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【水無月】いつかなくしたもの(前編) 村山由佳「記憶の歳時記」
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【水無月】いつかなくしたもの(前編) 村山由佳「記憶の歳時記」

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歳を重ねたからこそ、鮮やかによみがえる折々の記憶。12の季節をしっとりつづる、滋味深きおとなのエッセイ。
[毎月第2・4金曜日更新 はじめから読む


 応募した作品『天使の卵』が「小説すばる新人賞」の最終候補に残っているとの連絡をもらったのは、一九九三年の初夏のことだった。高校教師だった最初の夫と結婚して三年目の二十八歳、南房総みなみぼうそう鴨川かもがわの小さな借家に住んでいた頃だ。
「一度会ってお話できないかしら」
 電話をくれたベテラン女性編集者のSさんに言われ、トヨタのタウンエースを運転して東京へ向かった。着ていた服まで記憶にある。白地に淡いブルーで百合の花が描かれたカシュクールの半袖カットソーと、紺のパンツ。緊張のあまり、前の日はほとんど眠れなかった。
 雨が降ってはまた晴れるといった不思議なお天気で、街路樹の緑がひときわまぶしかった。
 途中、何度も道に迷って遅刻した。ナビなんかまだ影も形もない頃だ。大通りの路肩に車を寄せては首都圏の道路地図を広げ、公衆電話を見つけるたびにおびの連絡を入れた。
 やっとのことで、当時は御茶ノ水おちやのみずの「山の上ホテル」の裏手にあった出版社まで辿たどり着いた時には、約束の時間を二時間も過ぎていた。Sさんは苦笑まじりに私を出迎えると、歩いてすぐの路地裏の喫茶店へと誘ってくれた。
 植木に囲まれたアンティークのガラスドアが美しかった。奥まった薄暗い席に落ち着き、時間も忘れて話し込んだ。
 当時のSさんは五十歳になるかならないか、文芸に異動してくる前はずっと女性誌の編集で「non-no」や「MORE」の創刊にも携わっていたというだけあって、おしゃれで華やかで進歩的で、いかにもやり手という感じのひとだった。決して敵には回したくないけれども、味方に付いてくれれば誰より心強いタイプ。この世界の右も左もわからなかった私は、孵ったばかりの雛みたいにSさんに懐いた。

 何度目に会った時だろう、新人賞の授賞式もまだだったと思う。Sさんがおもむろに言った。
「ねーえ、他に何か書きためていたものはないの?」
 手もとにあるのは二本だけだった。ひとつは、某小説誌の新人賞の二次選考で落ちた五十枚ほどの短編。もうひとつは、賞金一千万円のミステリ大賞に応募して三次選考の十六本に残ったものの、最終候補にまでは至らなかった四百枚ほどの長編。
 余談になるけれど、何年も後にたまたまそのミステリ大賞の発表号を懐かしくひらいてみて、思わず声が出た。受賞作は姉小路祐あねこうじゆう氏の『動く不動産』だったが、十六人の中に、私の名前と並んで、あの〈黒川博行くろかわひろゆき〉と〈鈴木光司すずきこうじ〉の名前があったのだ。書く人は書くし、出てくるひとは出てくるのだなあ、とつくづく思ったことだった。
 ともあれ──Sさんは、五十枚の短編『BAD KIDS』を気に入ってくれたようだった。
「だけどこれは、短編じゃなくて長編の第一章だわね。すぐ続きを書いてちょうだい。とりあえずここまでは、受賞作発表号の次かその次に載せるから」
 ぽかんとしている私に、彼女は言った。
「連載よ。まとまったらすぐ次の本を出すの」
 おまけにその足で同じ社内の女性誌のフロアへ行くと、創刊して間もなかったお料理雑誌『TANTO』の編集長に私を紹介して言った。
「ねーえ、このひとね、鴨川で畑をやってて絵も描くのよ。イラストと写真付きの田舎暮らしエッセイなんてどうかしら」
 度肝を抜かれた。いったい何を言いだすのか。Sさんが目にしたのはせいぜい、私がお礼のハガキの隅っこに水彩色鉛筆で描いたブルーベリーか何かのイラストだけのはずだし、写真に至っては普通のスナップ以外まともに撮ったこともない。というかそもそもエッセイなんてもの、いったいどうすれば書けるのかわからない。ハッタリにも程がある。
 それなのに、Sさんの人望、いや強引さのおかげでその連載まで決まってしまって、私は慌てて父から一眼レフを譲ってもらい、そこからリバーサルフィルム(いわゆるポジ)を使っての撮影を実地で学んでいったのだった。
『海風通信〜カモガワ開拓日記』の掲載号を今観ると、連載三回目くらいまでの野菜や風景の写真がどれも暗くてお粗末なのはそのせいだ。今だったら簡単にできるデジタル画像処理など、当時は夢のまた夢だった。
 同じ頃、これまたSさんの伝手つてでNHKのプロデューサーに会った。朝のニュース番組「おはよう日本」の中に旅のコーナーがあり、これまで旅人を務めていた歌人の林あまりさんがお辞めになるので代わりの人を探していると言われ、毎月一度、日曜日の朝に、「村山由佳の旅エッセー」と題した十分ほどのコーナーが始まることになった。
 日本各地でのロケや生放送出演のために月のうち一週間ほどを費やしながら、『BAD KIDS』の二回目を書き、三回目を書き、いっぽうで「おいしいコーヒーのいれ方」シリーズの続きを書いた。
 約半年後に『BAD KIDS』の連載が終わると、Sさんは言った。
「ねーえ、次はもっとスケールの大きな作品が読みたいわ。あなた、どこか行ってみたい国はないの? 費用は全部こちらで持つから取材に行ってきてちょうだいよ」
 私はもう、驚かなかった。

 思えば、いい時代だったのだ。バブルはとっくにはじけ、若者の活字離れが深刻に取り沙汰され、出版業界は斜陽と言われてすでに久しかったけれども、今に比べればそれでもまだ元気があった。
 子どもの頃から憧れ続けたケニアを舞台に、文芸三作目となる『野生の風』を連載し、今度はオーストラリアへ取材に行って『青のフェルマータ』を書き下ろし、初めてのエッセイ本を上梓じようしし、旅のロケから得た経験をもとに『きみのためにできること』を連載し、やがてもうひとつの憧れの地アリゾナを旅して、それまででいちばん長い小説『翼』を書き下ろした。どうにか物書きとして生きてゆくことができるようだと初めて実感できたのは、デビューから五年が過ぎたあたりだった。ずっと肩に入っていた力が少し抜け、ようやく息が深く吸えるようになった。
 Sさんのおかげ、以外の何ものでもなかった。毀誉褒貶きよほうへんも当然と思えるほど強引で、目的のためには手段を選ばない、付き合い方のなかなか難しいひとではあったものの、彼女が徹底的に味方についてくれなかったら、薄ぼんやりとして怠け癖のある私など絶対にこの世界で生き残ることはできなかった。
 間違いなく、恩人だった。十年後に大きな文学賞を頂くことができた時も、いちばんうれしそうだったのは当時の夫とSさんだった。二人がにこにこと並んでいた姿を覚えている。
 けれど、それからたったの二年後──私は夫とうまくいかなくなってしまった。
 いちばんの原因は、創作の仕事をめぐる考え方のすれ違いだった。
 言ってみれば〈せつなく爽やかな青春恋愛小説の書き手・村山由佳ブランド〉を一緒に切り盛りしている、という認識だった彼としては、人間のもっとどろどろとした部分や女性の官能にまで踏み込むような作品を書いてみたいという私の考えが、これまでの読者や自分への裏切りと映ったようだ。
 激しい言葉で押さえつけようとする彼との間に、たくさんの押し問答があった。お恥ずかしい話だけれど、このとき親身に相談に乗ってくれた別の男性を好きになってしまったりもした。夜も眠れず、食べものが喉を通らず、肝腎の原稿も書けない。どうしよう、自分なんか小説を書かなかったらただのくずだというのに。
 疲弊しきった私は、とりあえず夫と距離を置こうと、ある日の午後、ほとんど衝動的に鴨川の家を飛び出した。
 ほろのジープの黒いボンネットに、さらさらと細かい雨が降っていた。十二年前、初めてSさんと会うために東京へ向かったあの日と同じく、降ったかと思えばし、初夏の緑がばかみたいに眩しかった。
 悲しくて、やりきれなくて、夫には腹が立つのに申し訳なくて、何よりこれから先のことが不安でたまらない。振り切るようにボン・ジョヴィのアルバムを選んでカーステレオに滑り込ませ、ナビの案内に従って首都高速に乗る。
 やがて前方に、西陽を浴びて黄金の延べ棒の束みたいに輝く高層ビル群が見えてきた。
 アクセルを踏みこみながら、
(ああ、自由だ……)
 思ったとたん、ぶるぶるっ、と身体からだの奥底から武者震いが湧き起こった。

後編につづく

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連載【記憶の歳時記】
毎月第2・4金曜日更新

村山由佳(むらやま・ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞、09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞、21年『風よ あらしよ』で吉川英治文学賞を受賞。『放蕩記』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『命とられるわけじゃない』など著書多数。
Twitter:@yukamurayama710

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