
ブルーの瞳|村山由佳 第12話
猫はそのまま、私たちを追いかけてきた。私道の真ん中、轍(わだち)を免れた草が生えている部分を選んで歩きながらついてくる。背の君と私の顔を交互に見上げては、後になり、先になりしてついてくる。時々私の脚に身体をすりつけ、また草のベルトの上へ戻り、かすれ声で何やら一生懸命に鳴いてはついてくる。
とうとう実家の玄関に続くアプローチまでたどりつくと、立ち止まった私の足もとにちんまり腰を下ろし、さあどうしましょ? みたいな顔でこちらを見上げた。
「家ん中はあかんぞ」
と、背の君が私に釘(くぎ)を刺す。
わかっている。明日に備えてやっと掃除が済んだところだし、飾ってある花を倒したり、ましてや棺(ひつぎ)の上に飛び乗ったりなんかしたら、中で寝ているキミコさんがどんなに怒るかわからない。起きあがって猫をつまみ出すかもしれない。
と、すぐそこの居間のサッシがするすると開いた。
とっさに逃げ腰になった猫を、よしよし、だいじょぶだいじょぶ、となだめる。
中から顔を覗(のぞ)かせたのは兄夫婦で、
「え、どこの猫?」
自分もけっこうな猫好きの兄が言う。
「向こうのYさんちの子。ついてきちゃった」
「先週、俺らがここにおった時もいっぺん顔見せよってんけどな」
と背の君。
猫は、危険がないとわかったようで、私の足もとにちょこなんと座りこんで兄夫婦を見やり、黙って目をしばしばさせていた。
そうこうするうちに、あたりがだんだん暮れてきた。少し肌寒い。
「お前もええかげんにしといて入りや。風邪ひくぞ」
背の君はかがみこみ、最後に猫の頭をわしわしと撫(な)でると家の中に入っていった。玄関ドアがゆっくりガチャンと閉まる。
ひとり残った私は、足もとを見おろした。猫のほうも、座ったまま私を見上げてくる。花冷えの夕暮れの中、空のように、海のように、貴い宝石のように澄みきったブルーの瞳が、まっすぐに私を見つめて動かない。
「あかんってば」
たまらなくなって私は言った。
「家には入れたげられへんの」
なんでぇー? と鳴いた猫が腰を上げる。茶色い尻尾を立ててびりびり震わせながら、なんでぇー? なんでぇー? なんでぇー? ひたすら私の顔を見上げて練り歩き、ジーンズのふくらはぎに前肢(まえあし)をかけて伸びあがったりもする。
「しゃーないでしょぉ。いま家ん中、花でいっぱいやねんもん」
なんでぇー?
「うちのお母ちゃん、亡くなりはってんわ。明日がお葬式なん」
ふうーん。
「ちゅうかあんた、自分のおうちあるでしょぉ。ここの家は、いつもは留守なんよ。知ってるやろけど」
しってるー。
「明日が済んだら、また留守になってまうのんよ」
なんでぇー?
「私らみんな、遠くへ帰らなあかんから」
言い聞かせながら、自分でも思った。ちょっとあぶない。ほとんどさっき会ったばかりのよその猫に向かって、何を大まじめに話しかけて説得に努めているんだろう。
さっき背の君がしていたように、かがんで猫の頭をよしよしと撫でる。
「さ、あんたももう、おうち帰り。な?」
最後にそう言い含めて、玄関ドアを開けた。
さすがに、知らない家への躊躇(ためら)いはあるらしい。猫は、一緒に入ってこようとはしなかった。ただ、ドアが閉まるまでの間、もう鳴きもしないで私の顔をじっと見ていた。
生きている者は、食べなくてはならない。
義姉(あね)と一緒に台所に立ち、四人分の夕食の仕度をする。
買物依存症でしかも蒐集癖(しゅうしゅうへき)のあった母は、食器といいカトラリーといい鍋釜といい包丁といい、とにかく気に入ったものは手当たり次第に買い、使いきれずにしまい込んでいた。たまの大掃除の時に私が、戸棚の奥で忘れ去られたまま埃(ほこり)をかぶっていた鍋や皿を出してきて「これ要るの?」と訊(き)くと、「何言うてんねん、大事にしもたぁんのに。ちゃんと戻しといて!」と目を吊(つ)り上げて怒り、鍋や皿は元通り、また埃をかぶることになるのだった。ボケる前からの話だ。
ふだん使われていた食器も、母だけでなく父までが衰えてしまってからは糸底の周りに汚れが蓄積していくようになり、俎板(まないた)は黒ずみ、鍋は脂ぎって、でもそれはもうどうしようもないことだし言っても傷つけてしまうだけなので、実家を訪ねるたび、一日目はとにかく家じゅうの大掃除、と覚悟するしかなかった。そうして何から何までぴかぴかに磨いて帰っても、ひと月たてばまた元の木阿弥(もくあみ)なのだった。
今はもう、そこまでの大掃除は必要ない。さいごは独り暮らしだった父が逝った後は、いつ訪れて何を棚から出しても、前回しまった時のまま清潔で、すぐに使える。それが、寂しい。
同じくきれいなままの俎板や包丁やフライパンで、義姉が野菜を刻んだり炒めたりしてくれている途中、私は何度か居間を横切り、掃き出し窓から外の庭を窺(うかが)った。
見るたび、猫はまだポーチの灯(あか)りが届くところで玄関ドアを睨(にら)みながら座り込みを続けていた。こちらの気配を察知するとさっと目を上げ、なんでぇー? と鳴く。窓越しだから声は聞こえないけれど、口を開くのだけが見えてよけいに切ない。
「そないして何べんも覗くから期待させてしまうのや。しばらくほっとけ。そのうちあきらめて帰りよる」
背の君の言うのはもっともだ。それでも覗きたくなってしまうのはつまり、私のほうがあの子に帰ってほしくないからだ。
でも、彼女のおなかには子どもがいる。タイル張りのアプローチなんかに座り込んでいて冷えたら、妊婦の身体にいいはずがない。
心を鬼にして、というのはこの場合当たらないだろう。自分自身の未練を引き剥がし断ち切る思いで、私は掃き出し窓のカーテンを閉めた。
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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710
村山由佳さんの猫三部作
※この記事は、2019年12月13日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。