第2話 独立愚連隊の来歴 宇野常寛「チーム・オルタナティブの冒険」
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第2話 独立愚連隊の来歴 宇野常寛「チーム・オルタナティブの冒険」

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その夏、「僕」はある地方都市に暮らす高校生だった。
愛すべき仲間たちとの変わり映えのない、退屈な、しかし心地よい閉じた楽園が、ある事件をきっかけにゆるやかに崩れていく。
「これは想像力の必要な仕事だ」──それは、世界を変える魔法の呪文。冒険のはじまりを告げる、狼煙のような言葉。
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  由紀子のことを書く前に、もう少し僕「たち」について説明しておく必要があると思う。僕たちのグループは中学生の頃に学習塾で出会った仲間で、少なくとも僕は学校の同級生よりも圧倒的に彼らと仲が良かった。やがてメンバーの全員が当たり前のようにこの高校に進学した。そして、高校に進学するとそれまで以上に、四六時中つるむようになった。

 僕たちは全員が高校のある県庁所在地の隣にあるベッドタウンに暮らしていて、その小さな街にある学習塾で3年間一緒に過ごした仲間だった。そして、僕たちが通っていた塾の特進コースは、事実上この県内でほぼ唯一の進学校に合格することのみを目的としていた。そして地方の塾にありがちなことだと思うのだけれど、このコースの選抜試験に通る生徒たちは、その時点でその高校に落第することはまずあり得なかった。要するに、その高校に合格するよりもその塾の特進コースに選抜されることのほうが難しかったのだ。ならばどうしてその特進コースが存在しているのかというと、名目的にそのコースは東京の名門私立の受験にも対応しているということになっていたからだ。しかし、この田舎街からそのような進学を試みる生徒を、僕は聞いたことがなかった。要するに、それは地方の教育熱心な家庭から、いろいろな口実をつけて高い授業料を巻き上げるためのコースだった。僕の両親もそういったセコい商売に引っかかったわけなのだけれど、それが僕にとっては幸運だった。僕はこの塾の特進コースに通うことで、生まれてはじめて「仲間」だと感じることのできる人たちに出会うことができたからだ。

 僕たちは揃いも揃って、自分の学校に居心地の悪さを感じている生徒だった。少し前にも説明したけれど、この田舎街には私立の小中学校がほとんどなくて、たいていの成績の良い生徒は市立や町立の小中学校を出て、その県の県庁所在地にある僕らの通う県立の進学校に進学する。そしてこの田舎でこうしたお決まりのコースに乗るのは勉強ができるだけではなくて、スポーツや図画も器用にこなし、そしてそれ以上に学級という箱の中でうまく立ち回って多数派の中心に自分を持っていくことのできる明るくハキハキした生徒たちが多かった。

 このタイプの生徒が、かつては同じようなタイプだった先生たちに可愛がられて、良い内申点を獲得して、そして進学校に進学する。そして大体が地元の国公立大学に進学して、県庁や市役所の役人か、地元の金融機関勤めか、あるいは学校の先生になって帰ってくる。この街ではそんなサイクルがもう、半世紀も続いているのだ。
 しかしこの街にも、少数だけれども「そうではない」生徒たちもいる。このタイプの生徒はテストの成績は良くても、いわゆる教師に好かれるタイプの優等生ではなかった。学校の行事や部活動にも熱心ではなく、教師から見れば陰気でひねくれている可愛げのない生徒だ。
 そして僕はまさにそうした陰気で、ひねくれた生徒の一人だった。さらに本当に偶然だけれども僕が中学1年生のときこの塾の特進コースで出会った仲間たちもまたことごとく、こうした教師から、自分が可愛がっている生徒会長や学級委員たちより成績が良いせいで疎まれるタイプの生徒だった。
 あの頃、僕は自分の中学校に居場所がなかった。そうでなくとも、学校という場所に馴染めないまま中学生になってしまったようなところがある上に、もともとこの土地に住んでいたわけでもない(つまり「転校生」だった)僕は、当時学校にほとんど居場所がなかった。僕のような転校生で、比較的話の合う男子生徒といつもつるんでいて、その周辺も含めて3人から4人のグループを作ってかろうじてやり過ごしていたというのが実態だ。たぶん、他の生徒たちからは、よそ者同士が溶け込まずにつるんでいるように見えていただろうし、実際にそうだった。

 だから、僕はこの学習塾で自分と同じレベルで会話ができて、かつ僕が嫌いなタイプの優等生ではない──生徒会長でも、学級委員長でも、陸上部の部長でもない──仲間たちと出会えたとき、単純に自分はこっちの世界で生きていけばいいのだとすごく嬉しかった。もちろん、最初から仲良くなったわけではなくて、忘れた教材を貸し借りしたり、土曜日の2コマ連続の授業の合間の中休みに一緒に弁当を広げたりしているうちに、勉強には関係ない本を貸し借りするようになり、いつの間にか授業後もまっすぐ家に帰らずに話し込むようになっていた。もちろん、たいした話はしていない。背伸びして読んだ本の感想を一生懸命話したこともあったけれど、その十倍も二十倍も、同じくらい背伸びして口にする下ネタの冗談や、塾の先生たちの悪口とか、塾の近くにできたラーメン屋のトッピングでは何が好きだとか、そんな話を飽きもせずに延々と繰り返していた。そう、付け加えるのを忘れていたけれど、僕たちの特進クラスは──これも本当に珍しいことらしいのだが、その年はなぜか──全員、男子だった。

 この仲間たち──つまり当時の特進コースの仲間たちで、いまの写真部のメンバー──は、父の仕事の関係で小中学生時代に転校を繰り返していた僕が、はじめて手に入れた本当の仲間たちだった。結局その特進コースからは、6人全員が今の高校に進学した。僕たちは受験前から、進学したら同じ部活に入ってそこを自分たちのグループの活動拠点にしようと話していた。そして、春に入学すると旧校舎の部室長屋を順番に見学に訪ねた。僕たちの部活選びの条件は、まず自分たちの好きにできる部室があること、そしてなるべく活動が少なくて、忙しくないこと。そして鬱陶しい先輩がいないこと、だった。この3つの条件に見合うのが、ほとんど部員がいなくなって開店休業状態だった写真部だった。そして僕たちはこの、つぶれかけた写真部に集団入部して事実上「乗っ取って」いた。

 当時写真部には2年生と3年生が、登録上は10名近く在籍していた。しかし3年生はどの部活でも慣例的には半ば引退しているようなものであり、その上そもそもこの写真部には活動らしい活動は存在していなかった。旧校舎の2階にある部室では、おそらくは友達がいないと思われる2年生の先輩が毎日一人で昼休みに弁当を食べていた。顧問は一応、葉山先生の先輩に当たる女性の国語教師が務めていたのだが、あくまでも形式的なものらしく、年に一度の予算申請のときに書類にサインをする以外の関与はしていなかった。グループで入部した6人の1年生が、部室の私的利用を目的にしていたことは誰の目にも明らかだったが、その友達のいない先輩は面倒臭そうにしながらもどこか、嬉しそうだった。たぶん、昼休みに話し相手ができると思ったのだろう。僕たちは、その後主に放課後のたまり場としてこの部室を使いはじめた。部室には、古いテレビと備品のラップトップ、そしてなぜか冷蔵庫があった。それは、僕たちのような男子高校生のたまり場にはうってつけの場所だった。僕たちはほぼ毎日、昼休みと放課後はこの部室に集まっていた。だいたい雑談をしながら、漫画を読んだりゲームをしたりしていた。あるいは、部室のテレビをラップトップに繋いで古い映画とかアニメとか、あるいはもうちょっと直接的に思春期の男子の欲望に訴えるタイプのビデオを観たりしていた。昼休みに一人で弁当を食べていたあの友達のいない先輩は、僕たちの所業を「ほどほどにしておけよ」と注意することはあったが、すぐに何も言わなくなった。3年生になって受験が近づくと、事実上引退して部室にもあまり顔を出さなくなったけれど僕たちはこの先輩が割と好きだった。

 この頃の僕たちがつるんでいるときの会話の内容は、主に他のグループの生徒や教師たちを茶化すことだった。学校社会の外の世界を知らないくせに、生徒にウットリと人生や社会を語りたがる「イタい」教師たち、そしてそういった教師たちの話を半分は世間への賢い適応として、そして残り半分はしっかり真に受けて目をうるませて聞いてみせる優等生たち、自分は東京の大学に出てジャーナリストになると聞かれてもいないのにべらべらと喋り、昨晩観たNHKスペシャルの内容を自慢気に周囲に話す学級委員長、しっかり進学校を受験しておきながら意外とワルだというアピール(せいぜい放課後にたばこを吸い、部活動の打ち上げで缶チューハイを開けるくらいなのだが)をせずにはいられない自意識過剰な不良気取り──そういった周囲の人間をいかに知的に、そしてユーモラスに酷評できるかというゲームに僕たちは興じていた。単に悪口を言うだけではだめで、それが論理的に洗練されていることと、笑える表現であること。このふたつが僕たちの暗黙のルールだった。

 遅くなった日の夜は──小遣いと相談しながらだけど──よく買い食いをして帰った。これも説明が必要なのだと思うのだけれど、僕たちの学校は県で一番の進学校で、知事も1区当選の衆議院議員も、地元の銀行の頭取も、みんなこの学校の出身者のはずであるにもかかわらず、どういうわけか、結構な町外れにあった。さかのぼると戦時中に行われた県内の学校の統廃合が関係しているらしいのだが、ここで大事なのはそんなことではなく、そのせいでこの学校の食料事情が極端に悪いことだった。

 まず僕たちの高校から最寄りのコンビニエンスストアまでは約3.5キロメートル離れていた。昼休みに自転車で往復できないこともなかったのだが、その場合は買ってきたものを味わって食べる時間的な余裕はなかった。しかもそれは正確にはコンビニエンスストアではなかった。セブン-イレブンでもローソンでもファミリーマートでもない、家族経営の酒屋が商売替えしたと思しき、正確に表現すればコンビニエンスストアっぽい食料品店だった。だからおにぎりの具は梅と塩鮭しかなくツナマヨネーズとか、炙りチャーシューとか、季節限定の鶏ときのこの炊き込みご飯とか、そういった大手のコンビニエンスストアで売っているような気の利いたものは一切なかった。あとはやたらと練り物が多い幕の内弁当と、主菜の焼鮭が冷えてプラスチックのように固くなっている塩鮭弁当、そしてスーパーでよく投げ売りされている昭和風のパッケージの菓子パン数種が、その店で僕たちが調達できる食料のすべてだった。もちろん、カップラーメンの類もいくつか置いていなくはなかったが、昼休みに給湯室の給湯器を使うためには平均15分並ぶことが必要で、これらを買って帰ってお湯を入れて食べることも現実的ではなかった。

 そこそこ大きな学校なら、学食の一つくらいあるのでは?
 多くの人がそう思うだろう。たしかに学食はあった。しかしこれこそが問題だった。結論から述べると、この学食はマズかった。たとえばこの学食では時折「ゴム肉」と呼ばれていた、一応豚肉であると主張されていた謎の肉片が出てくることがあった。これはこの学食で出てくるすべての料理に当てはまることなのだけど、基本的に冷え切っていて、パサパサと乾いていた。噛むと固くてなかなか噛み切れず、その通称の通り輪ゴムのような臭いがした。そしてほとんど、味がしなかった。肉自体に味がないのをごまかすように、無造作かつ大量にケチャップとパイナップルのソースがベチャッとかかった「ポークソテーハワイアン」がそのゴム肉を使った定番メニューだった。このメニューのときは、ゴム肉とケチャップの臭気が入り混じり、食堂に近づくだけで軽い吐き気がした。
 ほかにも、骨ばかりでほとんど身がない正体不明の魚フライ(謎のフレンチソースがかかっていて、それがまた一口食べただけで失神しそうなくらいまずい)とか、公衆トイレの臭いのするこれまた正体不明の貝のたくさん入った海鮮トマトスパゲッティとか、本当に摂取不可能なメニューがいくつかあり、そんなとき僕らは自転車通学の市内生から愛車を借りて、3.5キロメートル先のあの自称コンビニエンスストアまで全力で往復し、汗だくになりながら、おにぎりや練り物ばかりの幕の内弁当や、菓子パンを買ってきて飢えをしのいだ。

 もっとも、市内から通って来る大半の生徒にとってそれはあまり意識されたことのない問題だった。そもそもこれは両親が十分な弁当を持たせてくれていたり、料理が好きでかつ早起きが苦ではなく、自分で弁当を用意できたりする生徒には無縁の問題だった。そして弁当を用意できない生徒でも、市内から通う大半の生徒は行きがけにいくらでも、コンビニエンスストアで、弁当屋で、牛丼屋で、ハンバーガーショップで、昼食を調達することができたので、やはり無縁の問題だった。しかし、僕らは違った。僕たちの住む街から隣の市にあるこの高校に通うためには、ある路線のバスに1時間ほど乗ること以外の選択肢がほぼなかった。そして、僕たちの暮らすこの街は、一人一台自動車を所有していることが前提に設計されていて、そのために最寄のコンビニエンスストアやファストフードのチェーン店が、自宅から2キロメートルから3キロメートルほど離れているケースも珍しくなかった(僕もそうだった)。もちろん、しっかり早く家を出れば寄れないことはなかったけれど、当時の僕たちにとって朝の10分はそれ以降の1時間より貴重だった。

 そのため、僕たちの街からこの高校に通う生徒たちは朝に昼食を用意できないことが多かった。特に僕は──これも、あとで事情を説明するが──このとき両親と同居していなかったので、余計に昼食を用意しそびれることが多かった。すると、必然的に「あの」学食のお世話になることになる。日替わりの定食を食べるのは自殺行為なので、基本的に280円の素うどんか、350円のカレーライスを食べていた。どちらも、味らしい味のしないものだったけれど、不愉快な思いをしない分だけ、他のメニューよりマシだった。そして、どちらも学食で、どうしても定食を食べたくない人のためにとりあえず用意されているメニューで、味もそうだけれど、量的にも、物足りなかった。あの頃、僕はいつもとてもお腹をすかせていた。

 その結果として、僕たちは放課後によく、買い食いをして過ごした。まずは海沿いの国道まで20分歩いたところにあるラーメン屋の味噌ラーメン。僕はここの味噌ラーメンを冬場に、たっぷりスープを残して麺を啜り上げたあとに、サービスで一杯100円の「追い白飯」を丼に放り込んで「おじや」にして食べるのが好きだった。
 あとは、このラーメン屋とは反対方向にある地元資本のハンバーガーショップにもよく足を伸ばした。名物はチーズバーガーで、一見、普通のチーズバーガーだけれど、ハンバーグの肉がとてもしっかりして食べごたえがあるのと、あとなんといっても甘酸っぱくてコクのあるチーズソースがたまらなかった。そのチーズバーガーと細切りで柔らかく揚がったフライドポテトを交互に口に含み、甘さを抑えたホームメイドのレモネードで流し込むのが、僕はとても好きだった。
 しかし当時の僕たちが、いちばんよく食べたのは市内にいくつかあるコンビニエンスストアと地元の酒屋の中間のような商店で売っていたヤキトリ弁当だった。甘辛いタレのたっぷりかかったヤキトリ……ではなく正確には豚バラ肉のやきとん3本が、海苔の敷き詰められたごはんの上に載っている。ただそれだけの弁当なのだけど、とにかく甘辛いタレとタレのしみた海苔が病みつきになるのと、380円という破格の安さによってこの街の男子高校生の間で絶大な人気を誇っていた。僕たちも、月に2回か3回はこの弁当を買って、学校の近くのイートインコーナーで話し込んで帰っていた。アルバイトらしい店員の、メガネを掛けた痩せぎすのお兄さんは長居する僕たちを快く思ってはいなかったと思うけれど、邪険にもしなかった──というか、彼は業務そのものにあまり熱心ではなかった。

 僕たちはこうして、教室と部室と、ラーメン屋とハンバーガーショップと、ヤキトリ弁当を持ち込んだイートインコーナーとをぐるぐる往復しながら高校最初の1年間を過ごした。受験勉強に1年生から張り切るわけでもなければ、部活動に力を入れるわけでもない、少なくとも教師たちからはあまりよく思われていないグループだったけれど、僕は楽しかったし周囲からもそれなりに楽しそうに見えてもいたとは思う。
 そしてそれ以上に、僕たちのグループはある理由から他の生徒から一目置かれている存在だった。それは、僕たちのグループに藤川康介がいたからだ。

 僕と藤川の関係は中学1年生のときにさかのぼる。僕たちがある学習塾の特進コースで出会った仲間たちであることは既に述べた通りだ。そしてこの塾の特進コースに、僕は正確にはこの街に引っ越して来てから数ヶ月が経った中学1年生の夏休みから通っていた。たまたま家に送られてきたダイレクトメールにあっさり乗せられた僕の両親は、その地域では一番有名なその塾の夏期講習に僕を通わせた。そしてその夏期講習の終わりにあった模擬試験で、僕は市内で2位だった。この街に引っ越して、この街の中学に通うようになってからずっと学年で1位しか経験したことのなかった僕は、そのときはじめて2位になった。そして僕はまったく悔しくなかった。それどころか、むしろ嬉しかった。なぜならば、僕を負かしたその生徒は僕が夏期講習でいちばん意気投合した、隣の中学校の生徒だったからだ。僕らはたまたま席が隣り合ったことがきっかけでよく話すようになり、どちらもSF小説や歴史小説が好きだということが分かると数日後には本の貸し借りをするようになっていた。彼──藤川康介──は僕が生まれてはじめて対等にものを話すことができると思えた人間で、そして親友になれるかもしれないと思えた人間だった。そして実際にその後そうなった。僕はその後、中学を卒業するまでの2年半の間、一度も彼に勝つことができなかった。僕が試験勉強をサボって4位とか6位とか、もっとひどい二桁の順位を取ることがあっても、藤川はずっと市内で1位だった。そして、僕はそのことが自分のことのように誇らしかった。僕と藤川は、塾のある日はかならず特に示し合わせることなく1時間ほど前に教室に入った。そして、話し込んだ。読んだ本のこと、観た映画のこと、いまプレイしているゲームのこと、塾の講師の悪口、話題は尽きなかった。受験のことも、もっと先の将来のことも、まったく話さなかったけれど、少なくとも僕はそれでいいと思っていた。
 藤川にはちょっとしたカリスマ性があった。受験勉強に血道をあげるタイプではまったくなく、むしろ僕たちと四六時中遊び回っているはずなのだけれど、彼は市内トップの成績を維持し続けていた。
 中肉中背で、運動神経も人並みだったけれど他のことはなんでもできた。絵を描かせれば県のコンクールで入選し、歌もうまくて大会の度に合唱部に助っ人で参戦していた。中学の教師や優等生のグループは彼に生徒会の役員を打診して、塾で知り合ったロクでもない他校の友人(僕たちのことだ)とつるむのを止めるように暗に勧めたらしいが、藤川は意に介さなかった。
 10代の男子には珍しく料理もうまくて、キャンプや釣りにでかけたときは父親からアウトドアのグッズを借りてきてその腕を存分に奮っていた。裁縫も器用にこなすことができて、僕は壊れたバックパックのファスナーを保健室からソーイングセットを借りてきた藤川に器用に縫い付けてもらったこともあった。人間としてのキャパシティのようなものが、僕と藤川では根本的に異なっていた。僕ができないことが、藤川にはなんでもできた。そして藤川はその能力を、僕たち仲間のために使うことを躊躇わなかった。

 そして藤川は、大人だった。僕から見ると少なくともそう見えた。何があってもひょうひょうとしているのが、藤川康介という男で、テストが近づいても周囲で人間関係の揉め事があっても、いつも顔色一つ変えずに自分が興味ある話しかしなかった。いつも一拍間をおいて、「うん……まあ、それはそれとしてだ」と自分のペースで話し始めるのが藤川だった。だから僕は藤川が誰かと揉めているのを見たことがなかった。周囲に合わせるのが苦手で、すぐに険悪になる僕とは好対照だった。藤川もまた、他人に合わせるのは苦手だったけれど、彼はうまくすり抜けて、自分のペースで物事を進める達人だった。藤川のそんな部分にも、僕は惹かれていた。たとえば、課外学習の準備とか、球技大会の練習とか、乗り気のしない学校行事があったとき、問答無用でサボってあとで揉めるのが僕のパターンだったけれど、藤川は最初だけ付き合ったあと、いつの間にかいなくなっていて、しっかりサボっているのだけど総合的には参加している印象になっていた。こうした不思議な器用さも、彼のカリスマ性の源だった。
 僕たちはこの藤川康介という少年の才能に惹かれて集まってきた仲間たちでもあった。もし、あの塾のクラスに藤川がいなければ、僕たちのグループはこれほど仲良くならなかっただろう。そしてこうして生まれた仲間たちに──正確には藤川に──あたらしいものを持ち込むのが、僕の役割だった。藤川が読む本も、観る映画も、プレイするゲームの8割は僕を経由したものだった。僕は仲間内でいちばん藤川と付き合いが長く、そして精神的な距離も近かった。僕は彼の相棒であることが、本当に誇らしかった。

 そして僕と藤川はこの頃よくボードゲームを作っていた。僕も藤川も、中学に上がると小学生の頃遊んでいたトレーディングカードゲームの延長で、海外のボードゲームに興味を持ち始めた。塾の仲間たちと、街に1軒だけある専門店に時折寄るようになった。何度か大人の常連客たちのプレイを見学して、僕たちはそのゲームに夢中になった。練り込まれたルール、プレイヤー同士の複雑な心理戦、一つ一つが飾っておきたくなるほど美しい盤上の兵士やモンスターを表現した駒のフィギュア……どれをとっても洗練されていた。ただ一つだけ問題があるとすれば、それらを仲間内でプレイするために一式を揃えるのは、中学生の小遣いでは到底無理だったことだ。そこで、僕と藤川は考えた。ならば、自分たちで作ればいいと。こうして、僕らは中学の3年間を通して、10本以上のボードゲームを制作した。それはほとんど、方眼紙を切り貼りした簡易的な駒とボードを使用したもので、見た目はいかにも手作りだったけれど、よくできたゲームは仲間たちの中で20回も、30回もプレイされることになった。ゲームの世界観やコンセプトを考えるのが僕で、ルールのバランスやカードのパラメーターを調整するのが藤川という役割分担がいつの間にか生まれていた。僕たちのグループは、同じ塾の同じ特進コースに通い、そして僕と藤川の作ったこれらのゲームをプレイする仲間だと定義することができた。

 高校1年生の秋の文化祭のとき、僕たち写真部は形式的な作品の展示会──そのほとんどが、昨年度以前に先輩たちが残した写真の使いまわしだった──を部室で行ってお茶を濁した(クラスの展示や模擬店への協力は、部活動の展示が忙しいと嘘をついて参加せず、要するにサボっていた)。僕たちは文化祭の準備期間の間は、堂々と夜中まで校舎に残ることができるという不文律を活用して、遅い時間まで部室で当時夢中になっていた自作のボードゲームをプレイしていた。そして腹が減ると、藤川は持ち込んだホットプレートを用いて、僕たちに焼きそばや、ホットケーキといった簡単なものを作ってくれた。しかし、それもただの焼きそばやホットケーキではなく、彼なりに創意工夫したオリジナルのレシピだった。このとき、藤川が僕たちに作ってくれたレモンをたっぷり搾った塩豚焼きそばはそれまでに食べたことのない味で、それは冗談抜きにこれまで僕が食べたどの焼きそばよりもおいしかった。その噂は、1年生の間に口コミで広がって、そのうち同じ旧校舎の部室長屋に居を構える漫画研究会や天文部の連中も食べに来るようになった。正確には、匂いにつられて写真部の部室の前で足を止めた彼らに、「食べていかないか」と藤川が声をかけた。彼らは、僕たちと同じ、学校の日陰者で、ほぼ男子だけで構成される地味な部のメンバーだった。ただ、昔からの仲間が開店休業状態だった写真部を乗っ取った僕たちとは異なり、明らかに友達を作りに部活動に参加したような、大人しい生徒が多く、僕たちは彼らを「青春ごっこに憧れている、寂しい生徒たち」だと少しバカにしているところがあった。しかし、話してみると意外と気のいい連中で、少なくとも教室の真ん中でふんぞり返っている生徒会や運動部の連中よりはずっと好感が持てた。そして、藤川は彼らに料理を振る舞うことを楽しんでいた。気がつけば、写真部の部室はちょっとした裏学食のようになっていた。文化祭の直前には、毎日20名近くの生徒が藤川の作る夕食を食べに来るようになっていた。材料費と称して、僕たちは一食500円を他の部の生徒から徴収した。焼きそばの原価は130円ちょっとだったので、これは高校生にとってはそれなりの小遣い稼ぎになった。この「商売」の部分を担ったのが僕だった。僕は翌日の客足を想定し、その分の材料を買いに歩いて片道20分のスーパーマーケットへの買い出しローテーションを組んで仲間たちと一緒に動いた。もちろん、文化祭当日に模擬店を正規のルートで──つまり生徒会に──申請して回転すれば、1日でこの何倍もの売り上げが上がるはずだったけれど、そういうお膳立てされた舞台には絶対に乗らないのが、僕たちの流儀だった。

 ちなみにこの裏学食は、その後少し問題になった。話を聞きつけた堅物の生徒が学級会で──彼は学級会の類で「発言」すること自体が目的になっているタイプの、それこそ寂しい奴だった──生徒会に写真部の行為は事実上の模擬店ではないかと告発したのだ。当時僕たちは1年生で、形式的には部活動の責任者は会ったこともない2年生の部長だったのだけれど、実行「犯」として藤川が生徒会に召喚された。そして、僕もそれに付き添った。藤川の一挙一動の傍らに僕がいて、それをサポートしていることを僕も、藤川も、周りの人間も誰も不思議に思わなかった。事前に僕たちが決めたことは、一つ。生徒会の連中のとりあえず大人に言われたからそうするのだといった、実のところ何も考えていないだけの生真面目さに絶対には屈しないということだった。だから自分たちが遊ぶための資金としてプールしてあった裏学食の利益を使うことで僕たちはあの想像力のない連中の鼻を明かすことにした。計画を思いついたのは僕で、実行を決断したのが藤川だった。みんなで稼いだ金を手放すことになる計画だったけれど、藤川が決めたことに、他の仲間たちが文句を言うことはなかった。僕の考えた計画は、裏学食の売り上げをユニセフのSDGs関係の基金に寄付してしまうことだった。そして、それを地元の新聞社に取材させることだった。藤川の叔父に地方紙の記者がいて、さらに藤川の両親は神童と名高いこの長男が表彰されたり、褒められたりすることに貪欲だった。藤川の父は、この地方都市の信用金庫の重役で地元の財界ではそれなりに顔が利く人物だった。そしてそのせいもあって、藤川の両親は子供からしてみるとあまり好ましくないかたちで息子への期待を表現する傾向があった。僕はこれまでの付き合いで、藤川の両親のこうした傾向をおおむね把握していた。そして藤川の両親が、僕を筆頭とするお世辞にも優等生的とは言えない仲間と付き合っていることを面白く思っていないことも知っていた。だからこそ、藤川の両親はこの美談に飛びつき、確実に叔父に記事にするように持ちかけると僕は考えた。そしてこの計画の意図を余すことなく僕は藤川に話した。藤川は僕の話を一通り聞くと「面白いな、やろう」と手を打って告げた。僕は親友の両親の虚栄心を利用することを提案し、藤川はそれを面白がって受け入れた。僕と藤川はこのレベルの話ができる関係だった。

 生徒会に僕たちが査問される数日前に、藤川がまるで優等生のような顔をして環境問題について話す小さな記事がその地方紙の文化面に掲載された。それは名刺を縦に二枚並べたような小さな記事で、そもそも地方紙のこの欄など誰が読んでいるのか分からないようなものだったが、効果は絶大だった。そこには藤川の談話として「日々の写真部の活動で、自然環境の美しさと儚さを感じた」「環境問題とは、結局は僕たち市民一人ひとりの取り組みが大切なのだと考えている」「だから、こうした活動には金額以上の意味がある。一人ひとりが考えるきっかけになればいい」という言葉が引用されていた。もちろん藤川は1ミリグラムもそんなことは考えていない。しかし、この程度のそれっぽい話をざっとでっちあげることなど、藤川にとっては朝飯前だった。僕の書いたこのシナリオを、アドリブ込みで完璧に、いや、それ以上に演じられるのは世界中で藤川康介ひとりだった。そして生徒会に呼び出されたときも、藤川は新聞記者に話したのと同じことを朗々と歌い上げた。僕らを吊るし上げるつもりだったはずの生徒会の役員たちのほとんどは、まるで自分たちが写真部のチャリティー活動を、規則を盾に意地悪して妨害しているかのような立ち位置になってしまった(実際に事情を知らない生徒からはそう言われていたらしい)ことに困惑していた。中には本当に藤川が環境保護の精神に目覚めて、その重要性を訴えていると思ったのか真面目に頷きながら聞いている生徒までいた。こいつらは単に想像力が足りないだけで、決して悪い奴らじゃないんだな、と僕はこのとき思った。
 気がつけばこれ以上この件で藤川を批難すると、藤川にSDGsの精神を軽視する利己主義者として逆に批判される流れになることは明白で、誰も何も言えない雰囲気になっていた。もちろん、手続き的に問題があるとか、そもそも校則違反だとか、そういう反論はいくらでも可能だったし、そもそも僕ら写真部に活動実態などなく、間違いなく撮影の中で環境保護に目覚めたなんてのは誰がどう見ても後付けなのだけど、そうした冷静な判断ができない状態に彼らを追い込むことで、この場を切り抜けるのが僕らの目的だった。結局、藤川の演説後に生徒会の役員は誰一人として、何も言えなかった。見かねた生徒会担当の教師(2年生のときに僕の担任になる、湯川という例の事なかれ主義の教師だ)も露骨に困っていたが、事を荒立てないことを優先したのか、「次からは学校に相談するように」と口頭の注意で終わりにした。完勝、だった。
 僕と藤川はペコリ、と心のこもっていないお辞儀をして生徒会室を去った。生徒会室を出て、早足で声の聞こえない所まで遠ざかると、僕たちは思い切り笑い転げた。

 ちなみに、当然裏学食の帳簿は偽装していた。帳簿上、僕たちの裏学食は実際の1/3くらいしか売り上げがなかったことにしてあった。その1/3を差し出すことで、僕たちは生徒会の連中の鼻を明かすことにしたのだ。残った売り上げは、みんなで焼き肉を食べて、あとは秋休みのキャンプ費用に充てた。生徒会の役員の中で、比較的僕たちと仲の良かった横島という同級生は、だいたい僕たちが何をしたか想像がついたらしく、その後半年間口を利いてくれなかった。この裏学食と、その後に生徒会を完封したエピソードはだんだんと学校中に広まり、中学時代から有名だった藤川は校内で伝説化した。そして、その親友として隣にいられることが、僕はとても誇らしかった。

 しかし、藤川のカリスマ的な求心力も、1年生の終わり頃には陰りが見え始めていた。要するに、成績が落ちてきたのだ。僕たちのグループは高校1年生にしてほぼ受験勉強を放棄した独立愚連隊のようなものだった。僕を筆頭に、仲間たちはみんな高校3年生になってから、あるいは浪人することで帳尻を合わせればいいと考えていたのだけど、それはほぼ無勉強で中学3年間市内トップの成績を保ち続けた藤川の仲間にはこうした行為が許されると思っていたからだった。今思うと、まったく根拠がない思い込みだったのだけれど、僕らは当時本当にそう思っていた。けれど、さすがの藤川も高校1年生の後半になると成績が落ちてきた。1年生の最初の中間テストと、夏休み前の実力テストではぶっちぎりの1位だった藤川だが、9月の期末テストでは8位になり、テストのたびに14位、26位、41位と成績を落とし、1年の終わりには50位前後をウロつくようになっていた。その取り巻きである僕たちの成績は、もっと悲惨だった。
 藤川はまったく意に介していなかったけれど、周囲の目は違った。それまで周囲がマイペースな藤川を許容していたのは、ほぼ無勉強であるにもかかわらずトップクラスの成績を取り続けているという結果に、教師も生徒も心のどこかで敬服していたからだった。そして藤川は一言でいうと、以前ほどちやほやされることもなければ、敬して遠ざけられることもなくなった。2年生になると、以前ほどマイペースな行動が許されなくなったのか、面倒な生活委員を押し付けられたりもするようになった。藤川は相変わらずひょうひょうと涼しい顔をしていたが、僕は面白くなかった。藤川という男の価値が、偏差値でしか測られていなかったことに、僕は憤りのようなものすら覚えていた。
 そして、僕はというと「神童」藤川を堕落させた張本人として、教師や校内の優等生たちの一部から今まで以上に白い目で見られるようになっていた。僕はそのことが辛かった。でも、ここで僕が堂々としていることが、そんなつまらない奴らのことなんか無視して、一緒に思いっきり人生を楽しんで見せることが彼の友情に応えることなのだと僕は考えていた。

 だが、僕と藤川の関係も、この1年生の終わり頃から少しずつ変わっていった。原因は二つあって、一つは例の自作のゲームだった。僕は高校に上がっても自作のゲーム作成に没頭していたけれど、他の仲間たちは違った。彼らは高校に入り受験勉強から一時的に解放されると、自作のゲームよりも市販のゲームを、それもボードゲームではなくコンピューターゲームを好むようになっていった。そしてもっと言えば、せっかく手に入れた写真部の部室にたまるよりも、学校の近くに一人暮らしの部屋を借りた仲間の部屋に入り浸って、酒盛りをすることのほうに夢中になり始めた。僕はそれが、あまり面白くなかった。親や教師に隠れて酒を飲むのが良くないと考えているわけではなかったけれど、仲間たちがこういう分かりやすい遊び方とカッコつけ方をしてしまうのがどうにも安直に思えて、嫌だった。そしてもっと嫌だったのが、藤川がそんな仲間たちに明らかに同調していたことだった。僕はたまり場になっている下宿に顔を出しても、ほとんど酒は飲まずに会話にだけ参加していた。そして酔っ払った仲間たちの相手がしんどくなると、部屋の隅で本を読むか、先に帰ることが多くなった。
 僕が葉山先生から図書委員に誘われたのは、ちょうどこの頃で、それが僕と藤川の間に生まれたほんの少しの、しかし決定的な距離のもう一つの原因だった。仲間たちは仲間たちで僕がカッコつけているとか、若い女教師に鼻の下を伸ばしているとか半分は冗談、半分は本気で思っていて、それに近いことを口にされたこともあった。藤川自身がそのようなことを口にすることは決してなかった。しかし、僕が仲間たちから浮きはじめたことも、藤川がそんな僕にではなく、他のメンバーに何方かと言えば同調していることも明らかだった。そして高校2年生の夏が近づいた頃、葉山先生は亡くなり、そして僕たち写真部の部室に由紀子が現れたのだ。正確には、あたらしく写真部の顧問になった教師が由紀子を連れてきた。樺山優児──通称カバパン。葉山先生が生きていた頃時々話題にしていた、あのもう一人の国語教師だった。

(つづく)

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連載【チーム・オルタナティブの冒険】
毎月1回水曜日更新

宇野常寛(うの・つねひろ)
評論家。1978年生。批評誌〈PLANETS〉編集長。 著書に『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)、『日本文化の論点』(筑摩書房)、『母性のディストピア』(集英社)、『若い読者のためのサブカルチャー論講義録』(朝日新聞出版)。 石破茂との対談『こんな日本をつくりたい』(太田出版)、『静かなる革命へのブループリント この国の未来をつくる7つの対話』(河出書房新社)、『遅いインターネット』(幻冬舎)など多数。 企画・編集参加に「思想地図 vol.4」(NHK出版)、「朝日ジャーナル 日本破壊計画」(朝日新聞出版)など。 立教大学社会学部兼任講師も務める。
Twitter:@wakusei2nd

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