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金原ひとみ デクリネゾン 第3話「レモパワコロナバーガー」

illustration maegamimami
「であるから、私は繰り返し、繰り返しいうが、原子は少々斜に進路を逸れるに違いない。」
『物の本質について』ルクレーティウス著 樋口勝彦訳 岩波書店
※この連載を初めから読む:「デクリネゾン 」TOPへ

 え、トリップなんて聞いてるの? うん聞いてるよ、すっごい好き。理子は好きを体現するように軽やかに飛び跳ねて言う。首元に掛けているBluetoothのヘッドホンが揺れて、去年の誕生日にまあまあ高かったそれをプレゼントした私は冷や冷やする。
「今度ライブのチケット取ってくれない?」
「いいよ。トリップってどの辺のライブハウスでやってるのかな?」
「武道館とか? 東京ドームとか?」
「いやいや、トリップなんて多分まだ三、四百くらいのキャパじゃない? 七百だったら確実に売れ残ると思うよ」
「そうなの? じゃあめっちゃ近いところで見れるのかな?」
「君みたいに小さい子が前のほう行くと危ないよ。トリップはダイブもあるだろうし、小さいライブハウスだとダイブエリアがはっきりしてないからけっこう危険なんだよ」
「もう百五十三センチだし。一年で十センチ伸びたし、これからも伸びる予定だし」
 理子は子供っぽい仕草で自分の頭に載せた手を私の頭まで持ってくる。私とは十センチ差だけれど、七センチヒールのせいで理子は随分小さく見える。
「私ワックーが好きだから左の方で見たいなー」
「ワックーってベーシスト?」
「そう! めちゃくちゃかっこいいの! ベースの解説動画が神がかってるの!」
 若干若すぎてついていけないと思っていたバンドだったため、あまり興味をそそられず適当な相槌を打つ。辿り着いたハンバーガー屋でメニューを見ながらあれがいいこれもいいと言い合いながら、ふと記憶が蘇り顔を上げる。
「そう言えば、前に蒼葉がトリップのライブで負傷者が出たらしいって言ってたよ。女の子が頭を切っちゃって、縫合するような傷だったみたい。革靴でダイブした人がいたみたいで。そういう事例もあるから、やっぱりあんまり前で見るのはお勧めしないな」
「ママだって自分がライブに行く時はそんなのお構いなしなんでしょ?」
「いや、私も最近はど真ん中の前方には行かないよ。ダイブがないようなリトプンとかのライブは行けるところまで行くけど」
 へえー、と言いながら理子はピーロンとバカみたいな音をたてて震えたスマホを手に取りポポポポポポポッとやはりバカみたいなタップ音を響かせLINEかスナチャかを返信した。
「私ウェストサイドにしよっかな。サイドはポテト」
 明るく屈託のない様子にほっとするが、また三回連続でバカみたいな音をたてたスマホを手に取る理子に軽く苛立つ。ふう、と息をつくとそれだけで私の苛立ちを察したようで、理子は「はいはい」と言いながらスマホをボディバッグに仕舞った。
「ママって無言の圧がすごいよね。パパも言ってた。ママはオーラだけで場を取り締まれるって」
 理子は実の父である吾郎のことも、その後継父となった直人のこともパパと呼んでいるから一瞬混乱したが、すぐに直人はそんなことは言わないはずだと思い至り、吾郎の皮肉を貼り付けたような顔が脳裏に浮かんだ。
「外食中とかご飯どきにスマホ見ないでって言ってるでしょ。こっちが嫌な思いをするのを分かっててそういうことをされるのが嫌なの」
「ママって交渉の余地がないよね」
 交渉の余地、国語と漢字が圧倒的に弱い理子が少しずつ言葉を習得しているという成長に感心すると同時に、親に楯突く年になったことを実感し動揺もする。
「交渉するほどの案件? 一緒に食事をする時間スマホを見ないことが理子にとってそこまでの不幸になるとは思えないけど」
「ママの不幸と私の不幸はちょっと違うんだよ」
「それはそうだね。でも一緒に暮らしてるんだからお互いに歩み寄らないと」
「ママはあんまり歩み寄ってくれてる気がしないけどな」
「そんなことないよ。理子がやりたいっていうことはちょっとどうかなと思うことでも大体許容してきた。すぐ辞めちゃったけどダンススクールもドラム教室も行かせたし、ちょっと早いかなと思ったけど理子がどうしてもって言うからパソコンもスマホもミュージックプレイヤーもヘッドホンも買ったし、この間はサブスクのファミリープランにも加入させた。でもその代わり、十時以降はパソコンとスマホは禁止。それはお互いの歩み寄りがあって初めて成立することでしょ? ここまで子供の主張を尊重してる親も少ないと思うよ」
 私が続けて欲しかった書道教室とスイミングスクールを強固にもういやと言い張り辞めたこと、ずっとそこに向けて勉強してきた第一志望の、通学も楽な二駅先の中学に合格して入学金も振り込んでいたにも拘らず、あっちの校風の方が自分に合ってると言い張り通学に四十分かかる第三志望だった中学に決めたこと、私が買わないと言い張っていたシューティングゲームを吾郎に勝手に買ってもらっていたこと、あらゆる不満が湧き上がってきたけれど、それだけ自分の意志がはっきりしているということは心強いことでもあると自分に言い聞かせる。少なくとも一緒に暮らしている間は、自由を尊重し合い、話し合いながら、互いに与え合い、補い合えるような関係でありたいとずっと願ってきた。
「不満なら話し合ってもいいけど、人とのご飯どきにスマホを見る正当性をきちんと言葉にしてね。ただ今LINEが来たからとか、見たいものがあるからとかじゃなくて、人とのご飯どきにスマホを見ることによるメリットとデメリットをきちんと比較して導き出された正当性じゃないと取り合わないからね」
「正当性なんてないよ。ただ好きな時にスマホを見る権利は誰にだってあると思う」
「殺したい時に殺したい人を殺す権利は誰にだってあると思う?」
「それはない。だって他人に被害が出る」
「誰かとのご飯中にスマホを見ることによる他人への被害は皆無なのかな。そして人を殺したい人は人を殺したら幸せに、あるいは楽になれるのかな」
「やめて。私そういうこと考えると悲しくなるから」
 理子のこういうところを、私は気に入っている。自分の感情によって理性や理論を完全に無効化し、思考停止してしまうところが、人として好きだ。この愚かさを好きだと思う感覚は何かに似ていると思って、蒼葉を好きだと思う感覚だと気づく。これは年下に対する一律の感情なのだろうか。少なくとも十くらい歳上の中年女性なんかが「そういうこと考えたくないの悲しくなるから!」と思考を放棄していたら、私は反射的におぞましいと感じるに違いない。
「お待たせしました。お先にウェストサイドです。包み紙がこちらにございますのでよろしければお使いください」
 理子の眼前にハンバーガーと付け合わせのポテトフライが置かれ、嬉々とした態度で半分に切ってから包み紙に包む理子に、心が満たされていくのを感じる。遅れて自分の前に出された羊肉のバーガーを切り分け、半分交換する? と切り分けた半分を交換する。付け合わせのピクルスはキュウリ、ペコロス、人参で、特にペコロスには口に入れた瞬間思わず顔が歪むほど酸味と甘みが染み込んでいた。
「ねえ、理子は蒼葉のことどう思ってる?」
「蒼葉くん? 優しそうな人だなって思うよ。ママのことが好きなんだなって思うし。まあ、頼り甲斐はなさそうだなって思うけどね」
 全ての文章が思うで締め括られていることに若干不安を抱きながら、確かに頼り甲斐はないねと眉を上げてみせる。理子は小学校の作文を書くたび、文末が「楽しかったです」「すごく楽しかったです」とか「すごかったです」「すごくすごかったです」などと被りがちでとにかく字数を埋めることしか考えていないのが丸わかりな文章を書く子で、その癖は未だ改善されず改善される兆しもなく、彼女の文章を目にするたび不安は増大していた。そして同時に、どこかで作家の娘なのだからと、感受性が高かったり、文章がうまかったりなどの特殊能力を期待している自分に気づいて萎える。
「頼り甲斐もないし、なんか言語能力が低いんだよね。自分の気持ちを言葉にする能力が劣ってる。私と話してても少し対立的になると曖昧にやり過ごそうとするし」
「あー、この間もママが蒼葉くんの言いたいことを翻訳してる感じがした」
「蒼葉だけじゃなくて理子の言葉も翻訳してたけどね」
 初めて彼らを会わせ食事に行った際、どことなく引いている様子の理子、何を話すべきか予想もつかない様子の蒼葉、と非社交的な二人の間に立ち、何とか場の空気が悪くなったり気まずくならないよう緩やかなペースで話題を投下したけれど、二人とも言葉が足りず意味が伝わりきらないことが多かったため、理子と蒼葉の言葉に「○○ってことだよね?」とか「○○の話だよね?」などと補足をしなければならなかったのだ。あの時、不意にここに吾郎がいたら、と想像したのを思い出す。あらゆることにアンテナを張り巡らせている、話の引き出しが多い吾郎だったら、彼らを前にしてどんな話をするだろうと。離婚して十年近く経っても、彼の視点が自分の中に根付いていることを改めて知り、無力感に似たものを感じた。
「そうだ、理子、そろそろ塾に行った方がいいってこの間吾郎と相談して……」
「えー何それ!」
「テストとかボロボロじゃん」
「えーでも、私忙しいから無理だと思う」
「君は忙しくないよ。いつもYouTubeを見てる」
「レモパワ配信を見ることとYouTubeで音楽を聴くのが私の活動なんだよ」
「もう吾郎と相談して決めたんだよ。明洋塾。もう申し込み用紙もらってきたから」
「え……どうして私に何も言ってくれないの? ひどくない?」
「親が塾を決めるのは当たり前じゃない? 遊ぶ公園だったら自分で決めればいいけど」
「ちょっと待って、聞いて。私自分でちゃんと勉強する。次の小テストの点数が上がらなかったら塾行くよ」
「次の小テストっていつ?」
「来週末。あ、そうだ、来週の金曜からパパのところに行くから」
「どっち?」
「直人。私から連絡するからママは連絡しなくていいよ」
 でもと言いかけて、口を噤んだ。最近直人に恋人ができて、半同棲に近い状態であり、理子が来る時にはわざわざ彼女には自分の家に帰ってもらい彼女の物も隠していると話していたのだ。きちんと自分から説明するし、いずれは理子にも紹介したいと言っていたけれど、直人への依存が強い理子がその事実を知ったらどう思うか不安ではあった。いつでも会えるし、もし理子が自分と暮らしたいならいつでもそうすると直人が断言したことによって、理子はようやく私たちの離婚を了承したのだ。直人は継父としてよくできた人だった。最高の継父だった。直人以上の継父には、きっと理子は巡り合えないだろう。でも、マイペース同士仲良くやれる実父と、最高の継父と出会えたのだから、彼女はもうこれ以上の父に出会う必要はないだろう。
「いいよね?」
「いいけど」
 しっかりハンバーガーを食べきった理子は満足そうにオレンジジュースを飲み干し、私のピクルスに手を伸ばして「すっぱ!」と呟き、とうとう退屈そうに頬杖をつきパーカーの紐をいじりながら窓の外をぼんやりと見つめる。二年くらい前から、理子は自分で服を選ぶようになった。それまで私が選んだシックなワンピースや襟付きのシャツやチェックのスカート、大人っぽいセットアップなんかを喜んで着ていた理子は、今や完全にパンツ派になり上はほぼパーカー、靴はスニーカーですっかりカジュアルな服装となった。お気に入りの歌い手やYouTuberが好んで買っているというショップの服をねだられるたび、私の趣味でなく買い渋っていると、祖父母や父親たちにねだって買ってもらうという悪どいことをし始めたため、最近自分でお金の管理を学べるようお小遣い制を導入した。
「そう言えば、行哉さんってどうしてるの?」
 唐突な名前に一瞬ぽかんとしてから「ユキとは連絡取ってないよ」と答えてビールを飲み干す。温くなったクラフトビールが喉に染みた。行哉は直人と別れる原因になった人で、直人との離婚後一年くらい付き合っていたけれど、彼の方の事業がうまくいかなくなり、彼の精神状態が悪くなると同時に元々互いに感じていた価値観の違い、求めているものの違いが浮き彫りになり、しばらく会うのを止めようと話し合って距離を取り、会わないでいる内にいつしか無言の別れを迎えてしまった元彼だった。
「行哉さんの方が、気楽だったな」
「ユキのこと、苦手なのかと思ってた」
「なんか、蒼葉くんは緊張する」
「なんか、色々考えさせられる話だな」
「何を?」
「例えば理子に彼氏ができたとして、その彼氏の家に行った後、彼氏のお母さんが理子よりも前の彼女が好きだったって言ってたら、私は理子にそんなことを言うお母さんのいる彼氏と付き合って欲しくないって思うだろうね。理子のことを最高の友達って言ってくれる友達と付き合って欲しいし、理子のことを最高の彼女って言ってくれる彼氏と付き合って欲しいし、理子のことを最高の彼女って言ってくれる彼氏のお母さんと付き合って欲しい。それはもちろん親の身勝手な欲望でしかないけどね」
「私別に、行哉さんの方が好きだったなんて言ってないよ」
「自分の子を誰かと相対的に見られるってだけで、親は辛いものなんだよ。例えば理子がいつか就職活動なんかをしたりしても、私は辛い思いをするだろうね。ダサいリクルートスーツ着た子たちの中に、理子もダサいリクルートスーツを着て並んで、書類と受け答えで品定めをされる。考えたらまじで地獄だな」
「なんかママちょっと大げさじゃない?」
 理子は苦笑いをして言う。
「理子が私のこういうナイーブさに共鳴しない子で良かったよ」
 きっと蒼葉のお母さんは、シングルマザーである彼女の子供に苦手意識を持たれ、前の彼氏と比べられる状況に息子が置かれていることが、非常に不快に違いない。まあきっと理子が蒼葉を私の最高の彼氏と認定していたとしても、不快には違いないのだろうけれど。
 ちょっと前に母親に彼女の存在を問われあっけらかんと私とのことを吐露した蒼葉は、最初こそ「個人の自由を尊重する態度を取ってくれた」と話していたものの、それ以降朝帰りをするたび母親が批判的な態度を取るようになっていったことにうんざりしていた。彼の態度や説明の仕方にも問題があるように感じたし、お互いのコミュニケーション能力の低さ故に衝突が起こったのではないかと思ったけれど、そう指摘すると、話しても無駄だからもうあの人と話す気はないと蒼葉は苛立ちを滲ませながらも軽い口調で答えた。
「どうして蒼葉のことが苦手なの?」
「なんか、なんていうか、蒼葉くんってママのことしか見てないじゃない?」
 理子が含み笑いをしながら言うから、私も思わず笑ってしまう。
「ママのことが好きなんだなって分かるんだけど、だから私に対してすごく気を使ったり緊張したりしてるんだろうなって思うとなんかこっちも緊張して、気を使っちゃうっていうか」
「じゃあ蒼葉にそれ伝えとくよ」
「やめてよ! 伝えたらもう蒼葉くんに会わないからね!」
 最近小さな蟠りができていたような気がしていたけれど、くるくると表情を変えて話す理子には、ママ大好きと抱きつき私のあらゆる場所に顔を埋めてきた幼い頃の面影が残っているように感じた。
 お会計を終えると、私たちは店を出る前にドアの前に置かれていた手指消毒液を手に塗り込んだ。ここ数週間で、コロナウイルスという言葉が徐々にシビアな色を帯びて人々の話題に上るようになってきた。英語に長けている直人から海外のニュースやツイッターを翻訳した情報がちょくちょく届き、その都度危機感は募るけれどまだ私たちには対岸の火事で、理子は休校になったらラッキーなんて言っているし、吾郎も危険厨でありながら「こんな真剣に塾決めてもコロナが拡大したらすぐに閉鎖されるかもしれないけどね」と笑っていた。
 外を歩いていると、明らかにマスクをしている人が増えたのが分かる。昔買ったマスクはどこにあっただろうと記憶を探りながら、スマホをいじって歩く理子に「歩きスマホ」と注意する。はーい、と間の抜けた声を出す理子は、歩道の端をぴょんぴょんと軽やかに歩いて行く。
 理子は本当に歩かない子だった。すぐに疲れたと言いしゃがみ込んだし、かなり大きくなるまでベビーカーに乗っていた。パパ抱っこ! という言葉はいつも苛立ちと共に発され、「自分の疲れとかイライラの原因は親にあると思ってるんだろうね」と吾郎が考察したように、彼女は抱っこされると自分を外に連れ出した親のせいで受けることとなった理不尽な外部からの責め苦からようやく解放されたと言わんばかりの渋々納得したような表情を、その幼くふっくらとした顔に滲ませた。恐らく普通の家庭であれば子供に自立を促すであろう四、五歳の頃直人と再婚し、一緒に暮らし始めた直人が理子を完膚なきまでに甘やかして育てたせいで、理子は小学校に上がってもことあるたび直人に抱っこをせがんだ。
 離婚してしばらくした頃、直人が会社の家庭持ちの同僚たちに誘われたハイキングに小六だった理子を連れて行った時、「理子はちゃんと歩けるようになったんだなあ」と感心していて笑ってしまった。今はもはや私よりも体力があって、友達と勝手に約束して行きたいところに行きたいだけ、自転車や電車に乗り出かけて行く。吾郎にぬいぐるみ型のハーネスをつけられ、犬の散歩のように出かけていた一歳か二歳の頃の理子の姿が頭に浮かぶ。吾郎と直人と私の三人にあれだけ心配され守られていた理子は、もはや大人未満でありながら独立した存在で、私たちよりも身軽で自由だ。

 コロナ感染拡大をうけ臨時休校要請の報道があった翌日、テンションが上がり切った様子の理子が直人のところに出かけていった後、「理子の学校はどうなるの?」と吾郎からの唐突で不親切なLINEが届いた。「来週の水曜から休校になるって今日メールがあった」と返すと、すぐに「オンライン授業は?」と入って来た。メールで届いた休校のお知らせのスクショをまとめて三枚送りつけると、「つまり少なくとも今年度は課題のみ、オンライン授業はやらないってことだね?」と返ってきて、返信を打っている間に電話が掛かってきた。
「このまま休校になったら理子はもう勉強についていけなくなるだろうから、すぐにでも塾に行かせた方がいいと思う」
「でも今入会しても塾もすぐに閉鎖すると思うよ。何か通信で受けられる塾とか講座の方がいいんじゃないかな」
「確かに。じゃあもう一回通信で受けられる塾を探し直しとくよ。理子は何か言ってる?」
「すごいテンション上がってる。学校がなければレモパワ配信全部追えるって」
「レモパワ?」
「レモンパワーハラスメント。歌い手のグループみたいで、レモンハラスメントになるくらいレモンを推して皆にビタミンを届けていこうっていうコンセプトみたい」
「どうして理子はそういうふざけたものしか聞かないの? 志絵が勧めてるわけじゃないんだよね?」
 勧めるわけないじゃんと苦笑して言う。
「まあ、なんにせよ親が少しずつ進むべき道に戻してやらないとね。志絵は大丈夫なの? 休校になって仕事のペースとか乱れるんじゃない?」
「うーん、まあ寝室で仕事すれば何とかなると思うけど、それでもやっぱりやることは増えるよね」
「俺ももう在宅推奨されてて家にいるし、こっちに理子が来ても構わないよ。そう言えば彼氏の大学は大丈夫なの?」
「彼はもう春休み入ってるから」
「そっか。そう言えば、この間来た時理子が志絵の新しい彼氏のこと色々話してたよ」
「なんて?」
「若かったって。あと彼氏が志絵のこと好きすぎて見てて恥ずかしかったって。あと、二人のワールドが完成してて居づらかったとも言ってた」
「私も彼もすごく理子に気を使ってたんだけどね」
「理子は母親の恋愛への耐性はあるだろうけど、そんな若い彼氏じゃ複雑な思いもあるだろうとは思うよ」
「もう少し砕けて話せれば彼の良さも伝わるんじゃないかなって思うけど」
「まあ理子は志絵の盲目的な恋愛の一番の被害者だから、俺もできる限りのことはしてやりたいと思ってるよ」
 冗談か本気かわからないような言い方をするが、こういうことを言う時大抵吾郎は笑っている。
「この間高校時代の友達に会ってさ、彼氏のこと話したら、ものすごい勢いで全否定されてさ。彼の本気と私の本気には超えられない壁があるって、つまりバツ二の中年女性の余暇としての恋愛と若い男の子の一世一代の恋愛の差がそこにはあって、彼を本気にさせた罪は重いしとにかく今すぐリリースしなければ生態系に取り返しのつかない異常が生じるってくらいの勢いで人格批判されたんだよね」
「未来ある若者を搾取してるっていう批判ね。俺はそれとは全く違う印象を持ってるよ。若い男が年上の女性と付き合うのは、知識や教養、洗練されたたしなみを身につけるいい機会だし、十八世紀のフランスでは貴族女性が若い愛人を持つ習慣があった。彼にとって志絵との恋愛はさぞ実りある時間になるだろうと思うよ」
「でも実際、自分は本気で彼が好きだけど、彼の本気との差を感じるのも事実だし、今別れれば彼は普通に障害のない恋愛を経て結婚したり子供を持ったりするだろうなとも思う」
「そんなことを考えるのは良くないよ。相手が自分以外の人と一緒になるなんて、実際そうなるまで一ミリも考えない方がいい。それは自分で自分を貶める行為に等しいよ」
 そんな私の方がよく分かっているはずのことを、吾郎に言われるとは思っていなかった。それでも考えてしまうのだ。私は蒼葉が普通の恋愛を経て、幸福な結婚をすることを、想像してしまうのだ。そして彼がそういう道を選ぼうとする時、彼を詰ったり彼に縋ったりできない自分も目に浮かぶ。
 コロナ問題についてしばらく話し、コロナのせいで世界観が歪んで小説の進みが悪いと話す私に『ペスト』でも読んだらと雑なアドバイスをすると、じゃあそろそろウーバーイーツが届くからと吾郎は一方的に電話を切った。危険厨な吾郎は、すでにかなりの外出を控えているに違いない。
「理子とピザ作ったよ! ところで理子が明日原宿に行きたいって言ってるんだけど、どう思う? 俺はまあマスクさせて短時間なら連れて行ってもいいかなと思ってるけど。ちなみに、明日の夜彼女を紹介するつもり。その時レストランに連れて行こうと思ってるんだけど、どう?」
 クワトロフォルマッジョとマルゲリータと思しきピザの画像と、食べている理子の画像を見つめた後、私は返信を打ち始める。決断力に欠けた直人は、いつも理子に関することは全て私に承諾を求めてきた。結婚当初は頼りないと苛立ちもしたけれど、きっとそれは継父や継母が彼らの立場ゆえ永遠に囚われてしまう距離感なのかもしれない。
「うちも別に今の段階では外出制限もさせてないし、問題ないよ。彼女とレストラン行くのもいいと思う」
 次々母親や継父の新しい恋人を紹介される理子も大変だなと思うけれど、家族という概念が薄く広まっていく環境は、村全体で子供を育てていくような開放感と、ステップファミリーに象徴される、型にはまらない家族のあり方の両方を感じられるのではないだろうか。そしてその中でどうしても受け入れられない嫌いな人や、永遠の理解者になる人と出会うこともあるだろう。血が繋がっているからといって、自分が彼女の一番の理解者になれるなんて思うのは驕りだし、おぞましい考えだ。
 スマホを放り出そうとして、蒼葉からもLINEが入っていることに気づく。
「理子ちゃんいない間志絵の家に行っちゃだめ? なんか家に居辛くて」
 これまで、汚いだの何だのと理由をつけて家に来たがる蒼葉を断ってばかりいた。それでも私と付き合っているせいで母親に苛立たれ居心地の悪さを感じている蒼葉のことを思うと胸が痛んだ。彼の母親は先週朝帰りのタイミングで爆発して、彼が私と付き合っていることでどれだけ自分が嫌な思いをしているか感情的にぶちまけたという。気持ち悪いって言われた、という蒼葉の言葉に何が? と聞くと、「志絵ちゃんが」とあっさり返され、私は彼の親と会うことは未来永劫ないだろうと、自分たちの置かれた状況の特殊性を実感した。恋愛は個人的なもの、と思ってはいるのに、それでも友達にすごい勢いで批判されたり、彼の母親に強烈に憎まれたりすると、口内炎ができた時のような、歯に何かが挟まった時のようなすっきりとしない気持ちになるのが不思議だ。逆に考えれば、それらは口内炎や歯に挟まった何かでしかないとも言えるのだけれど。
「いいよ。とりあえず理子が戻る月曜までこっちに居たらいいよ」
 入れた後に少し後悔したけれど、そう言うしかなかったとも思う。でも同時に、無断で数泊して帰ったら彼は余計に家に居辛くなるだろうとも思う。理子の塾のことも調べないといけないし、蒼葉が来る前に水場の掃除くらいはしておきたいし、すでに更新されているであろう東京都のコロナの感染者数も気になった。胸がざわつき続けていた。これまで海の下に潜んでいた不穏なものが、潮が引き素足では歩けないほどごつごつとした岩として現れてきた。そんな気がした。ざわついていると、税理士から要求されていた追加資料のことと、先月受けた取材の謝礼用の請求書を送ってくれと言われていたことを思い出して、私はのろのろとデスクに向かい、パソコンを立ち上げた。


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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。最新刊『パリの砂漠、東京の蜃気楼』4月24日刊行。
maegamimami(マエガミマミ)
Twitter @maegami_mami

※この記事は、2020年4月30日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

※エッセイ集『パリの砂漠、東京の蜃気楼』が発売されました。


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HB(エイチビー)は、集英社グループの出版社・ホーム社の文芸サイトです。2017年11月にサイトを立ち上げ、2020年にnoteへ引っ越してきました。小説やエッセイを中心に、毎日をより楽しく過ごすための、さまざまなコンテンツをお届けします。

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連載 金原ひとみ デクリネゾン
連載 金原ひとみ デクリネゾン
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虚構が暴く、「可能世界=現実」の衝撃 illustration maegamimami

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