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なつかしい|村山由佳 第13話

 一昨年の父の時には、棺(ひつぎ)に納めてからもそばを通るたびに何やかやと話しかけたり、小窓から顔を覗(のぞ)いたりしたものだが、母に対してはそれができなかった。
 わだかまりのせいではない。もう少し正確に言うと、わだかまりがないとは言わないけれどもそのせいで話しかけなかったわけではない。ただ、生きて動いていた晩年の母よりも、棺に納まった母のほうがはるかに重たい存在感があって、そう気安くは声をかけられないのだった。
 昔、母はよく険しい顔で頬杖(ほおづえ)をつき、一点を見つめて黙りこくっていた。父が、仕事とそれ以外の理由で帰ってこなかった頃のことだ。私が話しかけようとすると、
〈頭痛いねん、そっとしといてんか〉
 かぶせるように言われた。狭い家の中に立ちこめていた重苦しい空気を憶(おぼ)えている。
 晩年の母は私を見忘れていたし、一人では立ちあがることもできない年老いたおばあさんであったので、こう言っては何だが、恐るるにたりなかった。顔や手に刻まれた深い皺(しわ)が、彼女の歩んできた長い時間とともに残された時間の短さをも示していて、それを見ても悲しめない自分を何だかなあと思いながらも、溜(た)め息をつく余裕があった。
 昨夜まではまだそうだったのだ。東京での仕事を終えて高速バスで帰り着き、死顔を見たあの瞬間に「怖くないや」と思えたのは、先週、母の手を眺めていた時の自分と今が地続きだったからだ。
 けれどこうして、黙りこくったまんまの母と同じ部屋で過ごす時間が長くなればなるだけ、落ちつかなさはじわじわと増しつつあった。〈年老いたおばあさん〉が目の前からいなくなり、それより前の記憶が次々に蘇(よみがえ)るぶんだけ、死んでからのほうがおっかないのだった。
〈頭痛いねん、そっとしといてんか〉
 思えば、あの頃の母は、今の私といくつも変わらなかった。

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 午後七時、夕食を終えて洗いものを済ませる頃には、さすがに猫の姿も消えていた。
「やっと帰りよったか」
 と、背の君が言う。
「うん。おらん」
「ええねん、それで。可愛(かわい)がってもろとんねから、あったかいとこで寝たらええ」
「うん」
 Yさんのお宅で可愛がられていることは、それはもう疑いようもなかった。
 にんげんはいいやつ!
 そう信じきっていなければ、私たちにまであんなに人なつこく甘えるわけがない。
 逆に心配になってくる。猫たるもの、とくに外の世界を自由に歩きまわる猫たるもの、もっと警戒心を持っていてしかるべきじゃないのか。初対面の相手に抱っこされるたびにあの調子でへろんへろんに甘えていたら、そのうち危ない目にあわないとも限らない。いくらのどかな田舎といったって、たまにはよその人も通るだろうし、そのすべてが猫好きの善人ばかりではなかろう。大丈夫なのか、いったい。
 もやもや考えながら、歯を磨こうと洗面所へ向かった時、ふと思い出した。そうだった、漂白したふきんをまだ外に干したままだった。
 何歩か引き返し、寝室に入って、ベランダへ続く掃き出し窓のカーテンを開け、サッシに手をかける。何も考えずにするすると開けたとたん、
 やっとか〜い。
 足もとに座っていた猫が鳴いた。
 信じがたいものを見た時に、人が「ええーっ」と叫ぶのは、どうやら本能みたいなものらしい。
「えええええーーーっ」
 私は叫んだ。
「あんた、なに? うっそ、ええ? ここで何してんの」
 立ちあがった猫が喜色満面といったふうに甘えて鳴き、ふみふみとその場足踏みをする。
「まさか、さっきからずっとここにおったん? いっぺんも帰らんかったん?」
 さぁ〜ねぇ〜。
「あほやなあ、もう。何時間おったん」
 しゃがんで抱きあげると、白い毛並みはひんやりと冷たかった。危ぶまれたほどには気温は下がっていないようだけれど、それでも、いつ出て来るとも来ないともわからぬ相手を待つには寒かろう。
「何してんのんな。あかんやん」
 仰向(あおむ)けに抱っこしたまま、部屋に入る。奥にまで連れて行くわけにはいかないので、サッシを半分閉めた状態でその場にすわりこみ、着ていたフリースでくるむようにして猫をあっためてやる。
 もこもこのフリースに包まれ、私の胸に顔を埋(うず)めて、猫はごろごろと大きく喉を鳴らした。子猫がおっぱいを求めて母猫のおなかを揉もみしだくみたいに、前肢(まえあし)で交互に私のおなかを押しながら、額を痛いくらいに強くこすりつけてくる。
 ああ、なんてなつかしい。
 私は目を閉じた。
 一年と少し前に終わってしまった〈もみじ〉との日々──元気な彼女と過ごす最後のひとときとなったあの晩の抱擁も、ちょうどこんなふうだった。腕枕をして、布団でくるんでやると、彼女は満足そうに喉を鳴らしながら私の胸におでこをこすりつけてきたのだ。

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「なんや、おらん思たらここか」
 はっとなって顔を上げると、寝室の入口に背の君が立っていた。
「なんでサッシ開いて……」
 言いかけたところで、私が猫を抱いているのに気づき、驚いた顔になる。
「ずっとおったみたい」
「ベランダにか」
 彼はそばへ来ると、苦笑しながら猫を撫(な)でた。ごろごろと満足げに目を細めるのを見て、何やこいつ、たまらんのう、とあきれたように呟(つぶや)く。
「こんな子が、うちの子になってくれたらいいのに」
 思わず言うと、背の君もうなずいた。
「ほんまやの」
 びっくりした。何しろ彼は、これまで私が里親サイトなどを覗いているのを見ると、気持ちはわからんでもないけど俺にはまだ無理、と目をそらしたりしていたのだ。
「ほんまにもう……しゃあないやっちゃな」
 今のは猫と私のどちらに言ったのだろう。
「あと、また出しとけよ」
「うん」
 背の君が寝室を出てゆくのを見送り、私は、猫を撫でながら壁に頭をもたせかけた。だめだ。あんまり幸せすぎる。こんなことをしていたら、ほんとに別れが辛(つら)くてたまらなくなる。今晩この子を抱いて寝るわけにはいかないんだから。そもそも心配しなくたって帰る家のない子じゃないんだから。
「……はい。もうおしまい」
 猫よりも自分に向かって言い聞かせ、再びベランダへ出す。
「もう、おうち帰んなさい」
 えー。なんでぇー。
「どうしても来たかったら、明日また遊びにおいで。な、そないし?」
 むぅー。
 まだちょっと不服そうに鳴きながらも、猫はやがて、まるで聞き分けたかのようにベランダから庭へと下り、暗がりへと溶けていった。
 干してあったふきんをようやく取り込み、サッシを閉めて、白い毛のいっぱいついた胸とお腹(なか)を見おろす。なぜだか泣きそうになるのをこらえて洗面所へ行き、歯を磨きだした時だ。
 玄関のインターフォンが鳴った。応対に出た兄が私を呼ぶ声がするので、慌てて口をゆすいで居間へ戻る。
 入ってきたのは、数珠(じゅず)を手にしたYさん宅の奥さんだった。


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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter@yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作

※この記事は、2019年12月20日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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