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新型コロナウイルス感染症については、必ず1次情報として 厚生労働省 首相官邸 のウェブサイトなど公的機関で発表されている発生状況やQ&A、相談窓口の情報もご確認ください。※非常時のため、すべての関連記事に本注意書きを一時的に出しています。
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金原ひとみ デクリネゾン 第4話「自戒三種盛り 」

illustration maegamimami
「であるから、私は繰り返し、繰り返しいうが、原子は少々斜に進路を逸れるに違いない。」
『物の本質について』ルクレーティウス著 樋口勝彦訳 岩波書店
※この連載を初めから読む:「デクリネゾン 」TOPへ

 ゆんちゃんは理子の隣に座ろっか。理子が示した隣に、裕斗は素直によじ登るようにして座った。カウンターキッチンから様子を見ていると、理子はまるで弟の世話をしているお姉さんのようで、思わず二人目を産んでいたらという世界線を想像してしまう。理子はとても母性的だ。赤ん坊や小さい子を見ると、駆け寄って本人や親に名前と年齢を聞きすぐに遊び始める。自分がそういう小さな存在に惹きつけられない可能性など想像したこともないような迷いのない態度で、彼女は自分より小さい子を愛でる。面倒見が良いわけでも頼りがいがあるわけでもない理子が、小学校上級生の頃吹奏楽の後輩たちに慕われていたのは、彼女が無条件に彼らを可愛がっていたからだろう。
「理子ちゃんはしなやかだね。母親の恋愛問題に振り回されてるとは思えない」
「別に振り回してないよ」
「どこかで理子ちゃんは我慢を強いられてるんじゃないかって思ってたけど、あんなに屈託なく活き活きとしてる姿を見てると、ほっとすると同時に私が守りたいものって何なんだろうって思う」
 何それ、と笑うと、「私は志絵ちゃんのことを認めたくないんだよ」と和香はしみじみとした顔で言う。お皿とコップを用意しているひかりは心配なのか、しばしば後ろを振り返って理子と遊ぶ裕斗の姿を確認している。理子が二歳の頃、今にも転んだり飛び出したりこぼしたりしそうな我が子が心配で、私もあんな風に常に気にかけていたように思う。でも同時に、理子が二歳の頃寝かしつけを終えた後吾郎に夜の番を任せ直人との飲みやホテルに出かけ、理子が起き出す前に帰宅するということを繰り返していた事実も思い出す。
 傲慢で自分の欲望を叶えるためならどんな犠牲も厭わない。当時、吾郎にそんな風に言われた記憶がある。でも不倫相手であった直人の子供を妊娠して流産して搔爬手術をして、メニエールを発症して思考回路が滅茶苦茶なまま育児と生活と仕事に駆けずり回っている中で不倫がバレた時、どこかで解放されたような気分になったのを覚えている。体をガリガリ削っていくような不倫生活の中で、どうしてこんなことを続けなければならないのか不審に思いながら、私は自分の欲望などとは遠くかけ離れた原理で行動していたようにしか思えない。しなければならない育児、しなければならない家事、しなければならない仕事、それと並んでしなければならない不倫、でしかなかったような気がするのだ。私は何故あんなにも急きたてられていたのだろう。恋愛をする性であることは、私にとって義務だったのだろうか。
 フライドチキンポテトフライ、サンドイッチにコブサラダ、カルボナーラスパゲッティが並ぶテーブルに子供たちが沸き立つ。ゆんちゃんはどれ食べる? スパゲッティが好きなの? フライドチキンも美味しいよ、裕斗に語りかけ、欲しがるものを少しずつお皿に取り分けてやる理子は、裕斗に懐かれて幸せそうだ。向かい側に座る愁はアウトゴーイングな性格ではなく、会うのが三回目の理子に対してもどう接して良いのか分からないようで、裕斗に対してはもっとどう接して良いのか分からない様子だった。少し年上の女の子と、ずっと年下の赤ちゃんのような裕斗に対して、採用できるペルソナを少年は持っていないのだろう。理子が振る話題にも質素な答えばかりしていて、あまりの質素さに和香が○○でしょ、○○のこと話せば? などと口を挟む様子を見ていて、蒼葉と理子と三人で食事をした時の自分を見ているような気分になる。
 私たちはビールとミックスナッツを持ってローテーブルに落ち着き、乾杯をした。一ヶ月以上前に決めていた子連れで東京ドームシティという予定はコロナ問題によって一時ペンディングとなったものの、せっかく空けといたんやしどうせ旦那も満員電車で通常出勤してるし普通に宅飲みならええんちゃう? というひかりの半ば投げやりな提案により、この会が開催されることとなった。場所提供と洗い物受け持つ代わりに二人がご飯なんか買って来てや残り物はうちがもらうで、という気楽な呼びかけだったため、私はフライドチキンとポテトをKFCで大量に、和香はサンドイッチとコブサラダをデパ地下で大量に買って来た。裕斗がどうしても食べたいとごねたため、今日は昼も夜も二人の貢物だけで過ごそうって決めてたのにと愚痴りながら、ひかりがパスタを茹でレトルトでカルボナーラを二人前自作した。
「そっか、私立中学でもオンラインはまだやってないか」
「やってないね。この先もどうなるのか、今は出された課題を粛々とやってるだけ」
「そんなん言ったら愁の学校は課題さえ出てないよ。来週配付しますって連絡がこの間きたばっかり。郵送じゃなくて配付ね。ダウンロードできるようにしてよって感じ」
「フランスでは休校措置の発表があった四日後にはオンラインで課題が配られたらしいよ。なんかもう一月の段階からパンデミックに備えて準備してたらしい」
「すごいな。もうほんま日本の後手後手対策見てられんわ。決定力がないっていうかふにゃふにゃしてるっていうか……あれ思い出すわ、皆殺しの天使やっけ?」
「ブニュエル? 皆パーティから出られないやつ?」
「そうそうそれ。出口はあるんやけど皆出れへんの。解決策はあるのに政府は別の原理で動いてるから有耶無耶にされて解決に向かいたい国民たちはどんどん正気を失ってくって感じ。これ短編で書いたらおもろそうやんな」
 ひかりの小説っぽくないなあと笑うと、確かに、と和香が同意する。
「でも正味な話、小説は書きにくくなるやんな。二人はどう? 影響してへん?」
「してるよそりゃ。連載二本の内一本はコロナのある世界に移行していくことにした。もう一本はあと数回で終了だからコロナ前の世界観で書き切るけどね。和香は?」
「まだまだ状況が移り変わっていくだろうし、小説に入れ込むのはもうちょっと見通しが立ってからかな。次から次へと新しい情報が出てくるし、少なくともあと半年くらいは推移を見守りたいかも」
「和香の小説脳は強靭だなあ。今コロナのことを無視して書くのは私には無理。一時間に一回はコロナの最新情報求めてツイッター見てるもん。この間最初の旦那と話したら、今どんなフィクションよりもコロナの方が面白いから小説も映画も全く欲してないって言われた」
「我々にはあまりに辛辣な言葉やな。でも気持ち分かるわ。コロナのせいで考えること多すぎやわ。危険厨安全厨間の温度差問題、旦那の満員通勤電車問題、旦那が満員電車乗ってんのに子供保育園休ませるんか問題、そんで待機児童たくさんいる認可保育園休ませ続けてたら辞めさせられるんじゃないか問題、和香と志絵は子供の学習どうすんねん問題もあるしな」
「うちも塾行かせ始めたばっかりで塾閉鎖になっちゃって」
「受験控えた子とかは大変だよね」
「そういや、私のお姉ちゃんの子供がちょうど大学三年で就活中なんよ。もう説明会も面接も中止とオンライン続出で、どこも経営不振で雇用も削られるだろうしってすごい悲観的になっててん」
「院行っちゃえば?」
「いやー、ようやっと子供が独り立ちするって時にあと二年学費出し続けることになったら親は絶望よ。あと、こっから世界中の経済が悪化の一途を辿ることは決定付けられてんから、むしろここで滑り込みで就職した方がいい説もあるんちゃう? そういや志絵の彼氏は何年生なんやっけ?」
「彼は帰国子女で、向こうで学士取ってきたからまだ二年。なんか就活なんてものがこの世に存在することを知らないような鷹揚な態度でいるよ。彼は本当に、一年後の自分さえ見えてないって思う」
「一年後が見えない彼氏と老後のことを考えるアラフォー女か」
 そう呟き勝手に頷くひかりに、老後のことなんて考えてないよと笑う。考えてへんの? 私めっちゃ考えてんでと四十手前のひかりは真剣な顔で言い、ビールを飲み干すとワイン取ってくるわと立ち上がった。
「和香は? 老後のこととか考える?」
「この間ふと思ったんだ。私とか志絵みたいな真っ直ぐ生活とか日常と向き合えない人と、ひかりみたいな人との違いって何だろうって。多分一番の違いは自己肯定感じゃないかと思って。自己肯定感が薄い人は恒常性に向かえなくて、自己肯定感が強い人ほど恒常性に向かう。ひかりが未来を見据えてきちんと生活とか子供のこととか将来のことを考えてるのは、自己肯定感が強いが故に恒常性を志して生きてるからじゃないかって」
「確かに、同年代の友達を思い浮かべてみると自己肯定感が強い人ほどローン組んでたり学資保険入ってたりヨガやってたり、健康志向なタイプに見える。でも私は別に自己肯定感が取り立てて薄い方だとは思わないけどね」
「そう? じゃあ自分が恒常性に向かえない原因は何だと思う?」
「私ははなからこうでありたいっていう理想がないから、向上心もなければ恒常性も求めない。あるのは人に対する欲望だけ」
「確かに、志絵には悲壮感がないね。好きに生きて好きに傷ついてるって感じがする」
「好きで傷ついてるわけじゃないけどね」
 なんか企んでる顔してるやん何の話してたん教えーや、適当なことを言いながらコルクを抜いたワインを持ってきたひかりは、指に挟んだグラスをそれぞれの目の前に置いていく。ひかりさんゆんちゃんこぼしちゃいましたー! という理子の言葉に、ひかりはあーごめんなちょい待ちー、と言いながら慌ただしくダイニングテーブルに戻っていく。
「和香は生きることも傷つくことも本当は嫌なんだろうね」
「私は自己嫌悪の人だからね」
「コロナウイルスによる影響は何かあった?」
「三連休、彼と旅行に行こうって話してたんだけど破談になりそう」
「彼がコロナ気にしてるの?」
「彼の奥さんが。すごく気にしてるから旅行に行くって言い出せないって言うから、出張行くって言ったんじゃなかったの? って聞いたら、まだ言ってなかったって。奥さん、コロナのことで神経症みたいになってるみたいで。私だって気にしてないわけじゃないよ。でも久しぶりの彼との旅行だから、旦那にも取材旅行行くって言ってあったし、三連休何もしなくていいように必死に原稿も進めてた。私にとってはこの旅行はコロナ以上に死活問題だった」
「和香の行動は全て自分に責め苦を与えるためになされているように感じるね」
「どうしてこんなに辛い思いをするために辛いことをし続けてるんだろうって思う」
「飽和状態なんじゃない? 和香はもう彼から吸い取るだけ吸い取った。恋愛の楽しさとセックスの気持ちよさと、一人の男と深く知り合っていく中で受ける刺激と小説に有益なインスピレーション。これ以上一緒にいても、不倫をするために必要な犠牲を上回る価値のあるものを彼から享受できない。だから辛さばっかりがクローズアップされる、的な」
 飽和状態。和香はそう呟くと、難しい顔で黙り込んだ。彼女が不倫することで実現させているのは成長ではなく、吸収と放出のように感じるのだ。昔、重厚な長編小説ばかり書いている作家と対談した時、自分は一つの小説を書く時段ボール何箱分かの膨大な量の資料を読み込み緻密にプロットを書いていくが、小説を書き終えた瞬間詰め込んだ知識は瞬時に消えていくと話していた。和香の不倫もきっとそれと一緒で、一人の男を知っていく、とことんまで深く入り込んで愛し愛され、これから食される牛や豚のように喉元から肛門まで互いをナイフで切り裂き内臓を表出させその裂け目と裂け目を擦り合わせたり裂け目に顔を埋めたりするような濃厚な恋愛をして互いを遮る皮膚の存在をすっかり忘れた頃、彼女は彼に纏わる小説を何本か書き上げ、もう彼から得られる栄養素がないことを知り、小説を書くため新しい恋愛を探し求める。なんていうことを考えている自分自身こそがステレオタイプで小説脳なのだろうかと訝りながら、三つのグラスに白ワインを注いでいく。
 自分の不幸を小説で昇華させていくような生き方はしたくない。ずっとそう思っていた。不幸じゃないと小説なんて書けないという、作家の破滅性に重きを置くような人は愚かだと思っていた。それでも自分の小説に有益なものを与えてくれるかどうかで人を測っているところがあることを私は認めなければならない。これは使えると思うキャラクターや発言に出会った時、自分の中の卑しさを痛感する。文学的要素の強い人と出会った時、私はすでにこの人と仲良くなってもっと色々引き出したいと、そして引き出した暁にはどうすればそれを最適な形で自分の小説に活かせるかを考えている。
「私はそんな風に自分の恋愛を俯瞰的に見てないな。でも俯瞰的に見れないから、飽和状態になったのかもしれないね。でも志絵はどうなの? 志絵が結婚と離婚を繰り返してきたのはもう夫たちから自分の小説にとって有益なものを享受できなくなったからなの? 吸い上げるものは吸い上げたからもう用無しなんていう風に簡単に切り捨てられるものじゃないでしょ?」
「もちろん。それはそうだよ」
 それでもそれ以上言葉が見つからず、黙り込む。離婚の原因は二度とも私の浮気だった。それでも、離婚の理由が私の浮気だったわけではない。切り捨てたでも諦めたでもなく、私は何かに激突されて別の方向に飛んでいったのだ。それは私の中にいる、蒼葉には見せられない猛獣のせいかもしれないし、でも猛獣と共存するために私は小説を書いているのに違いないし、それがうまくいかないから私は小説を書き続け何者かに激突され続けているのかもしれない。
「ほんま、子供ができると母は子供の残り物で生き延びるようになるよな」
 ひかりはフライドチキンとサンドイッチを持ってきて肩を竦めて言う。子供を生活の中心に置いているのは母ではなくひかりだ。ひかりがそういう生き方をしているだけだ。出産以降その濃い個を喪失していくひかりを見ながら、そういう幸福がこの世に存在することを痛感し続けてきた。それは産後、個を喪失していくことが不快で不愉快で恐ろしかった私にとって、衝撃的な事実だった。

 志絵ちゃん。イヤホンを外しながら右手を挙げた蒼葉に微笑む。先週会った時には目が隠れるほど長かった髪が短くカットされていて、思わず背伸びをして頭を撫でる。
「すっきりしちゃって」
「オールド・イングリッシュ・シープドッグを卒業したよ」
 前回会った時、なんて品種か知らないけどあの大型の目が毛で隠れてる犬みたい、と言ったら蒼葉がすぐにグーグルで調べ、名前を探し当ててくれたのだ。犬感は健在だよ、ラブラドールってところかな、と言うと、ラブラドールって弱そうじゃない? と蒼葉も笑う。
「なんか短くなると若さが滲み出るな」
「そう? ちゃんと志絵の言う通りに注文したよ。後ろはツーブロックで前髪は眉下、サイドは耳の上が隠れるくらいの長さ、って」
 それでもやっぱり短いと若く見える、と言って、若いのだから仕方ないと思う。十近く年上だった吾郎と付き合い始めの時、大人っぽい格好や髪型を勧める言葉を掛けられるたび、背伸びをする快感と大人らしさを強いられる窮屈さを感じていたのを思い出す。若いんだから若くていいんだけど。言いながら手を繋ぎ、何食べたい? と話しながら渋谷の街を歩く。いよいよロックダウンや緊急事態宣言が出るのではと言われ始めた東京の街はいつもより人が少ないけれど、今日ならもしかしたら行けるかなと電話してみた人気のフレンチはいつも通り満席で、蒼葉とも何度か来たことのあるイタリアンバーに入った。一軒目でも二軒目でも利用しやすい雰囲気と、アパレルほど軽くなくモデルほど完成されていない、個性的な劇団員のような雰囲気の店員たちが好きで、渋谷に来ると高確率で来てしまうお店だった。
 生牡蠣に鰤のカルパッチョ、タン、イチボ、ミスジのロースト三種盛りを注文してスパークリングで乾杯をすると、私はひかりと和香と宅飲みをした時の話や、数日前編集者と会食をした時のエピソード、地理の勉強をしていた理子が「平野部」を「ひらのぶ」と、「河川」を「かがわ」と読み違えていて本気で絶望したエピソードを話した。蒼葉は私の話によく笑い、適切な相槌を打ち、料理が出てくると私が気に入ったメニューを好きなだけ食べるよう促し、私があまり好きではない野菜類を率先して食べる。赤かぶは好きだったよね、パプリカは俺がもらうね。記憶力の良い蒼葉がそうスムーズに取り分けていくのを見ながら、数週間前、理子がいなかった週末のことを思い出す。私のマンションに三泊した蒼葉は、志絵ちゃんは仕事してていいよと言い、ほとんどの家事をこなした。キッチンや床にこびりついた汚れまで綺麗にしてくれて申し訳なくなったほどだったし、ご飯も何が食べたいかリクエストを聞いて買い物から料理、洗い物までしてくれた。文句の付け所のない家事をしてくれたけれど、私が仕事終わるまで適当に時間潰しとくからと本当に深夜遅くまで適当にスマホを見たりパソコンで動画を見ていたため、気になっていつもよりも早く寝る羽目になったこと、最終日にずっと一緒にいたいとごねられ困らされたことがぼんやりとした懸念を私の心に生じさせた。彼が社会人だったら全然違っただろうし、あと五つ歳が近いだけでも違っただろう。今の彼はまだまだ頼りなく、世間知らずで、私がしっかりしなければと思う反面、どこかに寄り掛かって一息つきたいと思うこともある。

「どうしてこんなに縮んでるのかな」
「何でだろう。射精後っていつもそうじゃない?」
「うーん、だらっとしてる時もある気がするけど」
「出尽くしたのかな。急いで製造しなきゃってことで気合い入れてるとか?」
 二回のセックスを経た蒼葉の睾丸を弄りながら話していると、蒼葉が手を伸ばして胸を揉む。
「やっぱり大きいよなあ」
「今私の体は妊娠してると思い込んでるからね。ほぼ妊婦だよ」
 十歳と八歳の子供のいる友達がレスを解消して数ヶ月で想定外の妊娠をしたと聞いたのをきっかけに、二ヶ月前からピルを飲み始めていた。ここまで外出しで乗り切ってきたのはあまりにも危機意識が低すぎたと、改めて自分の緩さに恐怖を感じたのだ。リングを入れようと思っていた私にピルの提案をしたのは蒼葉で、若者にはピルの方が馴染みがあるからだろうと軽く考えて突っぱねようとしたら、人によっては挿入にそれなりの痛みがあることや、挿入後に不正出血が続くことがあること、ピルなら妊娠を望んだ時すぐに止められることを理由に挙げられ、ひとまずピルを数ヶ月飲むことに決めた。過去に二種類のピルを飲んでは強い眠気や吐き気などの副作用に継続を断念してきた私にとっては、ピルのせいで仕事が進まなくなったらどうしようという懸念もあって憂鬱だったけれど、今回のピルはモンスターやコーヒーなどで何とか乗り切れる程度の眠気で済んでいた。数ヶ月飲み続けるとそのホルモン値に体が慣れてくるとも言われていたから、しばらくは我慢して副作用が治まらなかったり面倒臭くなったらリングにしようという方向で蒼葉も同意していた。
「でもさ、薬で妊娠と思い込んでたらどうして生理がくるの?」
「ほら、最後の一週間は違う色だったでしょ? あれはただの小麦粉で、プラセボなんだよ。だからあれを飲み始めるとホルモン値が下がって、実は妊娠じゃありませんでしたーってネタバラしで生理が始まるんだよ」
 ピルのシートを見て色の違うやつはプラセボだねと言っていたくせにそのメカニズムを理解していなかったらしき蒼葉は「そっかなるほど!」と声を上げた。海外育ちということもあってこれまで付き合ってきたどの男よりも蒼葉は現代的なセックス・エデュケーションを受けていて、意外なほど知識があると思うと同時にこういう実践的な知識の乏しさを感じることも多い。
「女性ホルモンが増加すると胸が大きくなるってことは、男も男性ホルモン増加するとチンコが大きくなったりするのかな?」
蒼葉は笑って、「女性ホルモンが増加すると胸が大きくなるのは妊娠と勘違いするからだろうけど、チンコが大きくなる要因って何がある?」と私にチンコを弄られながら顔を上げて言う。
「セックスアピールを強めなきゃいけない時?」
「つまり、子孫を残さなきゃいけない時とか? このままだと童貞のまま死んじゃう! みたいな時?」
「そうそう。一世一代の勝負どきにデカくなる」
「じゃあ逆にめちゃくちゃ入れ食いみたいな男のチンコは小さくなったら面白いよね」
「面白いかも。じゃあシステマティックに、ヤらなければヤらないほど大きくなっていくルールはどう?」
 どうって、と笑いながら蒼葉は私を上に跨がらせ抱き寄せる。
「一回ヤると五ミリ小さくなるっていうのは?」
「五ミリは結構でかいな……」
「それで、一日ヤらないと三ミリ大きくなるっていうのはどう?」
「そうすると一回ヤったら二日セックス休まないと元の大きさには戻らないよ。今日は二回セックスしてもう一センチ小さくなってるから、元の大きさに戻すには三日以上かかる」
「それは長いね。じゃあシンプルに一回のセックスで五ミリ減、一日のセックス休みで五ミリ増になるっていうのは?」
「でもそしたら童貞とかどうなるの」
「それはもちろん伸び止まり縮み止まりの設定もしないと。下限値が七センチ、上限値が十八センチくらいでどう?」
「でもヤればヤるほど小さくなるって悲しいし、十八センチあったら全部入らなくない? 全部入らないセックスって悲しくない? やっぱりそのシステムは悲しみしか生まないよ」
 リアルに想像する蒼葉に声を上げて笑って、私は蒼葉の上から降りるとコンビニで買っていたストロングを冷蔵庫から取り出した。ヘッドボードに置いてある蒼葉のスマホがLINEの通知で光っているのを見つけて、ふと昨日の記憶が蘇る。
 今日会えない? と夜の十時に唐突にLINE通話で聞いてきた蒼葉に、明日の朝には書き上げないといけない原稿があってと牽制すると、じゃあ明日は? と食い下がられ今日夕飯からのデートが決まったのだ。何となく切羽詰まったような雰囲気があったから気になっていたけれど、昨日の私は締め切りのことで頭がいっぱいでまともに話を聞くこともできず早々に通話を切ってしまったのだ。締め切りが明けた解放感の中朝から昼まで寝て、昼からは汚れ切った部屋を掃除し溜まっていたメールをまとめて返信、細々した事務的な雑務をこなして、ずっと買おうかなと思っていたバッグとブーツを検索し続けてどれにするか決めあぐねている内に支度をしなければならない時間になっていて、今日は思い切り飲もうと舞い上がったまま待ち合わせ場所に向かって、食事中は自分の溜まっていた話したいことを話しまくり、今の今まですっかり忘れていた。
「そういえば昨日何かあったの? あんな急に誘ってくるの珍しいからちょっと心配してたんだよ。家で何かあった?」
「ああ、昨日母親と言い争いになって。出て行けって言われたから家出たんだよ。それで電話したんだ」
「えっ、家出したってこと? ていうかじゃあ昨日はどうしたの?」
「友達の家に泊めてもらった」
「これからどうするの? 明日とか、どうするつもり?」
「志絵の家に置いてくれない?」
「そんな急に言われても……。ていうか喧嘩の原因は? 私?」
「うん。母さんはノイローゼになってる。俺はノイローゼに付き合う気はない」
 とはいえ、彼は一人暮らしをするための収入はないし、資産もない。
「ねえ蒼葉、このまま家を出た場合お母さんと仲直りする機会はなくなるし、私のところで一緒に暮らすとなった場合、お母さんの怒りはより増大すると思った方がいいよ」
「もう関わりたくない。母さんとは二度と話したくない」
「関わりたくないって、じゃあお母さんが死ぬまで会わないっていう覚悟はあるの?」
「俺はそれでも構わない」
 子供にそこまで言わせるとは、お母さんは一体彼に何を言ったのだろう。それにしても本当に彼にそこまでの覚悟があると私には思えない。
「でも蒼葉は大学生だよ。まだ親の庇護の下で生きてるし、学費だって払ってもらってるんだから、そんなにシンプルな話じゃないよ」
「父さんに話せば仕送りはもらえると思うし、志絵に迷惑はかけないから」
「迷惑だなんて思わないけど……」
 まず何よりも理子の意向を聞かなければならないし、そんな風に喧嘩別れを助長するようなことをして家庭内に亀裂を入れてしまうのは心苦しいし、こんな風に雪崩れ込みのように同居を始めることにも抵抗がある。こんな風にさらっと家に置いてくれと言うのは恋人同士とはいえあまりにフランク過ぎないだろうか。このノリの軽さは大学生だからなのか、帰国子女だからなのか、単に彼の性格によるものなのか、判然としない。
「昨日泊まった友達って、どんな友達なの?」
 自分の一存では決定できない案件のため、ひとまずはその友達の家に滞在してもらえないだろうかと思ってそう聞くと、「大学の友達だよ。元カノの友達で、去年同じ授業取ってたから、たまに皆で勉強とかしてて」と蒼葉はベッドで上体を起こしながら言う。
「え、女の子?」
「うん。嫌だった?」
「女の子の家に泊まったの? 二人で夜を明かしたの?」
「うん。いや、もちろん俺は床で寝たよ。少し話したけど、十二時過ぎくらいには寝たし」
 は? と言ったきり言葉が続かない。自分が十以上年下の彼氏の動向に激しく動揺させられるとは思っておらず、その意外性も含めてサイクロン掃除機のように混乱が加速していく。
「ただの友達だよ。全然、男友達と同じような存在だよ」
「その子はどう思ってるか分からないし、そこまで気を許した態度を見せて相手を誤解させると思わないの? あと彼氏がそんな風に他の女の子とそんなラフな関係を築いてるっていうことに対する私の気持ちはどうなるの?」
「いや、俺は志絵の話もしてるし、向こうもただの友達としか思ってないよ。でも志絵が嫌ならもうしないよ」
「嫌じゃないわけなくない? 蒼葉は私が男の人の家泊まってもいいの?」
「それは嫌だけど……でも昨日は家に帰るわけにはいかなかったし、志絵も忙しそうだったし、どうしようもない状況で。それに志絵が男の人の家に行ったら危険だけど、俺が女の子の家に行っても別に変なことはしないから危険はないじゃない」
「それを危険じゃないと思うのは想像力が欠如してる。もしその子が蒼葉のことが好きだったりしたら勘違いするし、勘違いさせたままその子とこの先普通に付き合っていくのがどれだけ危険なことか分かってる? 男女間のトラブルの三割は相手を勘違いさせるような行動を取ることから始まるんだよ。考えれば考えるほど信じられない」
「いや、その子は俺のこと好きなんかじゃないし、そんな心配の必要はないよ。俺のこと好きになるような子がそんなにいるわけないじゃない」
「とにかく蒼葉は客観性と想像力が欠如してることを自覚するべきだよ」
 私を鎮めたいもののその方法が分からないようでおろおろする蒼葉が可哀想になるけれど、友達の話をする時その九十%が女友達の話であることにずっと疑問を抱いてきたし、今も元カノと友達として付き合っていることや、とにかくバイト先でも大学でも仲が良いのは女ばっかり、それでいて私が仕事で飲みに行く際男の人が一緒だと露骨に不満そうな顔をするし、元夫たちの話をしても複雑そうな受け答えをする彼の態度に苛立ってきた積み重ねが今完全に爆発した。蒼葉のいるベッドに戻る気になれず、パンツを穿くと安っぽい合皮のソファに腰掛けた。
 私が高校生の頃クラスに帰国子女の男の子がいたけど、やっぱり彼も男子たちとはつるまず毎日色んな女の子に誘われてお昼ご飯を一緒に食べていて、男子たちとも普通に話すもののどこか居心地が悪そうで、女の子たちといる時の方が水を得たような気楽さを滲ませていた。日本の男性の幼さや粗暴さ、自己中さが、そういった面をコントロールすることを人としての第一条件として要請されてきた海外育ちの男の子には耐えがたいのかもしれない。まだ幼さが滲むところはあるけれど、粗暴さや自己中さを徹底的に排した蒼葉の在り方を私自身支持してきたし、そういう日本人男性に希薄な思いやり、気配りができる面に惹かれたところもあった。それでも今回のことはあまりに度を越している。
「昨日の蒼葉がとるべき行動の正解を教えてあげる。まず蒼葉は電話をした時点で私に状況を説明するべきだった。それなら私だって家に呼ぶなり、ホテルに泊まるお金がないなら貸すなりした。忙しいって言われたからって他の女の家に泊まるなんてこっちは想像もしてないからね。とにかく私と付き合っていきたいなら今後二度と女の家に一人で行かないで。一人暮らしをしても絶対に女の子を家にあげないで。それが守れないんだったら二度と会わない」
 語気を強めて言うと「もう二度としないよ。絶対に。こんな風に志絵を傷つけるって分かってたら絶対にしなかったし、配慮が欠けてたのは本当に悪かったよ。昨日はちょっと追い詰められた状況で、ちょっと判断力が鈍ったところもあったし、志絵が嫌に思うことを全部言ってくれれば俺は全部しないから」
 言われたことを守ることは子供だってできる。どうして言われる前にやっていいことと悪いことが分からないのか。苛立ちが収まらず、煙草を勢いよく一瞬で吸うと乱暴に灰皿に押し付ける。
「こんな避けようと思えば避けられたことで志絵を傷つけたのは不徳の致すところで、本当に申し訳なかったと思ってる」
 不徳の致すところってと笑うと、蒼葉はようやく弱々しく笑った。ふと、まだ小さかった理子がおずおずと「ごめんなさい、もうしません」と謝ってきた時のことを思い出す。基本的に、私を怒らせるようなことはしない理子だったけれど、偏食には随分悩まされ食事については繰り返し対立してきたから、出したものに対して「まずい」などと暴言を吐かれた時だったかもしれない。「まずいじゃなくて口に合わないと言いなさい」何度もそう口にした記憶がある。そして「自分の好みじゃないと言われるのと、ブスと言われるのとでは印象が違うでしょ」と付け加えて理解してもらった。我が子に対してさえ理性的に関わろうと努力してきたのに、どうして蒼葉にはこんなに自分の感情を剥き出しにしてぶつけてしまうのだろう。私は理子が好きな男の子に「そういうことするならもう二度と会わない」と言われ、謝り倒してすがりつく様子を想像して不愉快な気持ちになっていく。
「ごめん、女性に排除されるような要素のない男性であることは蒼葉のいいところでもあるし、何事も痴情に絡めて物事を捉えないのは現代的で素晴らしい資質だと思ってる。全てを痴情のレベルに貶めて考えてしまう自分の方が狭量で卑俗な人間なのかもしれない」
 そもそも私だって若い頃は女友達より男友達の方が多かったし、元カノと普通に仲良くしていることに苛ついていたのだって、子供のこともあるとはいえ私だって元夫たちと良好な関係を継続させていると言えるし、私が今繰り広げたのは彼の人格批判に他ならないのではないだろうか。そういえばフランスに留学していた女友達が、向こうで住宅トラブルに遭ってゲイの友達に一ヶ月居候させてもらっていたことがあったと話していた。恋愛感情のない友人同士が、普通に友人同士として助け合うことは、別段誰かから責められるようなことではないはずだ。
「そんなことないよ。とにかく志絵が嫌がることは俺もしたくないし、こんなことが原因で関係が悪くなったり、別れることにでもなったら一生後悔するから、だから全部志絵の嫌なことは把握してたい。志絵の嫌なことをしないことは俺にとって全く苦痛ではないから。心配ならLINEも全部見てもいいし、俺のスマホに志絵のFace ID登録していいよ」
「誰だって自分のプライベートを守る権利はあるし、自分の培ってきた資質を相手のためにねじ曲げるのは間違ってる」
「いつでも見られる状況にしておけば志絵だって心持ちが違うでしょ? 志絵の安心要素を増やしたいから、これは俺の望みでもあるんだよ」
「そういうお互いを縛り合う関係は良くないと思う」
「何を見られてもいいし、むしろ俺のことを何でも見てほしいから、縛りなんかじゃないよ。俺のプライベートも資質も全部志絵に捧げたい。それが俺の資質だよ」
 心配だ。若さ故かもしれないが、こんな風に自分を投げ打てる蒼葉が心配だ。でも、お金も経験値も社会的ポストも持たない彼にとって、ここまで全てを投げ打てることこそが、唯一の強みなのかもしれない。そう思うと、若さとはあまりに切ないという思いと同時に、その他諸々のことに囚われてしまう若さを喪失した人々の存在としての虚しさを感じる。いや、切ないとか虚しいとか考える自分こそ、何か形骸化した概念に縛られているのではないだろうか。彼はただ、しなやかだ。
「こっちに来ない?」
 蒼葉が自分の隣に手を当てて言い、パンツ一枚のまま立ち上がりベッドに戻る。「冷たい」と言いながら蒼葉は私の体を摩り、かけ布団をかけた。
「蒼葉のせいだよ。血の気が引いた」
「ごめん。もう絶対しないから」
 彼はきっと、赤点を取っても追試でうまく立ち回り危機を回避するタイプだ。そんな風に思いながら、抱きしめてくる蒼葉の髪の毛を撫でる。一緒に住む提案をしたら理子はどんな反応をするだろう。この間、直人の新しい彼女に肩を抱かれ、照れたような表情でありながら楽しげな理子の画像が直人から送られてきて、その継母に似た存在と楽しそうにしている我が子に、胸がすくような思いになった。自分の交換可能性を実感することの解放感、それと同時にそれぞれ個々人でしか培えない関係性への確信、そしてこういう思いを吾郎と直人はすでに経てきたのだという新しい観点。全てに於いて新鮮だった。彼女と理子、好きなアーティストの話でめちゃくちゃ盛り上がってたよ。ご飯の後カラオケ行ったんだけど、二人でめちゃくちゃ熱唱してた。という直人の言葉にホッとしている自分もいた。
「理子ちゃんのこともあるし、今すぐは無理でも、ちょっと考えてみてほしいんだ。コロナ問題が今より拡大したら会いにくくなるかもしれないし、そういう意味でもいいタイミングかもしれないって思わなくもないし」
「分かった。でもすぐに答えは出せないし、とりあえず一旦実家に帰って落ち着いてもらいたいんだけど、それは可能?」
「分かった。明日は帰る。志絵に懸念があるならひとまず一人暮らしするのでもいいし、それなら父親とも一回きちんと話す。でも俺はもうあの家にいるつもりはないってことは分かってて」
 うん。と答えながら、差し出された腕に頭を載せる。ごめんね志絵、もうしないから、と言われながら抱きすくめられ、激しい睡魔に襲われていることに気づく。蒼葉との同居生活を思い浮かべながら眠りについた私はその三時間後、ひどいネイルをやり直してもらうため訪れたネイルサロンで偶然遭遇した先輩作家の奥さんにひどいマウントを取られる夢を見て、ざわつくような気持ちで朝六時に目覚めることとなった。


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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。最新刊は『パリの砂漠、東京の蜃気楼』

※この記事は、2020年5月28日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

※金原ひとみさんのエッセイ集『パリの砂漠、東京の蜃気楼』が発売中です。


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HB(エイチビー)は、集英社グループの出版社・ホーム社の文芸サイトです。2017年11月にサイトを立ち上げ、2020年にnoteへ引っ越してきました。小説やエッセイを中心に、毎日をより楽しく過ごすための、さまざまなコンテンツをお届けします。

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