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『インヴィジブルQ』|真藤順丈 ヴンダーカマー文学譚 一人目⑤

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前回まで:他人名義で地方文学賞に応募したことが発覚し、ビルの2階からダイブして逃げた、売れない小説家の御毛文雄(おげふみお)。飛び降りた際にひどく腰を痛め、その上「協定」違反を責める小説家志望の二瓶たちにさんざんに痛めつけられるが、その時「小説」が降りてきたーー。
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 それは、こんな小説だった。

「ここから先は、治外法権になるよ」と後部席でリッカは云った。ランドクルーザーは弧を描くように右に旋回して、昼間の観光客が忘れていった影法師のような、昏(くら)いシルエットの群れを追いかける。「あたいの仕事がどういうものか、あんたにもわかるよ」と助手席に乗せたX脚のお嬢さまに宣言する。
 臨戦態勢でいくら高ぶっているからといって「あたい」はなかろうとジョーは思う。
 湿原の前方に固定された眼は瞳孔が開きかけている。ひさしぶりの見せ場にコンセントレーションを高めるのはいいが、真顔で集中しているからこそ「あたい」の人称スウィッチは困りものだった。
「振り落とされるんじゃないよ、お嬢ちゃん」
 芝居がかってるな、と思いながらジョーはアクセルを踏む。
「あたいたちはダンスの相手を探すのさ、ゴナ・ロック・ユー」
 もはや、助手席のX嬢にどう思われたいのかもわからない。
 三人が乗ったランドクルーザーは、逃げる男たちとの距離を縮める。
 砂利をタイヤで散らし、植物の群落を抜けて、加速する車を追い抜いた強風が、広大な湿原の表面に波のような風紋を泳がせる。リッカは左側の窓を下げきって、吹きこむ夜風に髪を逆巻かせる。突きだした左手には、黒光りする得物が握られている。
「えっ、そんなもの」とお嬢さまが言うが早いか、リッカの銃が火を噴いた。たまらずに逃走者たちは散り散りになった。ランドクルーザーは縦横無尽に湿原を走りまわって獲物を追いかける。リッカは二発目、三発目を放つ。湿原の夜がめざましく帯電して、ビートとドラムが重なり、雷鳴のような光の残像が風景に散らばった。
 相手の男たちも撃ち返してくる。身辺警護を依頼されたミドーSSに追っ手の脳みそを道路にぶちまけるのを嫌がる人間はいない。放たれた銃弾がバンパーを弾いて、X嬢がネイルを塗った爪をダッシュボードにめり込ませた。
「わたしどうして車から降りなかったの、どうして」
「悪いな、修羅場は予告してくれないから」
 次の銃弾が車を弾いて、ひゃあ、とX嬢が腰を泳がせる。
「心配いらないよ、銃所持の許可証(ライセンス)なら持ってるんだから」
 噓をつきながらリッカは、左右の窓を開けて、車の両側に発砲している。車の向きと獲物の位置にあわせて、右から左へ、左から右へ。空き瓶のなかを転がるビー玉のように移動しながら、手際よく弾倉(マガジン)を再装填する。
「遅いのよ、坊やたち、全然遅いのよ」
 並走した黒服のボディガードに銃弾を見舞った。一瞬のことで血飛沫も見えない。黒服は前転するように倒れ、ミラーの後景に小さくなっていく。リッカはすぐに反対側の窓に転がって、こちらに銃口の狙いをさだめた別の黒服にあざやかなヘッドショットを決めてみせた。こちらの車も被弾していたが、ダカールラリーで優勝できそうなジョーのハンドル捌きによって全員が無傷。あやまたずにステアリングを旋回させ、アクセルとブレーキを小刻みに踏んで、相手に動線を先読みさせない。ただの一瞬も照準を絞らせない。投降しようと両膝を突いている者もいた。窓から顔を出したリッカは、投降者にまで引き金を引いた。
「あんたの魂に慈悲あれ」
 数人の黒服に守られたツゲの姿があった。見ぃつけた、とリッカが云う。現金(ゲンナマ)にものをいわせて護衛を雇った惣領の甚六。オープン・コントラクトの標的リストに名前が載った〝二宮カナ殺し〟の一人目。ところがニノカナ嬢のご学友は、たがの外れた危険人物か、トリガーハッピーに酔う狂人の車に乗りこんだ自分の運命を哀れむような顔つきになっている。そろそろ説明(エクスキューズ)が要りそうだった。
「こっちが撃っていたのは、親切な銃弾(カインド・バレット)。殺傷能力のないゴム弾だ。重量(ヘビー)級ボクサーのストレートぐらいの威力はある。あちらさんは実弾だったけどな。俺たちほど心優しい人命尊重派の〝賞金稼ぎ〟は他にいないぜ」
「あんたも今のまま盗みをつづけて、手配状の出まわる賞金首になってみたら? そしたら次はあんたが、あたいの銃弾の餌食だよ」
 万引きの常習犯となっていたお嬢さまに、ついでにお灸を据えておく。自分たちがまとった秘密の幕(ベール)の奥から少しだけ身をさらして。潜伏先を突き止められたお礼がわりだ。ツゲは緩衝の茂みを越えて県道に出ようとしている。アクセルを目いっぱいに踏みこんで獲物を追う。泥や砂塵を散らして湿原から走り出したその瞬間だった。
 眼球をつぶすような強い光線が、夜の陰影のすべてをかき消した。常軌を逸した衝撃がランドクルーザーを揺さぶった。クラクションはなかった。頑丈な四駆車がぐしゃっとプティングのようにつぶされた。洒落にならないエネルギーが車内を貫いて、時間をゆがめ、重力を狂わせた。車内にあったレシートや硬貨が、魔法瓶の蓋が、リッカの舐めかけのチュッパチャプスが舞い散って、たわんで引き延ばされた瞬間が、次のひと瞬きのうちに破裂した。ジョーたちはそろってエアバッグに接吻(キス)された。
 細かい破片がわんさか眉尻に刺さっていた。
 割れた窓から見える位置に、真っ黒な装甲車のようなダンプカーが停まっていた。
 ランドクルーザーは弾き飛ばされ、路肩のブナ林に突っこむかたちで大破していた。
「ウリュウが来たのか、面倒なことになったな」
 ジョーはもがきながらエアバッグを這いだした。後部座席では頭を強打したリッカが「あふぁ、あごが閉じない」とうめいている。X嬢は意識を失っていた。これは偶然の輪禍じゃない。リッカは頭を低くしながら左側の扉を蹴り開けて、ランドクルーザーの左後部に回りこんだ。ジョーがX嬢を背負って、一、二、三で飛びだす。機先を制して親切な銃弾(カインド・バレット)の煙幕を張った。たちまちダンプカーからも咆哮が連なる。夜の静寂が裂かれ、周辺の木々もろともランドクルーザーが蜂の巣になる。愛車とともに現実を瓦解させる音と振動をかえりみず、ツゲが逃げた方角へと全速で走った。
「あの章魚(たこ)! あたいの獲物を横取りはさせないよ」
 牝のライオンのように、リッカが吼えた。

「ウリュウなんて犬に食われろ、歩道橋からさかさまに落ちて、数十年は風呂に入ってないホームレスに強姦(おか)されて、そのあとで犬に食われろ」
 丘をひとつ越えたところに植物園があって、そこの管理室にX嬢を託してきた。ツゲの別荘は古びた洋風の屋敷だった。かつては瀟洒な建物だったのかもしれないが、現在(いま)では売れ残ったクリスマスケーキのように見る影もない。裸婦のブロンズ像がまだらな鳥の糞に盲(めし)いて、お化け屋敷としての不動産価値を高めることに一役買っていた。
 ツゲが逃げこんだ屋内には、闇が垂れこめていた。吹き抜けの正面階段と廊下の両端にある二つの階段で上階につづいている。ジョーは燭台の蠟燭に火を点けて、「他の連中もまとめて潜んでたら楽なのにな」とつぶやきながら階段を上がった。
「あんなやつら、脳細胞が三個ずつのバカよ。割れたくす玉の残りかすみたいな青春の未練にすがって、母豚の乳首を奪いあう仔豚のほうがまだかわいげがある。どこかで乱交パーティーでもやってないかとうろつきまわる正真正銘の無価値人間。生け捕りの信条を破りたくなるのはこんなときね」
「あいつらのなかの誰かが〝Q〟だって、お前も聞いただろ」
「そんなの信じられない、流言(デマ)じゃないの。ていうかじろじろ見るなよ、ジョー。今度また見たら目をつぶす。たこ焼きのピックでくるんって眼球をひっくり返す。黒目を裏返しにしてやるからな」
 狩りの愉悦を衝突でおじゃんにされて、リッカのがらっぱちな口の悪さがリミッターを外していた。相棒にも標的にも見境がない。衝突と脱出のどさくさでシャツが裂けていたが、破れ目に覗くブラジャーを盗み見ていると難癖をつけてくる。
 別荘に逃げこんだツゲの泥の足跡が残っていた。風が家鳴りを呼んで、調律の狂った弦楽器のようなひずんだ音が聞こえている。雲をよけた月が青みのかかった月光で屋敷の闇を薄らげた。窓枠が十字の影を落として、礼拝所のような静けさが深まる。他の部屋を確認しながら足跡をたどって最上階の部屋にたどりついたが、扉を開けてもツゲの姿は見当たらなかった。隅々まで探した。ウォークインクローゼットにもカーテンの裏にも屋根裏収納(グルニエ)にも隠れていない。ジョーとリッカは啞然とするしかなかった。駆けこんだ屋敷のなかから一人の男が忽然と消えていた。
 賞金稼ぎの世界で語られる逸話を思い起こさずにいられない。
 誰にもその尻尾をつかませない賞金首、〝Q〟の像が重なってくる――
 階下が騒がしかった。
 手すりから身を乗りだすと、五、六人の人影を見てとれた。黒い谷間から這いあがってくる亡者の群れに見えた。親切さのかけらもないシチリアマフィアなみの機関銃だって持ちだすウリュウの一味は、現場で商売敵に引導を渡すことも辞さない。非常階段のほうにも数人が回っていた。吊り下げ式の梯子を上がってグルニエに隠れた。梯子を上げ下げするリモコンはジョーの掌(て)の中だ。ここならやりすごせるはずが、埃でも降ったか、グルニエの床に一センチの穴が穿たれた。
 細い柱となって光条が立ち上がった。惜しげもなく銃弾を見舞って、そのまま刳り貫いて天井の高い部屋にリフォームするつもりだ。
「あいつらは容赦しない、ここにいたら蜂の巣だ」
 応戦したがすぐに弾切れになった。屋根裏の窓を開けると夜の風が吹きこんでくる。リッカはためらっている。迷いもなしに飛び降りられる高さじゃない。ジョーはリッカを見つめた。琥珀色の光のつらなり。濃密な埃のもやが千の模様をおりなして彼女の周囲で踊っている。だいたいいつもそうだ、見るなと云われても見ずにいられない。リッカの鎖骨は空を軽やかに舞うカモメの二枚の翼のようだった。ジョーはその細い腰と膕(ひかがみ)に手をまわして、相棒を抱きあげた。
「ちょっと待って、心の、心の準備が」
 ジョーは待たない。跳んだ。リッカが吞んだ息の音も、その髪の薫りも、しがみついてくる感触も、さかさまの滝のように流れる風景も、飛び降りの記念にショーケースに保管したいほどに生々しく摑みとれた。
 星が転がり遠ざかる。着地した急な傾斜を重なり離れて、また重なりあいながら、二人でどこまでも転がっていく。

 おれは賞金稼ぎの物語を、最後まで書きあげる。
 退院の朝に脱稿した二〇〇枚超の長編に『インヴィジブルQ』と題名をつけた。
 病室をあとにして会計をすませたロビーで、エントリー用の文面の下書きをしているときにも送れるかどうかは半信半疑だった。――なに書いてんの、と声が聞こえた気がした。それは幻聴だ、過去の残響だ。退院の日の約束をあいつは忘れている。主人公の片割れのモデルになった女は現われなかったが、それでも声がしたんだよ。
 オゲちゃん、なに書いてんの?
 ああ、これは小説だよ。
 え、マジで。
 マジで。これは草稿っていってな。
 凄いね、そんな人初めて見た。小説なんて書けるんだ。
 あたりまえだ。おれは小説家だからな。
 あのころおれはまだへこたれていて、朝焼けの色に貫かれた街路を歩きながらレポート用紙にペンを走らせていた。店の片付けを終えたユリが後ろから覗きこんできて、朝まだきの気怠さと街路の寒さで頬を上気させながら興味本位でいろいろ訊いてきた。
 他になんの音もしない、車の喧騒も、犬の鳴き声も、朝刊を運ぶカブの音も聞こえない。それってどんな話? おおー凄え、ぎゃははバカだね、とおれの言葉に大げさに反応するユリだけがいて、他の全員が眠りながらそのまま死んでしまったような、自分たちだけが取り残されてしまったような静かすぎる朝だった。おれはそのときなぜか、この朝のこの一日から、これまでとは違う風景が見られるような予感をおぼえていた。それで夢中になって、自分の小説のことをしゃべって、ユリはそれをなにがおかしいのか笑いながら聞いていた。

 御毛文雄の名前で出すと決めた。いろいろあったが小説は小説だ。『インヴィジブルQ』はヴンダーカマー文学賞に応募する。作家や編集者に読まれるところを想像しても、頭をかきむしって逃げだしたくはならなかった。
 今度ばかりはしくじりたくない。自宅のPCで『インヴィジブルQ』をテキストに打ち直し、ひとくさりエントリーの準備も終えて、あとは送信のカーソルの上でエンターキーを押すだけだった。
 その瞬間はさすがに「押せないかな」と思ったが、深呼吸をして、結局は押す。キーボードの上で指がびりびりするような感触があった。心臓の音や呼吸や時間が境界をなくして混じりあった。おれの唇(くち)からは「ふおっ」と声が漏れた。おれは笑おうとした。これまでのすべてが長い長い処女作の一部だったようにも感じられた。
 送っちゃった。もう後には退けない。うわずる鼓動を落ち着かせてからユリにメールをした。
――退院したぞ。小説も一本書きあげた。快気祝いとそれから腰のリハビリもしなきゃならないんだが、風呂は好きか?
 たぶんユリは誘いに乗らない。結果が出るまでは手もふれさせないし、退院したと知るなり発注書(リスト)を渡してくるだろう。そしておれはまた書いてしまうだろう。うっかり原稿用紙と向き合えば、別の小説を思いついてしまうかもしれない。
 だって知っているから。新しい小説に向かうことだけが、おれたちにとって恵みであり希望だということを。この手を伸ばしてつかめるのはいつでも始まりだけで、だからこそおれたちは書きつづけていける。

【二人目につづく】

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真藤順丈(しんどう・じゅんじょう)
1977年東京都生まれ。2008年『地図男』でダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞しデビュー。同年『庵堂三兄弟の聖職』で日本ホラー小説大賞、『東京ヴァンパイア・ファイナンス』で電撃小説大賞銀賞、『RANK』でポプラ社小説大賞特別賞をそれぞれ受賞。2018年刊行の『宝島』で山田風太郎賞と直木賞を受賞。他の著書に『バイブルDX』『畦と銃』『墓頭』『七日じゃ映画は撮れません』などがある。

※この記事は、2019年9月27日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。
                   


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