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恩田陸「草の城」第4回

半年前に夫を亡くし、ひとりでひっそりと暮らす七十代の女性・天野弥生(あまの・やよい)。遠い昔に作った「ツユクサの押し花」を見つけたことをきっかけに、彼女は過去の自分を訪れるようになるのだが……。
構想から30年。ついに描かれる、時を超えた愛の物語。
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 英樹が大笑いをした「犬」の一件から、私たちはなんとなく打ち解けた雰囲気になった。
 彼は以前よりも緊張や警戒を解いて、自然に(彼にしては、だが)話をするようになったし、当たり前のように、交替で誘い合って一、二週に一度は二人で食事をするようになった。
 つきあってくれと言われたこともなかったし、告白したわけでもない。「恋人」だなんて、恐れ多いような気がして自分の中で言葉にはしなかったが、英樹の存在が私の中で大きな位置を占めるようになったのは間違いなかった。
 彼は優しい顔や、柔らかい笑顔を見せるようになった。
「ギデ、なんだか最近丸くなったなあ」
「ずいぶん素直になったわ」
 ハイキング同好会の先輩たちも、彼の明らかな変化を認めていた。
「弥生ちゃんのおかげだね」と言われるのは嬉しかったし、ほんの少し誇らしかった。自分が誰かに影響を与えられるということ自体、思いがけなく、とても新鮮だったのだ。
 皆で行くハイキングも楽しかった。
 伊豆、鎌倉、那須、日光、尾瀬。
 季節ごとに、ずいぶんあちこちを回った。
 野草を摘み、スケッチをし、豊かな時間を過ごした。
 夏休みには奈良や和歌山など関西へも行ったし、泊まりがけでのハイキングでは、長時間歩いていろいろな話をした。
 何より、英樹が一緒だった。
 そこに彼がいる、という存在感、安心感。そんな感覚は父にも覚えたことがなかったので、なんとも頼もしく、幸せな感覚だった。
 大事な人がいる。大事にしてくれる人がいる。
 誰かに期待するのは初めてだったし、誰かをいちばんに思うのも初めてだった。
 その素晴らしさに有頂天になり、その喜びを嚙み締めた。
 青春なのだ、と思った。
 自分に訪れるとは思えなかった、小説や映画の中にしかないもののただ中に、今、自分はいるのだ、と。

 ずっと疎外感を覚えていた。
 小説や映画、あるいは少女漫画の中の「青春」に。
 フィクションの中の十六歳や十七歳は、皆、恋したりやきもきしたり失恋したりまた恋したり、と「青春」を謳歌していた。自分の感情に素直に、泣いたり笑ったりして生きていた。
 たとえ悲惨な結末を迎えたとしても、ひどい幻滅や失望を味わったとしても、彼女たちは「ヒロイン」だった。
 私はそんなヒロインたちを遠巻きに、冷めた目で見ていた。
 どうしてそんなに自分に夢中になれるのだろう。どうしてそんなに自分大好きでいられるのだろう。
 ヒロインたちの、おのれの「ヒロイン」たることを疑わないところに、堂々と「ヒロイン」でいられるところに、違和感があった。
 私には、自分が「ヒロイン」の席に座る日が来るとは思えなかったし、もしそんな席に座れたとしても、こそこそとその席を降りて誰かに譲ってしまいそうだった。
 中学でも、高校でも、何度か交際を申し込まれたことがあったし、好ましく思っている男の子もいたけれど、自分は「違う」と思っていた。そういった、恋愛の渦中に自分がいるところがどうしても想像できなかったのだ。
 あたしは、ああはなれない。
 あたしに、青春みたいなものは似合わない。
 期待というものを持たなかった(あるいは持てなかった)私は、ずっとそう信じていたし、あきらめていた。
 けれど、この時初めて、本当にあるんだ、と思った。
 恋というもの、愛というもの、青春というもの。
 確かに存在するんだ。
 そして、それはこんな私の中にも、私の人生にもあったんだ、と。

 二歳上の英樹は、大学院に行ったので、同じ年に就職した。
 彼は優秀な学生だったらしく、早々に理系学生に人気の大手鉄鋼メーカーへの就職が決まっていた。
 私の就職する頃は、女子は圧倒的に短大卒や高卒が有利で、四年制大学を卒業した女子は教職に就くのがほとんどだった。
 大手の化学メーカーに入れたのは、ゼミの教授の推薦が大きかった。成績も悪くはなかったが、教授が、私が天涯孤独で自分で自分を養わなければならない事情を心配してくれて、ゼミが代々持っていたそのメーカーへの推薦枠に強く推してくれたのだ。
 こうしてみると、私は頼れる親類はいなかったものの、その時々で助けてくれる師には恵まれていた。
 忙しく日々は過ぎた。
 もはや英樹とのつきあいは既成のものとなり(未だに好きだとも何とも言っていなかったが)、二人でいることになんの疑いも持たず、二人でいることに満足していた。
 週末には会って食事をし、連休や夏休みには二人でハイキングに出かける。互いの誕生日を祝い、初詣に行く。
 英樹も私と同じく、写真を撮るということをしない人だった。もっとも、彼の場合は、その理由の大部分は照れや自意識過剰のせいだったが。
 どうやら、写真を撮られるのにじっとしているのも、笑顔を作ることも苦手らしかった。逆に、自分が写真を撮るために「はい、チーズ」などと声を掛けるのも、恥ずかしいようなのだ。
 ホントに変な人だなあ、といつも思っていた。
 けれど、私も写真を撮る必要など感じなかった。だって、いつも隣に、いつも目の前に、彼その人がいるのだから。
 こんなにも輪郭の濃い、強い存在感を放つ彼が、すぐそばにいるのだから。

 松岡悠太と高森苑子の結婚式には、大学時代のサークルのみんなと一緒に出た。
 花嫁の輝くような笑顔が眩しかった。
 いいな。羨ましいな。そう思っていることを、私はそっと認めた。
 苑子は、私にブーケを渡してくれた。
 次は、弥生ちゃんね。
 小さくウインクをしてくれ、私は真っ赤になっていたと思う。
 幸せそうな花嫁と花婿。
 それはあまりにも遠く見えた。
 あの場所に、私もいつか立てるのだろうか。
 その場面を想像すると、目のくらむような心地になった。
 そんなことが、私の身にも起きるのだろうか?
 私にも、そんな日が訪れるのだろうか?
 この時、どこか空恐ろしく感じたことを、後で何度も思い出すことになる。

 英樹は就職してからずいぶんマトモになったというものの、時折、やはりひどく露悪的になって、自爆する癖は抜けなかった。
 二人で過ごしていても、何かの折りにやたらと攻撃的になったり(専ら周りのものとか上司とか政治家とかタレントとか世間とかが対象だったが)、えんえん毒舌や文句を吐き続けることがあって、もう慣れっことはいえ、ここしばらくやけにその頻度が上がったな、と感じていた。
 一抹の不安が、私の中に、影のように射した。
 もしや。
 その不安を言葉にすると、こういうことだった。
 あの最近頻度の上がった毒舌は、「よそよそしさ」とも取れるのではないか。
 彼は、私と会話したくなくて、ずっと喋り続けているのではないか。
 あるいは、私といる時間が退屈で、言葉で埋めているのではないか。
 もしや。
 彼に、アメリカ留学の話が持ち上がっていることは知っていた。
 会社がおカネを出して、社内の技術者や研究者を留学させる制度があって、彼がその候補に上がっているのだという。
 もしかして、彼は私を疎ましく思っているのではないか。
 自分のキャリアのため、アメリカに行くのを契機に、私と別れたいのではないだろうか。
 そんな疑念が湧いてきたのだ。
 私はゾッとした。
 不安。疑念。
 なんという、不快な感情。それまで経験したことのないネガティヴな感情に、胸がかき乱される。
 なんの疑いもなく一緒にいることに、自信が持てなくなってきた。
 胸にいったん浮かんだ黒いシミは、決して消えない。それどころか、じわじわと広がり、彼の一挙一動がそれを裏付けているような気がしてくる。
 それに、彼が社内の女性に人気があることにも気付いていた。
 あの難儀な性格を知っていると気付かないが、彼の見てくれは悪くない。むしろ、男らしくてかっこいいと言われても不思議ではない容姿だ。
 学歴も高いし、大企業で将来を嘱望されている。結婚相手を探しにきている社内の女性が放っておくはずがない。そして、彼女たちのほうが、私よりもずっと多くの時間、彼と接しているのだ。
 日本を代表する鉄鋼メーカーのひとつ。そんなところに入社する女性は、コネ入社が多い。それこそ、「いいところのお嬢さん」――こんな、みなしごで顔に「コンマ」の傷などない、綺麗な「お嬢さん」がたくさんいるに違いない。
 そう気が付いた時、初めて胸がずきんと痛んだ。
 ふと、改めて鏡を見る。
 句読点。ナミダ。コンマ。
 環境は変わる。彼は、次のステージに向かっている。
 いくらでもいい条件の女の子を選べる彼が、いつまでもこんな自分と一緒にいてくれるという保証はない。そもそも、自分たちが「つきあっている」のかどうかも分からないし、「好きだ」と言われたこともないのだ。
 私は自分のおめでたさにあきれた。

 アメリカ行きが正式に決まった、と珍しく改まった口調で切り出された時は、絶望的な気分になった。
 そうなんだ、おめでとう。
 笑顔で言うのが精一杯だった。
 ああ、このあと別れを告げられるんだ、という確信めいたものまであった。
 つかのまの沈黙。
 が、英樹は、唐突にいつもの毒舌めいたものを凄い勢いで話し始めた。
 今日も、これか。
 安堵よりも失望が先に立つ。
 このところのお決まりの一方的なお喋り。私と目を合わせようともせず、べらべらと弾丸のように喋り続ける。
 私は、哀しくみじめだった。
 英樹は、本質的に優しい人だ。
 たぶん、私のことを哀れに思って、言い出せないのだ。英樹のことを恋人だと信じきってつきまとう哀れな女。英樹はとっくに違う世界に行ってしまっているのに、取り残され、置いてきぼりになっていることに気付いていない女。
 私は適当に相槌を打ち、やけに苦く感じるビールを飲んだ。
 何度も二人で来ている店の、お気に入りのメニューを食べているのに、ちっとも味がしない。
 英樹の声が、耳を素通りしていく。
 早く楽にしてほしい。こんなみじめな時間を引き延ばさずに、とっとと引導を渡してほしい。
 そう心の中で叫んでいた。
 それでも、英樹はいっこうに話を止めない。
 憐れみはいらない。そんな優しさはいらない。今は、早く終わりにしてくれることが優しさだと、どうして分からないのか。
 英樹がハッとするのが視界の隅に入り、自分が涙を流していることに気付いた。
 まさか、泣くなんて。
 私は動揺していた。これまで、私は数えるほどしか泣いたことがない。父が亡くなった時でさえ、涙は出なかった。
 どうした、コンマ。
 彼がうろたえるのが分かったが、私は涙を拭わずにバッグを手に取った。
 ごめんなさい、なんだかちょっと胸焼けして、気分が悪くなったの。
 私は、胸に手を当ててみせた。
 今日はもう帰りましょう。

 帰りの電車は、空いていた。帰宅ラッシュの時間は過ぎ、外食している人たちが帰るにはまだ早い時間だからだろう。
 いつものように、英樹がうちまで送ってくれようとしていたが、私たちは、微妙に離れた位置に座った。互いに顔も見なければ、会話もない。
 とうとう、レストランでは英樹は何も言わなかった。店を出る時に、別れを告げるチャンスをあげたつもりだったのに。
 まだ引き延ばすのか。
 私は忌々しい思いで、彼の優しさを呪った。次のチャンスは私のアパートの前というわけか。
 向かいの席にも、辛気臭い顔をしたカップルが並んで座っていた。
 高そうなスーツを着た、目を引く美男美女だったが、やはり無言で、硬い表情をしており、二人のあいだの空気は冷え切っている。
 あたしたちもあんな顔をしてるんだろうな、と淋しい気持ちで考えた。
 次の駅で、一目で酔っ払いと分かる中年男性が乗ってきた。
 乗り込んだ瞬間、パッと私に目を留めたので嫌な予感がした。
 案の定、どん、と乱暴に私の隣に腰を下ろし、いきなり話しかけてくる。
「おねえさん、その顔の傷、どうしたの?」
 酒臭い。思わず顔を背けた。
 どうやら、私と英樹が少し離れて座っているので、一人客だと思っているらしい。
「ねえねえ、どうしたの? ひょっとして、男に殴られたとか?」
 私はハラハラした。
 隣で、英樹がムッとして腹を立てる気配を感じたからだ。
「もったいないねえ、それさえなきゃ、けっこう別嬪べつぴんさんなのに」
 英樹がすっくと立ち上がる気配がして、ひやっとする。
 どうしよう、英樹がこの酔っ払いを殴ったりしたら。
 が、彼は酔っ払いの前に立つと、叫んだ。

「うるせえ、酔っ払い! 傷があったっていい女に決まってるだろ! 俺が女房にしたいと思ってる女なんだからな!」

「えっ? 彼氏? いたの?」
 酔っ払いは面喰らったらしく、間抜けな表情で英樹を見上げた。
 えっ、と叫んだのは私も同じだった。
 口をあんぐり開けて、隣の酔っ払いと一緒に彼を見上げた。恐らく、同じくらい間抜けな顔をしていたに違いない。
 英樹は絶句し、真っ赤になっていた。
「今、なんて言ったの?」
 何かもごもごと口の中で呟いたが、聞き取れない。
 彼は助けを求めるように左右を見回してから、あきらめたように、私の隣に、さっきよりも距離を詰めてそっと腰を下ろした。
 そして、意を決したように、ジャケットのポケットから小さな青い包みを取り出した。
 銀座の高級宝飾店の包み。
 一目で、指輪だと分かった。
 けれど、包みはよれよれで、あちこち擦り切れている。
「――ねえそれ、いつ買ったの?」
 思わずそう尋ねていた。
「今年の年明け」
 消え入りそうな声で答える。
「年明け?」
 私は愕然とした。
「今、七月なんですけど」
「ずっと持ち歩いてて、今日こそ言おう、今日こそ言おう、と思ってて、どうしても言い出せなくて」
 年明け。
 思えば、彼がやたらと毒舌を繰り返すようになったのは、年明けからだった。
 私はもう一度愕然とした。
 つまり、あれは、プロポーズを言い出せない彼の照れ隠しだったということか。
 なのに、私ときたら、よそよそしさだとか、別れの予感だとか、てっきりそんなふうに思い込んでいたのだ。
 ふつふつと怒りが込み上げてくる。
 英樹に対する怒りと、自分に対する怒りだった。
「バカッ」
 私はそう叫んでいた。
 英樹がぎょっとしたように顔を上げる。
「なんでさっさと言ってくれなかったの? てっきり、あたしのことが嫌になったんだとばっかり――別れようって言われるんだとばっかり、思ってたのに」
「まさか」
 英樹は激しく首を振った。
「こんな――俺みたいな欠点だらけの男に、ついてきてくれ、なんて言えなくて。断られるんじゃないかって、いつも」
 彼はうなだれた。
 かつて見た、小さな少年の姿。
「バカッ」
 私はもう一度叫んだ。
「ついていくに決まってるでしょ! そんなことも分からないの?」
 どっと涙が溢れてくる。
「えっ、じゃあ」
 涙の向こうに、彼の驚く顔が見えた。
 私はすすりあげながら、目を拭った。
「言ってくれなきゃ分からない。ちゃんと言って」
 私が正面から彼を見つめると、英樹はゴクリと唾を吞んだ。
 心なしか、顔が青ざめている。

「俺と結婚してください」

 やっと言ってくれた。
 新たな涙が込み上げてくる。
「はい」
 きっぱりと答える。
 たっぷり見つめあったあと、二人して、「はぁっ」と同時に溜息をついたので、おかしくなった。
「くくっ」「あははは」と一緒に声に出して笑う。
「やったあ!」
 大声で叫んで立ち上がった英樹が、「ありがと、おっさん!」と既に居眠りをしていた隣の酔っ払いに抱きついた。酔っ払いは寝ぼけまなこで「ふえっ?」と気の抜けた悲鳴を上げる。
 向かいの席のカップルが、驚いた顔で私たちを見ていたが、やがて恥ずかしそうに顔を見合わせ、そっと手を伸ばして握り合うのを、私は見逃さなかった。

 その晩、アパートまで送ってきた英樹は、初めてうちに泊まった。
 電車を降りてからは、ほとんど言葉を交わさなかった。
 それまでは、彼はアパートの入口にとどまり、私が部屋に入るのを見届けてから立ち去っていたが、この日は二人とも当然のように、一緒に部屋に入ったのだ。
 英樹は、指輪の入った包みをそっとテーブルに置いた。
 二人して、無言で見つめあう。
 なんとも奥手な話だが、それまで英樹と私は、手を繫いだことすらなかった。
 実は、それも、彼に別れを切り出されるのではないか、と思った理由のひとつだった。
 彼が私に手を出さないのは、結婚するつもりがないからなのかもしれない。どこかでそう考えていたのだろう。
 けれど、それは彼が私を大事に思っていて、私が彼を思ってくれているのかどうか自信がなかったからなのだ、とこの日ようやく気付いた。
 英樹は、静かに私を抱きしめると、ずいぶん長いことじっとそのままでいた。
 私への愛情を、全身で感じる。
 それは狂おしいほどに心地よく、とろけるように甘美な感覚だった。私も、自分が感じている愛おしさが彼に伝わるようにと念じる。
 なんという一体感。
 言葉は要らなかった。
 二人きりの世界。
 この世に、こんなにも優しい時間があるなんて。
 彼の腕の中で、私は一晩中そんな驚きを反芻していた。

(つづく) 

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連載【草の城】
毎月金曜日更新

恩田 陸(おんだ・りく) 
1964年宮城県出身。92年第3回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作に選出された『六番目の小夜子』でデビュー。2005年『夜のピクニック』で第26回吉川英治文学新人賞と第2回本屋大賞、06年『ユージニア』で第59回日本推理作家協会賞長編及び連作短編集部門、07年『中庭の出来事』で第20回山本周五郎賞、17年『蜜蜂と遠雷』で第156回直木三十五賞と第14回本屋大賞を受賞。その他の著書に『鈍色幻視行』『夜果つるところ』『spring』など多数。

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