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鼻で食う|千早茜 第25話

 コロナ禍中の春に『透明な夜の香り』という小説をだした。調香師が登場する物語だった。実際に何人かの調香師に取材させてもらい気づいたのは、姿の見えない匂いというものをとても的確に言語化することだった。私もわりと鼻がいい。けれど、言語化するのと、しないのでは、認識の仕方がまったく違う。

 先日、取材でお世話になった香水店に行った。梅雨の晴れ間の蒸し暑い日で、マスクをつけて外を歩くと息も絶え絶えになった。店内に入り、香りを嗅ぐためにマスクを外すと、無数の香水の匂いが押し寄せてきた。ふうっと息を吐いたのか、身体がゆるんだのか、店員さんが私を見て「マスクどうですか」と言った。咄嗟に言葉を探し、「世界が半分になったみたいです」と答えていた。口にしてから、そんな風に思っていたのか、と気づいた。

 このところ、マスクをつけて外出している。外しているのは家にいるときと、外でなにかを食べるときのみ。香りを嗅ぐためにマスクを外したのは、コロナ対応の世の中になって初めてのことだった。そして、問われてみて、マスクが匂いを遮断していたことを意識した。匂いの情報は私の感覚の半分も占めるのだろうか、と自分で口にしたことに驚いた。少し大げさかもしれない。

 思えば、以前から、私は常に個包装のマスクを持ち歩いていた。梅雨時のバスや満員電車で人の体臭が気になるとき、飛行機や新幹線などを使った長距離移動中に眠りたいとき、私は耳栓をするようにマスクをつけた。ウイルスや細菌を防ぐためではなく、嗅覚に蓋をするためのマスク。それはストレスを軽減するという意味での健康対策だった。

 けれど、今のように外でいつもマスクをつけていると、匂いがあまり伝わらない世界が常になってしまった。最近、歩いているとき、妙に「眠い」と思っていたが、刺激がなくてぼんやりしているのだろう。酸素不足もあるのかもしれないが、どうも警戒心が薄くなっている。担当編集さんからいただいた薄荷のスプレーをマスクに吹きつけているが、そもそも世界はミントの香りではない。清涼感も常にあれば飽きる。

 日差しの強さは肌や目で感じる以外にも、アスファルトの灼ける臭いや土の水分が蒸発する匂いで気づく。頭で意識していなくとも、身体は「む、夏が近づいてるな」「今日はなかなか烈しいな」と反応する。マスクをしているとそれがないので、想像している以上に暑さが負担となってのしかかってくる気がする。家に帰ってからばててしまう。

 思い返してみれば、買い食いが減った。デパートの催事場も素通り、たい焼きやいか焼きの屋台があっても眺めているだけ。先日、東京は浅草の醤油団子ですら買わなかった。黒蜜文化の京都では滅多にお目にかかれない醤油団子を、餅好きの私が買わないなんて。いままで、店先で焼いているのを見かければ、飛びつくようにして買っていた。そういえば、友人がいぶかしげな顔で「食べないの?」と訊いてきたが、私は「お腹へっていないから」と答えていた。
 予約していた寿司屋に行く途中というのもあったが、団子や餅は空腹とは関係ないと常々主張していたはずだ。息をするように食べていたのに、と愕然とする。なぜ。

 それはきっと匂いのせいだと思う。醤油団子を焼く芳ばしい匂いがマスクに遮られていたから。目だけで団子を見て、匂いのしない団子、と私の身体は認識し、冷えている、と判断したのだろう。そのため、その場で齧りつきたいという欲望が目覚めなかった。
 嗅覚の判断は速い。きっと、頭で考えるよりもずっとずっと早く感情を動かす。

 香水店では夏用の香水は買わなかった。家で使うアロマキャンドルと森林の香りの入浴剤を買った。しばらくマスク着用の日常は続くだろう。香水を身につけても、自分にも他人にも伝わらない。それなら、と家で使う香りを選んだ。私は外出するときしか香水はつけない。
 長居をしてしまったので、帰り道は暮れていた。まっすぐに伸びる京都の道に人影がないのを確認して、マスクを外してみた。家々から流れてくる煮炊きの匂いに腹が鳴った。シャンプーの香りが混じり、早々と風呂に入っている人がいるのがわかる。橋を渡ると、湿度の中にかすかに夏の夜の匂いがした。終わりかけの梔子の香が甘くただよう。もうすぐ夏だ。こうして、鼻で世界を食べて、季節の移り変わりを知る。
 新型コロナウイルスの症状のひとつに嗅覚消失が起きることがあるとネットニュースで読んだ。それはいったいどんな世界なのだろう。マスクをつけて、思った。

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千早茜(ちはや・あかね)
1979年北海道生まれ。小学生時代の大半をアフリカで過ごす。立命館大学文学部卒業。2008年「魚神いおがみ」で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。同作で泉鏡花文学賞受賞。13年『あとかた』で島清恋愛文学賞受賞、直木賞候補。14年『男ともだち』が直木賞候補となる。著書に『西洋菓子店プティ・フール』『クローゼット』『神様の暇つぶし』やクリープハイプ・尾崎世界観との共作小説『犬も食わない』、宇野亞喜良との絵本『鳥籠の小娘』、エッセイ集『わるい食べもの』などがある。
Twitter:@chihacenti


※シーズン1は『わるい食べもの』として書籍化されました。こちらで試し読み公開をしています。


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