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第7話 この世界にジョーカーはもういない|宇野常寛「水曜日は働かない」

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 もう何年も前のことだ。批評家の石岡良治は、私が司会を務めたトークセッションで、こう述べた。クリストファー・ノーランの映画を考えるときは、そのタイトルに注目すべきであると。それぞれの作品を「映画とは○○である」というノーランの態度表明であると「見立てて」思考すること。そうすることによって、ノーランの映画の本質は見えやすくなるのではないか、と。このセッションで石岡は時間の関係もあり具体論には踏み込まなかったが、このときの彼のアイデアはノーランという作家について考えるときに強力な補助線となるだろう。念のために断っておくが、もちろん、これ自体は石岡の考案した言葉遊びの類にすぎない。しかしこの言葉遊びを用いた思考の飛躍を通じてノーランの諸作品を解釈することによって、僕たちは意外な側面からその本質に迫ることができる。
 たとえばクリストファー・ノーランの初期の代表作を考えたときそれは映画とは『メメント』(2000)つまり、記憶のことだという宣言であると「解釈」できる。そう、この映画は記憶をめぐる物語であり、そして劇映画という制度は鑑賞者の記憶を混乱させることで、現実には体験し得ないものを体験させることを証明する映像として結実している。
 あるいはクリストファー・プリーストの小説『奇術師』を原作に用いた『プレステージ』(2006)は、映画とはプレステージ(Prestige マジックショーを完成させる「最終段階」の意)であるという宣言として受け取ることができる。では一体何の最終段階か。それは物語を追えば一目瞭然だ。同作では巧妙なトリックだと思われていた手品が、実はクローン技術という魔法的なテクノロジーであるという作中の事実が結末で明かされる。そしてこの事実の開陳の衝撃によって成立している映画である。したがって同作を繰り返し観る動機を調達することは難しい。このような劇映画の快楽を自己否定するような映画を、ノーランはなぜ撮ったのか。その答えは究極的には想像するしかないし、当人が自覚しているとも当然限らないのだが、想像することはできる。それはこの映画を魔法的なテクノロジー、具体的には情報技術によって映画的なものの臨界点、つまり「最終段階」であると「見立てる」ことだ(繰り返すが、それが「正しい」解釈でもないし、そもそもそうした「正解」さがしに僕は興味もない)。
 誕生したその瞬間はそれ自体が魔法的なテクノロジーだった「映画」は、やがて物語の器に選ばれ劇映画という20世紀を席巻した表現に進化した。しかし魔法的なテクノロジーは、この劇映画の快楽を否定し、それをまるで映像そのものが魔法的なテクノロジーであった初期映画へと引き戻してしまう。これは映画の読解ではなく結果論を交えた状況の考察だが、同作の公開当時既に劇映画は岐路に立たされていた。情報環境の変化によって、20世紀において支配的な表現形式であった「映像」はインターネット上のコミュニケーション形式の一つである「動画」に変化した。劇映画はこの「動画」のクラシカルな形式を持ったサブカテゴリーの一つに過ぎなくなった。少なくともそうなる予感が、当時は既に漂っていた。
 実際にその後劇映画は大きく変質した。人々が劇場に足を運ぶ理由はその後ほどなくして、巨大なスクリーンとリッチな音響設備を楽しむことに集約されるようになり、物語や演出を味わうだけならばNetflixで十分だと人々はなんの悪意もなく、考えはじめるようになった。
 そしてそれ以前の問題として、人々は相対的に紙やスクリーンの上の他人の物語を受信して感情移入することよりも、自分自身の体験を発信することのほうに夢中になりはじめた。休日はカウチに横たわりテレビのスポーツ中継を眺めるというのは、20世紀の工業社会を生きた戦後の西側諸国の中産階級のライフスタイルであり、21世紀の今日を生きる情報社会下のクリエイティブ・クラスは自然の中に自分の身体を置き、その体験をFacebookにシェアする。『プレステージ』の魔法的なテクノロジーによってそれまで描かれてきた世界観が根底から覆される結末は、今振り返るとこうした変化に到る直前の「最終段階」を描いたものとして見立てると面白い。
 だとすると『ダークナイト』(2008)とは、もはや映画という古い制度にできることは、悪(反動)を装うことで世界を善導する闇の騎士(ダークナイト)であるという宣言として解釈できる(と考えると面白い)し、『インセプション』(2010)とは『メメント』のアップデートとして劇映画に残された可能性を記憶の「植え付け(インセプション)」的なアプローチによる観客の体験の演出に見出したものだと考えればいい。その意味において映画とは「ダークナイト」であり「インセプション」なのだ。

 ではこの見立てに『ダンケルク』(2017)を当てはめたらどうなるか。映画とは「ダンケルク」である。これはどう考えればよいのか。これは第二次世界大戦の「ダンケルクの戦い」を描いたものだ。映画とは「ダンケルク」である。一見まったく意味がわからないが、この見立てから思考を膨らませてみよう。ダンケルクの戦いとは、第二次世界大戦の西部戦線におけるターニングポイントだった。フランス北岸に追い詰められたイギリス、フランス両軍は、ドイツ軍の追撃を逃れその大部分がドーバー海峡を渡りイギリスへの撤退に成功した。この撤退戦の成功が、のちの反撃──ノルマンディー上陸作戦以降の──へとつながっていく。そう「ダンケルク」とは「(勝利への)撤退戦」なのだ。もちろん、これは「言葉遊び」だ。しかし、あえてこの見立てを手がかりに実験的な考察を続けてみよう。
『ダンケルク』でノーランが行ったことは大別して二つだ。一つ目はダンケルクからの撤退を試みる歩兵たちの戦場での体験を、まるで初期映画に回帰するように物語性を抑制して描き、再現することだ。ここで、ノーランはスクリーンの上の他人の物語に対する観客の感情移入が、映画の制度の中にあくまで留まったままでどこまで可能かというテーマに挑んでいるように思える。そして二つ目は、こうして描かれるダンケルクの戦場の時間に、彼らの撤退戦を支援する空軍のスピットファイアのパイロットの時間と、民間船を走らせ救援に向かうイギリス市民たちの時間とを重ね合わせることだ。まったく異なるスピードで展開する三者の時間は、映画の結末近くダンケルクの戦場で一瞬だけ交わることになる。この複数の時間を重ね合わせることによる疑似体験の構築もまた、劇映画という制度に残された可能性なのだとまるでノーランは僕たちに示しているようだ。
 具体的には『メメント』から『インセプション』に引き継がれた、記憶の操作による疑似体験の構築装置としての劇映画という(残された)可能性を追求することに特化したのが、この『ダンケルク』だと考えることができるはずだ。
 そう、『ダンケルク』とは劇映画の「撤退戦」なのだ。ただしそれは初期映画への撤退戦であると同時に、劇映画に残された可能性を貪欲に追求する侵攻戦でもある。ダンケルクの撤退戦は、ノルマンディーの上陸作戦へと続いているのだ。

 そして、この2020年に登場した『TENET』(2020)を、同様の「見立て」を入り口に解釈してみよう。映画とは「TENET」──つまり「信念」──である。この「見立て」を用いて考えるのなら、ノーランの描いた「信念」とは何かが問われるだろう。本作では、ある種のタイムマシンを用いた未来世界からの干渉が描かれている。主人公は物語の中で未来の人々からの干渉の存在を知り、やがて彼らの干渉に抗(あらが)い自分たちの目的を果たそうとするようになる。そのため観客たちは、描かれているのがいつの時世なのか、そこで誰が何に干渉したためにその後の出来事にどう影響したのかを、まるでパズルを解くように考えながら観ることになる。そして、結末で明かされる真相と、その悲劇的な内容に大きく心を動かされることになる。そしてエピローグで主人公は、未来人からの干渉を自分の干渉で上書きすべく行動を起こす。つまり、劇中の出来事はこのエピローグで主人公が未来人の干渉に抵抗するために起こした行動に起因していることが明かされる。主人公こそが、劇中で発生する出来事の黒幕である──言ってみれば、主人公とはこの劇映画を演出する監督(ノーラン)のようなものなのだ。こうして考えたとき、「映画とはTENETである」という「見立て」を組み合わせると、そこには一つの仮説が浮かび上がる。そう、映画とは、時間を操作する信念(TENET)のことである──こう考えると、同作のコンセプトは明白になるはずだ。『メメント』から『インセプション』へ。劇映画の可能性を観客の記憶の操作に見出してきたノーランは、『ダンケルク』という初期映画への部分的かつ、戦略的な撤退戦を通していま、人間の五感をハックすること(による疑似体験の創出)を通じた、現実の再構成への「信念」こそに映画の可能性を見ていると考えることはできないだろうか。それは、繰り返しインターネットなどへの嫌悪をインタビューなどで語り、『プレステージ』で表明された魔法的なテクノロジー(情報技術)の脅威に対する、ノーランの一つの解答だと言えるだろう。

 このノーランの態度表明をどう評価するのか。映画という制度を支えた劇場での上映は、もはや映画を鑑賞する形式での選択肢の一つでしかない。現代の情報環境はスマートフォンの画面を覗き込むことでも、リビングのテレビのリモコンを操作するだけでも映画を上映することを可能にしている。その結果として、いま、映画の製作者たちはシネマコンプレックスに観客の足を運ばせるための動機を、情報量のリッチな映像表現(MCU)とサウンドトラックをApple Musicで聴くためのミュージカル映画(『ラ・ラ・ランド』(2016)と、批判者が述べたがる類の映画(僕自身はそうは考えない)でしか調達できなくなっている。そしてMCUを、もはや映画ではなくアミューズメントパークのアトラクションであると批判したマーティン・スコセッシは、その直後に古き良き劇映画の見本のような『アイリッシュマン』(2019)を3時間に及ぶ「大作」というかたちで公開した、ただしNetflixで。スコセッシの批判は、『アイリッシュマン』のセルフパロディ的な内容と同窓会的なキャスティングによって本人の意図とは真逆の結論を証明してしまっているのだ。彼の信じる劇映画はもはや劇場のものではなく、Netflix上で配信される「動画」の一つとして席が与えられている前世紀の文化に過ぎないのだ。そしてこのスコセッシの陥った状況を、あくまで劇場に居残ったまま突破しようとしている劇映画作家こそが、ノーランなのだと考えることができるはずだ。
 しかしその一方で、僕はノーランのこの野心的な撤退戦を手放しで肯定することができない。それは、劇映画の可能性を時間の操作に見出すこのノーランの態度が、端的に述べればその物語世界を狭く、貧しくしているのではないか、と考えるからだ。

 たとえば『ダークナイト』について考えてみよう。それが少なくとも同時代を代表する作品であったとしても、同作を「ノーランの」代表作と述べることに抵抗を覚える人も多いだろう。それはバットマンというシリーズに対するノーランの応答であり、それゆえに時代に対する応答でもあったことは疑いようがない。そう、同作(を含むバットマンシリーズの三作)はノーランが自分の外にあるもの──時代とか、状況とか、そういったもの──との対峙を極めて根源的なレベルで要求されたものに他ならない。
 以下に、僕が昨年個人のブログ(note)に書いた『ダークナイト』についてのかんたんな解題を引用する(詳細な批評は僕の代表作『リトル・ピープルの時代』(2011年、幻冬舎)の補論を読んで欲しい)。長くなるが、議論の補助線として目を通して欲しい。

《「This is what happens, when an unstoppable force meets an immovable object.(絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき、こういうことが起きるわけだ。)」

 これは『ダークナイト』の結末近く、バットマンに捕縛されたジョーカーが口にする台詞だ。この「絶対に止めることのできない力」とは何か。それはジョーカーという存在が体現する世界の不可避の変化だ。そして「絶対に動かないもの」とは何か。それはバットマンのことで、彼が体現する「正義」のことだ。

 そもそも『ダークナイト』は、現代における「正義」の存在理由を問う映画だった。それは同時にアメリカ同時多発テロからイラク戦争を経て、世界の警察であることにいよいよ疲れ始めたアメリカ合衆国のアイデンティティを問い直す行為でもあったはずだ。あらゆる「正義」が、無数のイデオロギーの一つとして相対化された時代──イラク戦争というアメリカの正義の何度目かのしかし決定的なゆらぎを経た時代──バットマンの掲げる「正義」もまた、今までと同じものではいられなかった。前作『バットマン ビギンズ』(2005)では目の前で両親を惨殺されたブルース少年が、そのトラウマを解消するために成人後バットマンというヒーローとして活動をはじめる過程が描かれた。しかし、その続編である『ダークナイト』でブルース=バットマンは正義の執行を半分手段ではなく、目的と化しはじめている。このときブルースにとってバットマンとしての活動は、トラウマの解消や平和の実現のための手段だけではなく、それ自体が目的になりつつあったのだ。ブルースの支援者たちは、彼にその危険性を忠告するがブルースはバットマンであること自体の快楽を手放せない。そして、彼の恋人レイチェルはブルースのこうした態度に疑問をいだき、彼ではなくその盟友である検事ハービー・デントを伴侶に選ぶ。デントはブルース=バットマンとは異なり、古き良きアメリカの正義をかたくなに信じている。彼はその根拠を疑うことをしない。そしてブルース=バットマンのように正義の執行を自己目的化もしていない(する必要がない)。

 デントがブルース=バットマンの陥った自己目的化の罠の手前にいる存在(まだ自身の根拠を疑い、変質させる必要を持たない)だとするなら、ジョーカーは先をゆく存在だ。劇中でジョーカーは繰り返し自分が怪人に豹変するきっかけになった過去の凄惨なエピソードを披露する。しかし、そのエピソードの内容は常に異なっている。そう、これらはすべて「嘘」なのだ。そして劇中でジョーカーはただ世界が燃え上がるのを眺めて、楽しむ存在として位置づけられる。ジョーカーには金銭や権力、あるいはトラウマの解消といった目的は完全に存在しない。バットマンにとって正義の執行それ自体が半ば目的化しているように、ジョーカーにとって悪の執行はそれ自体が目的なのだ。しかも、その自己目的化はバットマンのそれよりも徹底している。まだ半分は正義のもたらす結果を信じているバットマンとは異なり、ジョーカーは悪そのものを完全に目的化している。すべての「正義」が相対化され、立場やイデオロギーの一つでしかなくなったとき、同時に「悪」も存在できない。ジョーカーの述べる「絶対に止めることのできない力」とは、ジョーカー自身の存在が体現するこのあたらしい時代をもたらす世界の構造の変化のことだ。そして「絶対に動かないもの」とは、バットマンの体現するこうした世界の変化に戸惑い、宙吊りになる私たち自身のことだ。

 映画の結末近く、デントは婚約者のレイチェルを殺害されたことをきっかけにジョーカーにコントロールされ、怪人トゥーフェイスに変貌する。デントは絶対的な正義を信じていた。同時に彼は自分が家庭を持ち、「父」になることを信じていた。このふたつ──公的なことと私的なことは彼の中で強く結びついていた。だからこそ恋人を殺害され、私的な自己実現の可能性を奪われたことで公的な正義も信じられなくなった。
「父」になることに拘泥するデントは、その可能性を奪われたことで自己を見失い、連続殺人鬼となるのだ。対してブルース=バットマンは長年の恋人を殺害されたにもかかわらず、何も変化しない。家族を殺されたトラウマを半ば忘れ、正義を自己目的化しつつあるブルース=バットマンは自身を保ち続けるのだ。ここに同作の三怪人が一直線に並ぶことになる。もっともイデオロギー回帰的、家族回帰的な傾向を持つデント=トゥーフェイスが一番「弱く」、そしてあらゆることを自己目的化した絶対悪であるジョーカーが一番「強い」。そしてバットマンはその中間に立っているのだ。こうして、クリストファー・ノーランは現代における正義/悪のかたちを描こうとしたのだ。》

 こうして考えたとき、『ダークナイト』以降のノーランの映画の世界がトゥーフェイスの次元でのみ展開していることに気づく。そこには、ジョーカーの次元はおろか、同作におけるバットマンの次元すら存在しない。

 たとえば、『ダークナイト ライジング』(2012)のバットマンは前作から後退し、ファミリーロマンスの回復と正義の実現を目的としたヒーローとして再登場する。そして彼は目的を果たしたあと、バットマンであることを放棄して物語から退場する。つまり『ダークナイト ライジング』のバットマンは前作で彼が陥った正義の自己目的化に陥っていない。同作のバットマンは前作のトゥーフェイスの次元を生きているのだ。敵役であるベインは、オキュパイ・ウォールストリートを想起させる貧困層を動員した反乱を先導するが、劇中でこのイデオロギーはただの方便でしかないことが明かされる。ベインもまた、忠誠を誓う女性に対し、正しく「父」であるために行動を起こす存在でしかない。『ダークナイト ライジング』とは、それぞれの理由で「父」であることに失敗した怪人たちが、その回復を巡って戦う物語なのだ。

 あるいは『インセプション』について考えてみよう。これは、他人の夢の中に侵入し、書き換える力を用いて活動する産業スパイを描いた物語だ。主人公のコブとその妻は夢の世界への侵入と、その改変を濫用した結果、コブの妻の精神は病み、彼女は自殺してしまう。コブ自身も妻の自殺によって心を病み、そして妻殺しの容疑者として警察に疑われている。彼は子どもたちと引き離された生活を余儀なくされている。コブの目的は、大きな仕事(産業スパイ)を成功させ、その報酬として子どもたちと暮らす生活を回復することだ。「父」であることの回復に拘泥するために、記憶の操作を反復する主人公コブは、このとき完全にトゥーフェイスの次元に生きている。「父」であることを、ファミリーロマンスの回復を目的に行動するコブはジョーカーが無効化した、過去のトラウマに囚われ、ジョーカーやバットマンが到達している/陥っている悪/正義の自己目的化とも無縁だ。
 同作で用いられている夢の侵入による記憶の植え付け、書き換えはノーランの初期の代表作である『メメント』から引き継いだものだ。『ダークナイト』で提示された行き止まり──「絶対に止めることのできない力が絶対に動かないものに出会ったとき」に起こること──からの脱出口を、ノーランは記憶の植え付け(≒映画)によるファミリーロマンスの回復に見出したのだ。しかし、その結果『インセプション』は『ダークナイト』が切り開いた新しい世界への視線を自ら閉じてしまったように思えるのだ。
『インターステラー』(2014)の公開を前にノーランはこう述べている。

《スマホ世代に僕の『インセプション』(10年)が人気なのは、あれが心の内側へ内側へと向かっていく話だからだと思う。『インセプション』は内側に向かってばかりじゃダメだ、という話なんだけどね。だから『インターステラー』では外に、宇宙に向かうんだ。(『映画秘宝』2015年1月号)》

 ノーランはデジタル処理やインターネットを嫌う監督として広く知られている。この談話もそのイメージを裏付けるものだ。そしてノーランはここで語っているように『インターステラー』を外宇宙のフロンティアを目指す物語として提示した。主人公の宇宙飛行士クーパーはトゥーフェイスがそうであったように、そしてコブがそうであったように「父」であるために/「父」であることを回復するために外宇宙に旅立つ。そして、最終的には宇宙の果てで五次元世界に接続し、人類を救う技術を持ち帰ることに成功する。しかし、ここでクーパーという人間の内面は一切変化しない。物語の冒頭から提示されていた娘への所有的な態度に現れる淡白なマチズモが結末で再度確認されるだけだ。同作はスタンリー・キューブリック監督の『2001年宇宙の旅』(1968)へのオマージュが指摘されているが、この映画との比較によって『インターステラー』という映画の本質もより明確に浮かび上がるだろう。あの押井守は、『2001年宇宙の旅』を評して「宇宙空間を感覚的に表現した、初めての映画」であると述べている(『押井守の映画50年50本』2020年、立東舎)。

《押井 『2001年宇宙の旅』が与えた影響ということで言えば、この映画がなかったらたぶんリドリー・スコットの『エイリアン』(79)も存在しない。あたりまえだよ。『2001年宇宙の旅』の最大の功績はあの音楽を用いて宇宙の時間を描いたこと。あの滑るように動く宇宙船。映画で描かれる宇宙は「宇宙船を動かすこと」で成立するのだけど、あれだけ優雅に動く宇宙船がかつて映画に存在しただろうか? あれはハイスピード撮影の妙だよね。それこそいちばん有名な、宇宙ステーションとシャトルがワルツを踊る場面。あそこで表現したのはなんだったのか?

──宇宙の時間、ですか?

押井 もっと正確に言うと、宇宙の時間の先に宇宙そのものがある。宇宙そのもののスケールを表現するためにキューブリックは宇宙の時間を描いたんだよ。これが『2001年宇宙の旅』の最大の功績。これ以降、この文法に囚われずに宇宙空間を描いた映画は1本もない。全部このスピード、この時間経過で映画が作られている。『スター・ウォーズ』(77)も『2001年宇宙の旅』の影響下にある。

──画期的な発明だったのですね。

押井 巨大宇宙船をゆっくり動かすことで、宇宙そのものの壮大な時間を演出してみせた。これをエポックメイキングと呼ぶんだよ。》

《広がりとか、虚無感とか、静寂とか。
宇宙って、いちばん表現しにくいもののひとつなんですよ。宇宙の表現って、映画が後々になればなるほど上手くなるかっていうと、そうなってない。いまだにこれを超えるような宇宙空間の迫力っていうか存在感っていうかね、そんな映画ってたぶんないと思う。》

 押井はキューブリックが映画という技術を用いて、宇宙という私たちの想像を超えた空間を表現したことを指摘しているのだ。それも、精巧なミニチュア特撮を用いたビジュアルの構築だけではなく、宇宙船同士がゆっくりとすれ違うことで広大にすぎる宇宙空間の「演出」を実現したことに注目する。
 こうして考えてみたとき、『2001年宇宙の旅』と『インターステラー』は好対照だ。前者の結末で、主人公の宇宙飛行士ボーマンは木星で出会った宇宙の知的生命体によって新しい人類(スターチャイルド)に進化する。その新人類像は具体的に描かれることはない(準備稿には核戦争を食い止めるという展開が記載されていたと言われるが)。しかし、キューブリックは既に、観客がまだ出会ったことのない宇宙の表現を、それも映画という器ならではのかたちで実現している。少なくとも観客は、この映画を観たことのない人類がまだ触れていない感覚を覚えて劇場を出たはずだ。映画の結末にスターチャイルドが地球を眺めたように、まだ誰も観たことのないものを目にすることで同作の観客は「進化」したのだ。
 対して、『インターステラー』はどうか。同作はたしかに高い映像技術と卓越した撮影で遠い惑星の世界を魅力的に構築している。しかし、押井が指摘する1968年のキューブリックが切り開いたような新しい感覚はそこには存在しない。キューブリックが描いたスターチャイルドへの覚醒は、物語的にこそ描かれなかったがそれは観客が手にした映像体験によって代替されていた。だが『インターステラー』にそれはない。物語的には、宇宙の果てで五次元宇宙に接続したクーパーは物語冒頭に提示されたマチズモを確認するだけだ。そして演出的にも観客は宇宙の果てまで旅をしたにもかかわらず個人の記憶アーカイブ=本棚の比喩で表現される五次元空間のイメージにしか出会えない。

『インターステラー』では宇宙に旅立つ父クーパーと、彼を無条件に必要とし、決定的に依存する娘マーフとの関係性が何よりも尊いものとして描かれる。そしてこの映画ではクーパーとマーフの父娘の関係を理想化するために他の登場人物が矮小に描かれる。ブランド教授とその娘アメリアの父娘、思春期に人並みの自立をしているクーパーの長男(マーフの兄)、家族をもたないアメリアの同僚マン博士などはひたすら矮小な存在として描かれる。まるでSNSのタイムラインで行われるマウンティングのように、他の何かを貶めることで持ち上げたいものを理想化するという手法がここでは取られているのだ。

 内面に向き合うだけではいけない、外部を目指すべきだとノーランは説く。しかしこの映画が示すのは皮肉なことにも、しっかりと内面に向き合わなければ世界の果てまで旅をしても、何ものにも出会えないし見つからないし何も変わらないということだ。コロナ禍によるリモートワークを嫌悪するオールドタイプのサラリーマンは述べる。人間の創造性はたとえば職場や喫煙所のような、あるいは飲み会での雑談がもたらす雑多で予想外の刺激によってはじめて発揮されるのだ、と。もちろん、それは一側面として正しい。しかしその結果として彼/彼女が取り戻すべき日常が、その場のボスの機嫌を取るために取り巻きがそのボスが気に食わない人間の悪口を述べて接待する飲み会でしかなかったとき、彼/彼女はむしろ何ものにも出会えなくなる。ノーランが陥った罠もこの例に似ている。彼は、自らが結果的に描いてしまったもの──ジョーカーという存在が体現するもの──から徹底して目を背け、彼の考える映画(記憶の操作)という手法を通じて、トゥーフェイス的な自意識の救済に特化していったのではないか。
 その結果『インターステラー』で彼がたどり着いたのが、絶対に自分を否定しない無垢な存在としての娘を設定し、彼女の存在を生きる理由にする「父」の物語だった。しかし、ノーランがかつて出会ってしまったものはこの「父」であることへの拘泥こそが、現代における矮小な悪に転化してしまう世界の真実ではなかったか。ノーランはその残酷な、そして決定的な真実から目を背けるべきではなかったのではないか、と僕は思う。『ダークナイト』の世界を眺める視線がもし『インターステラー』に適応されていれば、ノーランはクーパー父娘のような関係性を愛おしみつつも、その美しさが簡単に悪に反転してしまう世界の残酷な真実(ジョーカー)を同じ映画の中に盛り込み、より重層的な世界を構築できたはずだ。しかし、ノーランはそれをしなかった。『ダークナイト』の結末はジョーカーとの対決ではなく、トゥーフェイスとの対決だった。ノーランの関心の中心は、ジョーカーの体現する新しい世界ではなくそれに怯えるトゥーフェイスという古い世界を生きる実存の側にあった。そしてノーランはその後、自らが結果的に描いてしまったジョーカー的なものを消去することを選んだ。しかしそのために、彼は皮肉にもまるで閉塞するインターネット空間のように、フロンティアを失っていったのだ。ブラックホールを用いてワープしたその先に家長崩れの寂しさを埋めてくれる都合のいい娘の愛情を確認することしかできない外宇宙と、あのジョーカーのうごめくゴッサム・シティのどちらが、本当の意味で「外部」なのかはもはや論じる必要はないだろう。
 共感の外側に存在するものを排除したとき、ノーランは他のどの作家よりもSNS的な世界観と人間観に陥ってしまったのだ。その結果として、彼は宇宙の果てまで旅をして五次元宇宙に接続したとしても、そこで出会えるのは手垢のついた、自己憐憫的なマッチョイズムでしかない。世界を見る目が養われなければ、人は何ものにも出会えないことを、むしろ皮肉にも結果的に描ききってしまっているように僕には思えるのだ。

 ここで一度ノーランから離れて、もうひとりのジョーカーについて考えてみよう。2019年に公開されたトッド・フィリップス監督の『ジョーカー』(2019)は、ホアキン・フェニックスの演じるジョーカーを虐げられた人々の代表として描くことで、多くの「共感」を特にSNS上で集めた。しかし、『ダークナイト』でヒース・レジャーが演じたジョーカーはむしろ「共感」を拒絶する存在だった。これをどう考えたらよいのだろうか。また長くなるが、同作について僕が公開当時書いたものを引用しよう。

《本作のホアキン・フェニックス演じるジョーカーは、『ダークナイト』のヒース・レジャー演じるジョーカーではなく、むしろアーロン・エッカート演じるトゥーフェイスと比較するべきだろう。ヒースのジョーカーが絶対悪だったのに対し、ホアキンのジョーカーは相対悪だ。ヒースのジョーカーは世界に存在しはじめているが、まだ姿を現さない不気味なものを創作物のかたちで可視化したものだったが、ホアキンのジョーカーは既に世界に存在しているものの確認だ。孤児だったアーサーが、養母に虐待を受け、障害を持ち、貧困に苦しみ性愛にも恵まれない。その持たざるものの負の感情が悪を生む。それは既に僕たちが知っていることの確認だ。
 つまり、こうして考えたとき2019年のジョーカーは2008年のジョーカーの後継者なのではなく、2008年のトゥーフェイスの後継者だと考えたほうがいい。なぜ後継者なのか。デントがそうであったように、アーサーの中でも公的なもの(エスタブリッシュを殺害すること)と私的なこと(母や恋人の愛を受けられない/コメディアンとして成功できない/精神疾患を持つことなどの不遇を訴えること)が結びついている。そして私的な挫折が公的な行為(ジョーカー化して犯罪に手を染めること)の引き金になる。2019年のアーサー=ジョーカーは、2008年のデント=トゥーフェイスのレイヤーに存在しているのだ。
 そしてその結果2019年の『ジョーカー』からは2008年の『ダークナイト』に存在した三層構造のうち、ふたつのレイヤーが消去されている。2008年のジョーカーとバットマンのレイヤーが消去され、トゥーフェイスのレイヤーだけが抽出され、アップデートされている。そのことで、本作が相対的に射程の短い映画になっている。この映画は、少なくとも世界の3分の2から目をそらし、見なかったことにすることで成立しているのだ。

 もちろん、ラストシーンの解釈によってこの前提はひっくり返り得るだろう。だがエクスキューズを配置しているとはいえ、それでもこの映画の重心が、孤児で、虐待の被害者で、精神疾患を持ち、貧困に苦しみ、それゆえに怪人ジョーカーに変貌したアーサーに対する「共感」に置かれていることは間違いない。そしてだからこそ、この映画は現代的であり得ている、というのが僕の判断だ。ホアキンの演技、音楽、美術どれをとっても素晴らしく、これらの要素に心を掴まれた観客も多いだろう。しかし、この映画の求心力の中心は明らかに別のところにある。作中でジョーカーと化したアーサーが、暴徒たちの喝采を浴びたようにまるでFacebookに「いいね!」を集め、Twitterのリツイートで拡散するようにこの映画は「共感」によって支持を拡大している。言い換えればこの映画は共感が、正確には共感を可視化しては自分の手で発信することの快楽が何よりまず求められる時代に対応した作品なのだ。
 この10年で、私たちを取り囲む情報環境は大きく変化した。その結果、いま私たちは「共感」を確認する快楽に溺れている。自分が抱えているものを、他の誰かも抱えていたことが確認できると、人は共感する。ソーシャルメディアの「いいね!」は、その個人的な感情を第三者に開示する機能を持つ。誰かが、別の誰かの発言に共感する。それはその当人に伝わることはあったとしても、本来なら滅多に社会に、第三者に開示されることはなかった。仮に開示されるとしても、それには大きなコストとある程度のスキルが必要だった。しかしソーシャルメディアの「いいね!」はそれを驚くほど低コストに、そして誰にでもできるものにした。そして誰かが他の誰かに「共感」すること、そしてそれを第三者に、社会に開示することの快楽を僕たちに教えてしまった。「共感」でつながる快楽に、それも自分からその「共感」を、それも驚くほど簡単に発信してつながる快楽に、僕たちはいつの間にか溺れつつある。

 そしてヒースのジョーカーが『ダークナイト』で述べた「絶対に止めることのできない力」とは、まさにこの変化のことなのだ。21世紀のグローバル化した情報社会下においては、これまでのように正義/悪は存在できない。あらゆるイデオロギーは相対化され、より多く「共感」を「いいね!」を集めたものが彼らにとっての「正義」として支持されるだけだ。この現実にデントは傷つき、トゥーフェイスと化した。そしてブルース=バットマンはこの現実に対抗するために正義の実現ではなく、執行そのものを半ば目的化した。何かを目的にした瞬間に、それはイデオロギーの一つとして相対化され、どれだけたくさん「共感」されるかで比較される相対的な正義/悪に過ぎなくなる。そして自分とお前とは似ているのだとバットマンに告げるジョーカーは完全に行為そのものを目的とすることで、絶対的な「悪」の立場を手に入れているのだ。

 そう、この「共感」の「発信」が何より求められる時代を生んだのは、2008年にヒースのジョーカーがあのとき述べた「絶対に止めることのできない力」なのだ。そして僕らが本当に対峙すべきは、2019年のホアキンのジョーカーの射程の外側にあるこの「絶対に止めることのできない力」なのだ。「いいね!」の「共感」の外側のものを見えなくしてしまう力なのだ。そのことは、忘れてはいけないだろう。》

 そう、ノーランに限らずこの世界はいま、「いいね!」の「共感」の外側を失いつつある。この世界にジョーカーはもういない。だとするのなら、映画という虚構こそがジョーカー的なものを生み続ける場所であると僕は思う。しかし、皮肉なことに虚構の世界こそが、いま情報環境への適応の方法を間違えて、「いいね!」や「共感」の外側にあるものを、ジョーカー的なものを消去しつつある。インターネットを嫌い、CGの使用すら躊躇するノーランのような監督すらもこの罠から逃れられていない。トゥーフェイスが正義を実行することで悪に陥ったように、ノーランも情報技術を嫌悪するがために言葉の最悪な意味での技術主義に陥っているのだ。

『ダンケルク』という名の撤退戦を経て、『TENET』でノーランは、映画とは観客の記憶を操作するものだという信念のことであると宣言したように僕には思える。それはたしかに映画という表現だからこそ有効に演出できる体験であることは間違いない。しかし、ほんとうにおぞましいものは、むしろ個人の記憶を操作し、過去のトラウマを解消し、「父」であることを回復しようとするトゥーフェイス的な次元の「外側」にあるということを、ノーランは既に自ら描いていたはずなのだ。この世界にジョーカーはもういない。少なくともノーランが志向する「映画」の中にはもういない。しかし、僕たちは既に彼に出会ってしまった。この記憶を消し去ることは、いかなる信念をもってしてももはやできないのだ。 

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連載【水曜日は働かない】
毎月1回・水曜日更新

宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)など多數。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。
Twitter:@wakusei2nd

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