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第12話 レモンの処遇| 金原ひとみ「デクリネゾン」

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 それで、弁明に来たの? 理子は呆れたように言って、「何この人ウケるんだけど」くらいの表情で吾郎を見やった。
「弁明に来たわけじゃない。無料で読める範囲だけじゃ文意が伝わらないだろうと思ったから、解説しに来たんだよ」
「別に気にしてないって言ったのに。志絵、スマホの見過ぎでネットの世界が全てだと思い込んでるんじゃない?」
「私だってあの見出しがどんなつもりで付けられてるのかくらい分かるよ。生まれた時からiPadが家にあった世代を馬鹿にしないで」
「分かったよ。私はただここにお昼を食べに来た。それだけだよ」
 テーブルには鍋が置かれ、まだ昼だというのにすき焼きが開催されているが、具材は豆腐とネギと肉だけで、野菜嫌いな二人が集まるとこうも野菜レスなすき焼きになるのかと感心しながら、こってり味の肉をしっかり卵に浸しかぶりつく。理子が一緒に住み始めてから、吾郎も少し料理をするようになったようで、先週は二時間かけてとんかつ作ってたと理子が話していた。
 ねえ志絵これ見た? と深刻そうな表情で蒼葉がスマホを差し出してきたのが一昨日のことだった。「我が子との生活を手放した作家が語る、コロナ禍で見えてきたもの」。見出しの横には私の顔写真が載っていた。Twitterのトレンドに載っているのは知っていたし、いずれ誰かから指摘されるだろうとは思っていたけれど、それを一番に見せてきたのが蒼葉だったことに、何となく後ろめたさを感じた。見出しをタップすると新聞社の公式アカウントのツイートに飛び、見出しの後に「コロナ後、彼氏と暮らし始めたことで、娘が出て行ったんです」という台詞が続く。
「見たよ。まあ、キャッチーな話だから使われるかもなとは思ってた」
「平気なの?」
「まあ、捏造ではないからね。記事に書かれていることは全て事実なわけだし」
「でも、ここだけ取り上げるのは悪意がない?」
「まあでも、それが彼らの仕事でもあるからね。記事に飛ぶと私の新刊情報が出るでしょ。拡散されればされるほど宣伝にもなるわけだし」
「でもこれは実際の志絵を捻じ曲げて伝えてるようにしか見えないよ。実際の志絵はこの記事にあるように割り切って子供と離れたわけじゃないでしょ」
「蒼葉、有料部分まで読んだの?」
「読んだよ」
 思わず笑って、スマホを返すと蒼葉の頭を撫でた。確かに理子がこの見出しを見たら傷つくかもしれないと、私も一瞬思ってはいたのだ。それでも、普段から理子にほとんど粘着と言っていいほど連絡し続けている私の気持ちを誤解することはないだろうと、私はどこかで慢心していたのかもしれない。蒼葉の納得いかなそうな表情を見ている内、そんな気がし始めていた。一回理子とも話すよと言うと、蒼葉は安心したような表情を見せた。私の中のイメージとしては、捨て猫を拾ってきたら先住猫が別の飼い主のところに逃げてしまったような感じで、でも猫と違うのは捨て猫が先住猫の気持ちを考えられるところだ。
「なんかやっぱ、俺はこの見出しちょっとぎょっとした」
「それは、自分のことが話されてるって分かったから?」
「それは別にいいんだよ。何ていうか、この見出しのチョイスに浅ましさみたいなものを感じたっていうか」
「もっとひどい見出しを、蒼葉は毎日毎日ニュースサイトとかTwitterで目にしてるはずだよ」
「それが自分と関わる人の記事でされるのは、ちょっと違うよね。実際コメントしてる人たちが志絵に対して罵倒してるのとか見ると、やっぱきついし。きちんとした新聞なのに、見出しで煽ってアクセス数稼ごうとしてるの何なのって思う」
 言葉を選びながらそう言う蒼葉が、その真っ当な感覚を持ち合わせていることに感動する。もしも理子が何かで炎上してネット上で集中攻撃されたりしたら、それだけで自分の胸は張り裂けそうになるだろうに、私は私を大切に思う人の気持ちに対しては想像力が働かなくなっていたとも言える。

 しかしこの人たちは別に何とも思わないのだ。私はお椀から肉を啜りながら二人を見つめて思う。吾郎に関しては電話でこの話を切り出した時愉快そうでさえあった。理子は本当に何とも思っていないのか疑わしいところではあったけれど、吾郎と暮らしていると自然に斜に構えた態度が身についてしまうのかもしれない。理子が私と離れて生活するようになってから、彼女が私の予想の範囲を超えたところに生きているのを実感することが増えた。私と暮らしていた頃にはしていなかった言葉遣い、考え方や主張まで身につけたように感じる。吾郎と暮らし始めたせいもあるだろうし、単純に成長して自立し始めたのかもしれない。それでも自分には理解できない面を増やしつつある彼女を見るにつけ、疎外感や孤立感を抱いてしまう。
「一つ言っておきたいんだけど、私はいつでも理子との生活を再開したいと思ってるよ。理子がいない生活は本当に寂しい」
「いつも聞いてる。ママの気持ちは分かってる。でも、私の望みはそうじゃない。今のところはね」
 私よりも吾郎と暮らしたいのは、吾郎が門限や宿題について小うるさくないからとか、生活リズムや態度に口出しをしないからとか、そういうただ単に自分に都合のいい場所にいたいからではないのだろうか。そう考えてしまう私は、自分と暮らすことを望まない理子という存在が心底許せないのだと改めて痛感する。理子が私よりも暮らしたいと思える人がいることを、本来であれば支持し応援してやるべきなのかもしれないのに、私にはそれができない。
「ママって、直人から結婚の話聞いたんだよね?」
「直人さん、結婚するの?」
 聞いたよと理子に頷き、今の彼女と結婚するんだってと吾郎に答える。直人が何もかもを理子に伝えていることに、マザコンの彼氏が全てをママに報告しているようなモヤモヤを感じる。一緒に暮らしていた頃から、直人は私よりも理子の機嫌を気にしていた節があった。
「皆前向きに生きてるんだから、ママだって前向きに生きていいんだよ。なんか、吾郎って隠居老人みたいなところあるじゃない? ひょうたんとか作ってるし。私はそういう人と一緒にいるのが落ち着くんだよ。ママが恋愛ばっかりしてるの見てて、だったら何で私と暮らしてるんだろうってちょっと思ってたし。私はまだ恋愛とか興味ないし、恋愛で忙しいママとより、隠居老人といる方が楽なんだよ」
 前に来た時はベランダで天日干しされていた十個ほどの大小のひょうたんが、今日はニスを塗られた状態で棚に並べられているのを見て、完成したんだと私は手にとってまじまじと見つめていたのだ。もう一回仕上げにニスを塗るからまだ完成じゃないよと吾郎は満足げに棚を眺めていた。ここまでに、種まきから五ヶ月ほどかけてひょうたんを育て、収穫後中をくり抜き、巨大なバケツで水に漬け、中を腐らせて更に中をくり抜き、今度は表皮を腐らせ、長い時間かけて完全に乾燥させ、仕上げにニスだ。腐らせる工程ではとんでもない悪臭がするとも話していた。どうしてそんな面倒なことするんだろう、吾郎に対して、私はあらゆるタイミングでそう思ってきた。でも呆れて傍観していると、こうして面倒さを乗り越えちょっと見惚れるくらいの代物を作ったり完成させてしまう吾郎に、私はどこかいつも憧れている。もちろんそこに多数の失敗を見てきてもいるけれど、大抵の人なら思いついてもくだらないとかめんどくさいとかの理由で諦めることを、一つ一つの過程を楽しみながらこなせてしまう才能が、彼には備わっているのだ。そして彼は彼で、「何でこんなに面白いことを皆はやらないのだろう」と私たちに疑問を抱いている。
「恋愛ばっかりしてたわけじゃないよ。理子との生活も大切にしてた。毎日理子のことを考えて、料理もお弁当も作ってた。テスト期間は夜食を作ったりして、理子の勉学と健やかな生活を心から望んで、自分にできることをしてきた」
「母親と恋愛って、相性悪いよ。ママは無理やり両方こなしてただけじゃん。何だかんだしょっちゅう家空けてたし」
「多くの人はゼロか百かで生きてないんだよ。二、八とか、六、四とかで生きてる。今は世界的にステップファミリーが多いし、母親と恋愛を切り離すのは保守的かつ不自然だよ」
「私はただ、今の生活が心地いいって言ってるんだよ。ママがデートに行くたびにパパたちとかおばあちゃんが駆り出されてるの、なんかちょっとなって思ってたし」
「子供を持ったら親は恋愛をするなって言うの? それに子供の心地よさを追求してやることだけが親の人生じゃないでしょ。きつかったかもしれないけど、受験勉強をしたから理子は今の中学に入れた。楽な方に楽な方にいくだけがいいことじゃない」
「別に恋愛してもいいよ。でもだったら私だって住む場所くらい選んでも良くない? それに別に、楽な方にいってるわけじゃないよ。ここでの生活だって、私も家事やらなきゃいけなかったりご飯作らなきゃいけなかったりとか、大変なこともある」
 それでもそっちの家にいるより心地いい。理子のその先の言葉を勝手に想像して、勝手に傷つく。あんなにも二人の生活が楽しく、充実していると思っていたのは私だけだったのだろうか。まるで自分を捨てて出て行った恋人に縋る女のようだ。滑稽で笑えてきたけれど、実際に笑ったら鼻で笑ったような感じになって、自分を嘲笑されたと思ったのか理子はムッとした様子でごちそうさまとスマホを手に取り、「遊び行くから着替えてくる」と寝室に戻り、着替えて出てくると行ってきますと軽快に伝えて風のように出て行った。
「いつも誰とどこに行くか言わないの?」
「言わないよ。聞けば言うだろうけど」
「吾郎は嘘言われたって分からないでしょ」
「今日はなんか機嫌が悪いね」
「吾郎も少し考えてよ。まだ中学生なのに、放任が過ぎるよ。どうしてそんな無関心になれるのか訳が分からない」
「志絵がこうなる時は、大概彼氏とうまくいってないか小説がうまくいってない時だけど、今回はどっちなの?」
「深読みしないで。ただ何でそんな無関心になれるのか分からないって話」
「普段ちょっとどうなんだろうって思ってることが、彼氏とうまくいってない時と小説がうまくいってない時に爆発するんだよ」
 確かに自分にそういう傾向はあるけれど、今はさほど何かがうまくいっていない訳じゃない。そう思いながらも、どちらかと言えば彼氏ではなく小説の方だとも思う。
「小説かな」
「今書いてるやつ? それともこれから書くやつ?」
「新連載のテーマが定まらない」
「それだったら、この間『ムラクモ』に書いてた掌編。あれを中編か長編にしたらいいと思うよ」
「あれで一本は無理じゃないかなあ」
「あの話をあれで終わらせるのはもったいないよ。あれは本当に、ここ最近読んだ中で一番面白かった」
 聞きながら思わず笑みが溢れて「何で言ってくれないの? 言ってよ!」と声を上げ、手元に落ちていた朝ごはんに理子が食べたっぽいシリアルを吾郎に投げつける。
「別れた夫が自分の小説読んでアドバイスしてくるって、気持ち悪くない?」
 まあ確かにと笑いながら、そういえば「リテラズ」に載ってる笠田さんの鬱短編読んだ? とか、最近相原さんの小説が突き抜けてて面白いとか、この間賞とったあの本が期待外れだったなどの話題で盛り上がり、安っぽい紙パックに入った焼酎が進んで半ば酩酊しながら、何となくこの人だったら何て言うんだろうと気になって、私は数週間前に発作のような症状が出たことを告白する。
「まあもともと別にメンタル強くないし、意外ではないね。前にもそんなことあったよね?」
「三年くらい前に何回かね。メンタルの問題だけじゃなくて、身体的な問題もあるような気がするんだよね。吾郎も老いを感じてるって前言ってたよね」
「感じてるね。疲れが取れないし、朝早く目が覚めるし、老眼も、白髪も出てきたし、飲み過ぎると次の日は何もできないよ。誰と会っても刺激は受けないし、もう世界を変えようっていう気持ちで仕事してない」
「私も老いを感じるんだよ。この間の発作も、体と心の老いのバランスが乱れたことから起こったんじゃないかって思ってる。体にできることと、心にできることに差がある感じ。まあそもそも、自律神経失調症って交感神経と副交感神経のバランスが乱れることによって起きるから、脳の命令が体に合ってないってことなのかもしれないけど。数ヶ月前に忙しい時期があって、膨大な締め切りの山を越えたんだけど、その疲労がまだ取れてない気もする」
「まあそもそも、体感時間が若い頃とは違うからね。もう一年とかあっという間だし。この歳になったら一日とか一週間じゃなくて、一年とか長いスパンでバランスとることを考えた方がいいのかもしれないよ。二ヶ月忙しい時期が続いたら四ヶ月休む、みたいに」
「そんなおっとり仕事できるほど稼いでないよ。そうそう、私ずっと不思議だったことがあって。作家って皆結構昔のプロフィール写真使い続けてる人が多いじゃない? 何で古い写真使うんだろう、単純に若い頃の方が見た目がいいからかなって思ってたんだけど、この歳になってみると、このプロフィール写真何年前のだっけ、五年前なら最近だな、って思うんだよ。十年前だとちょっと古いかな、って感じ。だから、彼氏がえっこれもう二年前? とかYouTubeとかでアップロードの年見て驚いてたりするのが新鮮で。二年前なんて、私たちからしたらついこの間だよね」
「理子見てても思うよ。凝縮した日常っていうか、一日を生きてる。あの子にとって日々は連なってないから日常とか生活じゃなくて、ただ起きたら一日がそこにあって、ただ今日一日を生きてる感じなんだよ。まあ、やってることは勉強とかじゃなくて遊びだけど。俺にはもう十年前がこの間に思えるからね」
 蒼葉は、遊び歩かない。誘われてもほとんど遊びに行かない。大学がオンライン授業になったことで人と会わなくて済むようになったことに心から感謝している若者だ。それでも彼の中で目まぐるしいほどの速さで時間が巡っているのが分かる。音楽やスポーツなど好きなものへの感度が高く、趣味範囲のことはあらゆるアプリを使い全てリアルタイムで把握している。そしてそれだけ情報の渦の中にいながらも時系列は明確で、○○の方が先、○○の方が後などと私の記憶違いをよく訂正するし、好きなアーティストのCDリリース順やタイトルや曲の並び順をほぼ記憶しているその能力には驚かされる。私は昔から記憶力が弱かった気がするけれど、今程ではなかった気もするし、そもそも世界全体がもっとソリッドでビビッドに見えていた。一歩間違った道に足を踏み入れれば明日にも巨大なガラス片が体を貫通し死ぬ気がしていたし、どぎついピンクや真っ青、真っ黄色、みたいな世界にいた気がする。結局生きていくことを継続すればするほど、私たちの浸かっている風呂は濁りゆき温くなり続けるものなのかもしれない。
「小説のことありがとう。考えてみるよ」
 あれは書いた方がいいよ。あの視点で書ける作家、今多分他にいないから。吾郎はお世辞も言えないし全く気の利かない男なのに、小説の話になると人を魅了する。多分彼が嘘をついていないからだ。会話がなくなった途端、理子の拒絶の言葉が鮮やかに蘇り、私はまた静かに傷つく。自分が求める人が自分を求めてくれない辛さを、娘から教えられるとは思っていなかった。かつて吾郎と結婚していた頃、理子がお風呂もトイレもロクに一人で入らせてくれなかった時期があった。トイレに入るたびドアをバンバン叩いて私を求める姿、吾郎に抱っこされながら裸でシャワーを浴びる私に手を伸ばして泣き喚く理子の姿が蘇る。理子があんなにも私を求めていたのはついこの間だったのにと思いながら、私は時間の流れの速さを憎む。まだまだ、私は理子に求められると思い込んでいたのだ。この悲しみは、酸化している。そう思った。私の悲しみは理子が出て行くと言い始めた時から継続していて、あの時からずっと悲しかったけれどもう酸化して当初の鮮やかさを失っている。感情は生物で、人を好きな気持ちも執着も悲しみも寂しさも嫉妬も悔しさも、全て酸化していく。味はするけど、湿気ている。食べながら私も、もう食べたくないと心からうんざりしている。

「ムラクモ」に書かれていた掌編ですか、すみません読んでません。Zoomで繋がった中津川さんは、二ヶ月前に発表した掌編の話をすると即座にそう答えた。
「あ、別にいいんです。主人公を十代の中学生か高校生にして、そこから見える家族や社会を書いてみようかと思っていて。中津川さんが以前おっしゃっていた、社会的正当性の外側にある視点から書くことで、ポリコレとか新しい家族の形とかに対してフィルターをかけずに描けるんじゃないかと思って」
 言いながら、小説のコンセプトを言葉にするとどうしてこうも安っぽくなってしまうのだろうとうんざりする。この小説で伝えたかったことは? 取材でそう聞かれる時も思うが、そもそもそれを言葉にするということ自体が無粋で馬鹿げているしそれ以上にその本質を損なう行為ではないだろうか。一話くらい書き上げて読んでもらってから対話するべきだったと私は後悔し始めていた。
「いいじゃないですか。取材対象も近くにいるし。とりあえず今日中に『ムラクモ』読みますね」
「まあ、離れて暮らしてますけどね」
「あ、そういえばあの見出し、見ましたか? ちょっとどうなのかなと思ってて。もし天野さんが嫌だったら見出しの変更を依頼しようかと思ったんですけど」
「いや、いいですよ。もうあれで拡散してるし。それにあの見出しつけたの、取材に来た記者の方じゃないですよね。紙の方では違う見出しだったし」
「多分そうですね。でも娘さんが見たらどう思うかちょっと心配したんですけど」
「いえ、一度話したんですけど、大丈夫そうです。一番気にしてたのは彼氏です」
 ああ彼氏……と中津川さんは言って、そう言えば体調はその後大丈夫ですかと続ける。
「今のところ大丈夫です。一回ざわっとしたことがあったんですけど、発作まではいきませんでした」
「そうですか。そう言えばあの後太田に天野さんが倒れた一連の話をしたら、いいなあ私も天野さんの彼氏見たかったって騒いでましたよ」
「太田さんは意外と冷徹なところがありますよね」
「天野さんの彼氏は、本当に若いですね」
「若いって、話してましたよね?」
「実際に見ると、ああ本当にすごく若い、ってなりますね」
「ぎょっとしましたか? 女性よりも男性の方が年齢差に引くんですよね」
「引きはしませんよ。でもリアルに若い子を見ると、本当に若いなあって。ほら編集者って、三十代前半くらいまではまだまだ若手ってイメージじゃないですか。だから僕もなんとなく大学生みたいな自意識のまま今に至ってる気がしてたんですけど、本物の若者を見ると本物の若さに驚くというか。実際、今の部署にいると新入社員とかと関わることってまずないんで、若者自体をちょっと抽象化して捉えてしまってるんでしょうね」
「それは男性編集者に多い病ですね。物事を抽象化して、観念的に捉えて、コンセプチュアルに理解する。私の最初の夫もそういう人で、映画とか小説の感想を彼と話すと興醒めすることがよくありました。今はもう慣れたし、自分にもある程度そういう視点が芽生えたところもあるんでしょうけど」
「まあ、僕も確かに分析と批評をしたがる人間ですね。彼女にも割と嫌がられてきました。でも、正直物づくりに携わる人はその辺に関して無自覚でいちゃいけないと思うんですけどね。分析批評ができないと、それこそどんな意見が自分の作品に飛んでくるか分からないし、人から何を言われるかを分かってる人の方が、その先に行けるじゃないですか」
「確かにある程度の自己分析自己批評はできた方がいいと思います。でもそれが過ぎると、現実感覚を喪失して実際の若者のことを思い違いしてしまったり、自分のことを大学生メンタルだと思い込んだりしてしまうんですよね」
「まあ、机上の空論的なところをよりどころにして生きてるところはあると思います」
「所で、未だに自分のことを若手だと思ってるって言ってましたけど、編集者は大体四十代に入ると少しずつ現場への意欲を喪失し始めますよ。若手から、中堅を抜かして、悟りの境地に入るんです。もちろんそうじゃない人もたくさんいますけど。例えば太田さんなんかは恐らく新入社員の頃から仕事は生業と割り切っていた人で情熱なんて端からなかっただろうし、吉田さんのように五十をすぎても熱意を持っている人もいるし」
「それは僕も実感してます。漫画とか小説の編集者って、途中から手練れが過ぎて、あるいは才能がなさすぎて俯瞰しちゃうんですよね。それで、一定の物を作り上げて、それなりの売り上げを維持していればそれでいいってなっちゃうっていうか。実際、いつまで仕事に夢中になれるんだろうって、僕も思いますよ。まあ今も夢中になれない案件はたくさんありますけど」
「そういえば、ひかり、奥田ひかりがこの間『文英オンライン』で書いてたコラムが面白くて。自分の中での小説の役割と、社会的な意味での小説の役割が両方とも少しずつ変化してきて、その総体に対する認識がアメーバのように変わっていくっていう話」
「読みました。奥田さんの担当が次はこういうテーマで書いてもらおうかなって言ってました。力が抜けてて良かったですよね。あれも一つの熟練、悟りなんでしょうね」
「彼女、気張って書いてた時期もあって、その頃も面白かったんですけど、最近の小説は原点回帰したような魅力があるんですよね。抜け感があって、本当に純粋に小説を書きたいっていう本能に身を任せている感じがして」
「まあ、天野さんはずっと気張ってないですけどね。ずっと、自分に書けるものを丁寧に書き上げてきていた気がします」
 そうですかと言いながら、ストロングを呷る。画面の向こう側の中津川さんも、ストロングを片手に持っていた。ちなみにさっきからドアの音とか聞こえてるんですけど、彼女も一緒ですか? と聞くと、そうなんですよ彼女最近よくうちで在宅してて、と中津川さんは朗らかに微笑む。それって前話してたあの彼女ですか? と中津川さんがイヤホンをしていることを確認してから聞くと、そうですと彼は満足そうに言う。なんだか、中津川さんの部屋に家庭持ちの女性がいて、恐らく時々セックスをしたりしながら一緒に在宅勤務をして、その後夫と子供のいる家庭に帰っているのだと思うと不思議な気持ちになる。
「連載小説にコロナ禍の設定も入れて、不倫カップルが一緒に在宅勤務してるエピソードとか入れるのも面白いかもしれませんね」
「いいじゃないですか。いくらでもネタは提供できますよ。なんていうか、すれ違っててもディスコミュニケーションでも、皆が思い思いに生きてる小説が読みたいなって思ってます。天野さんの記事がネットでバッシングされてるの見て、書いてる奴みんな死ねって思ったんですよ。自分と違う人間が許せない奴は死ねばいいのにって。それで、そういう奴らは小説でも殺せると思うんです」
 そうですかと呟いて、私は缶からストロングを飲み干す。また今度太田も一緒に打ち合わせしましょうと言う中津川さんに、そうですね一度プロット詰めて、次は一話くらい書いた状態で打ち合わせできたらと思います、と答えてじゃあまたと手を振ると通話を切断した。再び手にとって持ち上げたストロングが空なことに気付いて、勢いを削がれた気がしてコンとデスクに置く。私は私をバッシングする人々が死ねばいいとは思わない。彼らには守るべき自分自身の価値基準があって、それを乱されたら自分が保てなくなるのだろう。飛べない昆虫に飛べる昆虫の辛さが分からないように、飛べる昆虫には飛べない昆虫の辛さが想像はできても実感としては分からない。サバイバルのフィールドが違うのだ。彼らが私の言葉を読んで愚かだと思うように、私は彼らの言葉を読み愚かだと思う。でも私が彼らに一切おもねることなく愚かだと蔑めるのは、私が少数派でありながら、大して少数というわけでもないと中津川さんのような人とのコミュニケーションを通して理解できているからだ。基本的に私は、直接人から存在を根底から否定されたことがほとんどない。基本的に人の存在を否定する奴らは集団リンチでしか襲ってこず、そして今日日集団リンチはこの日本ではほとんどがネット上で起こる。でもネットリンチをする人々より言葉を愛し言葉に裏切られ言葉との蜜月を過ごしてきた私は、言葉というものがその人物自身というよりもその人から少し浮遊した状態のところから発せられること、言葉をそのまま言葉通りに受け取ることができないことを知っている。捨てるくらいなら子供産むな、彼氏とるくらいなら産むな、身勝手の極みこれが無頼派だとでも思ってんのか、子供はこの毒親から逃げて大正解おめでとう。書き連ねられた自分へのバッシングを思い返しても、書いた人への怒りは生じない。私たちはルールの違うキャッチボールをしていて、だから互いの球がすれ違い続けるのだ。なんでそんなに意味不明なルールを採用しているのかと、昔はそれに腹を立てていたこともあったけれど、次第に永遠に意味不明なことやってろという気持ちになってきたし、そもそもその言葉が言葉通りに受け取れないと気づいて以来、私はその違うルールを採用している人たちのことを人と思えなくなってしまったように思う。そんなことを考えながらノートに向き合い、いくつかの登場人物の肉付けをしながら、私は蒼葉が世間の言葉や私の言葉を言葉通りに受け取ることにたまに傷ついているのだという事実を自覚する。そしてそんなことを言われても彼は困惑するだろうからと、自分が口を噤んできたことも自覚する。
 言葉とは、思いの丈を伝えるツールでありながら鏡でもあり、感情でありながら批評でもあり、肯定と否定を同時に叶えることもあり、己の罪悪や存在意義の象徴として現れることもある、複雑かつ難解、発言した人自身も己の言葉の意味を把握するのは困難な代物なのだと伝えたいのに、それを蒼葉に伝えるための言葉を結局私は持っていないのだ。自分の書いたノートが、何かしらの真理を言い当てないようにしているような、端から追い詰めていくつまらない詰将棋の盤のような形になっている気がして、しばらく向き合った後ノートを閉じる。また持ち上げかけたストロングが空なことにまた気付いて、私は少し苛立ちながら今度は静かに缶をデスクに置いた。

 志絵ちゃんお昼ご飯どうする? 十二時を過ぎてすぐ、蒼葉が寝室のドアを開けて聞いた。まだ起床から一時間しか経っていないため何も思いつけずにいると、冷凍うどんで焼うどんとか、冷やご飯でチャーハンとか、ピラフとかもできるかな、蕎麦もあったかも、とあれこれ提案してくる。昨日明け方までリビングでプロットを練っていたのに、起きてから見返すと大して進捗しておらず無駄に大きい時系列の表だけ書いてその内容がほとんど書き込まれていないことにうんざりしてやる気を喪失していた私にはほとんど食欲がなかった。
「どれも違う? 何か買ってこようか?」
「あ、パセリってあったっけ? この間鶏肉のチーズソテー作った時の残り」
「あるよ。水に挿して、冷蔵庫に入ってる」
「じゃあ、レモンバターパスタにしない?」
「おお」
 オサレだねと蒼葉は笑って、材料は? と聞く。
「レモン、バター、パセリかな。この間見たレシピでは大量にパセリを入れてた」
「めっちゃシンプルだね」
「レモンも野菜室に眠ってるのがあったよね?」
「サルサ作った時のだから買ったの結構前だけど、大丈夫かな」
「搾ってみてダメそうだったらポッカレモンで作っちゃおう」
 オッケー、と言う蒼葉に続いてキッチンに出ると、私たちは準備を始める。バター、レモン、パセリを取り出し、全部使っちゃおうとパセリを粗みじんにすると、レモンを手で押しながらまな板にゴリゴリ押し付けた後半分に切りボウルに丸一個分搾る。こうすると搾りやすくなるとちょっと前に料理動画で知った。果肉にスプーンを突っ込みぐるっと皮沿いに滑らせるとさらに綺麗に果汁を搾れるというのも同じ料理家の動画で知った。最近、ふとした空き時間に蒼葉がテレビでYouTubeやネトフリの料理動画を流していて、流し見しているためいつの間にか小技や知恵が身についてきた。
 バター、オリーブオイル、レモン汁を合わせたソースを作ると、しっかりとした塩水で茹で上げたパスタを投入し絡めていく。パセリを入れて一炒めしたら味見をして、少し塩を足す。テーブルに並べられた昨日の残りの豚キムチと浅漬けが定食屋感を醸してくるけれど、パセリがふんだんに混ぜ込まれたパスタはその香りとビジュアルだけで強烈なカフェ感で対抗してくる。
「うわめっちゃオサレな味がする」
「オサレな味が合わさって大オサレだね」
「すごいなあ。これ考えた人めっちゃオサレ」
「蒼葉って、すごく料理好きじゃん? 飲食業界とかは興味ないの?」
「飲食業界って、なんかチェーン店の経営とか?」
「外食系の企業とか、デパ地下とかテイクアウト系の中食って言われる種類の企業とか、あるいは食品加工会社とか、食品系の商社とかもあるんじゃない? まあシェフとかになってくれても私は嬉しいけど」
「うーん、いまシェフになってもコロナの先行きもよく分からないし、きついんじゃないかな。今から料理学校通うっていうのもさすがにあれだし……」
「やっぱりメーカー?」
「うん。パソコンとか、IT機器のメーカーが濃厚かな」
「総合商社とかは考えないの? 帰国子女だし重宝されると思うけど。転職にも有利だろうし」
「うーん、なんかピンとこないんだよな。物作る、売る、みたいなシンプルな仕事がいいんだよ」
「そんなバカみたいな言い方しないでよ」
 私たちは声を上げて笑って、パルメザンかけた方が美味しいとか、盛り付けた後に追いレモンした方が酸味が残って美味しかったかなとか感想を漏らす。蒼葉は三年生になってからほぼ大学に通わないまましっかりと単位を取り続け、これから就職活動を始める。今はオンラインの説明会にちょいちょい参加しつつ、筆記試験の問題集に目を通し、エントリーシートを書く日々だ。最終まではほとんどの企業がオンラインで面接をするらしく、出不精人見知り腰の重い蒼葉には願ったり叶ったりの状況で、説明会とか面接のために電車乗って駆けずり回るなんて考えただけでゾッとするよとこの間しみじみと言っていた。このコロナ禍でもまあどこか入れるでしょという楽観と、自分が働く姿など想像もつかないのに本当に就職なんかできるのだろうかという不安がない交ぜになっている様子で、たまにエントリーシートに赤入れをしてくれないかと頼んでくる。社会に出ることを考え始めた蒼葉は、どこかそれまでのふんわり生きていた蒼葉とは少し違って見える。その姿に社会人としての親近感を覚える時もあれば、子供が成長していく寂しさに似たものを感じる時もある。それでも彼は子供のままでいることはできず、どこかしら新しい自分の生きる場所を見つけなければならないのだ。もし就職できなかったら今のまま専業主夫みたいな生活送ってもいいんだよと冗談めかして言うと、蒼葉はいやちゃんと働くよと言いつつもどこか安心したような表情を見せる。第二、第三の道も考えた方が気が楽だろうとは思うけれど、スペックと性格上、きっと彼はそこそこの企業に内定をもらい、来年の四月からは新入社員として働き始めるだろうと確信していた。
「きっと蒼葉はずっと、こうなるんだろうなっていう親とか周囲の見通しを裏切ることなく成長してきたんだろうね」
「そうかな。まあ、大それたことはせずに生きてきたね」
「私は二十歳過ぎても何ひとつ見通しがつかない子供だったから、親は大変だっただろうと思うよ」
「志絵ちゃんと付き合うことは、見通してなかったと思うけどね。親からしたら、社会人間近ってところで大どんでん返しだと思うよ」
「そういえば、お母さんお父さんとは連絡取ってる?」
「取ってないな。父さんは二ヶ月くらい前に、OB訪問とかしたかったら誰か紹介するよってLINEしてきたけど」
「OB訪問って、訪問される側のエゴと見栄を拝みにいくイベントじゃないの?」
「まあ、だから返信してない」
「一言ありがとうくらい入れたらいいのに」
「既読つけたから、既読にありがとうが籠ってるの分かってくれるんじゃないかな」
 眉間に皺を寄せたままそっかと呟き、私もいつか理子に既読スルーで御意を伝えられたりするようになるのだろうかと憂鬱になる。蒼葉の親に対する冷淡さを見るにつけ、自分がひどい扱いをされているように胸が痛む。でもこうして、世の中すべての親たちに無自覚に共鳴してしまう自分もどうかしているとも思う。子供が出て行ってせいせいする親もいるだろうし、家族に嫌われている方が楽な人だっているはずで、そもそも私だって母親に対して愛情をこれっぽっちも持っていないというのに、理子は無条件に自分を愛してくれるはずという無根拠な新種の思い込みが一体どこの惑星からやってきたのか甚だ疑問だ。
 パスタを食べ終え、この間取材をしてくれた雑誌編集者からもらった焼き菓子セットからフィナンシェを一つずつ食べると、洗い物しよっかといういつもの蒼葉の言葉で私たちは片付けを始める。
「志絵ちゃん午後は?」
「書評の締め切りあるからそっち書いて、からの残りの連載原稿の推敲、あとはちょっとメール溜まってるからそれ返しちゃおうかな」
「新連載の方はまだいいの?」
「昨日の夜あんまり進まなくて、なんか苛々しちゃって」
 苛々しちゃったか、と笑って蒼葉は冷蔵庫にチーズや浅漬けを戻す私の頭を撫でる。
「志絵はやればやっただけ進むわけじゃないもんね」
「ずっと一進一退って感じ。一歩ジリって進んで、また足踏みして、ジリッて進んだら後ろが気になって戻ったり。こんなにノらないってことはこのテーマじゃないんじゃないかって、根本からひっくり返したくなったりして。息抜きに自分以外の人の小説読んだら全て自分のより面白く感じるし、なんなら自分の昔の原稿読み返しても自分の考えてるプロットよりずっと面白く感じる」
「まあまだ連載開始時期決まってないならゆっくり考えたらいいよ」
「でも締め切りなかったら私みたいな人は一年くらいのんびり考えちゃうからなあ」
「確かに志絵は後回しの才能がすごいからなあ。後回しの才能っていうか、ギリギリまで動かないでいられる図太さっていうか」
「三年寝太郎は三年寝た後に村を救ったんだよ。皆自分のペースで考えて、それなりに何かのために動いてるってことだよ。あれが教訓的な民話として語り継がれて、今も絵本で読み継がれてるの本当にすばらしいことだよね」
 蒼葉が洗い物をしながら笑って、最近志絵ちゃんの締め切りが迫ってくると俺の方が不安になってる気がするよと言う。本当に彼は、しっかりした社会人になるだろうと改めて思う。クラスメイトや仕事相手として知り合っていたら、私は彼の生真面目さに物怖じしたかもしれない。彼が洗った食器を受け取って、ふきんで拭き綺麗に積み上げていく。手で洗った方が早いしうるさくないからと、彼は頑として食洗機を使わない。そういえば、私の母親も食洗機付きの家に住み始めた後も手洗いにこだわっていた。私と父は、音がうるさいし手の方が早いからと言い張る母に呆れていたけれど、蒼葉が同じことを言っても私は呆れず、ふきんで洗い物を拭くようになったのだ。人というのは、状況と関係性の中で全くの別物にだってなれてしまうのかもしれない。
「なにどうしたの?」
 お皿にスポンジを擦り付けながら身をよじって唸っている蒼葉の肩を笑いながら叩く。
「チン横が痒い。やばい袖も落ちてきた……」
 いつも洗い物をしている時にまくあげた袖が落ちてしまうから、部屋着のパーカーを別のものに替えないとと話していたのに、洗い物をする時にしか不便さを感じないためか、ずっとこのパーカーを着続けては洗い物のたびに袖が袖がと騒いでいる蒼葉が面白くて、ずっと指摘しないでいた。コップを拭く手を止め、蒼葉の左側に立って落ちた袖口をまくってやると、まだ身をよじっている蒼葉に笑ってしゃがみこみながら、「チン横ってチンコそれ自体の横側ってこと? それともチンコの脇ってこと?」と聞く。
「チンコそれ自体ではなく。なんていうか付け根の横の辺り?」
 こっち側? こっち? そっち、でもうちょっと下、と言う蒼葉のチン横をしばらく掻くと、はーありがと、と蒼葉はようやく洗い物の集中力を取り戻したようだった。ゲラゲラ笑いながら立ち上がってふきんを手に取る。
「結婚する?」
 え? と言いながら蒼葉が振り返る。いやするけど、え、するって本当にするってこと? と要領を得ない様子の蒼葉に、本当にするってこと、と答える。
「え、なんで今? チン横掻いたから?」
「チン横掻いたから」
「え、そんなことある? チン横掻いて運命を感じたってこと? 志絵ちゃんにとって結婚って何なの? この間までいつかねって感じで流してたじゃん」
「チン横は象徴だよ。別に私は運命論者じゃないし、流してたわけじゃなくてずっと考えてたよ。でも難しいことを考えてするのだけが結婚じゃないでしょ。まあ考えなしにってことでもないけど」
「唐突だな。え、本当にするの?」
「しないの?」
「するする。するよ。するけど、いやする」
「なんか煮え切ってないみたいだから、何日か考えていいよ。蒼葉にとっては初めての結婚だし、親への体裁もあるだろうし、蒼葉の希望がはっきり出たら言って」
「いやするよ。いつする? 今日でもいいし、明日でもいいよ」
「本当にするの? じゃあ婚姻届プリントしちゃうよ?」
「え、婚姻届ってプリントできんの? いいよプリントしちゃって。志絵ちゃん絶対間違えるから二枚プリントしてね」
「私、婚姻届書くの三回目だよ?」
 そうだった、と蒼葉は呟いて、お湯を出す水道を止めると手を拭き、呆然とした顔で振り返る。
「え、本当にするんだよね? やっぱ止めたとかないよね?」
「ないと思うよ。多分」
 なに多分って、と蒼葉は私を抱きしめる。絶対してね、もう今やっぱ止めたって言われたら立ち直れないから、と言う蒼葉の頭を撫でる。これまでの二回の結婚は、気持ち的にも、状況的にも、それがなければ死んでしまうと思ったからした。でも今回は別にしてもしなくてもいいし、そのことでお互いの関係に変わりはないような気がする。でもだからこそ、今だったらこれからも一緒に生きていきたいという純粋な気持ちの表現としての結婚ができると思った。
 理子に切り捨てられたことや、バッシングを受けたことがどこかで私の孤立感を強め、どこかにすがりたい何かと繋がりたいという気持ちを強めたのかもしれないし、直人が結婚すること、そのことを引き合いに前向きに生きろと理子に言われたこともあったのかもしれないし、そこにきて彼が親と自分を完全に切り離している状況を知ったということもあったのかもしれないし、実際チン横を掻く関係への愛しさもあった。この間見た依存症女性のドラマが思い起こされる。恋人と結婚しようと思いついて友人たちを誘って旅行先での挙式を計画するものの、実際に行ってなんか違うと挙式を拒否、でもその日の夜にやはり思い立って二人だけで挙式、というラストだった。あのくらいのことは起こるかもしれないけど、何となくもう、一度は蒼葉と結婚しなければいられないような気がしていた。そしてその思いが結婚の根拠になるとしたら、それはそれで素敵なことのような気がした。

illustration maegamimami

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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』『パリの砂漠、東京の蜃気楼』『fishy』 等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。

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