
スプーンの労働問題|斧屋「パフェが一番エラい。」第28話
まぎれもない「悪」があって、その避けられない「悪」に、自らも加担していたという怒りが生じる。それは、部分的には自分自身への怒りであるし、その事態が引き起こされてしまったことへの怒りである。始めから予測することはできなかった「悪」に、結果的に自らが手を染めることになった悔しさ。だからといって、それを回避する方策は、現実的にはあまり残されていない。
スプーンが、グラスの底まで届かない。
パフェグラスの底のくぼみに、スプーンの先端がフィットせず、どの角度でコシコシとあてがっても、底のクリームが、ジュレが、すくいきれない。どうやってもダメだ。私は最大限の努力をした。それでもダメなんだ。許しておくれ。私は悪くないんだ。悪いのは……、悪いのは、誰だ? フィットしないグラスとスプーンを用意した、お店が悪いのか?
スプーンを逆さに持って、柄の部分をグラスの底へ突っ込めば、すくえなくもないかもしれない。しかし、そうまでして食べ終えるというのは、もはや望ましいパフェ体験ではない。
パフェ人生の中で、こうした「底が×」である経験を、人は何度もすることになる。そしてある時期まで私は、それに対して怒りの感情が湧き出てくることを抑えられなかった。
しかし、そもそも「パフェスプーン」という名のスプーンは存在しない。スプーンの種類の中では「ソーダスプーン」と呼ばれる、クリームソーダ用のスプーンをパフェに転用しているのだ。したがって、そのスプーンにとって、グラスの底まですくう仕事はあくまで「副業」である。グラスとスプーンがセットで売られることも稀であるから、「底が×」である事態はむしろ発生して当然のことなのだ。
いや、もっと言えば、我々は一本のスプーンに多くを求めすぎではないか。パフェにおいて、スプーンに求められている仕事は、すくう・掘る・混ぜる・割くなど、多岐にわたる。一本にすべてを、つまりグラスの上から底までを任せるのは、過重労働ではないか。分業体制や、ワークシェアリングについて、もっと真剣に考えるべきなのではないか。
このことを考える時、いつも思い出すお店がある。横浜市青葉区にある洋菓子店「オペラ通り」。夏期限定で提供しているパフェは、細く縦長のグラスに、スプーンが2本ついてくる。細長いスプーンに、もっと細いスプーン。
マンゴーとヨーグルトの常夏パフェ。トロピカルミックスのマンゴーソルベ、ダイスマンゴーとキャラメルソテーしたバナナ、ミルクチョコのフォンダンショコラ、オレンジを混ぜ込んだフローズンヨーグルト、フィアンティーヌとパールショコラ、トロピカルジュレ。チョコが上下の素材をうまくつなぎつつ、後半は爽やかな展開となる。
この縦構造に対して、スプーンの分業体制が頼もしい。食べ終わりに近づいたら、細いスプーンに持ち替えて、底を最後まですくいとって、気持ちよく完結できる。
何事も、ひとつにすべてを押し付けてはいけない。そうか、と学ぶものがある。そのとき、私の怒りは消えたのである。こちらが何もせずに、お店とスプーンにただ責任を求めつづけるのはいかがなものか。よいスプーンがないなら、自分で用意すればよいではないか。
以来、浅草・合羽橋のカトラリーの店に時々行っては、面白い形のスプーンを少しずつ買い集めている。「ソーダスプーン」にも様々な種類があり、「ケーキスプーン」やヘラ形のスプーンのように、パフェで使えそうなスプーンは他にもあって、可能性の広がりを感じている。
そう遠くない未来。ペンケース大のゴルフバッグ状の容れ物を持ち歩き、そこからゆく店ゆく店のグラスの形状に合った「マイスプーン」を、颯爽と取り出して食べる自分がいるかもしれない。
▲オペラ通り「マンゴーとヨーグルトの常夏パフェ」
最後の必殺技のように、持ち替える。
連載【パフェが一番エラい。】
毎月第2・4木曜日更新
斧屋(おのや)
パフェ評論家、ライター。東京大学文学部卒業。パフェの魅力を多くの人に伝えるために、雑誌やラジオ、トークイベント、時々テレビなどで活動中。著書に『東京パフェ学』(文化出版局)、『パフェ本』(小学館)がある。
Twitter:@onoyax