布団のスープ|千早茜「こりずに わるい食べもの」第6話
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布団のスープ|千早茜「こりずに わるい食べもの」第6話

 もう不惑を越したので、自分の機嫌を取るのが大分うまくなったと思う。
 仕事が忙しくなりそうだったり、ストレスフルなイベントが入る予定があったりすると、その先にご褒美を用意してひたすら馬のように駆ける。ご褒美こと人参は十中八九、食べものである。絶対に期待を裏切らないと信じている大好きな店を予約する。

 ストレスフルなイベントは多々ある。大きな歯の治療や式でのスピーチといった、腹がぐるると下りそうな緊張を伴うもの。取材や対談といった、コミュニケーション能力を必要とするもの(平素、誰とも口をきかないひきこもりには相当につらい)。学生の頃は団体競技が最高にストレスフルだった。しかも、ご褒美を自分で用意できない。大人になって自由に使えるお金を稼げるようになり本当に良かったと思う。

 ストレスフルなことのかなり上位にくるのが引っ越しだ。引っ越しのなにが嫌かというと、長丁場なことだろうか。ものを詰めて、移動し、また出す、という単純な作業なのに、数日もしくは数ヶ月かかる。詰めるものが「生活」だからだ。「生活」というぬくい布団のような存在をことごとく破壊するのが引っ越しだ。引っ越しをする前もした後もしばらく「生活」は損なわれ続ける。まず、どこになにがあるか把握できない(できても容易に取り出せない)、部屋が汚い、いつもの匂いじゃない(梱包資材や前住民の残り香)、この三点がなかなかにつらい。眠っていたら突然に布団を引っぺがされたかのような暴力に常に晒されている気分になる。

 引っ越しがあると、必ず三キロは痩せる。引っ越す前は梱包し終わらなかったらどうしようと不安で食が細くなり、引っ越した後は新居になかなか馴染まず旺盛に食べられなくなる。生き物は安心できる環境でないと腹いっぱいにものを食べられないのではないかと思う。

 二月の末に京都から東京へと引っ越しをした。今回の引っ越しは確定申告や新刊の発売と重なってしまい、なにかの拷問なのかと思うくらい忙しかった。年明けからの記憶が朧なくらいだ。本はいくら詰めても減らず、連載の締切も否応なく迫ってくる。引っ越してからネットはうまく繋がるだろうか。しばらく段ボールの山に埋もれて暮らすことになるかもしれない。スーパーやドラッグストアや役所を、知らない街で一から探さなきゃいけない。
 ああ、もう引っ越すのやめる。喉元まででかかった声を呑み込み、東京の大好きなビストロに電話をかけた。都内の飲食店に時短営業要請がでている時期だった。営業していないかもしれない、と不安になりながら呼び出し音を聞く。お店の方が電話にでて「やってますよ」とコロナ禍前と変わらぬ声で言い、予約名を言うと「ああ、やっぱり千早さん」と声が笑んだ。これを人参にがんばろうと思えた。

 案の定、引っ越してから食欲が大いに減退した。空腹は感じるのに、いざ食べるとうまく体が受け入れない。今回は固形物が呑み込みにくくなってしまった。食べものをいつまでも咀嚼し、口の中でぐるぐるとまわす。汁物を欲し、味噌汁ばかり飲んでいた。

 とりあえず生活できるよう部屋を整え、発売したばかりの新刊のプロモーションをこなし、店の予約日を迎えた。打ち合わせをひとつ終わらせてからひとりで赤坂へ向かった。
 京都に住んでいるときも東京に行くたびに通っていたフランス南西部料理のビストロはメニューがずっと変わらない。変わらない味を求めていく。フォアグラ、じゃがいものクリームグラタン、山羊乳チーズのサラダ……どれも大好物だが、絶対に欠かせないのはガルビュールだ。白いんげん、じゃがいも、ポロ葱、蕪、根セロリ、ちりめんキャベツといった白い野菜と生ハムを骨ごと煮込んで作られたそれは、なんのかたちも見定められないほどどろどろで、一見とても地味なスープだ。けれど、脳が蕩けるようなものすごい良い匂いがする。食べると、まず熱いと感じる。乳化した脂の熱さだ。熱くて、とろとろで、脂の香りが鼻に抜け、野菜の滋味が舌にじんわりと優しい。ため息がでる。身体中のこわばりがゆるんで、美味に浸るふにゃふにゃした物体に成り果ててしまう。ぬくい布団みたいだ。このままここで眠ってしまいたくなる。
 その日、客は私だけだった。店員さんはちょこちょこと話し相手をしてくれたが、人間の尊厳をなくしてしまったかのような顔でガルビュールを食べる間はそっとしておいてくれた。

 栗の蜂蜜をかけたフロマージュブランとアルマニャックアイスを平らげ、焼きたてのカヌレをハーブティーで食べると、細胞が生き返ったような気分になった。指先はあたたかく、胃腸もちゃんと動いている。見送ってくれるシェフに御礼を言い、夜道をひとりで歩いた。
 どこにいても、ひとりで幸せになれる場所があれば大丈夫だ。信頼できる店は胃腸の寝床だ。あの一杯のスープがあるこの街なら、当分は走り続けられそうだと思った。

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illustration 北澤平祐

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連載【こりずに わるい食べもの】
毎月第2・4水曜日更新

千早茜ちはや・あかね
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年『魚神いおがみ』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞を受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞、21年『透明な夜の香り』で渡辺淳一文学賞を受賞。著書に『おとぎのかけら 新釈西洋童話集』『男ともだち』『西洋菓子店プティ・フール』『犬も食わない』(共著・尾崎世界観)『さんかく』『ひきなみ』などがある。
Twitter:@chihacenti

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