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第10話 網の上のホルモン| 金原ひとみ「デクリネゾン」

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 もう焼けてんでこれ。こっちもええな。焼肉の網を制するひかりが私と和香にタンを取り分ける。玉ねぎししとうも焼けてるし、多分かぼちゃ人参以外は全部いけてんで。タンを頬張りながら「ふーい」と間の抜けた相槌を打つと、和香もハフハフしながら「ふふい」と答え、三人ともふふっと笑う。
「何や幸せそうやな二人とも」
「ここの肉食べながら幸せじゃないなんてあり得ませんよ」
「考えてみれば、私コロナ以降ここ来るの初めてかも」
 私も、私もやな、と二人が同調する。何だかんだ、大して気にはしていなくとも、付き合いのある出版社の約半数が「会食原則禁止」を掲げているし、友達でも持病持ちや幼い子供がいる人はそれなりに気にしていて、かつ以前は会うたび外食していた蒼葉との同棲が始まったことで、外食の機会はかなり減少した。一緒に暮らし始める前、私たちは大概レストランかホテルにいた。たまに映画や御苑、水族館や井の頭公園などの定番デートもしたけれど、頻繁に会っているとすぐにネタは尽きたし、デートをしていても気がつくと大概ホテルに舞い戻っていた。
「彼と別れたんだ」
 和香の言葉に、私とひかりは手を止める。彼って、不倫相手? と聞くと「そ」と頷く。かぼちゃも人参ももういいで、え何で別れたん? ひかりがかぼちゃをトングで端に寄せながら言う。
「感染者数がまた増えてきたでしょ。それでまた彼の奥さんがヒステリックになったみたいで、また会いにくくなって、そんなこんなしてたら、なんか付き合ってない方がいいかなってふと思ったんだよね」
「彼はそんなふわっとした理由で別れを受け入れたの?」
「振られる覚悟はできてたみたい。ちょっと前からコロナのことで、っていうか、コロナを気にする奥さんに気を遣う彼に幻滅してたところもあったし」
「何年付き合ってたんやっけ」
「二年くらいです。久しぶりですよ、なんかこういう、すっと冷める的なの」
「もともと、コロナ前からちょっとずつ冷めてきてるみたいなところもあったんじゃない?」
「まあ、なくはなかったのかな。あんなに好きだったのに、いや好き過ぎたからかな、破裂して萎んだのかもしれない」
 暴れ回る猛獣が突然矢で射止められぐったりとした。行哉への気持ちが冷めていった時、私もそんなイメージが浮かんだのを思い出す。彼の一挙手一投足に一喜一憂して、LINEが届くだけで鼓動が速くなっていたのに、次第に彼の一挙手一投足に「ふうん」みたいな感想しか抱かなくなったのだ。タンを焼き終えたひかりは難しい顔のままロースを網に並べていく。ひかりは鍋も焼肉も管理してくれるけどペースが速い。
「仕事、できてる?」
「執筆? うん。割と筆が走ってる」
「そっか。どっかで、和香は不倫を燃料にしてるところがあるんじゃないかって思ってたから、どうなのかなって……」
 ふっ、とひかりが笑みを漏らして、なに、と反射的に言うと「なんか作家が作家の執筆気にすんのおもろいな」とひかりはにやにやしたまま答え、ロースを取り分けるとサンチュあんでと指差す。いやなんか、下世話な興味で聞いてるんじゃないよと私はひかりに掌を向けて言う。
「何て言うか、ダークサイドみたいなところが創作への力を高めるっていうのは、やっぱりあると思うんだよ。無頼派とか馬鹿にしてたし、小説のために破滅的な生き方をするのは馬鹿げてるけど、やっぱり自分の中にコントロールできないところがあったり、破滅衝動に振り回されていろんなものを滅茶苦茶にしてしまう人が面白いものを書くっていう面もなくはないし、卵が先か鶏が先かみたいな話だけど、因果関係は否定できないのかなって」
「結果的に活きるっていうのはあるよね。今回の別れも私は書くし、ていうよりも、もうすでに別れを予感した段階で別れのシーンを書いてたし。やっぱり、想像力が膨らむっていうのはあるよね。こうなったらああなったらの想像が、一つ恋愛をすると掛ける十くらいに膨らむし。不倫だと色々複雑だから掛ける百くらいになるし。志絵だって自分のしてきた恋愛とか仕事、作ってきた家庭とかが小説の資本になってるとこあるでしょ?」
「そりゃあもちろん。全ての経験は小説に繋がるよ」
 ごま油に浸したロースと辛味噌、白髪葱をサンチュに包むと大きな口でかぶりつく。ごま油と野菜の水分が混じったものがツッと手とテーブルに垂れ、二口で食べきると「はい」とティッシュを差し出す蒼葉の声がしたような気がして、寂しさを持て余しながら私はナプキンに手を伸ばす。蒼葉はいつも私を見ていて、こぼしたり落としたりするといつも何かしらのフォローをしてくれる。そのフォローが当然のことになっていることに少し動揺しながら、ビールを飲み干しハイボールを注文する。
「経験しながら、これは小説に活かせるなとか、ここの会話を使いたいとか、この関係性を小説にするとしたらとか、そういうことを反射的に考えてるところってあるじゃん? だから経験しながら、経験してないとも言えるっていうか。ずっと俯瞰してて、生の人生を生きてるとは言えないのかも」
「志絵は特に俯瞰度が高いよな。もう航空写真並の俯瞰度よな。和香は俯瞰と主観の両方を行き来してる感じやんな。私はもはや俯瞰度ゼロやで。完全究極主観やで」
「そう考えると、やっぱり主観度高い方が売れるのかな」
 一瞬二人が黙り込んで、志絵もこの間の新刊重版かかってたやん、とひかりが慰めるように言って、そうだよ私なんかこの間五年ぶりに初版部数下げられたんだよ? と和香が乗っかる。和香の初版部数は下がっても恐らく私の初版部数より多いはずだ。絶対的に自分か相手が傷つく結果になるから、初版部数が何部かという話は作家の間では基本的に交わされない。他業種の人たちの売り上げや人気の上下に関する身も蓋もない話を聞くと、この暗黙のルールがある業界に生きていて良かったと痛感する。
「なんか、現実への裏切りをしているんじゃないかっていう気になることがあるんだよ。自分と関わってる人たちはきちんと現実を生きてるのに、こっちは現実を生きながらそれを小説に活かす道筋を考えてるわけじゃん。向こうは一つの世界を生きてるのに、こっちは二つの世界を生きてるみたいな。それで、実際自分の本質的な面は小説世界の方で満たされていたりする。そのことに、罪悪感に似た思いを抱くことがあって」
「子供とか、小説一切読まない友達とかのことを、そのままじゃなくても要素とか、エピソードを使う時には、私もちょっと感じるかな。彼らとは違う文脈で、彼らとは別の意思で使ったりするからね。もちろん取材して書いたりする人のことは、その前提で話を聞いてるから何とも思わないんだけど。志絵がそう感じるのは、彼氏に対して?」
「彼氏に対してもそうだけど、もっと大きな意味で、私はこの世界を裏切ってるんじゃないかっていう気になることがある。実人生と乖離したところを浮遊するような生き方をしてるし、この世界を生きる権利がないんじゃないかって思うことがある。いやもちろん、そんなことに権利だなんだ言うような奴は死ねばいいと思うけど、結局のところこの世界にアプローチするために、私はパラレルワールドを作り上げて、そっちの世界を操作することでこっちの世界を何とか生きられる土地に作り替えているっていう感じがして……」
 言いながら、こんなに個人的な、悩みと言うにもぼんやりとした不安を吐露するのにこの場は適しているだろうかという迷いが生じていく。
「私はそんなん一切感じたことないけど、いや、せやから、自分の小説は最大公約数の小説なんやと思うんよ。和香とか志絵の小説は、そういうこの世界生きられてないなって感じてる人たちのオアシスとか、免罪符になってるんちゃうかな。私全然この世界生きてませんって、開き直っていいと思うで」
 迷いを吹き飛ばすようなことを言うひかりに笑って、そっか開き直っていいのか、と頷きながらハイボールを呷る。壺漬けカルビは柔らかく、咀嚼していると自分も芯から溶けていくような気がする。肉という肉が脂肪のように熱で溶け、血や器官や臓器がバシャリとこの場に投げ出された様子、それらがハサミでぶつ切りにされこの網の上で焼かれていく様子までもが頭に浮かぶ。そしてそれはどこか、小説を書くことに似ていると思う。そうか皮膚と肉を溶かし血や臓物を晒し美味しくあるいは不味く頂いてもらうことを生業としているのかと思うと、目の前の肉片たちに愛情深い気持ちになる。何でこんなことを話したんだろうと炭火の上で身悶えするような動きを見せる脂ぎった肉を見ながら考えて、数日前中津川さんに言われたことがどこかで引っかかっているのかもしれないと思いつく。

 自分にあり得た世界線を書いてみるのはどうですか? エッセイ集が出来上がり、サイン本作成のために明誠社を訪れ、次から次へとサインを書きながら太田さんに依頼されている雑誌連載のテーマが決まらないと零した私に、中津川さんはそう提案した。どういうタイプの世界線ですかと聞くと、天野さんが離婚していなかった世界線とか、と彼が当然のように答えるから、離婚していなかった世界線ねえと言いながら「天」の字の横線を三本書いてしまって一冊無駄にしてしまった。これは僕が買い取らないと、えっ本当に? 嘘ですよそんなわけないじゃないですかというやり取りの後、中津川さんは愉快そうに話し始めた。
「離婚していなかったら例えばもう一人、二人子供がいたかもしれないし、今とは全然違う小説を書いていたかもしれないし、不倫を繰り返していたかもしれないし、あるいは旦那さんとうまくいっていたかもしれない。普通の人には見通せない世界を具現化させられるのが、小説家の特殊なところじゃないですか。天野さんが何を捨てて、何を手に入れたのかはっきり見えてくるだろうし、太田が話していた新しい家族の形、というテーマも取り入れて書いたら面白くなるんじゃないですかね」
 うーんと言いながら、私は蒼葉のことを考えていた。彼がそんな小説を読んだらどう思うか、少なくとも蒼葉と付き合いながらそんな小説を書くことはできないような気がしたのだ。
「この間、彼氏が私の著作を全て読んでいたことが発覚したんです」
「え、天野さんは読んでないと思ってたんですか?」
「知り合った頃から読まないでって言ってて、付き合ってからも、何度か読んでいいか聞かれたんですけど、駄目って言ってきたんです」
「隠れて読んでたってことですか?」
「いや、付き合う前から全部読んでたらしいんです。私が強く読むなって言ってたんで、言い出すきっかけが掴めなくなってしまったようで。この間、話したいことがあるって言い出してからも一時間くらいぐだぐだとやっぱり言わない方がいいかもとか、怒るかもしれないとか、やっぱり怖いとか言うんで、言わないと浮気だと見做すぞって脅して吐かせたんです」
「天野さん的には、読まれてるって知って、どうだったんですか?」
「何ていうか、彼は私が彼に見せている面だけを見て私を好きになってると思ってたんで、全部読んで怖気付かなかったんだなって、意外でもありましたね。小説よく読んでる人とか出版業界の人とかなら気にしないけど、彼はそういう人じゃないから、小説と著者の距離感とか、分からないんじゃないかって不安で、だから読んで欲しくなかったんです。結婚前、当時付き合ってた彼氏が私の本読んで、その小説の中のセックスを再現したことがあったんです。こういうのが好きなんだよねって言われた時、小説読まない人ってそういう思考回路になるんだって怖くなって。その人にとっては、完全に主人公イコール私だったんです」
「それはひどい話ですね。でも、相手のことを知るために、その人が作ったものに触れたいと思うのは自然なことだと思いますよ」
「もちろん小説の登場人物は自分と多かれ少なかれ重なっているものです。でもどこが重なっているかというのは自分にも正確に判断できるものじゃないし、不倫小説書いてても不倫してない、セックス好きな人書いててもセックス嫌い、Sの主人公書いててもMとか、女でも男性主人公を書くし、大人でも子供目線で書いたりもする。そこから読み取れるのは、著者の持ってる世界観だけだと思うんです」
「なるほど。でも、今の彼は別に何の勘違いもしてなかったんですよね? 小説を読んでいても」
「何の勘違いもしてないし、とてもフラットです。彼にとっては私が小説を書いていることが何の意味も持っていないんじゃないかと思うくらいです。それは彼が小説に対する感度が低いからなのかもしれないし、私の書きたかったテーマが伝わってないのかもしれないし、きちんとバイアスを排除して人と関わるようにしているからなのかもしれない。よく分からないんです。前の夫たちみたいにインテリとか小説好きなら分かるんですけど、そうじゃない普通のタイプの男で、私の小説読んでも引かないで普通に付き合おうと思える男ってちょっとヤバいんじゃないかと思うっていうか」
「ちなみに、何で彼はこのタイミングで急に告白したんですか」
「仕事のことになると壁を作るのが、彼は不満だったみたいで、私のことをもっとよく知りたいのに自分は小説の分野に於いて拒絶されてるって泣かれた日の夜に告白されました」
 皮肉じみた笑みを浮かべると、あんまりいじめるもんじゃないですよと中津川さんが言うから、こんなに彼氏を大切にしてる人はいないですよと嘯く。天野さん話しながら書くと字が下手になる人ですねと中津川さんは言って、ちょっと休憩しましょうコーヒー頼みます、と内線でコーヒーを頼んだ。がらんとした五十畳ほどの会議室のテーブルにはエッセイ集が四百冊、五冊ずつ積み重ねた状態で並んでいる。コロナのことでサイン本作成も危ぶまれたけれど、普段は販売部の人が手伝いに来るところを、大きな会議室を使い二人だけで作成するということで実現した。普段だったら、本を開く人、サインを書く人、受け取ってサインの上に紙を挟む人、の三人でこなすものが、本を開くのとサインを自分でやらなければならないというだけでまあまあ時間がかかりそうだった。しかもこののんびりした中津川さんとなら尚更だ。
「そもそも、彼氏との出会いって何だったんですか?」
「取材です。帰国子女に取材したいって言ったら、山根さん大学で教えてるじゃないですか、サバティカルでイギリスの大学に行ってたから誰か知ってるかもって、編集者が仲介してくれて、山根さんが向こうで知り合って、ちょうどその頃帰国したばかりだった彼を紹介してくれたんです」
「へえ、どこからどう繋がるか分からないもんですね。取材相手を射止めたなんて、あんまり聞いたことないです」
「射止めてないですよ射止められたんですよ。ていうか、長い待ち伏せの末に網にかけられてじっくりと息の根を止められた感じです」
 立ち技じゃなくて寝技ですか、まあ恋愛の経験値的には天野さんはヘビー級だから、階級差がある対戦相手を寝技に持ち込んだのは正しい選択だったと思いますよ、と中津川さんは自分の言っていることにウケながら届いたコーヒーを差し出した。何ですかそれ、と呆れながら、何となく中津川さんは手を洗わなそうだなと軽い不安を感じつつブラックのまま飲み始める。見た目やファッションは小綺麗なのに、何故か彼には清潔感がない。己を清潔にすることよりも、もっと別のことに力を使っていそうなのだ。
「人生が、猪の激突みたいなもので動いてるなって思うことがあるんです。何ていうか自分の意思とは別のところで大きな力で激突されて転ぶことによって、人生の節目節目が決まってきた気がしているというか。だから、中津川さんの言うあり得た世界線について考えることはなくもないんです。でも、新しい小説もきっと彼は読むんだと思うと何となく乗り気になれないというか」
「彼のことが気になるんですか? どう思うかって? 小説家と付き合ってるんだからそのくらいのことは想定内なんじゃないですか?」
「彼が私が小説家であることをどう捉えているのか、よく分からないんです。例えば、とあるバンドが権力に与するような曲を作ったことがあって、私はその一件でそのバンドのことを受け付けなくなってしまったんですけど、彼は嫌いならその曲だけ聞かなきゃいいじゃんって言うんです。私はびっくりして、一つ一つの創作物にその人の人生とか思想とか物の見方全てが詰まってて、だからこれは別枠なんてことにはできないんだって、一瞬にしてそこにある信頼は喪失してしまうんだって反論したんです。でも彼は、だってそのせいで他のいい曲を聞かなくなるなんてもったいないじゃないって言うんです。その時分かったんですよ。この人は個が揺らいでいないんだって。もう、確固とした個を持ってるんです。そう、多分、私の小説を読んで引かないもそのせいなんでしょうね。もちろん間違っていることに対するセンサーは働くし、私が解説すればこっちの思いもある程度理解してくれる。でも、個が揺らいでいて小説とか音楽とか映画とか哲学とか、人の考えるあれこれに縋って騙し騙し生きている人間ではないんです。彼にとっては音楽も小説も瞬間的に自分を満たすもので、恒常的な救いや添い遂げるものにはならない。自分の個とは別枠で創作物と関わってるから、気に入らないものがあってもミュートできるんです。もしかしたら、世代的な差もある程度関係しているのかもしれないですけど」
「人って、仕事相手とか友達とかと価値観が対立しても、その差とか違いを埋めようとかお互いに理解しようとはあんまりしないけど、恋人同士や家族なら、話し合ったり理解しようと思うことができるわけで、自分とは違う視点を身につけるチャンスでもあると言えますよね。そして幸いなことに、天野さんは色んな視点を身につけることがプラスに働く仕事をしている。その個が揺らいでいない彼氏の話、面白いじゃないですか。小説に書いたらいいですよ」
「編集者は馬鹿の一つ覚えみたいに書け書け言いますよね。こっちが書くことで何かを犠牲にしていることを想像もしないで。昔の夫は、ディズニーランド行きたいって言ったら、ディズニーランドに行く話、いやディズニーランドに行きたい人の話書けば? って言ったんですよ」
「書いたんですか?」
 書くわけないじゃないですかと笑いながらコーヒーを脇に押しやり、じゃあ再開しますかと大きな声を出すと、そうですねと中津川さんは隣にやって来た。マスクしてないなと思ったけれど、まあいいかとスルーした。
 その日の東京の新規感染者は過去最多を記録した。それでも、人々は一度切れてしまった緊張の糸を結ぶよりも、切れたものをそのまま床に放置してもう二度と見ないことを心に決めたかのようだった。飲食店の消毒検温に一席空け、時短営業、マスクの着用をお願いするお店の張り紙、私もめんどくさいなと思うことが増えた。別にマスクも検温も消毒もできるけど、気分的にはもううんざりなのだ。人の飛沫が飛び交う狭く小汚い居酒屋で、めちゃくちゃでかい声でバカ騒ぎしたい。そんな、普段も特にしないようなことをしたいと思う程度には、疲れていた。

 正肉系を食べ終え、レバー、ホルモンと焼き進めた私たちは、コプチャンで焼き物を終了、シメは冷麺にした。焼肉を食べ終えた私は、自分があらゆるものに対し許しを与えられる存在になったかのように、全能感に似たものに満ちていた。肉を食べただけでこんなにも強烈な満足感を得られるのだから、焼肉とはもはや自己実現の一つの手段と言っても過言ではないかもしれない。
 帰り道、私カルディ寄るからあっちから行くわ、なんやシュートレンて食べもんが美味しいって聞いたんよ、と言ってひかりは大きく手を振ると途中離脱した。
「今のひかりのセリフなんかおかしくなかった? すごい違和感があったんだけど」
 眉をひそめて手を振りながら隣の和香に聞くと、「シュートレンじゃなくて、シュトーレン!」と苦笑いで答えた。
「それだ。ありがとうすっきりした」
 微笑む和香が、きっと無理していることに気づいていたけれど、何となく私には慰められたくないんじゃないかという気がして、クリスマスや年末年始の過ごし方なんかについて当たり障りのない話ばかりしていると、最近耳鳴りがひどくてと和香は眉間に皺を寄せた。
「別れたから?」
「そうかもね。ストレス溜まるといつも三半規管に出るんだよ」
「やっぱり、辛いの?」
「辛いけど、辛いのが普通だったし、これからも辛いのが普通なんだと思う。恋愛のいい時、一瞬だけが辛くない時だよ」
「その一瞬を求めて恋愛をし続けてるの?」
 そうかもねと答える和香の横顔に、延々終わらない流れ作業をしている人のような気怠さが見える。和香の不倫には、自分を普通に保つための頓服薬を飲み続けるのに似た中毒的なものを感じてきたけれど、彼女は不倫をしていても辛いのだ。彼女はあらゆるものを背負いすぎなのではないだろうか。半ばヒモ化している夫、これから受験を控えた子供、常に容量オーバー気味の仕事、そこに不倫まで加えて、彼女が何を実現させようとしているのかといえば、普通の生活と僅かな辛くない瞬間だ。専業主婦の妻を持つ不倫男はただの遊び人のように見えるけれど、和香に全く違った印象を持つのは、きっと男女が逆転しても逆転しないところがあるからだ。結局のところ、家事や育児をしていても、根津くんはシッター的な存在で、家庭内の状況把握や子供の責任の所在は和香に一点集中しているのではないだろうか。
「和香は背負ってるものが多すぎるんじゃないかな」
「考えてみれば志絵は独身だし、今は子供とも暮らしてないんだもんね」
「私は今自分自身と自分自身の仕事以外何の責任も負ってない。もちろん子供のことは責任あるけど、今は実質的な責任は負ってない。和香にも、そういう身軽さが必要なんじゃないかな」
「望んで手に入れてきたものだし、そのために多くの犠牲を払ってきたものだよ。ここまでのコストを考えると手放すなんてことはできないし、精神的にもそこが私の拠り所になってる。それがなきゃ無理だから、それのためにできることをしてるんだよ。卵が先鶏が先みたいな話じゃない。これがなきゃ無理、が私にははっきりとあるの」
 そっかと答えるとそれ以上かける言葉は見当たらず、地下鉄の入り口まで来て止めていた足を踏み出しながら「じゃあまた、何かあったら連絡して」と手を振った。同じように手を挙げた和香の姿が目に焼き付いて、フィルターのようにどこを見ていても彼女の姿が浮かんでくるようだった。私にとっても、夫たちや子供は望んで手に入れ、多くの犠牲を払いながら継続してきたものだ。激突さえされなければ、未だに手中にあったのかもしれない。それでも、多くの女性が手放せずにいるものを激突された衝撃で手放したことは、さほど悲劇的なことではないのかもしれない。

 すごかったね、めっちゃカッコ良かった! 楽しかったー! コロナのために時間をかけて少人数ずつの規制退場となったライブハウスを出て、興奮冷めやらぬまま飛び跳ねながら言う。水たまりの雨水を派手に跳ねさせたライブ用のマーチンは、立ち位置が決まっている規制ライブだったため一度も踏まれることなく生還した。考えてみれば、十ヶ月ぶりのライブで、久しぶりに履いたマーチンは前よりも少し硬く感じた。
「ほんと、かっこよかったなあ」
「ね! めちゃくちゃかっこよかった! 和田さんのボーカル破壊力すごすぎ! 持田くんのベースがキモい!」
「But strongの時の指弾きキモかったよね」
 そうそうあの時のエフェクトすごく効いてたよね。原曲と印象が全然違った! 私は言いながら食べログを開いて何食べる? と聞くけれど、蒼葉はいつもの「何でもいいよ」で、私はちょっと前に保存していた神泉の韓国料理屋にしようと決める。久しぶりの渋谷だったけれど、人出はいつも通りか少し少ないかなくらいで、もはやほとんどの人が大して自粛していないことを痛感する。それなりにお客さんの入っている韓国料理屋で落ち着くと、二人前からのサムギョプサルとかタッカルビを頼んでしまうか、それともアラカルトで色々頼むか散々悩んだ末、トッポギとチヂミとチーズブルダックと豚足を頼んだ。パンチャンも出てきて、あれこれをつまみながら、私たちは今日のセトリや演奏、次に行くライブについての話が止まらなかった。ずっと飛び跳ねたり踊ったりしていたダメージで脚全体が、拳を突き上げていたせいで右腕右肩が、ステージを見上げていたのと曲に合わせて振っていたのとで首が痛かった。換気をしている店内のせいで節々に寒さも染みる。
「このトッポギ、私が食べてきたトッポギの第三位内に入る!」
「この間、大久保の韓国料理屋からトッポギウーバーイーツした時も言ってたよそれ」
「この間は第五位じゃなかった?」
「いや、三位内って言ってた」
「ほんとかなあ。あ、ねえ今日ラブホ泊まっていかない?」
「いいけど、化粧品とか大丈夫?」
「ファンデとアイブロウあるから大丈夫。久しぶりじゃない?」
「まあ、この間の締め切り明けの時にも行ったけどね」
「前は会うたびにホテルに行ってたのにね」
「家は便利だからね。大きなテレビでYouTube見れるし、ネトフリもアマプラも見れるし、冷蔵庫に何かしら入ってるし、チェックアウトの時間気にしなくていいし。ラブホのYouTubeって操作しづらいキーボード入力だし、なんか途中でブツブツ切れるし、VODもロクなの入ってないし、チューハイもビールも割高だし……」
「私たちはホテルに入る時、その体験を買ってるんだよ。あの時チェックアウト時間に遅れたよねとか、ラブホのキーボードの電池切れ率の高さとか、スマホミラーリングできるって看板に惹かれて入ったのに設定するのに三十分かかったとか、そういう思い出話ができるじゃん。潮も吹けるし」
「潮は家でも吹けるよ。バスタオル敷けば」
「でもたまには刺激が欲しくない?」
「刺激か。俺はあんまり刺激を欲さない方だからな」
 倦怠期みたいなこと言わないでよと言うと、倦怠期なんかじゃないよ生まれてこの方刺激が欲しくない人間なんだよと蒼葉は笑う。

 昔何度か来たことのあるラブホに入ると、私たちは丸い風呂を泡風呂に仕上げ、レインボーに光る照明を点けて入った。かつて、これが日常だった頃がもう遠い昔に感じられる。私たちは慣れる生き物だ。何かを失ったとしても、その状態に慣れがくる。これまで数々の耐え難い別れや喪失や絶望を繰り返しながら、ここまで生きてこれたのが不思議だけれど、それは慣れの恩恵と言える。
「どうして志絵は最初からそうならないように気をつけることができないの」。不倫がバレた時、直人はそう言った。こんなことになって申し訳ないけどもう引き返せないと言う私に掛けられた言葉だった。正直、直人に不満はなかった。なかったのに、行哉を好きになって好かれてしまっただけで、直人との全てを壊すことになった。あの他の男と寝たことがバレた時のガラガラとあらゆるものが崩れ落ちていく音を、二度と聞きたくない。恐怖ですらあるのに、それでも好きな人と気持ちが繋がった時高揚の中で絶対に一回で済むはずがないのに一回くらいと自分に言い訳をしながら全てをかなぐり捨ててしまうのは何故なのだろう。蒼葉とセックスをしながら、気持ち良さそうな彼を見ながら、この人を泣かせたくないと思う。それでも、これ以上になく強く握っていると思っていても、激突されたらやはりまた手から零してしまうのだろうか。
 蒼葉が射精すると、私たちは性器をティッシュで拭き、潮の跡にバスタオルをかけ、仰向けで布団を被った。私の首の下に腕を回し、好きだよと頭にキスをして言う蒼葉を見上げ、「どこが?」と聞く。
「どこが好き?」
「全部好き」
「じゃあどこが嫌い? よく言うよね。好きなところよりも嫌いなところを挙げられるのが本当の好きだって」
「そうなの? 嫌いなところなんてないけどな」
「じゃあ私が蒼葉の嫌いなところ言ってあげる。優柔不断、服に無頓着、何をするにもちょっと腰が重い、自分の気持ちを言葉にする努力を怠る」
「言葉にする努力はしてるよ。こんなに自分の気持ちを伝えてるのは志絵だけだよ」
「足りない。私の嫌いなところは?」
「うーん、嫌いなところか」
 蒼葉は呟いてしばらく天井を見上げ、私をじっと見つめた後、やっぱりないと思うんだけどと困ったように言う。
「それって本当に好きじゃないんじゃない? ドラマとかではよくそういう話が出てくるよ」
「でも、本当に嫌いなところはないし、不満だってないよ」
「私は自分で考えたら際限なく出てくるよ。だらしない、落としたものを拾わないし食べ物をこぼす、整理整頓ができない、スケジュール管理ができない、電気を消し忘れる、嫌なことは後回しにする、買い物に行くと大抵何かを買い忘れる」
「そんなの別に嫌じゃないよ。俺がやればいいんだし」
 そう? そっか、まあそうだよね。言いながら、それを言ったら私が挙げた蒼葉の嫌なところだってだから? って感じだよなと思い直す。
「あ、一個あった」
「なに?」
「結婚してくれないところ」
 思わず笑って顔を上げると蒼葉を覗き込み、前髪を撫でる。
「いつかするよ」
「いつ?」
「まあ、そう遠くない未来に」
「俺には未来なんてないんだよ」
「どういうこと?」
「俺には今しかないってこと」
 別に彼は刹那的な生き方をしている訳ではないし、将来のこともそれなりには考えているはずだ。でも多分そうじゃないんだろう。どこか、彼の想定している未来はファンタジーで、実際に訪れる未来だという気がしないのだろう。自分が二十そこそこの頃を思い出すとよく分かる。未来とか将来という言葉は常に靄に包まれていて、明確なものが何一つ見えなかった。だから、今ある世界を生きるということでしか、自分は未来に近づくことができなかった。むしろ考えてみれば、今クリアな未来を想像し見つめていると信じている自分の方がどうかしているのかもしない。
「しようね。結婚」
「そっか、俺は結婚するのか」
「したいんでしょ?」
「したい」
「結婚式とかは?」
「したくないな。人前に出るの嫌だし」
「私がどうしても挙げたいって言ったら?」
「そしたら、がんばるよ」
「いやいや冗談、私も挙げたくないからいい」
 結婚式を挙げてたら、俺たちはこんなことになってなかったのかもしれない。吾郎が離婚の直前、そう言った。結婚式って、誰かに認識させることで社会的な既成事実を作るっていう意味があると思うんだよ。俺たちは結婚を、あまりにも個人的な事象としてやり過ごしてしまったんじゃないかな。
 結婚と離婚、吾郎と直人と理子、色んな人たちへの愛と感情と寂寥と自己嫌悪とあまりにも耐え難い悲しみでぐちゃぐちゃになっていた当時の私は、自分で精一杯になっていて自分の結婚の総括や批評はできなかったけれど、今改めて思い返すと吾郎の言葉にそれなりの重みを感じる。完全に個人的なものとしてしまうと、二人の気持ちしか結婚の礎にならない。でもそれが社会的なものとなれば、二人の気持ちをプラスアルファが補強してくれるのかもしれない。それは時に二人の呪いにもなり、時に二人を支える頑強なコンクリートのようなものにもなるだろう。
「私たち、一緒に住んでるしもう結婚してるようなもんだと思うけどね」
「不安なんだよ。いつか関係が壊れるんじゃないかって。志絵は色んな男の人と仕事で関わってるし。結婚したら、気持ち的にも楽になるだろうなって思う」
 結婚で不安が埋まると、関係がそれによって強固なものになると、浮気防止にもなると、安易なイメージで考えている蒼葉が、愚かだと思うと同時に、吾郎と結婚する前、私も同じようなことを考えていたなと思う。そうすれば私は、私の魂が多少なりとも救済されると信じていたのだ。離婚に至らせたことへの罪悪感も後悔も、癒着していた生活と人が自分から剥がされる痛みも、重ねてきた思い出が巡り巡る拷問も、その浅はかさの罰だったのかもしれない。それでも浅はかでなければ、私は何の経験も積めなかった。結婚の記憶で胸が苦しくなり涙が浮かんだのを隠すため、蒼葉に抱きつき裸の体をゆっくりと撫でる。もう一回する? スポーツをもうワンセットやるか誘うような爽やかさで彼は言って、私の胸に手を伸ばす。愚かでなければ人間の繁栄はあり得なかったし人間は思考を停止させないとセックスだってできない愚図だ。そんなことを思いながら、蒼葉に促され彼に跨りシックスナインを始めた。

illustration maegamimami

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連載【デクリネゾン】
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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』『パリの砂漠、東京の蜃気楼』『fishy』 等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。

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HB[エイチ・ビー]は、集英社グループの出版社・ホーム社の文芸サイトです。2017年11月にウェブサイトを立ち上げ、2020年にnoteへ引っ越しました。小説やエッセイを中心に、毎日をより楽しく過ごすための、さまざまなコンテンツをお届けします。