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またいつか、ジム飯|千早茜 第21話

 東京都で今月七日に緊急事態宣言が発令されてから十日あまり、感染者数は急増して、まだまだ家にいるという地味な戦いが続きそうだ。リモートワークに移行した関東圏の友人や知人たちから最近ひんぱんに「コロナ太り」という言葉を聞く。家で仕事をしているとつい食べてしまう、楽しみが食しかなくて毎日食べることばかり考えている、と友人知人たちは嘆く。

 慰めもアドバイスもできず途方に暮れる。こちとら自宅仕事は十二年目の出不精。『わるい食べもの』単行本にも書いたが、毎朝、今日はなに食べよう、と起きた瞬間から考えている人間だ。食べたいときに食べたいものを食べる生活こそ最高と思っている。とはいえ、制限される苦しみもわかるので、外に出られないストレスで食べてしまうとすれば不本意だろうなとは思う。ちなみに「リモートワーク」という言葉に慣れない。リモートって遠隔という意味じゃないか。生身の人間に使う言葉なんだろうか。距離を余計に感じるし、自分が端末のひとつになったようで不安になる。

 話を戻そう。「そんな生活でよく太らないね」としょっちゅう言われる。もちろん体重は増えている。私は運動が大嫌いだ。疲れるし、汗をかきたくない。学生の頃から体育の授業は仮病をつかって休んでいたし、運動する意味がわからない、自ら疲れようとするなんて理解ができないと、常々公言してきた。体重が増えないわけがない。小説家デビューしたときから七キロは増えている。しかし、その状態を「太っている」と認定するのは自分自身だ。自分が太っていると思えば、家族や友人や恋人が「痩せているよ」といっても太っているとしか思えないだろう。

 私はその判断を服と医師に委ねてきた。気に入っている服が着られなくなったら食事に気をつけた。かかりつけ医は体重に関してはなにも言わなかった。血液検査の結果も正常だった。むしろ、十代、二十代と悩まされてきた貧血も治った。だから、好きなものを好きなように食べるのは間違っていないと確信を深めた。

 そんな中、ひとまわり以上違う二十代の担当編集者とジムを体験することになった。まだ寒い一月末のことだった。運動嫌いの私だがサーカスやダンスは好きで、中でも天井から吊り下げられた布を使って空中で舞うエアリアルティシューには興味があった。やってみたいね、という話になるやいなや若者編集者は素早く申し込みをしてくれた。
 エアリアルティシューは楽しかった。もちろん華麗に舞うことなどできず、布をハンモックのようにしてぶら下がるくらいしかできなかったが、宙に浮く体験は心躍るものだった。血流が良くなったのか、冷え性の身体がぽかぽかするのも心地好かった。

 しかし、体験にはサービスで体組成計測定がついていた。体脂肪だけでなく、水分量やたんぱく質量、ミネラル量まで測定できるものだ。特に筋肉量は体幹、左右の腕、左右の脚と細かく測れる。その数値を見て、私は愕然とした。下半身の筋力が「低」。若者編集者は「標準」だ。総合得点も高い。反面、私の総合得点は100点満点のうち69点だった。「座りっぱなしの生活ですか?」とトレーナーさんに言われる。正解です。朝から晩まで座っています。ふと、そのとき頭をよぎったのは数日前に読んだ人気漫画家の新刊のあとがきだった。座りっぱなしの生活を続けたため、しゃがむと脚の力だけでは立ちあがれなくなったと絵で描かれていた。それは怖いと思った。なにより私はヒールの高い靴が好きで、それを履けなくなるのは悲しい。筋力を「標準」に戻そうとその場でジムに入会した。

 若者編集者とジムを出ると、なんだかふらふらした。そんなにショックだったのかと思っていたら、彼女が「お腹へりましたね」と言った。これは空腹だ! と気づく。エアリアルティシュー体験の前は二時間は食事を控えてくださいと言われていた。マシン講習も受けたので、朝食を食べてからすでに五時間近く経っていた。家でこんなに長い時間、菓子すら食べないことはめずらしい。すごい空腹。これはもう飢餓と呼んでもいいのではないか。目についたチェーンのうどん屋へ駆け込んだ。

 普段、あまり麺類を外で食べないのに、そのときはとにかくうどんが食べたかった。そして、米。明太玉子あんかけうどんに稲荷寿司、つい鶏天もつけてしまった。店内の油の匂いを嗅いでいると揚げものも食べたくなったのだ。若者編集者も葱を山のように盛った肉うどんにイカ天をつけていた。味としてはごく平均的だったと思う。頭と舌はそう判断した。なのに、異様にうまい。うどんの明太子を鶏天にべったりとつけて頬張ると震えが走った。身体がうまい、うまいと凶暴に唸っている。
「お……おいしい……」
「そうなんです、運動の後って、おいしいんですよ」と、大学時代は運動系サークルだった若者編集者が深く頷く。「昔、ジョギングしていたときは往路でピザを注文して、復路で受け取って食べてました」
「それって痩せるんですか」
「まったく痩せないですよ! でも、筋肉はつきます」
 そうかそうか、ならいいかと、欲望のままにケーキも食べにいった。

 次にジムに行ったのは、節分の前日だった。ボクササイズとマシン講習でへとへとになり、一日早いが恵方巻とシュークリームを買って帰った。恵方巻はそのままごくごく飲めるんじゃないかと思うほどうまく、シューの中のとろとろカスタードはどうしよう……と恐ろしくなるレベルの美味しさだった。運動の後はとにかく炭水化物と糖がうまい。ダイレクトに身体に吸収されていく感じが、なにかに似ている。あれだ、点滴だ。足りないものがぐいぐい入ってきて身体を駆けめぐる感覚。

 そうして私は運動後のジャンキーでケミカルなうまさに夢中になってしまった。普段、家でゆったりと茶を淹れながら甘いものをつまむのとは違う、享楽的な昂奮があった。それを味わうことを目的に二月は週に一、二回ジムに通った。
 しかし、三月、新型コロナウイルスの感染防止のために私の通うジムが休業してしまった。ひきつづき今月も。五月もどうなるかわからない。私の身体はあの快楽を忘れはじめている。鮮烈で衝動的なものは醒めるのも早い。殿こと夫は「ジムでしか運動できないわけじゃない」と言うが、ジムで強制的にへとへとになり飢餓感のままに街で買い漁るまでが私の運動なのだ。家の食とはまた違う。あの劣情のような食はこのまま幻になってしまう気がする。

 コロナ太りを訴えてきた友人も「でも、免疫下がるから、いまはダイエットできないしね」と言っていた。「もっともだ」と笑った。いいさ、いいさ、いまくらい好きなものを食べるがいいさ。

2020年4月17日

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。
Twitter @chihacenti

※この記事は、2020年5月27日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

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