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異世界への黒い扉|千早茜 第22話

 子供の頃、『美味しんぼ』をよく読んでいた。その中で、失恋の痛手で拒食になってしまった若い女性の話があった。どんなご馳走も食べようとしない彼女の病室で、主人公の山岡士郎は伊豆から採ってきた海苔を七輪で焼く。病室でパタパタ火を熾すってどうなの……と思うが、『美味しんぼ』の世界では食の優先順位がなににおいても勝るので、たびたび常軌を逸した行動が見られる。

 正直、わざわざ七輪だして海苔か、と思った。地味だ。ホタテとかハマグリとか、もっとジューシィーな海のものを焼いて欲しい。けれど、若い女性は海苔の焼ける芳ばしい香りで、小さい頃に海岸で海苔を採った記憶がよみがえり、生きる力を取り戻す。泣きながら食べる絵を見ても、うーん海苔か、という気持ちは拭えなかった。子供だった私にとって海苔は、手巻寿司の際に米と具を包むための、ただの黒いシートだった。甘い味つき海苔でなくては単体で食べようという気にはならなかった。

 大人になり自炊するようになっても、海苔に対するこだわりはなかった。海苔は湿気ると臭くて不味いことに気づいたので、なるべく少量で買い、真空パックに入れて保管するようになったくらいだ。海苔弁は好きだったが、どちらかといえば醤油にひたした海苔が好きなのであって海苔が好きなわけではなかった。磯辺焼きに不可欠な海苔も、ポッキーでいうならチョコのついていない柄の部分のような、持ち手として認識していた。でも、ふやけた海苔が手に貼りつくのは嫌だったので、おにぎりは塩むすびのほうが好ましかった。

 そんなある日、知り合いの編集者から海苔を貰った。「人から教えてもらって買ったら、とても美味しかったので」とその人は言った。ほうほう、と朝食に添えてみた。食べてみて驚いた。バリッと歯切れが良いのに口触りは優しく、風味もいい。しつこくない磯の香りがさっと流れる。「海苔ってこういう味なんだ」「さすが良いものは違うね」と殿こと夫と語り合いながら食べた。いままでは単なる米のまとめ役にしか過ぎなかったのに、米と張りあっている。ちぎって蕎麦にちらしても、和えものに使っても、海苔としての香りと存在感を失わない。自立した海苔に初めて出会ったと思った。よく考えてみると、寿司屋の海苔は美味しい。すぐにへたらないし、酢飯や具材にひけをとらない。海苔って大事だったのだな、と気づかされた。私は『美味しんぼ』をまるで理解できていなかったのだ。

 しかし、殿がよく言う「美味しいものに出会うのは不幸だ」の意味にも気づかされることになった。貰いものの高級海苔がなくなり、以前のようにスーパーで海苔を買うと、どうも味に納得がいかない。これじゃない感が半端ではない。「違う」「うん、違うな」と食卓で暗い顔になるので、貰った海苔を探すことにした。会社は九州にある有明海苔専門店だった。海苔を使った菓子なんかもある。「ネット注文するよ」と殿に言うと、「それやっちゃうと、もう戻ってこれないぞ」と意味深なことを呟いた。なんなんだ、海苔は異世界への扉か。「違うよ、美味しいものを知ってしまうともう戻ってこれなくなるんだよ」と殿は言った。

 それはどうだろう。名パティシエの作る洗練されたケーキを食べてしまったからといって、下町の洋菓子店の苺ショートが嫌いになるわけではない。フレンチレストランで牛頬の煮込みにとろけても、居酒屋のおでんに幸せになる。そう思ったので、深く考えずネット注文したが、殿の読みは当たり、それ以来ずっと海苔は同じ店から取り寄せている。朝食が米のときは必ず海苔をだすようになってしまった。もう、行ったこともない有明海から離れられない。「素材重視の食品は怖いよ」と殿は言う。

 先週の十六日、緊急事態宣言の範囲が全国に拡がり、私の住む京都も休業する店ばかりになった。外食ができなくなるので、家の食事を充実させようと同じ専門店からランクが高いものを取り寄せた。遮光袋に「特上」の金色のシールが貼ってある。
 それでも、いま食べている海苔だって相当に美味しいのだ。そう違いはあるまいと袋からだした途端に、うっとなった。
 輝きが違う。黒光りとはこのことかと言わんばかりに輝いている。しかも、つるつる! ソーラーパネルみたいだ。一筋の光も取りこぼしてなるものかという隙の無さ。少し曲げただけで、パアンッと折れる。薄くてパリッパリなのだ。

「あーあ、なんてことをしてくれたんだ……」一枚食べて、殿が言った。「やってしまいましたね……」と私もうなだれる。至高の海苔。米がかすむ。「これで手巻きしたら終わるね」と言いつつ、酢飯と具をたっぷり並べて、たらふく海苔を味わいたくなっている。だって美味しいんだもの。美味への欲望には抗えない。新型コロナウイルスのせいでまた新たな世界に足を踏み入れてしまった。

 でも、いまは非常時だとわかっているので、まだ戻れる気がする。平時に戻ったタイミングで元の海苔のランクに戻せばいいのだ。このまばゆい海苔はコロナ時だけのイベントだと、必死に自分に言い聞かせながら味わっている。

2020年4月24日

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。 
Twitter @chihacenti

※この記事は、2020年6月10日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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