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告白します|千早茜 第20話

 二月の末、ネットニュースでトイレットペーパーの買い占めが起きているという記事を見た。ツイッターを見ると、ない、ない、とドラッグストアの空っぽの棚の写真があがっている。紙が不足するというのはデマであり、充分な在庫はあるので買い占めはやめようという情報も拡散されていた。

 京都はのんびりしているし大丈夫だろうと思っていたら、ドラッグストアやスーパーの前に「トイレットペーパーは売り切れました。次回の入荷は○日後です」なる紙が貼られるようになった。我が家は、殿こと夫が花粉症で、なおかつ冬場はインフルエンザ防止に努めるためマスクの備蓄はあった。しかし、トイレットペーパーはかさばるので、過剰なストックはしないようにしていた。このまま手に入らなかったらどうしようとちょっと尻が落ち着かなくなった。

 しかし、デマだというのになぜ棚が空っぽになるのか。ドラッグストアの店員さんも疲弊しているという記事を読み、買い占める輩が憎くなった。恥ずかしくないのか、そんなことをして。そもそも、なぜ物資が不足するとまずトイレットペーパーに思い至るのか。オイルショックから何十年も経っているのに。常備薬や食料よりも尻の不安が先立つ不思議。尻など最悪、洗えばいいじゃないか。紙で拭うより、排泄のたびに洗うほうが衛生的には良さそうだ。ちょっと尻がカサカサになりそうだけど。
 さては、みんな野で用を足したことがないのだな、と思った。私は幼少期にアフリカに住んでいたとき、サファリで何度となく野の世話になっている。大自然で尻をだす心許なさに比べれば、自宅で尻を洗うくらいなんでもない。またいつか野の世話になるかもしれないと思って、野糞を実践されている伊沢正名さんの『くう・ねる・のぐそ』という本を大切に保管している。そこにはちゃんと尻を拭くのに適した葉が季節別に載っている。棘や毒がある植物で尻を拭いてしまったら、それこそ尻の一大事だ。

 そんな風にもやもやしたにも拘わらず、一ヶ月後の三月末、なんと私は買い占めに走ってしまった。トイレットペーパーではなかったが、文句を言ったくせに恥ずべきことである。東京都で週末の外出自粛要請がでて、銀座の愛する老舗デパートが閉まっている映像を見た瞬間、嗜好品の数々は不要不急に含まれることを悟った(ちなみにこの「不要不急」という言葉、知ってはいたが最近まで使ったことがなく、広辞苑で調べてしまった)。そのときはまだ緊急事態宣言はでていなかったが、もう時間の問題だと噂されていた。食料が供給されなくては人は死ぬ。だから、スーパーはライフラインとして残るだろう。けれど、不要不急の宝庫であるデパートはきっと休業してしまう。

 焦った私は半日かけて京都市内の好きな嗜好品の店を徒歩でまわった。家に居続けるのは苦ではない。そもそもひきこもって執筆するのが私の仕事だ。何度読み返したっていい本もたくさんある。けれど、生命維持に必要な食料だけでは私の魂は死ぬ。魂が死んでは執筆はできない。
 その日、私がまず買ったのは「Fortnum & Mason」のアールグレイクラシック、「MARIAGE FRÈRES」のマルコ ポーロという二大好物紅茶のストック。これらは切らさないようにしている。合わせて「PIERRE HERMÉ PARIS」のジャルダン ド ピエールという柑橘やジャスミンやローズが香る夢見心地になる紅茶。いつもはエルメにケーキを食べに行くときに飲んでいたが、しばらく行けなくなるなら家に欲しくなった。ショコラティエ「ASSEMBLAGES KAKIMOTO」のぎゅっと濃厚なオランジェットとカリカリ芳ばしいサブレ ショコラ オランジュ、「JEAN-PAUL HÉVIN」の子供の玩具みたいなイースター用ショコラ、老舗和菓子屋「鍵善良房」の舌の上ですっと儚く溶ける木箱入りの菊寿糖、おなじみ「虎屋」の小型羊羹を全種類、老舗洋菓子店「村上開新堂」のレトロで優しいロシアケーキ、「Pâtisserie.S」の果物と香辛料を合わせた瓶詰のスイーツの如きコンフィチュールなど、日持ちのするものばかり。持ち帰り、並べて、息をついた。最強に優雅な一軍を手にした気分だった。これで、戦える。買い占めというか、買い漁りだ。
 自分でも予想外だったのは、香水とアロマオイルと入浴剤も買ったことだった。ちょうど『透明な夜の香り』という香りをテーマにした新刊が発売される頃だったせいもあるだろうが、尻は最悪洗えばいいと思っていた自分が、なくてはならないものに「良い香り」を選択したことに少し驚いた。思えば、普段は中国茶をよく淹れるのに、まっさきに香りの好きな紅茶を買いにいった。

 日々の中で香りとか嗜好品とか小さな華やぐ時間がなくては、きっと私は耐えられない。知人や友人でも、花の定期便を申し込んだとか、欲しかった古伊万里の一輪挿しを手に入れたとか、画集や写真集を買ったという人がいた。電気、水道といったライフラインが断たれないなら、自分の心を維持するための美しいお守りを持っておきたい。誰かの分を奪ってまでとは思わないけれど。

 不要不急は、ほんとうは人によって違う。状況によってもきっと大きく違ってくる。今は多くの命が関わっているので、感染防止のために皆が守らなくてはいけないことがある。したいこともできないし、生きがいにしていたものを我慢しなくてはいけないこともあるだろう。
 でも、そんなときこそ、なにが自分にとってなくてはならないものか、命の次に大事にしているのはなにか、くっきりしてくる気がする。今の状態がどれくらい続くかわからないが、誰かにとっての無駄や贅沢でも誰かにとってはよすがで、そういうものが互いに侵害せず混在している世界が当たり前だということを忘れずにいたい。

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。
Twitter @chihacenti

※この記事は、2020年5月13日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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