【最終回】第19話 ベースのカレーとsupernovaと|金原ひとみ「デクリネゾン」
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【最終回】第19話 ベースのカレーとsupernovaと|金原ひとみ「デクリネゾン」

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 どうしてもプロットがしっくりこない。何が足りないのか分からないけど何かが全然足りてない。何か最近発見とか驚きとかなかった? 全然なんかそんな面白くない話でいいから、何かヒントになりそうな、ならなくてもいいから印象深かった話とかない?
 秋川さんに依頼されていたリテラズ創刊三十周年記念号に載せる短編の構想が全くしっくりこないまま、それでも締め切りは迫ってくるから書き出してはみたものの、やはり全くしっくりこないままで、二十枚ほどになったところで一から書き直し、またそれが二十枚を越えた辺りで何度か推敲するもののしっくりこないため主要キャラクター二人の人物設定を大幅に変更しそれも反映させたものの、まだしっくりには程遠かった。
「こういう、もう行き詰まって全く筆が進まないってなる時って、やっぱり根本に原因があるんだよ。でもそれって多分防衛本能でもあって、このまま無理やり筆を動かして完成させちゃうとするじゃん? そうやって書きあがっちゃったら、その後の推敲がすごく難しくなるし、下手すれば取り返しがつかなくなる。マンションとかビルとかもさ、全部完成しちゃった後に、やっぱここに柱、とか、ここやっぱ吹き抜けに、とか無理なことしたら崩落しちゃうじゃん? だから今、ここで踏みとどまってもうちょっと調整しないとまずいなって危険信号が出てることによって、筆が動かなくなってるんだよ」
「なるほど。でももう、時間ないんだよね?」
「ないんだよ。だから何かヒントとか、気づきに至れるような何か、体験とか言葉とかない? ほら蒼葉って結構面白いことを面白いと気づかなくて自分の中に仕舞い込んでたりすることあるじゃん?」
「そうかな。そんなことあったっけ?」
「ほらなんかイギリスの高校で言うこと全てが嘘っていう虚言癖の男の子がいて、その子が今ラッパーとして活躍してて最近UKの有名なフェスに出まくってるとか」
「いや、めちゃくちゃ嫌な奴だったんだよ」
「そういうの。まさになんか嫌なこととか嫌な人、ちょっと楽しかったこと楽しかった人、不思議だったこととか人。そういうのない? 一つのセリフでもいいんだよ」
 蒼葉が分かりやすく困った表情を浮かべるせいで、根掘り葉掘りアイデア乞いをしている自分がひどく卑しい人間に感じられる。
「今のところは、どんな雰囲気の小説なの?」
「自己抑圧と生活の狭間で苦しむ主人公がとある事件をきっかけにバーンみたいになる話を想定してたんだけど、今の感じだとバーンが訪れなさそうなんだよね」
「ふうん。バーンを起こすための仕掛けみたいなものが必要ってこと?」
「仕掛けっていうか、そもそも今この問題に突き当たってるのは、なんていうか構造的な問題があるからなんじゃないかって気がするんだよね。多分私は構想段階で何かを見落としてるか見誤ってるんだよ。こういう時って、突然ここをこうすればいいんだ! って修正する部分が赤字で見えるような霊感が働く時が多いんだけどね」
「知恵の輪みたいな?」
「そうそう。スルッと外れる的な。でもどうして外れたのかは体感でしか分からなくて、言葉では説明できないみたいな。そういえばこの間読んだ本に書いてあったんだけど、ドストエフスキーが『悪霊』を書いてる時、一年位書いたところでてんかん発作に襲われて、その時突然何かを悟ったみたいで、治療から戻ったら何が問題で、どこで間違いを犯したのかがはっきりして一年分を棒に振って一から書き直した、って誰かへの手紙に書いてたんだって。ドストエフスキーも書きながらしっくりこなくて悩んでたんだなあって思うと嬉しくなるよね」
「へー。なんかいかにも作家っぽいエピソードだね」
「でも一から書き直したっていうのは嘘で、実際には二百四十ページある分の四十ページしか改稿してなかったってことがその後批評家によってバラされたんだって。巨匠作家のそういうエピソードっていいよね。今って誰しもが割と嘘をつかなくなってるじゃない? 若者なんか特に顕著だよね。インターネットの普及に伴って嘘がバレるリスクが高まったために人類総正直時代に突入した今だからこそ、このドストエフスキーとか蒼葉の元クラスメイトの話はすごく素敵に感じられるわけだよ」
 枯れきって辛うじて枝にしがみついているカラカラの茶色い葉っぱのような気分はいつの間にか薄れ、話しているうち少しずつ血が通ったかのようにホクホクしてきた。こうして小説の悩みを話すと、蒼葉が相槌を打ち続け私が一人で話し続けるスパイラルに陥りがちだ。
「いつかバレる可能性があるなら、嘘はつくだけマイナスだからね」
「蒼葉は、世の中が意外に寛容であることに気づいてない。人はむしろ嘘を求めてるし、嘘のない世界に疲れ切ってる。じゃなかったらフィクションなんてとっくに廃れてるよ」
「俺は、嘘をつくことにストレスしか感じないからね。フィクションは合法的な嘘だけど、実生活では信頼をなくすだけだし」
「そんなことないよ。人の中にはたくさんの矛盾があって、こう言っててもこう思う、こう思うけどこう言う。そういう意図的なものから、人間そのものとか社会そのものの構造的な矛盾もある。だとしたら、そもそも矛盾のない人ほど矛盾してるとも言えるよね? 人とか社会に存在する矛盾を無視してる方がずっと信頼をなくすよ。そんな考え方してたら、真っ直ぐすぎていつかぽきっと折れるんじゃないかって心配だよ。自分も世界も柔軟だし、曲がる。そう言えば、原子って曲がるんだって。むしろ、原子は曲がると考えないと説明がつかないような事象がこの世にはたくさんあるんだって」
「大丈夫。そんな別に堅物じゃないよ。でも俺はなんか、矛盾のこととか考えると疲れるんだよ。足元がぐにゃぐにゃしてたら、俺は生きていけない」
「蒼葉のそういうところ、私が受け入れられないものを受け入れてるところ、嫌いだけど好きだよ。蒼葉みたいな人たちがいるから私みたいな人たちは生かされてるし、私みたいな人たちがいるから蒼葉みたいな人たちも生かされてる。私たちは相反しているように見えて、本来はお互いを支え合うような関係を築いてるんだと思う」
 そうなのかもしれない。あの短編も少し対立構造を殊更に強調するような、どこかで単純化した構造で書いてしまっていたことが問題で、その出発点の違和感が少しずつ肥大し、このままいったら真実のこもっていない構造だけの小説になってしまうというギリギリのところで筆が止まってしまったのかもしれない。だとしたら修正する箇所は明確に分かる。これまで書いてきた原稿のどの部分と、これから書こうと思っていた部分のどこを修正したらいいか頭の中に思い浮かべると、すでにぼんやりと完成形が浮かび上がってくる。主人公の親友をあまりに無自覚なキャラに誇張しすぎだった。もう少し自分の哲学を言葉にできる人間にしなければ主人公との掛け合いが活きないだろう。バーンのところも、あのプロットではあまりに唐突かつ派手すぎるから、もう少し尻すぼみ的なバーンにした方がリアリティが出るはずだ。というかむしろ、あんなわざとらしいバーンは嘘くさ過ぎて羞恥心が邪魔をして書けなかったに違いない。
「なんかちょっと分かってきたかもしれないからちょっと書き直してみようかな」
 そう言いながらスマホに修正すべき箇所をメモっていると、良かったねと蒼葉が私の膝を撫でる。いつもこうだ。蒼葉はまるでアドバイスをしてくれないどころか気の利いたことなども言わず、私は一人で話し続けて一人で解決していく。蒼葉は真理を欲していない。だからこんなにも、揺蕩うようになすがままなされるがまま生きていられるのかもしれない。私は自分が真理が欲しい人なのだと、蒼葉といることで自覚する。私は真理を追い求め続けていないと、少しずつ酸で溶け、端々から消失していくような気がするのだ。でも同時に、私は昔吾郎と暮らしていた頃、吾郎にサンドバッグのように次から次へと興味のない哲学や思想の話題を振られ、それがとてつもなく苦痛だったのを思い出す。興味がないし難解すぎて意味が分からないと言うと、志絵は作家なのにあまりに無思考過ぎると呆れられた。最近は吾郎と話していてもあんな苦痛は感じないが、それは私が思考するようになったからなのだろうか。それとも吾郎自身があまり難解な話をしなくなったのだろうか。よく分からないけれど、まあそれなりに両方あるような気もする。でも私と吾郎は決定的に考える方法が違う。吾郎は考えることによって現実や世界を直接的に捉えようとしているけれど、私の場合は小説を媒介にしてそれらを捉えようとしている。でもじゃあ、蒼葉は一体どんなふうに世界と関わっているのだろう。そもそも、彼は世界とか現実みたいな、抽象的な捉え方をしているのだろうか。やらなければならない具体的なことをやり続ける、彼にとって世界はただそれだけの場所でしかないのかもしれない。だとしたら、彼は動物のようでもあり、虫のようでもあり、人間界の中で最も自然に近い存在形態をとっていると言えるかもしれない。
 ねえ。と言いながら蒼葉の膝に頭を載せる。どうしたのと言いながら蒼葉は覗きかけていたスマホから目を離し、私の髪を撫でる。
「私のこと好き?」
「好きだよ」
「そう?」
「すごく好きだよ」
「そっか」
「ずっと好きだったんだよ」
「そっか。よかったね」
「志絵ちゃんに好きになってもらえて?」
「うん」
 蒼葉は吹き出して、よかったよ、と私の頬に手のひらを当てる。私も好きになってよかったと言うと、蒼葉は身をかがめてキスをした。蒼葉と付き合うなんてことはないと思っていた。あんな圏外スタートから結婚に至ったのは初めてで、今でも何でそんなことになったのだろうと不思議だし、その直前に付き合っていた行哉の強烈な拗らせに悩み傷ついていなかったらこんなことにはなっていなかったのかもしれないとも思う。この歳になっても、あらゆる可能性を想像する仕事に就いていても、人と関わって生きる以上想定外のことに遭遇し続けるのだ。そう思うとその不確実かつ軽薄な世界と自分の移ろいが耐え難くなる。
「志絵ちゃん今日の夜は仕事する?」
「する。しばらく睡眠時間とお風呂時間切り詰めないと間に合わない」
「そっか。じゃあ部屋あっためておこうね。最近寒くなってきたから」
 言いながら、蒼葉は暖房を入れる。最近、私の仕事が忙しいことに文句を言ったり、不機嫌になったりすることがなくなってきた。私と仕事が切り離せないものだと、一緒に暮らす中で理解してくれたのかもしれないし、結婚したり就職が決まったりする中で、彼自身の中に余裕が生じたのかもしれない。最近はこの世の誰よりも、彼は私の伴侶として相応しい気がする。もちろんそんな気は、他の男と暮らしていた時もしていたのだけれど。
 そろそろルームブーツ出そうか。電気カーペットはまだ早いよね。言い合いながら、私は蒼葉との生活を大切に思う。大切にしようと思う。私はこの生活を、自分からは絶対に壊さないだろう。何度も裏切られたその思いを、今また心から信じている。

 私も書いたよ短編。三十周年記念号。そっか志絵と並ぶのか。和香はそう言いながらすっごくスパイシー、と驚いていたカレーリーフの載せられたシグネチャーカクテルを飲み干した。
「今回久しぶりにめちゃくちゃ手間取って、締め切りも延ばしてもらっちゃったんだよね。まあめっちゃ前倒しのスケジュール伝えられてるの分かってたっていうのもあるけど」
「志絵も秋川さんだよね? 秋川さんすごく前倒しの日程言うよね。もはや余裕のあるスケジューリングの鬼だよね」
「分かる。スケジュールに超シビア」
「三十周年記念号、読み切りいっぱい載るんかな? 楽しみやな」
 結構たくさん依頼してるって言ってたよ。言いながらハルヴァという初めて聞く料理を口に運ぶ。カレーの味がする。本当だ。ほんまや、さすがインド料理やな。モダンインディアンキュイジーヌと謳われたこの店は、まるでモダンフレンチのような内装で、照明もかなり薄暗い。食器も配色が美しく、派手でありながら嫌味のないお洒落さを醸し出している。この間ビリヤニのお店を調べていた時、こんなインド料理屋があるのかと驚き、いつか行きたいと思ってブックマークをしてあって、そこにきて感染者の減少、三人ともワクチン完了ということもあって久しぶりに飲むことになったのだ。予約したコースには料理ごとに「浄化」「伝統」「安息」などとテーマが掲げられており、哲学的なお品書きを見て調理場から漂うスパイスの香りの中にいるだけで満たされた気分になる。蒼葉はでかいナンが出てくるようなインドカレーの方が好きだろうしな、と思っていたから女友達との会合の誘いは願ったり叶ったりで、二人とも好きそうなお店予約しとくと豪語し、二人に店名も何料理かも告げずに予約を入れたのだ。想像通り、二人は入店した瞬間目を輝かせてインド料理? と声を上げた。
「ひかりはどう? その後」
「ガリガリ書いてんで。新連載の時期も決まったし、まあまあ忙しなってきたわ」
「結局旦那さんは大学院行くことにしたんだよね? 引っ越しするの?」
「まあまだ出願もしてへんし分からんけどな。引っ越しはちょっと微妙なんよなー。コロナがどうなるかにもよるし、院がどんな感じの授業の形態とってるか分からへんし。あるいは名古屋まで通うって可能性もなくはないかなって」
「へー。通いも面白いかもね。この間蒔田有人さんのエッセイ読んだんだけど、普段は京都に住んでて週一で東京に授業しに来て、二泊して帰るみたいな生活送ってた頃の話で、本当に忙しそうだけど、充実してそうだったよ」
「多分当時の蒔田さんより若いし、まあ何とかなるんちゃうって思うけど、まあコロナの今後によるな多分」
「なんか、第五波が去ってから完全に浮かれてるよね。街が。ひどい抑圧があったってことがありありと分かるような、何かを取り戻そうとするみたいに皆が飲んで騒いでるの見ると、ちょっと痛々しく感じない?」
「そう? なんか本当に心から楽しくて仕方ない! って感じのサラリーマン集団とか見ると清々しくない?」
「私はなんか、人間の根本にああいう大騒ぎ乱痴気騒ぎをしたいって欲望があることが、ちょっと気持ち悪く感じられるな。断食をした後にいきなり脂まみれのこってりラーメン食べるみたいな感じもあるし」
 和香の残酷みを感じる静かな言葉を聞き、ああ、と呟きながら記憶を手繰る。確かに、この間焼き鳥屋でテイクアウトの注文をしている時、向かい側の居酒屋で泥酔している人、大声を上げて絡み絡まれを繰り返しているサラリーマンたち、大声で歌を歌う若者グループを見ながら、私も何だか餌と雌とテリトリーのみが生の動機になっている猿山を眺めるような虚しさを抱いたのだ。不本意にも一旦飲み会という文化を奪われた私たちは、各々が望むと望まざるとに拘らず内省し己と向き合い、それぞれの深みに達していたのかもしれず、何も見えない深海を手探りで漂い続けていたのが突然浅瀬に引き上げられ一切の危険はないが全く面白くもないのに面白いと刷り込まれていた水遊びを再開したようながっかり感のようなものなのかもしれない。よくよく観察してみると、今日この三人の間には以前よりも低空飛行な空気が渦巻いている気もする。あの虚しい飲み会文化への嫌悪、羞恥心がそうさせているのだろうか。あるいは、戦争ではないけれど、それぞれが多かれ少なかれ戦い抜いてきたという意識もあるのかもしれない。和香は不倫相手から感染しホテル療養、私は濃厚接触者となり、ひかりも息子の保育園でクラスターが発生し、いつ息子が発症するかという不安の中、保育園なしで育児と仕事の両立という地獄を味わってきたのだ。
「反動でめっちゃタガが外れてる感じの奴もおるしな。こないだ友達と居酒屋行ったら、会計八千円やったんやけど、八千円分のクーポンくれはって。いやいやあんたそれ浮かれすぎやろって笑たわ。でもお店の人めっちゃ嬉しいんやろな。また行って、今度は倍くらい食べてやろ思たわ」
 桜肉のタルタル、オレンジピュレ、ピスタチオソース、チャツネ添えです。癖の強い日本語で説明しながら料理を出してくれるインド人と思しき店員さんも、どことなくうきうきしているように見える。パクチーも載っていて、ソース一つとっても意外性がすごい。全くもって家で作ろうとは思えないタイプの、未知の味のオンパレードだった。
「そういや志絵、なんかちょっと前に蒼葉くんと喧嘩したとか言ってたけど、最近は仲良くやってるの?」
「仲良くしてるよ。毎日ご飯一緒に作って、お風呂も一緒、歯磨きも一緒、でも料理以外の家事は分担、仕事と勉強はそれぞれ自分のペースでやってるし。これから先また彼が仕事始まったりしたら、ちょっとずつ色々変わってくるだろうけど」
「楽しそうでええな。なんかそういうさ、新陳代謝ヤバい奴近くにおるとこっちまでテンション上がるよな。なんかもう四十とか過ぎると、だんだん何に対してもそんなモチベーション上がらんくなるやん。変化もせんし。まじ代謝せんなって思うやん。裕斗のこと見てるとめっちゃ思うんよ何この代謝日々脱皮してでかくなって目覚めてるやんって。蒼葉くんもそうやろ? だってこれから初めて社会人になるんやろ? もう目まぐるしく世界変わるやん。私らの世界にはもう変革は訪れんやろうし、だいたい大まかな未来の予想つくし、これからはなんか老眼とか白髪とか皺とか更年期障害とかいうディテールが支配する世界になっていくやんか」
「やめてよひかり。マジで憂鬱。国によっては死刑だよそんな話」
 和香が心底嫌そうな顔で言うけれど、別に老いってそんな嫌なことばっかの事象やないし、憂き思いを抱えてこそ人間は魅力的になれるんちゃう? とひかりは嬉しそうに言う。でもその話にどことなくしっくりこないまま、運ばれてきた甘くない柿とリンゴのソルベを口に運ぶ。サラサラの雪のような食感の中に果汁が溶け出しているかのような味で、後味には生姜の風味が残る。
 きっと、蒼葉は新陳代謝していない。外の世界からあらゆるものをぐんぐん吸収しできることが増え世界が広がっていくような心地を、彼は生まれてから一度も味わったことがないのではないだろうか。常に不自由さと居心地の悪さを感じながら、その中で何とか最低限やり抜いているという印象しかない。本を読んでも映画を見ても絵画や写真を見ても毒矢が刺さって全身に毒が回るような体験にも、良薬が全身を癒すような体験にもならない。彼は何があっても変わらない。ちょっと嫌とちょっと楽しい、ちょっと怠いとちょっと充実。その四つの中を行ったり来たりしながら、日常をやり過ごしている。それで言えば、私の方がずっと新陳代謝している気もする。一つの小説で世界がひらけたり、一つの台詞で生きやすくなったり、小説を書くことで落ちて行きそうな自分を食い止めたりしている私はそれらがないと生きていかれないからそうしているのだけれど、彼はそういうものがなくても普通にちょっと憂鬱な世界を生きていけるのだ。いいなあ何もしなくても普通に生きていけるなんてという羨みと、一生何も変わらないでそのまま生きていくのという嘲りとが入り混じった思いを以前はうっすらと抱いていたが、最近彼が出会った頃と比べてそれなりに変化していることを実感する。彼はこれまでも、物語や思考などによってではなく、実質的な生活によってのみじわじわとその性質を変化させてきたのかもしれない。それは、ちょっと驚くくらいのんびりとした新陳代謝で、ずっと一緒にいる私でなければその絶妙な変化には気づけなかっただろうという自負さえある。
「金目鯛とエビのソテー、鮑とトマトの香るラッサム添えです」
 情報量の多い皿を、皆で唸りながら味わう。何で構成されているのか分析し難い味に、やっぱり蒼葉とも一度一緒に来てみたいと思う。近所のインドカレー屋で出てくるナンとは別物のように見える二種のナンは、薄くパリッとしていてコクが強く、ラッサムと一緒にナンを頬張ると、皆からナンへの賞賛の言葉が溢れていく。皆こんなに美味いナンは初めて食べたと口を揃え、褒め称えてはナンに感動している自分たちにウケる。
「和香は結局その後彼とはヨリ戻したの? 前はなんか有耶無耶な感じだったけど」
「ヨリは、戻ったんだろうね。何とも言えないけど、恋人と友達の線があるとしたらかなり恋人の方に寄ってると思う」
「別れ損ねたか」
「そもそも何で別れよ思ったんやっけ」
「いいよもうその話は。なんか、すったもんだあって、ちょっとコロナに似てるなって思ったんだよね。結局もう彼が巣くってて、そんな簡単に排除できないし、ワクチン打ってるし大丈夫って思ったけど、別れた後に残ったのはちょっとずつ彼に汚染され続けた自分で、別れても、彼は排除できないっていうか」
「それ言ったら人間関係って全部ワクチンみたいなものだよね。爪痕が残ってて、例えばひかりとか、ひかり的なものに触れた時私は『この感じ知ってる』ってなって、対応ができる。その感覚が味方になってくれる時もあるし、ワクチンにならずにただのウイルスとして自分に過剰反応を起こさせるものもある」
「ずっと慣れ親しんできた家族でも、なんか唐突にアナフィラキシー起こして駄目になることもあるやんな。そう考えると、人間て人生かけて命かけて獲得してきた抗体とか免疫力とか、そういうもんに生かされてるんやなー」
 リボンが解けるように、数日前の記憶が蘇る。寒くなってきたしとキムチチゲの材料を揃え準備をしている最中、唐突に蒼葉のスマホが鳴り始めた。一瞥して顔を顰めた彼の後ろから覗き込むと、お母さんの名前が目に入って「いいの?」と聞いたけれどいいよと本当にどうでも良さそうに彼は鳴り続けるスマホをソファに投げた。
「普段、電話してくることないよね? 親族に何かあったのかもよ」
「結婚したことバレたみたいだから。それだと思う」
「あ、バレたの?」
 ていうかバレてなかったのかと思いながら、私は電気鍋のスープを調味し始める。
「ここで連絡取らないってことは、ずっと連絡取らないってこと?」
「分からないけど、憂鬱だし面倒だから」
 だから無視するの? 無視しっぱなしにするの? ずっと? ずっとって、ずっと? 疑問を口にしないまま、私は味見をする。コクと甘みが足りず、コチュジャンとウェイパァー、味醂をそれぞれ少しずつ足す。
「私は自分の子が結婚したら、嬉しいよ。もちろんそれは、我が子にこの仕事に就きたいって目標ができたとか、我が子がこの世に何を求めるかはっきり自覚を持ったとか、そういうことと同様に嬉しいってことだけど。つまり誰かと付き合うとか結婚するとかって、今より生きやすくなるとか、足りないものを補うとか、足りてるけどより満ちるとか、そうでなくても何となくここにいたい場所ができたとか、感情の爆発とか、爆発しなくてもじわじわ沁みるものとか、そういうものに出会ったってことでしょ?」
「俺の母親は、志絵とは違うから」
 彼の口調は静かだったけれど、僅かに乱れが生じている気がした。報告しなかったこと怒ってるの? 苗字私のにしたこととか? 聞きそうになったけれど、結局口にしなかった。
「関わりたくない」
 関わりたくないものと、関われと言うことはできない。現代人はもはや徴兵制に象徴される「有無を言わさず」の強制は受け入れられないし、成長や社会のためといった詭弁もまた、空疎なものでしかないと悟ってしまった。そっかと答えると、私はもうそれ以上何も言わず、こんな感じでいいかなとおたまを手渡した。
「キムチ入れてみよっか。それだけでもうしっかりした味になりそう」
「確かに。あのキムチちょっと酸味出てきたしいい味出そう」
 私たちはチゲをしっかり食べて、その後湯がいた中華麺を入れて汁も飲みきった。本当に美味しかったし、冷え切った体が温まった。それでもどこかで、関わりたくないという言葉の冷たさが、ツララが刺さったように体のどこかに埋め込まれている気がした。彼は母親に対して持っていた抗体を、私と付き合うことによって失ったのかもしれない。だからその関係はたちまちに壊れてしまったのかもしれない。人間の抗体も免疫も、いろんな要因によって崩れ、壊れ、喪失していくものなのかもしれない。そんな繊細で、どんな化学反応が起こるか分からない人間という不確かなものと密接に関わっていくのは恐ろしいことで、いつか訳の分からない理由で私たちは大切な誰かと決別し、二度と会えなくなるかもしれないということだ。そう考えると、誰もいなくても生きていける強さを身につけなければと思うと同時に、今ある関係を一層大切にしようとも思う。

 陶器の鍋に入ったポルチーニと栗のビリヤニがシメで、ポルチーニってこんなマッシュルームみたいなきのこなんだとゴロゴロとした具材に驚きつつ食べ進めたけれど食べきれずデザートに移行した。モンブランとシグネチャーティーを経ると、美味しさで上がったテンションが過剰な満腹で少し下がっているのが分かった。 まだ時短しているお店が多く結局一軒で解散を決めると、また近いうちに会おうな、この落ち着いてる間に飲みまくらんとなとひかりが言う。名古屋に行くことを前提に考えてるのだろうかと勝手に寂しくなって、私は来週とかでもいいよとまた次の締め切りが迫っているのに自分の首を絞めるようなことを言って手を振った。

「デスクありがとう!ぴったりだよ!」
 理子から画像付きでLINEが入ったのは、この辺がいいかなあって思うんだけどママはどう思う? と選定に長い時を経た割に特に強いこだわりなどは感じられないデスク候補を三つほど送られ、何度かやりとりを経たのちに購入ボタンを押した翌週のことだった。吾郎の家の寝室に置かれた、こぢんまりとしたデスクにはすでに理子の物が置かれていて、我が子の生活がそこにしっかりと根付いていることに寂しさと同時に力強さも感じる。
「今ちょっとLINEしてるんだけど、今日理子ご飯に誘ってもいい? コロナ落ち着いてる内になんか美味しいもの食べに連れてってあげたくて。明日学校休みだし」
「いいよ。どこ行く?」
「何がいいかなー。焼肉、焼き鳥、イタリアンとかでもいいし……」
「理子ちゃんサムギョプサル好きだったよね? 駅前の韓国料理屋とかは?」
「あー、いいかもね。手土産にチキンボックス買ってあげてもいいかも」
 過保護だと思われそうだけれど、理子と離れて暮らすようになって我が子や孫にお土産を持たせたいという父母、祖父母の強烈な欲望を初めて理解することができた。自分が近くにいない間も美味しいものを好きなだけ食べていて欲しい。その強い思いが、私たち惨めな年長者を突き動かすのだ。
「今日蒼葉と三人で韓国料理食べに行かない? うち泊まってもいいし、夕飯だけでもいいよー」
 LINEにはすぐに既読がつき、そのまま返信を待っていると着信が入った。
「もしもし?」
「あのさパパと今日はご飯チキチキに食べに行こうって話してて」
「そうなんだ。そっかじゃあ、また今度にしようか」
「あ、てか皆で行かない?」
「皆って、蒼葉も?」
「うん」
「吾郎には聞いたの?」
「うん。今ここいるよ。皆でご飯行かない? って言ったらいいねって」
 いいねのニュアンスがよく分からないけれど、ちょっと待ってと言うとスマホを顔から離して「今日理子、吾郎と一緒に地頭鶏の居酒屋行こうって話してたみたいで、よかったら皆でご飯いく? って理子に言われたんだけどどうする?」とダイニングでパソコンに向かっている蒼葉に聞く。
「いいよ。行こうよ」
 そう言われてしまうと私が渋るのも違う気がして「じゃあ行こうか」と理子に言うものの、何となく蒼葉と吾郎が同じ視界に存在することへの現実味が湧かず、平衡感覚を喪失した夢を見ているような気分のまま私は通話を切った。何となく、デスクが向こうに届き、また理子の生活が遠ざかったような寂しさが私を誘いに駆り立てたのだけれど、その寂しさの果てにこんな展開が待っていると知っていれば私は誘わなかっただろうとも思う。
 店に到着すると、まだ理子たちは来ておらず、私たちは四人掛けの席の椅子の側に座り私は緊張をほぐすため早々にビールを注文する。それでも「あ、いたいた!」と理子の声がすると嬉しくて、私は振り返って手を振る。大嫌いな母親と、別段嫌いではないけれど存在を忘れるほど私にとっては無意味な弟がいて、家族だからと強い関わりや感情を持てるわけではないと自覚し続けた人生だったけれど、私は娘である理子をこんなにも好きなのだと痛感する。共鳴するところは少ないのに、彼女が現れるだけで世界が華やぎ、普通に息をしているだけで心身を襲う責め苦がいっとき緩むように感じられるのだ。蒼葉と吾郎が初めて会うというイベントであることも忘れ、私は「そのニットめっちゃかわいい!」と目を輝かせて褒める理子に歓喜する。失って初めて気付く的なものは愚か極まりないと思っていたけれど、私は理子と生活している間自分がどれだけ彼女を愛し大切に思っているかをそこまでしっかりと自覚していなかったのかもしれない。
「初めまして」
 形式的な言葉を口にし合った男二人は、ニコニコと互いの存在に喜ぶ女同士とはやはり根本が違う生き物だと感じる。チキン南蛮、じとっこ炭火焼、厚焼き卵、しらすサラダ、ポテト、キビナゴの唐揚げ。とりあえずこんなもんかなと注文を終えると、理子はジュースで他の三人はビールで乾杯する。蒼葉が一杯でもお酒を飲むのはちょっとがんばってる時だと知っている私は、少し心配になる。私は理子から友達の話や塾の話を聞き出し、その間に吾郎は就職はもう決まったんですかと蒼葉に話しかけた。二十以上も歳の離れた彼らは、私が時折会う「編集長と若い編集者」の組み合わせに似たものを感じさせる。大抵編集長は話の引き出しが多くあれこれ話題を振り、若い編集者はそのパワフルさ、癖の強さに萎縮しがちだ。でも二人は和やかで、双方ともに過剰に気を使ったり、何かを偽ろうとしたり、偽られることを警戒したりといった様子は皆無で、何とはなしにリラックスしているのが伝わってきて私は一人で幸福な気持ちになる。自分の大切な人たちが、ここに集まっている。そんな気持ちになる。直人や行哉、ひかりや和香など、常に自分の心にいる、どこかでその存在を祝福し続けている人たちもここに集めて、皆への気持ちをありったけの表現力を使って克明に発表したい衝動に駆られる。
「あれ、理子って柚子胡椒食べられたっけ?」
「最近食べれるようになった」
「理子最近七味とか、麻辣とかも挑戦するようになったんだよ」
「麻辣は好きじゃない。吾郎が無理やり食べさせてるだけじゃん」
「無理やり食べさせるなんて止めてよ」
「いや、美味しいよって薦めてるだけだよ」
「いいって言ってるのに食べてみ食べてみってしつこいんだもん。吾郎って私が食べられないって言ってるもの覚えてくれないから毎回おんなじこと言うんだよ」
「吾郎は人の話聞いてないし、覚えないからね」
「私ちょっと前にそっち泊まったじゃん? あの時ママがサラダか何かに電動ミルで胡椒かけようとしたのを見て、蒼葉くんがその胡椒前に理子ちゃんが辛いって言ってたよって止めてたの見て、びっくりしたんだよ。それでなんか粗挽きじゃない胡椒出して使ってくれてて、そんななんかいろんなことちゃんと覚えててくれる人がいるなんて、吾郎と暮らしてて男って人の言ってること全然覚えてくれないんだなって思っちゃってたから、もうなんか別の生き物みたいで。ママってめっちゃ私のこと知っててくれるけど、そのママでも忘れるようなこと覚えてるのすごくない?」
 確かに、そんなことがあった。蒼葉は、偶然覚えてただけだよと恥ずかしそうに言うけれど、彼のその人の趣味嗜好に関する記憶力の良さは異常だ。私はそういう私の言動の端々をきちんと観察して覚えていてくれる蒼葉に、常々救われてきた。でも同時に、全てを忘れゆく吾郎にも、その忘れやすさ故に救われたこともあった。そもそも人は一貫した存在ではないと考える吾郎と、変わらない部分を糧に相手を読み解こうとする蒼葉、双方の力によって私は支えられてきたとも言える。そしてこの二人の極端な在り方によって、双方の良いところと悪いところを知ることができたのかもしれない。
「蒼葉は何でも覚えてるんだよ。レストランで食べたものとか、私が話した友達の話とか、そういうのも覚えてる」
 つまり、私が小説などを通してたどり着く世界の総評のようなものを、蒼葉は一つ一つの経験と記憶を通して掴んでいるのかもしれない。パターン化してしまえば楽なのにと私は思ってしまうけれど、彼にはそのやり方しかできないのだろう。
「吾郎は、誰とどこに行って何を食べて何を話したか、全部忘れちゃうからね。同じこと何度も言うし、同じこと何度も聞くし」
 普段の鬱憤が溜まっているのか、理子は口調強めに言って肩を竦める。
「俺は頭の容量をもっと重要なことに使ってるから、それ以外のことを覚えておけないんだよ」
「吾郎はいつか私のことも忘れちゃいそう」
 理子が言って、私は吹き出す。この間、今やっている若年性健忘症の主人公が出てくるドラマが面白いと言っていたから、見ていて不安になったのかもしれない。
「まあいつか理子のことを忘れたとしても、理子と一緒に過ごして得たものは残るんじゃないかな」
「やめてよそんなの寂しいよ。私は絶対に私のことを忘れないで欲しい!」
「まあでも、忘れなかったとしても私も吾郎も理子もいつかは死ぬんだから」
「いや、理子の世代の子は不老不死の薬を手に入れてるかもしれないし、俺だって凍結技術で二三〇〇年くらいの時代に蘇るかもしれないよ」
「吾郎っていつもこれ言うよね。不老不死なんてあるわけないじゃん!」
 理子が呆れたように笑いながら言う。私もそう思っていた。でも吾郎と知り合ってから十何年もこの話をされている内、私はなんだか不老不死は実現するのかもしれないという気がしてきて、人は皆死ぬ、という科学的定説と平行して「人は死なないかもしれない」という希望とも絶望ともつかない可能性を半ば現実的に考えるようになっていた。人は人が想像する大抵のことは信じられるのだと、私は吾郎に教えられたのかもしれない。
「最近はどうなの? ライブとか、フェスとかは」
 吾郎は何杯目かの焼酎のロックを飲みながら聞く。少し酔ってきたようで、ヘラヘラしている。
「夏フェスは第五波でほとんど中止になったけど、冬フェスは結構開催予定のところが多くて、大体がワクチン接種証明書か、PCR陰性の提示を義務付けてるね。ようやくここまできたか感があるよ」
「そうだ、理子ちゃんにロックノックのこと話した?」
 ビール一杯を飲み切らないまま少し顔を赤くした蒼葉が言って、私はちょっと前に蒼葉と話したことを思い出す。
「そうだ忘れてた。年末のロックノックフェスにトリップが出演するんだよ。マンデイズとかゆりしーずとかも出るし、もし理子が行きたかったら一緒に行けないかなって思ったんだけど。今年は規模が小さいし、入場者数も一万人くらいにするみたいだから、チケット取れるかどうかも分からないんだけど、もし取れたら行く?」
「えっまじで? 絶対行きたい!」
「本当に? 理子とフェスに行きたいってずっと思ってたから嬉しいな。絶対チケット取る!」
「でもあれさ、一回で二枚までしか申し込めなかったよね」
 蒼葉がスマホを手に取り調べながら言って、テンションが下がっていく。結局開催中止になってしまったけれど、今年関東で最も大きい夏フェスに一次、二次、三次、と応募して落選していたのがトラウマになっていた。
「なんか裏技とかないの? メアドたくさん作ってたくさん申し込むとか」
 吾郎らしい提案が出るが、最近のチケットは転売を防ぐために本人と同行者それぞれの携帯番号が紐づけられていることが多く、同じ携帯番号で重複して申し込みをすると不正扱いとなって落選するのだ。しかも本人確認をする場合もあると書かれているため、危ない橋は渡れない。
「とりあえずさ、志絵のアカウントで理子ちゃんの分も申し込みなよ。俺は別で自分の分申し込むから」
「俺の携帯使ってもいいよ」
「でも二人分申し込むなら吾郎の携帯だけじゃ無理だよね?」
 蒼葉に聞くと、そうだね二人分の電話番号がないといけないからねと言われ、やっぱり正攻法しかないよなとなった瞬間、「社用携帯もあるから二人分の申し込みできるよ」と吾郎が言う。
「まじで? でも当選した場合、その端末自体私たちが持っていかなきゃいけなくなるんだけど」
「別にいいよ。年末年始仕事しないし」
「本当に? なんか世捨て人みたい」
「理子世捨て人なんて言葉知ってるの? 大人になったね」
 私はなんだかこのメンツの中にいて、自分の過去が何となくあやふやになっていくのを感じる。私と吾郎が経てきた過去、三人の家庭、三人の家庭の終焉、恋愛の終焉、再婚と新しい家庭、またその終焉、理子との母子生活、理子との離別、蒼葉との生活、再々婚と新しい生活。全てが一本軸の中で起こったこととは思えない。私はただ、あらゆるコロニーを行き来して愛すべきものを愛し続けてきたようにしか思えないのだ。そもそも人生とは、時系列的に捉えるべきものではないのかもしれない。そう考えながら、この話を何か小説に活かせないかと考え始めて、何度かスマホにメモを取った。
 お店の人が閉店ですと言いにくるまで、私たちは絶え間なく喋っていた。素敵な時間だったし、もっと言えばこの四人でもう少し一緒に居たかった。でも、ママと蒼葉くんうち寄っていけば? と提案したおそらく同じ気持ちなのであろう理子には、今日はもう帰るよと微笑んだ。
「そうだ、これ」
 お会計をしている最中吾郎がそう言って、キーケースから外した鍵を差し出した。斜め向かいから差し出されたそれを手に取るのを、隣に座る蒼葉は不思議そうに見つめている。
「理子がうちに住み始めた頃から返さなきゃと思ってたんだけど、忘れてて」
 直人と離婚してあの家に理子と二人で住んでいた頃、仕事で夜出なければならない時や、蒼葉と会う時など、吾郎に来てもらうことが続いて渡してあったのだ。直人に来てもらうことも多かったため彼にも渡してあったが、確か蒼葉と住み始めたくらいのタイミングで理子を通じて返されていた。
「会うたびに、ああ返しそびれたって思ってたんだよ」
「そっか。なんか懐かしいな。付き合い始めの頃、蒼葉とデートする時、吾郎とか直人とか、うちの親とかに来てもらってたんだよ」
「そんな頃もあったね。なんかいつも、俺は理子ちゃんにも吾郎さんたちにも少し申し訳なくて、一緒に住めたらいいのにって思ってたんだよ」
 唐突に、付き合い始めた頃の蒼葉の雰囲気を思い出して、胸が苦しくなる。いつもどこか、自然でありながら、彼は私のプライバシーに足を踏み入れることを躊躇いつつ、躊躇いを見せないよう気をつけているようでもあった。あれは、今はもうない、きっと記憶力の高い蒼葉でさえ忘れている、私の中にしかない愛おしい蒼葉の一部分の記憶だ。
 もらった鍵をバッグの内ポケットに仕舞うと、じゃあ行こうかと声を上げて立ち上がった。店を出ると、あ理子、これ。と来る途中スーパーで買ったお菓子類を渡す。ウェハース、チョコがけポテトチップス、チートスにカルパス、イカの燻製、理子の大好物のHARIBOのグミを何袋か。やっぱり何か持たせたいと、駅前のスーパーで買ってきたのだ。
「えー嬉しい! いいの? えこれ持ってっちゃっていいの?」
 布のトートバッグを持ち上げて聞く理子に、うん、歯磨きするんだよと頭を撫でる。はーい、と私の肩に頭を載せる理子の頭を撫で、抱きしめる。
「じゃあまたロックノックのこと連絡するね」
「うん! 当たりますように!」
 理子の頬を手のひらで撫で、じゃあねと私は手を振り、蒼葉はじゃあねと理子に手を振り、失礼しますと吾郎に頭を下げる。駅に向かって歩きながら、蒼葉と手を繋ぎ、腕にもたれかかる。
「ロックノック、三人で行けるといいな」
「ね。そしたら最高の年末になるね。今年はおせちどうしようか?」
「ちょっと買って、ちょっと作る? 大掃除もしないとね」
 だね。気合い入れて頑張るよ。蒼葉の言葉が心強い。理子と二人だった頃は、掃除しよっか、そうだね、というやりとりだけがあって実際の行動には移さなかったし、おせちも理子の偏食が酷かったこともあって、かまぼことかローストビーフを見かけたら買うくらいのことしかしなかった。私たちは多分、二人で買い物に行き、筑前煮は去年作りすぎて嫌になったから止めようなどと言い合いながら、ローストビーフやエビの煮付け、ナマス辺りの材料と、出来合いの栗きんとんや黒豆を買うだろう。いつもは大体寂しくて仕方ない理子との別れの後も、カーテンレール掃除したいね、だね、エアコンの中とか上とかもやろう、洗濯機の下も、それは盲点だったな、そんな汚かったっけ? けっこう埃溜まってるよ、あ、あと出窓の枠のカビも取ろう、そしたらお風呂のカビも一緒にやっちゃいたいね、と蒼葉と掃除箇所について話している内に気が紛れた。

 そっちも食べたい! これすごく美味しいよ。バニボムのベースがプロデュースしたカレー。バニボムって何だっけ? あれだよ、あの最近流行りの猟奇殺人犯を追う警察のドラマの主題歌うたってるバニティボムってバンド。あーあの尾形雪丸が出てるやつね、えてかバニボムのベースってコックなの? コックって……と私が理子の語彙の少なさに呆れていると、「バニボムのベースは調理師免許持ってて、こういうフェスの時に飲食店出店してるんだよ。自分たちが出演してないフェスでも出店してたりするし、結構人気で今日もちょっと前までずっと行列できてたんだよ」と蒼葉が丁寧に教えてくれる。
「へー。ベースが調理できるなんてなんか意外だね」
「何そのベースを見下した感じの言い方」
「えーだってさ、ドラムとかギターだったらなんか納得だけど、ベースが調理師ってなんか無理そうくない?」
「えー、ゆりしーずのベースはピアノ弾けるしサックスもハーモニカも吹けるよ!」
「まじ? えーでもなんとなくベースが一番潰しが利かなそうじゃない? え、めっちゃ辛い! 美味しいけどめっちゃ辛い! 何これ辛いむり!」
 理子が慌ててコーラを口に含み、これ私無理ー、とカレーを私に押し返す。じゃあこの辺いっぱい食べなね、と笑いながら蒼葉がロングポテトと唐揚げを理子に差し出す。この時間帯を逃すとしばらくご飯休憩できなさそうだったから、マンデイズの出演が終わってすぐに、B -を見ていた理子と落ち合い足早に飲食店を見て回って気になったものを次々買ってきたのだ。
 あんなにチケットを取らなければと意気込んでいたのに、結局正攻法で挑んだ一次先行で三人分普通に当選した。ステージ数を減らしたせいかもしれないけれど、チケットは日によっては一般まで出て、肩透かしをくらった気分でもあった。
 タコライス、スパイスカレー、唐揚げ、ポテト、ローストビーフサンドはまあまあすぐに消えて、やっぱ寒いからヒートテック着てくるわとか、ちょっと煙草一本とか、フォトスポットで写真撮ってくるとか、ちょっと足痛いから休んどくわなどと何となくゆるっと一箇所に集まったり離れたりを繰り返し三人思い思いにあちこち移動した挙句、またゆるっと三人が集う。
「理子トリップ待ちするんだよね?」
「うん! いつ頃入ったらいい?」
「早ければ早いほどいいよ。今Nekosogiやってるじゃん? それが終わってダーッと人が出た瞬間に入ったらいい。そんで席が空いていったら少しずつ前に移動。そうすればトリップの頃にはまあまあ近くで見れるんじゃないかな」
「ママたちはどうするの?」
「Hippopotami見にいって、チラッとバニボム見て、そのあとトリップかな。私たちは全然後ろの方でいいから。規制かかんないといいけど……」
「そっかオッケー。じゃトリップ後に合流って感じだね」
「だね。何かあったらLINEしてね。疲れちゃったら、この辺にいてもいいし。でも移動する時は連絡してね」
「おけ!」
 理子は親指を立てる。じゃ行こっかと蒼葉と立ち上がると、Hippopotamiのステージがどっちだこっちだと言い合いながら椅子とテーブルを避けつつ歩いていく。
「ママー!」
 理子に大きな声で呼ばれるのは久しぶりだ。そう思いながら、私と蒼葉は同時に振り返る。理子は私たちにスマホを向けていて、行ってらっしゃい! と言いながらシャッターを切ったようだった。思わず笑って蒼葉と顔を見合わせると、「インスタ載せるなよ!」と声を上げ、私は手を振った。
 これからどんな激突があって、何が壊れたとしても、今日の記憶があれば生きていける気がした。そして私は、これまでもそういう記憶を重ねるために、生きてきたような気もする。それらが溜まりまくって本当に何があっても生きていける人間になれたら最高だ。会場に入って椅子を確保すると、隣の蒼葉を見上げ、その表情が今の自分と全く同じな気がして笑ってしまう。どうしたのと不思議そうに微笑む蒼葉に首を振ると彼は不思議そうなまま私の頭を撫でた。リハのために出てきたHippopotamiのメンバーが曲を演奏し始めた瞬間、私たちは同時に立ち上がる。ずっとこの時を待ってた。そう思った。今ようやく、ここに辿り着いたのだ。曲がった原子の果てにある光景は美しく、私はまた時系列を超えた関係性の数々を思い出してみる。そしてそのあちこちに散らばる星のような最小単位の関係を次々と行き来する自分を想像してみる。星はいつか消える。私が生きている間にかもしれないし、私が死んだずっと後にかもしれないけれど、必ず消える。でも星が消える時に起こる超新星爆発の後、吹き飛ばされた水素が集まってまた新しい星ができるのだ。もう会わなくなった人や死んだ人だって自分の中にいくらか残存して私を守ったり攻撃したりしているのだから、星だって消えた後も何かしらの存在に作用しているはずだ。全ての存在が、私に作用し、私の存在もまた、全てに作用している。唐突な共鳴にそこはかとない恐怖を感じた瞬間、リハが終わりメンバーが捌けていった。
「食道から胃にかけてめっちゃメラメラしてない?」
 蒼葉は私を振り返って聞く。
「してるしてる。すごい野蛮で強烈なエネルギー源がここにあるって感じ」
 笑い合って、なんか手足とか頭皮がほかほかしてる、ほら手汗がすごいと蒼葉が見せる、汗で手相が浮かび上がるように光る手を取ると、気持ち悪くない? と心配する蒼葉に全然と笑う。私に何度も激突し人生を狂わせてきたあの存在は、今は激突の機会を窺っているのだろうか。そしていつか、一緒にいてこんなに幸せな人はいないとさえ思っている私が、蒼葉の元を去ることがあるのだろうか。でも去ったところで私の中にある蒼葉は消えないしそれは星として輝き続け生き続け私を守ったり攻撃したりし続けるのだ。星が潰えたとしてもまたそれは新たな星になる。そんなことを考えている自分の楽観的な狂気に笑みが溢れ、何? と聞かれてううんと首を振る。今日終わったら何食べに行こうか? さっき遅めのお昼を食べたばかりだというのにそんなことを聞く私に、志絵ちゃんは何食べたい? と蒼葉は一言一句私の想像した通りの答えをして、笑顔のまま私の答えを待っている。

illustration maegamimami

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連載【デクリネゾン】
ご愛読ありがとうございました。
本連載は近く小社より書籍化される予定です。

金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』『パリの砂漠、東京の蜃気楼』『fishy』 等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。

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