない。当たり前のことだよ。理子の父親なんだから、あなたには義務と権利がある」
 理子が生まれた頃からワンオペ気味で、言われたことの中で無理なくできることしかやってこなかった責任丸投げ感の強かった吾郎への苛立ちがここにきて爆発した私に、「それはそうだね」と吾郎は静かに答えた。不倫の事実に関して、吾郎は一度も私を責めなかった。私はそれが悲しかったのかもしれない。
 けんかだめー、と理子がばつ印を指で作って私たちの口にあてがおうとする。喧嘩じゃないよと私と吾郎が声を揃えると、理子は安心したように微笑み「氷もっとちょうだい」と口を指差して見せた。子供ができて以来、二人で住んでいた時には足繁く通った雰囲気のいいレストランや深夜のラーメン、思い立った時に出かける映画や、吾郎が表参道の美容室に行くついでのショッピング、二人とも仕事が立て込んでいる時にパソコンを持ち込んだ深夜のファミレス、深夜にDVDを見ながら食べるカップ焼きそばやコンビニのおでん、そういう喪失してしまったものが恋しかった。今だけ、今だけ、あと何年かは分からないけれど、一生ではない、そう自分に言い聞かせていた。吾郎がそういう私たちの喪失したものに対して無頓着だったことが、そこに同等の悲しみを見出していなかったことが、辛かった。そんなのは些末なことに過ぎないけれど、そういう小さな共感の欠如、すれ違い、言葉の不足、不満の蓄積の中で、私たちは互いに憎しみを積もらせていったのだろう。
 直人のことは好きだったけれど、吾郎ほど決定的な人ではなかった。吾郎は私にとって、最も決定的な男だった。こんな人にはもう二度と出会わないだろう。家の中にある吾郎のものが分けられどんどんダンボールに詰められていくのを見ながら、そんなことを考えていた。引越し業者の邪魔をしていたところを吾郎に抱き上げられ、ソファに連れてこられくすぐられている理子のけたたましい笑い声を聞きながら、私は寝室で一人ベッドに横になったまま「今引越し作業中。理子が慣れるまでしばらくは旦那もここに出入りすることになると思う」と直人にメールを書いた。送ってしまった後に、旦那ではなく、元旦那にするべきだったと気づいたけれど、ただただ力が抜けていて、「パパもうバイバイだって」と理子が駆け込んでくるまで、そこから起き上がることもできなかった。

 もしもし志絵? もう終わった? 大丈夫? 飲み過ぎてない? Bluetoothのイヤホンから伝わる穏やかな声を聞くと、ほっとする。蒼葉の声を聞くといつも、私は自分の罪を許されているような気がする。そしてだからこそ、私は彼との関係に疑問を抱いてしまうのかもしれないとハイボールのウィスキーで三割ほど麻痺した頭で思う。
「辛かったからちょっと飲み過ぎたかも」
「火鍋だったよね? また大辛にしたの?」
「大辛にして、唐辛子追加投入もした」
 すごいなと笑って、ちゃんと帰れる? と蒼葉は目の前にいれば頭を撫でながら聞いたであろう優しさを声に滲ませる。彼は私と付き合うまで火鍋を食べたことがなかった。生牡蠣も、ビリヤニも、白レバーも、ロッシーニも、鯨の刺身も、馬刺しも、テキーラも、彼は私の連れて行った店で初めて口にした。そのどれにも彼はピンとこない顔をしていて、でもいつも食べ物に無頓着な彼がピンときた顔をしたのは、適当に見かけて買い食いしたケバブと、炉端焼きのお店で食べた三枚肉の塩焼きくらいだったような気がする。
「今帰りの電車?」
「うん。今新宿出たとこ」
「今日、理子ちゃんは吾郎さんのところ?」
「うん。明日の夜まで向こうに居るみたい。なんか今日WOWOWで見たいライブがあったみたいで、喜んで出かけて行ったよ」
 志絵ちゃんもWOWOW入ってあげればいいのにと言う蒼葉に、WOWOWって結構高くなかった? とケチくさいことを言うと、志絵ちゃんの一月の酒代の十分の一以下だと思うよと笑われる。
「ねえ、これからそっち行っちゃだめ?」
「明後日締め切りのコラムがあるんだよ」
「パソコン持ってって俺も次の発表の準備するから」
「蒼葉がいたら話しかけちゃうし集中できないよ」
「俺はいつまでたっても志絵の日常にはなれないの?」
 蒼葉と過ごす空間は日常の煩雑なあれこれから切り離されていて、糖分的、ご褒美的な存在だ。そう思っていたことを見透かされていたことに動揺し、自分と一つ席を空けて座っているスーツ姿のおじさんが「うぇっ」と今にも吐きそうな声を上げたことにも動揺した。
「蒼葉が日常になったら、私は糖分過多で死ぬね」
「志絵を甘やかすことしか俺にはできないの?」
「それだけで充分尊い存在だと思うけど」
「俺は志絵ちゃんの日常に存在したい。特別な存在でありたいけど、特別が日常になったら最高じゃない?」
 特別が日常になったら、それは日常だ。私は蒼葉と一緒にいる時、蒼葉を心から祝福していたい。音下げてくれないかなとか、今は邪魔して欲しくないとか、もう仕事したいのになかなか話を切り上げてくれないなとか、そんなことを思いながら蒼葉と一緒にいたくないのだ。私は蒼葉といる時、私の世界にいる最も尊く必然的なものとして、蒼葉を愛でていたい。最初は互いに尊敬し合い慈しみ合っていても、一緒にいる内に相手を異性としても個人としても軽んじてしまうケースがあることを知っているからこそ、そう思う。
 しかも仕事をしている私と大学生の蒼葉では時間の重みが違い過ぎて、一緒にいる時間が長くなれば長くなるほど、私たちの間には温度差や精神的な距離が生じてしまうだろう。でも私自身がそうだったから分かるのだ。あの歳で恋愛に夢中になっている時、年長者のそんな未来を見据えた意見なんて綺麗事か、今日が永遠に繰り返されると信じている平和ボケした人間の言い分にしか聞こえないと。今特別なものは永遠に特別だと彼は本気で思っていて、彼が本気でそう思っているからこそ私は彼に惹かれたのだろう。
「志絵の家のこととか、仕事のこととか、俺には分からないことが多いけど、それでも少しずつ志絵に見えてる世界を知っていきたいと思ってるし、料理とか買い物とかでもいいから少しでも志絵の役に立ちたいって思ってる」
 そっか、そうだよね、分かってる、呟きながら、隣の隣に座るサラリーマンがいよいよ吐きそうになって私は席を立つ。
「じゃあ、うちの近くのバーで少しだけ飲む?」
 うん、行く。と蒼葉が嬉しそうな声を上げて、Rってバー覚えてる? うん、ツーブロックのバーテンダーがいるお店でしょ? とやりとりをした後、急いで支度するねと弾むような声でLINE通話は終わった。LINEのトークに吾郎から画像が送られていて、開くとラーメンを食べている理子の画像だった。今にも麺を啜ろうとしながら、不意打ちをされたのか驚きと恥ずかしさを滲ませ大きく口を開けて笑っている。「初めて理子が青岳のラーメン一人前食べきったよ」というメッセージに、「成長期だからね。夜更かしさせないで、十時以降はスマホ取り上げてね」と返信する。電車を降りて駅からゆっくり歩いてバーに向かう途中、「さっき数学の宿題教えてたんだけど、理子学校の勉強についていけてるの? 塾に行かせた方がいいんじゃない?」と吾郎から入る。「分かってる。今ちょっと忙しいから来月に入ったらちゃんと考えようと思ってた。どこの塾がいいか知り合いに聞いてるところだから、吾郎も情報収集しといてくれない?」と返信する。
 女として作家として元妻として保護者として、あらゆる役割があることを考えるとそれだけでやるべきことが弓矢のように次々飛んでくる気がして恐怖に似た焦りが襲ってくる。カウンター席に座りただの客となりほっとした十分後には、蒼葉がやって来て私の手を握り、私はまた女になる。お疲れさま、と嬉しそうな蒼葉に微笑み返すこの瞬間が小説を書き始める時の感覚に近いのは、その顔がどこかフィクションであり、自分が望んで作ったキャラクターであることの証拠なのだろうか。お久しぶりです、と二十も年上のバーテンダーに挨拶され、そこはかとなく居心地の悪そうな表情を浮かべる蒼葉に代わってマッカランのソーダ割りを注文すると、私たちは結局二時まで飲んで近所で唯一のラブホに入り、眠りから醒めた後始まった三回目のセックスのせいで退室時間の十三時を十分過ぎて延長料金千円也を徴収され、駅までの道にあった赤身肉のステーキが売りのフレンチレストランでしっかりとしたバベットステーキを食らい、ようやく手を振った。

 マンションに戻り家に帰ると、久しぶりに訪れた一人無言の時間に感心に近い思いを抱きつつ寝室のデスクに向かう。理子は吾郎と夕飯を食べた後帰宅する予定で、それまで最大限執筆を進めておきたかった。パソコンを起動させ、さっとメールをチェックするとコラムよりも先に連載原稿のファイルを開く。蒼葉との温かい空間から一歩足を踏み出し小説の世界に戻ってきた瞬間、私は途方もない嘘を蒼葉に対してついていることに気づいた。言葉の嘘ではなく、存在としての嘘だ。私は蒼葉が思っているような人間ではない。蒼葉といる時間は何物にも代えがたく、幸福の最高地点にある。でもどこかで、彼に対してペルソナを操作している。誰しもが、誰かに相対する時ある程度の操作をしている。それでも私のしている操作は、彼に対する絶望的なまでの裏切りになるような気がした。私はそんな人間じゃない、彼に好きだと言われるたび認められるたび肯定されるたびそう思う。でも私自身が、彼には認められないであろう自分自身の内面の大きな部分の消失を願っている。それが、私が蒼葉とグラスをぶつけている時、膝に手を置かれた時、手を握り返す時、キスをしている時じゃれ合っている時セックスしている時彼の腕枕で眠りに落ちる時、このまま死にたいと願う理由だ。彼は私と一緒になる幸福な未来を望んでいる。でも私は、彼に愛され全てのネガティブなものから目を背け、背けていられる間に訪れる死を望んでいる。そんなものを求め続ける私は、蒼葉にとって耐えがたい重荷となるに違いない。彼には絶対に耐えられない。その確信が、言葉を交わせば交わすほど時間を共有すればするほど強くなる。
 押さえつけられない自分自身の中の猛獣のようなものに私自身がずっと振り回され、サンドバッグのようにボコボコにされてきたのだ。猛獣の影をちらりとでも目にしたら、彼は慄き、私と知り合った最初のシーンに遡って私たちの間に起こった全てを後悔し、それでも私から離れられない地獄を這いずり回ることとなるだろう。彼と付き合う中で感じる引け目が、歳の差やバツ二や子持ちなどといった条件ではなく、私がひた隠す猛獣に紐付けられていることに気づいた瞬間、彼と彼を愛する全ての人に謝罪の意でいっぱいになった。取り返しのつかない地獄に招致した者としての責任を果たさず猛獣の存在を無視したまま死ぬ幸福にばかり気を取られている私は有無を言わさず地獄に落ちるだろうという確信によってのみ、私は生きることができる。


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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。『パリの砂漠、東京の蜃気楼』4月24日刊行予定。
maegamimami(マエガミマミ)
Twitter @maegami_mami

※この記事は、2020年3月26日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

※著者のエッセイ集『パリの砂漠、東京の蜃気楼』が発売中です。


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HB(エイチビー)は、集英社グループの出版社・ホーム社の文芸サイトです。2017年11月にサイトを立ち上げ、2020年にnoteへ引っ越してきました。小説やエッセイを中心に、毎日をより楽しく過ごすための、さまざまなコンテンツをお届けします。

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