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第2話 大人はひとりで遊べない|宇野常寛「水曜日は働かない」

 まずは、謝罪と訂正からはじめさせてもらいたい。
 前回、僕はこの連載で声高らかに「水曜日は働かない」と宣言した。水曜日に働かない、ただそれだけで365日すべての日が休日と隣接することになる。たったそれだけで、世界は変わる。僕は確かにこう述べた。そして、あの夏の日に僕たちは厳(おごそ)かに誓いあったことを記した。毎週水曜日は決して働かないのだ、と。
 しかし、現実は残酷だ。あの日から約6ヶ月――僕は毎週水曜日は、しっかり働いていた。それどころか、月曜日や火曜日や木曜日に「なんか、だるい」的な理由で一日中「あまり仕事に関係なさそうだけど、そのうちどこかでこういうものについて書いてもいいんじゃないかな」と辛うじて言えなくもない感じの本を選び、仕事をサボっている罪悪感を中和しながらベッドでゴロゴロ読みふけったりすることや、つくりかけのレゴやプラモデルを引っ張り出してきて通常の三倍くらいの集中力でつくり上げたりしたことはあったにもかかわらず毎週水曜日だけはむしろしっかりと仕事をしていた。なぜか? それは大学の授業(教える方)があったからだ。

 8月も終わりが近づき、大学からいろいろ資料が届き愕然としたのだが僕は1コマだけ非常勤講師として教えているある大学の授業を、水曜日の午後に入れていたのだ。そのため「水曜日は働かない」とドヤ顔で宣言したにもかかわらず、僕は他のどの曜日よりも勤勉に働くことになった。前回述べた毎週の「朝活」のあとは、それなりに熱心な講師としてせこせこと授業の準備を行って池袋の大学で講義を行い、終了後は毎週アフタートークと称して1時間くらい学生たちの質問を受け付けていた。
 要するに、この半年間僕にとっては水曜日こそがもっとも働かなくてはならない日だったのだ。そして意外と勤勉な僕は結構、いや、かなりがんばってこの仕事をこなしていた。読者諸兄姉には心からお詫びしたい。しかし本日無事に期末試験の試験監督を終え秋学期の日程が終了したので、これからしばらくは水曜日は本当に働かないつもりでいる。

 さて、話は1週間前にさかのぼる。1週間前の水曜日、僕はこの秋学期の最後の授業を行った。終了後に1時間くらい、アフタートークと称して学生たちの質問を受け付けていることは先ほど説明したが、この日はその後に予定があって早めに切り上げることになった。すると、女子学生の3人組が帰り支度をする僕を呼び止めた。名前までは把握していないが、2回に1回くらいの割合でアフタートークに参加している3人組だった。質問がありますとそのうちのひとりの学生がいうので、何かと尋ね返すと恋愛相談にのってほしいと述べた。こう見えても、というか知っている人は知っていると思うが、恋愛相談は僕の十八番だ。何年か前に学生向けの深夜ラジオ番組を担当していたときは、僕の恋愛相談は番組の名物で、毎週大量にメールが届いていた。直前のアフタートークで、別の学生からの質問に答えたときに当時の話題になったので、そのとき僕にプライベートの相談をすることを思いついたらしい。

 つい最近別れた彼氏のことが忘れられない、というのが彼女の相談の趣旨だった。その彼氏はとにかく怒りっぽいひとで、理不尽かつ些細なことですぐに自分に当たってくるので、これまでも何度も、何度も別れようと思った。しかし一通り怒って機嫌が直ったあとはとても優しくしてくれるので、そこがいいなと思って付き合い続けたのだという。
 この時点で完全にドメスティック・バイオレンスの被害者女性が暴力を振るう男性とズルズルと付き合い続ける典型例なのだが、彼女もそう思い至って先日ついに別れを切り出した。しかしここからが問題で、彼女は自分から彼の癇癪に耐えきれずに別れたにもかかわらず、喪失感から立ち直れずに何をやっても手につかなくなってしまった。本を読んでも、映画を見ても彼のことを思い出して悲しくなり、不安になり、何にも集中できない。どうしたらいいですか、と僕は尋ねられたのだ。

 僕はしばらく考えて答えた。君はもう少し、ヒトではなくてモノにコミットしたほうがいい、と。
 ラジオをやっていた頃、毎週たくさんのメールを読んでいて気がついたことがある。それは恋愛相談というか人生相談のコツは、その人の相談内容に答えないことにある、ということだ。大抵の場合、人生相談をしてくる人は自分が本当はどのような問題に直面しているのかをまず正確に把握していない。そのせいでそもそも間違って設定された問題を解こうとして、あれ、おかしいな、自分の悩みは解消しないとクヨクヨしている人がものすごく多いのだ。
 僕が彼女の話を聞いていて気になったのは、彼女が僕に数分間自分の悩みを打ち明けるとき、連れ立っている友達2人の顔をチラ見しながら、合計3回「私は女友達にはすごく恵まれているんですけど」と繰り返していたことだ。他のいくつかの言葉の端々に、彼女は頭の中が、というか世界像と関心事がほぼすべて個人的な人間関係のことで占められているのではないかと思えるところがあった。
 だから僕はこう述べた。君は、ちょっと人間関係のことばかり考えすぎている。君が自分から彼氏と別れたくせに寂しくなっているのは、人間関係を通してしか時間を潰せないし、世界に触れることができないからだ。しかし個人的な人間関係のネットワークなんて、実は自分が触れている世界のほんの一部でしかない。目に見えない大きな仕組みや構造の影響も強いし、そもそも身の回りの他人を介さずに触れている世界の領域も、意識していないだけでたくさんあるはずだ。
 たとえばモノがそうだ。部屋で本を読んでいても、映画を見ていても彼氏のことを考えてしまうのは、本や映画はモノとコト、つまり君の場合は人間関係の中間にあるものだからだ。だから君はもっとモノにコミットしたほうがいい。工業製品でも、自然物でもいい。人間関係以外、というか人間関係からなるべく離れた「モノ」で遊ぶことを覚えておいたほうがいいんじゃないか。
 たとえば僕の場合は週に何度か朝に街を走っている。週末は時間を見つけて模型をつくり、夏休みは毎年カブトムシを採りにでかけている。人間には孤独に(というのは正確ではなく、直接誰かと触れ合っていないだけなのだが)世界に接する時間があったほうが、より豊かな時間を過ごすことができる。それは孤独な時間をもつことで、他人を介さず直接、そしてさまざまな進入角度から世界に触れることができるからだ。
 もちろん、こうしたひとり遊びを通じて、彼氏と別れた寂しさが埋まるわけじゃない。しかし、そもそも常に誰かと触れ合っていないと寂しい、という状態は大きく緩和できる。そして結果的にはそのほうが、人間関係もうまくいくんじゃないか――。ちょっとした立ち話なので、細部までは覚えていないのだけど、概(おおむ)ねこんなことを話した。彼女は妙に納得したらしく、わかりました、今日から私もモノにコミットします、と喜んで帰っていった。

 僕は思う。この国の(言葉の最悪な意味での)「大人」は、遊び方を忘れてしまっているのではないか。この国の「大人」たちは、「遊ぶ」というと世代が上になればなるほど「飲みに行く」ことと同義だと考えている。そして、僕はこの「遊び」の文化があまり面白いとは思えず、馴染めなかった人間だ。なぜならば、僕にはそれがまったく「遊んで」いるように思えなかったからだ。「大人」の「飲み会」の話題の何割かは仕事のことになってしまう。僕はこういう話は端的に昼間に、シラフでやるべきで、そのほうが実のある話ができると思う。そして同じくらい、いや大抵の場合はそれ以上に多くの話題を占めるのが人間関係の話題だ。それも、どちらかというとネガティブな、その場にいない人間の欠席裁判のような話題に(程度の差こそあれ)流れがちだ。「酒は社会の潤滑油」だと言われたり、「飲みニケーションの重要性」だとか主張する人もいたりするけれど、要するにあれはこの国の同調圧力が強い社会を象徴するメカニズム以上のものではないと思う。基本的に、ああいう場の空気に流される人間は歯車やネジのようにはなれても創造性のあるものは何も生めない。それはこの国の「失われた30年」が証明しているはずだ。そして、何より僕は思う。「社会の潤滑油」としての「飲みニケーション」は果たして「遊び」なんだろうか? それは単に「仕事」への、それも人間の創造性を殺してよりネジや歯車に近づけて生産性を上げる時代遅れの「仕事」への最適化なのではないか。閉じた相互評価のネットワークの力関係を微調整して、安心することは「遊び」なんだろうか。もちろん、そんなことがあるわけがない。この国の大人たちは、「遊び」方を忘れた生き物なのだ。

 もちろん、僕も「遊び」にはいろいろなかたちがあることは知っているし、どのかたちの遊びが正解だと主張する気もない。ただ、僕はいま、この国の大人たちが遊び方を思い出すには、まずこの人間関係の閉じた相互評価のネットワークへのコミットを思い切ってキャンセルすることが必要なのだとは思う。週に一度とか、月に一度とかで構わない。この閉じた相互評価のネットワークから離脱するために、ヒトではなくモノの世界に、社会ではなく世界に触れる時間を設けることを提案したいと思う。この場合の「モノ」は人間以外の事物であれば、なんでも構わない。人工物でも、自然物でもいい。なるべくヒトの匂いのしない事物であればあるほどいい。人間たちのつくり上げた文脈から離れて、世界に素手で、直接触れる時間を、そしてここが大事なのだがなるべく孤独に、自分ひとりで触れる時間を少しでもつくることが、「仕事」に最適化された僕たちの視界に「遊び」を呼び戻してくれるのだ。

 僕自身ももう何年も、ひとりでモノに触れる時間を設けている。それが僕にとっての一番の「遊び」になっている。あの日学生に話したように朝に街を走っているのもそうだし、休日に模型をつくっているのもそうだし、そして夏にカブトムシを採りに行くのもそうだ。その時間、僕は孤独に、しかし人間関係の生み出す文脈を排除して世界に向き合っている。(こう書くとカブトムシという動物をモノ扱いするとは何事か、と過激な動物愛護家または他人の発言を最大限に否定的に解釈して難癖をつけ、自分が正しくて繊細だと思い込みたいほんとうにしょうもない人たちから批難を受けそうだが、正確には僕は飼育に興味がなく、カブトムシは観察するだけで満足して帰っている。)
 そして、こうしてひとり孤独にモノに向き合っているとき、僕たちは絶対的な自己責任の世界に投げだされる。ここでいう「自己責任」とは、自分は強いとインターネットで主張して見栄を張りたい人の弱者叩きに使われがちな間違った用いられかたをした言葉ではなく、本当の意味での自己責任だ。いま、目の前のこのプラモデルの塗装に、どの塗料を選びどの配分で調合して、どの環境でどう塗るか、その選択と作業の一挙一動の精度が仕上がりに変化をもたらす。そこで自分が納得いく成果があがるかどうかは、ほぼ完全に自己責任の世界だ。
 あるいはこの森の、この日の、この時間のこの木でカブトムシに出会えるかどうか。その夏の気温の上がり方、梅雨明けのタイミング、前日の天候、森と木々のコンディション……すべてを自分で見極め、総合的に判断することが要求される。それもほぼ自己責任の世界だ。そして、このほぼ完全な自己責任において、世界に孤独に対峙することには、ほかのこと(たとえば人間関係とそれにまつわる文脈の操作)では味わえない快感が、充実感が、そして知的な刺激がある。
 そして僕らはいつの間にか、この「社会」に、いや「世間」に過剰適応することでこうしたひとり遊びの面白さを忘れてしまっているのではないかと思う。魔女の少女キキが都市に出て仕事をはじめて、社会化されて、恋愛の匂いを嗅いで、承認欲求や他人をひがむ気持ちを覚えるとそれまで聞こえていた黒猫のジジの声が聞こえなくなるように。
 でも僕たちは子供の頃に、多かれ少なかれ「ひとり遊び」を経験していたはずだ。子供部屋で、自宅の庭で、公園の遊び場で「モノ」と孤独に向き合って、玩具たちの織りなすストーリーをでっち上げ、ただ水が砂場を流れ路をつくるダイナミズムに感動していたはずだ。

 誤解しないでほしいのだけれど、僕は別にプラモデルをつくろうとか、虫採りに行こうとか、そういうことを提案したいわけではない。ただ、いまの世の中には孤独にモノと対峙して「遊ぶ」ことを忘れてしまいすぎていて、そのことで世界が色あせて見えてしまっている人が案外多いのではないか、と思うのだ。
 たとえばTwitterに俺はボッチで、本が好きで、ロマンチストで中二病だと一生懸命投稿している人をたまに見かけるけれど、そういう人は別に孤独な時間が好きな人でもなければ、本が好きなわけでもなくロマンチストなわけでもないと思う。首から「自分は繊細だ」と書かれたプラカードを下げて街を歩いている人に繊細さなんてあるわけがない。こういう人は実のところ文化も思想も必要としないのだと思う。単に社会的な、それもとてもささやかな承認欲求に飢えているだけなのだと思う。
 そうやって他人の顔色をうかがって、閉じた相互評価のネットワークでのポイント稼ぎとイメージ操作に明け暮れても、ちっとも世界は面白くならない。そういったものの外側からしか、あたらしくて面白いものは生まれてこないのではないかと僕は思うのだ。
 この国(に限らないかもしれないけれど)の大人たちは、人間にばかり向き合いすぎている。その結果、ひとり孤独に世界に対峙することで、普段の社会生活では目に入らないものを視界に収め、聞こえない声を聞くことでその豊かさを受け取るという「遊び」の力(のひとつ)を失っていると思うのだ。いつの間にか、この国の大人はひとりで遊べなくなっている。しかし、それはとても不幸なことのように僕には思えるのだ。

 と、いうことでここで議論により説得力を与えるという論理的な帰結として「参考までに」読者諸兄姉に僕が日々孤独にモノと、世界と対峙した成果をご覧いただきたい。くれぐれも誤解なきようお願いしたいが、決してどさくさに紛れて自分のコレクションを自慢したいわけではない。しかし、興味を持ってくれた人は僕のInstagramをフォローしてもらっても一向に構わない。

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↑今年の夏休みに都内某所(都心のとある林)にある秘密のスポットで激写したカブトムシたち。いつもはひとりで観察に来ているのだが、この日は友人とその子供たちが夏休みの自由研究のために同行した。

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↑シン・ゴジラ漁港にあらわる。漁港はNゲージのストラクチャーを使用して作成した。僕が好きでよく遊びに行く三浦半島の三崎港をイメージしている。

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↑これは都市開発トレーディングフィギュア「ジオクレイパー」を用いた簡易ジオラマ。都心のビルが8パターンほどにディフォルメされたスクウェアが発売されていて、ユーザーはそれを組み合わせることで自分の街をつくることができる。このときはそこに(縮尺は実はあっていないのだが)ウルトラマンのガチャポンのフィギュアを置いてみた。背景は、実は大型本の裏表紙を左手で持って置いているだけ。その状態で右手のスマートフォンを操作して撮影している。

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↑ドイツの動物フィギュア「シュライヒ」を用いて牧場(宇野ファーム)をつくり上げた。

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↑しかし、平和は長く続かなかった。世界征服を企む秘密結社ショッカーが農場を襲撃したのだ。

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↑怪人軍団に立ち向かった勇敢な農夫(32歳独身、ラブライバー)もその生命を散らした。絶望が農場を支配する。しかし……

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↑サイロの上から仮面ライダー2号登場……!

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↑1号もかけつけ、ショッカーと仮面ライダーの大決戦が農場を舞台に幕を開けた。

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宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多數。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。
Twitter:@wakusei2nd

※この記事は旧サイトからの転載記事です(初出:2020年2月26日)。

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