第16話 サーバーから溢れる慢心と郷愁|金原ひとみ「デクリネゾン」
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第16話 サーバーから溢れる慢心と郷愁|金原ひとみ「デクリネゾン」

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  今日だけはどうしても牛丼とかハンバーガーを家で食べるのは嫌。どんなに雑な居酒屋でもいいから外でお酒とご飯を食べて帰りたい。こんなに素敵な気持ちを牛丼とかコンビニ弁当で濁したくない。そんなわがままを言ったものの八時半に終演したライブハウスの近くで時短していないお店は外に人が溢れるほど混み合っているか、予約でいっぱいかのどちらかだった。仕方なく家に向かい、大学生の多い乗り換え駅で賑わっているホルモン焼きと書いてあるお店を見つけて、私は指差して行こうと声を上げた。
 引き戸の奥の様子に、やっぱりさっき大通りで見つけたスンドゥブの持ち帰りにした方がいいかなと思い直しかけた瞬間、「いらっしゃいませ」と声を掛けられ足を踏み入れた店内は、まさに蜂の巣をつついたようなという言葉がぴったりのパニックと言っても過言ではない状況で、奥でジェイソンが大量殺戮を繰り広げていますと言われても驚かない程度にはうるさかった。呆れとうんざりを無表情の奥に隠したような蒼葉に「やっぱ出る?」と聞くけれど「大丈夫だよ」という抑揚のない言葉を返された。衝立の向こうの大学生グループがちょっかいを出し合っていてガンガン衝立に誰かがぶち当たる振動がこっちの椅子にも響く。
「三丁目の鳥貴だってこんなにうるさくなかったよね」
 記憶に残る限り最も雑な居酒屋を挙げると、蒼葉は聞き取れなかったようで不思議そうな顔で身を乗り出した。さっきよりも簡潔に伝えると、「ね」と苦笑する。久しぶりの外食なんだし場を和ませようとタブレットのメニューをああだこうだ言いながら検討していくけれど、彼は「いいよ」しか言わない。以前はこだわりのなさがいいと感じていた彼の言葉は最近、「どうでもいいよ」の意に聞こえてならない。そもそも彼は外に出ることが好きではなく、だからいつも外食は私主導となり必然的にメニュー選びも私主導になる。元々アウトゴーイングな人ではなかったけれど、緊急事態宣言が出て一緒に暮らし始めた頃から彼の家好きは本領を発揮し始め、結婚してさらにその傾向が強まった気がする。以前は無理して私に合わせていたところもあったのだろう。
 緊急事態宣言下で、ほとんどの店は酒類提供をやめ八時で閉店しているけれど、この店は全て無視していた。それぞれのテーブルにレモンサワーサーバーが設置されており、ジョッキにシロップを入れ、サーバーからサワーを注ぐとレモンサワー出来上がり、という飲み放題システムらしかった。各テーブルでアルコール8%の水道とコロナでストレスの溜まった若者やサラリーマンが蜜月するのだから、地獄絵図が自然発生するのは当然だ。桜ユッケ、厚切りタン、塩ホルモン、マルチョウ、カルビ、キムチ盛り合わせというそれにしたって冒険のないメニューが次から次へと到着して、永続レモンサワーと肉を交互に食べ進んでいく。こういう馬鹿なご飯もたまにはいい。そう思うけれど、このうるささだけは耐え難い。酒類提供禁止なんて馬鹿げてる声がでかい奴は酒を飲んでなくても声がでかいとずっと主張してきたけれど、斜め向こうのテーブルにいる四人組の男子大学生のグループは、着席した時は大人しかったのに三十分ほど経った頃から地獄の様相を呈し始め、今や一人や二人その場で吐いてもおかしくない勢いだ。顔を赤くしたオタクっぽい男たちが四人、競うように大きな声で、それでも僅かに敬語を残しつつ甘絡みし合っていて気持ち悪い。衝立の向こうのヤンキーっぽい若者五人組からは何かしらのゲームをしている声が聞こえてくる。斜め向こうのサラリーマン三人組は、うるさくするつもりはなさそうだが周囲がうるさいために声を張り上げていてなかなかのうるささだ。私と蒼葉も、それなりにうるさく話しているのだろう。
「酒類提供禁止が一理あるって認めたくないけど、少なくともこの店に対しては一理あるね。まあこういうお店こそ守らないんだけど」
 私の言葉に、蒼葉は「ね」と苦笑した。冷麺の追加で、打ち止めにした。蒼葉は最近随分食べる量が減った。前と同じノリでご飯を作ったり注文すると、大抵最後の方で辛そうにしている。彼の中で何か一つのフェーズが切り替わろうとしているのを感じる。彼は結婚して、就職先を決め、若者のような食べ方ができなくなったのだ。若いのだから、まだまだ彼は変わっていくだろう。歳をとるほど人は変化しなくなっていくという真理の下に生きる全ての生き物は、自分よりも細胞分裂が活発な若年者に対して、一種の畏怖の念を抱き続けるものだ。細胞は五十から六十回分裂するともう分裂しなくなるという。これが、人間が二百歳、三百歳にまで寿命を延ばせず長くとも百二十歳程度で人生を終える理由だ。蒼葉だって理子だって、いつまでも若者でいるわけではない。彼らもまた抗えない流れとして変化し老化し、どんどん細胞が分裂しなくなっていくのだ。不可逆な世をそして身体、精神を生きているからこそ、私たちは今を生きられると言えるだろう。命が永遠に続くのだとしたら、私たちは時間を意識できなくなり、今も昔も未来もなくなり、歩いても歩いても同じ景色のフラクタルを行き来するだけの人生を歩むことになるのではないだろうか。でも、と思う。そもそも私はずっと、フラクタルの中を生きてきたのではないだろうか。思えば、最近蒼葉に対して感じる「この人のことがよく分からない」という漠然とした不安は、付き合いが長くなるにつれ暗い影を落としていった、過去の夫たちに感じていたものと似ている。付き合い始めは新しいタイプの「よく分からない」に高揚した。でも「よく分からない」は今不安材料となり、今後彼が社会人になり共有できないものが増えれば増えるほど、「よく分からない」の存在感が増していくであろうと予測できる。知り合ってから延々、彼のことを知り続けた。でも山を登り続けた挙句気づいたら頂上を通り過ぎ下山を始めていたという現象にぶち当たっている気がするのだ。頂点を超えた私は、どうやっても彼を完璧に理解することができないのだということに少しずつ気づき始め、過去の二人の夫に対しても抱いていた「結局私たちは溶け合わない」という事実に三度震える。溶け合わないのは当然だ。溶け合いたいと願うことが不健全であり、無用な希求だ。そう割り切ったはずだった。それでも無意識に、私はまた溶け合うことを求め始めているのだろうか。だとしたら、私は何度罠にかかってもまた罠にかかってしまう野生動物のようなもの、それとも傾斜があれば重力に従って落ちてしまう、意識で己をコントロールできないボールや水分のような存在なのだろうか。だとしたら私は、何度も何度も恋愛と結婚と離婚を繰り返すフラクタルの中にいるのだろうか。ゾッとする思いつきを、なかなか噛みきれないマルチョウをゴリゴリ噛み砕くことで無視しようとしたけれど、その疑問はお会計をしても、外に出ても、歩いて帰らない? という提案を「絶対に志絵は途中で疲れたっていうよ」と拒否られても、どっしりと胸の中に鎮座し続けていた。

「なんか最近、初めの頃よりも色々厳しくなってる気がするんよなー」
 ひかりの言葉に、確かにねーと相槌を打つ。最初の頃は緊急事態感が強かったから、不安とか恐怖が先立っていたのかもしれない。
「あと夏くらいに割と感染者少なくなったじゃん? それで皆が気緩んで元通りの感じになったから、年末の揺り戻しがきつかったよね」
 そんな頃もあったねーと和香は小さく何度か頷いて、ほんと秋口くらいにはGo Toで年末年始旅行行こうかなって思ってたもんと続けた。
「あとま、お酒が飲めなくなったことで私の中で初めて緊急事態になったよね」
「まじでそれはあるよなー。もう外飲みにいこ思われへんもん。緊急事態宣言明けたらー言うて保留なってる飲み会クソほどあるで」
「でも実際、身の回りで増えてるよね。理子の小学校の頃の友達でも何人か休校になったみたいだし、先月は担当が感染したし……」
「それって太田さん?」
「あ、和香も担当太田さんだっけ?」
「うん。旦那さんからの感染だよね」
「そうそう。この間チラッと会った時はもう元気そうだったけどね」
「志絵も会うたんや。この間ユリが太田さんに会うてめっちゃ質問攻めしてきたって。エッセイに書く言うてたで」
 ひかりの言葉にさすがと笑いながら、私たちは示し合わせたようにグラスを口に運んだ。ひかりがこの間テレビでやっててんと話した赤ワインのコーラ割りという悪趣味極まりない飲み物で、和香は白ワインを飲んでいる。私はウィルキンソンとタンカレーで作ったジントニックだ。Zoomの集合時間前に作っていたら、「ライムはないけどレモンだったら冷凍してあるよ」と前にタコスをした時に余った分を冷凍してくれていた蒼葉が綺麗なレモンスライスを載せてくれた。
「子供たちは罹ってなかったんだよね?」
「幸いな。でも大変やったらしいで。まだ小さい二人、実家に預かってもらったらしいんやけど、実家でもしばらく隔離せんとあかんかったらしくて、もうおじいちゃんおばあちゃん必死やったって。もう途中でロクに隔離できんくなったらしいけどな。まあ保育園児はしゃーないわな」
 なんで唯一担当じゃないひかりがそんな詳しいのと、私と和香は思わず吹き出す。噂話は全部ここに集まってくんねんとウィンクするひかりは、なんだか清々しい表情をしていて、私はどこかホッとしていた。ひかりの旦那は来月退職予定だ。MBA取ろうかなとか大学院行こうかなとか、友達がイベント会社起業するから一緒に始めてみようかなとか、いやせっかくだから少し何もしない時間を持とうかなとか、選択肢がある状況が久しぶりすぎてなんも決められんまま退職を迎えそうやで。と少し前に聞いていた。ま、二、三年なんもせんとぼんやりしててもええねんでって言うといたわ。そう言うひかりは男前で、こんなお母さんがいたら良かったのにと私はつい気持ち悪いことを考えてしまう。
「はよ三人でうまいご飯とお酒飲み行きたいな」
 しみじみした声に、ね、と返す。外でお酒が飲めなくなってから、二人と会う機会はぐっと減った。ルール無視の店あるんだしそういうとこで飲めばいいじゃんと思っていたけれど、偶然入ったルール無視の店があんな様子だったため、さすがに誘いづらくなった。なんだかんだ、皆少しずつ慎重になっている気がする。変異株の増加のせいかもしれないし、周囲で増えてきて危機感が強まったのかもしれない。緊急事態宣言が明けたら飲みましょうという言葉はもはや酒好きの合言葉のようになっているが、まん防に変わったタイミングでと約束していたご飯も宣言の延長によりいくつか消えた。
 蒼葉と二人、孤島に閉じこもっているようなイメージが最近よく浮かぶ。孤立した二人は、毎日粛々とご飯を作り家事をしてセックスをして寝る。ほとんど育児家事を私に押し付けていた吾郎との生活や、直人との夫婦仲が冷え切って長いことレスが続いていた頃を思えば何が不満だとも思う。でもどこかでいい塩梅に保ってきたものが、表面張力でもう溢れそうになっているのを最近よく感じる。自分は引きこもりの孤立好きだと思っていたけれど、私が見る限り外出は隔週で通う大学とスーパーの買い物とたまのライブだけでそのことを全くなんとも思ってなさそうな蒼葉に比べたら、私はずっとアウトゴーイングで人好きなのだと痛感する。
「和香は、彼氏と会ってるの?」
「前ほどじゃないけど会ってるよ。でも時間的にお店行けないからホテルばっかりで、なんかマンネリになるよね。彼氏なのに、旦那みたい」
 和香はそんな、聞く人が聞けば怒り狂いそうなことを言う。でもこれが世の常だ。贅沢に見える人は実はその状況に倦んでいて、青い芝生だと思ったそこは実は泥沼で、輝いているように見えるその内面には諦念が渦巻いている。もちろん逆バージョンも然りだ。私たちは他人のことなどロクに把握できないくせに、何となく分かった気になって羨んだり妬んだり蔑んだりしているのだ。自分が結婚離婚を繰り返しながら同じ道をぐるぐるしているような気がし始めてから、なんだか何に対しても前向きに考えることができず、終わりのない螺旋階段をぐるぐるゆっくりと降り続けているような気分のまま生きている。ちょっと取ってくるわとグラスを持ち上げて言うと、私はリビングに出る。蒼葉はテーブルで卒論を進めているようで、目を合わせると「楽しんでる?」と聞く。
「うん。やっぱ実際に会う方が楽しいけどね」
「そう? 俺はZoomで十分だと思うけどね。支度したり、電車乗ったりして人に会いに行くの、疲れるし」
「例えばだけど、対面じゃないと出てこない話題とか、盛り上がらない話題があったりしない? Zoomでも用件は伝えられるけど、なんていうかフィルターがかかってるみたいに喉から出てこない感じ」
 うーん、と蒼葉は考え込んで、私はジントニックを作るのが面倒くさくなって冷蔵庫からストロングを取り出した。彼はそもそも、人と話したいことなどないのかもしれない。彼は自分の話をするのが嫌いだし、私以外の人に自分から相談や話題を持ちかけようとしないのだ。確かに彼は、ゼミ仲間や大学の友達に電話を掛けるときも、必要な話をして切る。向こうの世間話に付き合いはするが、自分から何か、新しい話題や体験談を提示することはない。途端に目の前の蒼葉がブラックホールのようなものに思えてきて、その異世界感SF感に思わず眉を顰める。私が唯一小説で苦手なジャンルはSFなのだ。
「顔を合わせて、僅かな目元とか口元の筋肉とか、仕草とか間とか身振り、そういうものを間近で見ないと分からないことってあるよ」
 他人のことなどロクに理解できないとつい二分前に思っていたにも拘わらず、私は分かったようなことを言っていた。考えていることと言葉が連動していないのは、よくない兆候だ。私は何かが不安なのだろうか。
「古臭いこと言ってるって思うかもしれないけど、合理化効率化の中で削ぎ落としていいものとよくないものが人にはそれぞれあって、私にとっては人と顔を合わせて話すのは重要なことなんだよ。やっぱり、インタビューだってリモートと対面では全然出てくる言葉の量も深みも違う」
 お前に深みなんて言われたくねえよ。不意に蒼葉が絶対に言わない台詞が頭の中で聞こえて、クラクラしてくる。
「そっか。志絵は人と難しい話をしてるから、そうなのかもね。俺は具体的な話しかしないから、前提が違うのかも」
 私は難しい話なんてしない。難しい話なんて理解できない。だから小説を書いているんだ。自分の卑俗さ無能さくだらなさが途端に耐え難くなり、うなじのあたりに悪寒が走り肩が震える。感情がチグハグになって、思考からどんどん分離していく。途端に最近あった嫌なこと、ずっと前にあった嫌なこと、情けなかったこと貶められたと感じたこと惨めだと感じたこと腹立たしかったことが蘇り、それらを綺麗に差し込んだ名刺ホルダーを回しているかのように次々パタパタと目に入ってくる。
「志絵、どうかした?」
「どうして最近私のこと志絵って呼ぶの? どうして最近外で手を繋ぐ時間が減ったの? どうしてこの間油がめっちゃ跳ねた時私よりも油が飛んだ床の方を先に心配したの? どうして私が理子の心配すると過保護だって馬鹿にするの? どうして私の言うことやることに敬意を払ってくれないの?」
 え私そんなこと思ってた? 言い切った瞬間どうしてこんなことを言ったのかよく分からなくなって混乱する。そんなこと、本当に思ってた? もちろんちょっと「何それ」って思ってたことではある。でもこんなふうに泣きながら、大騒ぎするほど、私は悲しんでいたのだろうか。積もり積もって? あるいは何か、結婚後の慢心みたいに思えて辛かったんだろうか。まあ実際慢心と言えば慢心だ。なんでどうして私が傷つくことに一生一番傷つくよみたいな顔して男っていうのは何年も経たない内に私を傷つけるんだろう。
「志絵って呼ぶことが増えたのは、何でだろうな、あんまり考えてなかったけど、対等でいたいって気持ちがあったのかも。志絵にも周りの人にも、結婚相手としてちゃんと見てもらいたかったからかもしれない」
 これから先蒼葉はもう二度と自然に私を呼び分けられなくなってしまうだろうに、どうしてこんなことを言ってしまったんだろう。
「あと手を繋ぐ時間が減ったのは、ちょっと暑くなってきたから、志絵が嫌かなって」
「去年まではそんなことなかったのに」
「前までは手を繋いでないと不安だった。でももう、結婚したから」
「それってつまり慢心ってこと?」
「慢心、なのかな」
「もう手を繋いでなくても平気なんでしょ? ていうか、自然に私への気持ちがちょっと低下したってことだよね?」
「そんなことないよどうして低下なんてふうに考えるの?」
「そんなふうにしか見えないからだよ」
「ごめん。一緒にいる時間が増えたから、ちょっと安心したところもあるかもしれないね。それで不安にさせてたならごめん。気をつける」
「気をつけられたくない! 自然に手を繋ぎたいって思わないなら繋がないで!」
「繋ぎたいよ。ずっとそばにいたいし、ずっと手握ってたいよ」
「でも暑いからって理由で握らないんでしょ?」
 どうしたの? 蒼葉の目が私に問いかけている。どうしたんだろう。私も分からないまま、それでも口からはメンヘラ発言しか出てこない。
「悪いかなって、二人とも暑いのは苦手だし、手汗も嫌なんじゃないかって。あと油跳ねのことは、そんな志絵に飛ぶほど跳ねたとは思ってなくて……」
「え、でもコンロの上のフライパンから床に跳ねるってことは、動線考えたら絶対私に届くよね? なんで床に落ちても私には当たらないって思うの? その時蒼葉にとって私よりも床の方が懸念事項だったのは事実でしょ?」
「とにかく、大したことないだろうって、思っちゃったんだと思う」
「昔の蒼葉なら真っ先に私の心配をしたはずだよ。あの時私がどれだけ惨めな気持ちになったと思う? そんなことも想像できないの?」
「ごめん。これからは気をつけるよ」
「気をつけようと思って気をつけられても嬉しくないっていうか惨めなだけ。つまりもう、蒼葉にとって私は気をつけようと思わないと気をつけられない存在ってことでしょ? そんなんじゃ嫌、辛いの」
「ごめん。どうしたらいい? 本当に志絵のことは大切に思ってて、もちろんちょっと気の緩みみたいなのがあったのかもしれないけど、どうでもいいなんて思ったことは一度もないよ。過保護だって言ったのも、もっと理子ちゃんのこと気楽に考えていいんじゃないかと思ったんだよ。理子ちゃんはしっかりしてるし、そこまで干渉しなくても自分でなんとかできるんじゃないかって」
「これまで十四年間育ててきた私よりも蒼葉の方が理子のことを理解してるっていうの? そんなことあり得る? 私は干渉すべきと思ったことにはしてきたし、必要じゃなければしてこなかった。私はずっと、過不足のない育児をしてきた」
 涙が溢れて止まらなかった。さすがにひかりと和香も戻らないことを訝しんでいるだろう。私は一体、友達とのZoom飲み会の途中に何をしているんだろう。こんなふうに口が達者でない蒼葉をボコボコにするみたいなことして、馬鹿みたいだ。彼が可哀想だ。気持ちとは裏腹に、涙が止まらなくて仕方なくてその場にしゃがみ込む。何を言っても私の気持ちが収まらないことに勘づいたのか、蒼葉は脇にしゃがみ込むと私の頭を撫でた。
「ごめんね、もっと頑張るから」
 頑張るって言う時点で全然分かってなくない? 私は頑張らなくても溢れる愛が欲しいんだよ! どうして頑張るの? 私は頑張って捻り出された優しさとか愛情なんていらないんだけど。溢れ出ないなら、私にそれだけの魅力とか価値がないってことだし、それならそれで別にそのままでいいし、気持ちに正直になってぞんざいに扱えばいいじゃん。えでもそれならどうして私と結婚したの? 意味分かんない。
「頑張って優しくされたって虚しいだけだし余計辛くなるだけだし」
「多分ちょっと安心しちゃってたから、しっかり気持ちを表現するように頑張るよ。志絵ちゃんと一緒にいたいから、ちゃんと頑張るよ」
「だから頑張らないで欲しいんだって」
「でも、頑張らないと。志絵のことを傷つけたくないし」
 シュートの練習とか、受験前の一夜漬けとかじゃないんだよ? 恋人を傷つけない、っていうことをそんなに頑張らないと、傷つけないことができないの? また苛々してきて床を睨みつけて散々肩を震わせて泣いた後、もうなんかとりあえず言いたいことは言えたしいいのかなとりあえず、と思いつつ、私は本当にこれらが言いたかったことなのかどうかまだよく分からない。なんだか自分の中にある鬱憤を、正規ルートとは別のルートで晴らしたような気がするのだ。そして蒼葉を焦らせて鬱憤を晴らして、それでも実際ちょっと気が晴れている自分が情けなかった。もちろん彼の態度一つ一つになんでどうしてと苛立ってきたのは事実だけれど、私はまるで弱いものいじめをしているようだ。まるでサンドバッグみたいに言葉を投げつけてしまったことを謝りたかったけれど、もう私には謝ることはできなかった。もっと謝れとしか思えなかった。寝室からスマホのバイブ音が聞こえる。多分心配した和香とひかりが電話しているんだろう。私は洟を啜りながら立ち上がると寝室に入ってノートパソコンを後ろ側から閉じた。スマホも着信拒否をして電源を切った。何が何だか分からなかった。とにかく全てが悲しくて、ガンガン痛む頭に苛立ちながら、ベッドに横になった。すぐに蒼葉がやって来て、何か言いたげにしているのが背中で分かるけれど、敢えて何も言わず体を震わせ続ける。
「ねえ」
 うんと答えると、隣にいていい? と蒼葉の声がして、私はまた泣きじゃくりながらいいよと答えた。後ろから抱きしめられながら、窓の向こうが少しずつ表情を変えていくのを見ていた。パキッとした空気が少しずつ柔らかさを醸し、次第に赤らんでいく。ベッドから手を伸ばしてレースカーテンを掻き分けると、壮大な感じの夕焼けが見えて、すごいと声を上げる。ね。と同意する蒼葉の腕が私を息苦しくさせる。ごめんねという蒼葉の声に、私はまた、謝るようなことするなと苛立つ。それでもようやく振り返ると彼の胸に顔を埋めた。自分が何をしたいのか、全然分からなかった。何が何だかよく分からなくて怖かったし、これは電子機器が壊れる前に暴走するのに似た症状なんじゃないかと気づいて、死の前触れなのかもとも思った。昔、サムギョプサルを焼いている時に壊れた電気プレートを思い出す。やけに焼けるのが早いなと思っていたら入れたばかりの肉が一瞬で焦げ、加熱面がカンカンカンカンと音をたて始め、慌ててプラグを抜いたのだ。なんの前触れもなく壊れたあの電気プレートと同じように、私はもう明日目が覚めたら使い物にならなくなっているのかもしれない。45ℓゴミ袋に入るかなこれ、こんなもののために粗大ゴミ券買うの嫌だよね、えーでも三十センチ以上だと券いるって、うわ最悪、これ絶対三十センチ以上じゃんと、廃品と化した私の処遇を考える人々の声が聞こえる。

「え、結構気にしてる感じですか?」「めちゃくちゃ気にしてますよー。も、全然ご飯とか行かないっすよ。全然! え、天野さんご飯とか行ってます?」「お酒飲めなくなってからはぐんと減りましたね」「いや、天野さんはいいですよね一人でできる仕事で。俺マジでこの仕事嫌ですもん。まじ家最高っすよ。家にいればコロナ罹んないし。まじ今すぐワクチン受けたいっす」「受けたら、何かしたいことあります?」「実家帰りますね」
 本当に悲しそうな顔で言うネイルサロン店長に、私は何だかちょっと呆気に取られつつ、微笑ましい気持ちになる。彼は家にいたい、蒼葉と同じタイプだ。コロナが流行り始めた瞬間、検温手洗い消毒を徹底し、すぐにアクリル板を設置したこの店長は、本当に心からコロナを怖がり、できることを全て実行しているように見える。ここまでの危険厨はあまり見ないけれど、皆相手の態度を見つつ、恐怖心を小出しにしているだけかもしれない。そう考えると、コロナめっちゃ怖い! と大声で言える彼はこっちとしても気持ちいいし、彼自身の評価を上げる結果になっている気もする。何にせよ、正直であることは素晴らしいことだ。正直な気持ちなのか、それとも何かのフェイクなのか、自分が感情を爆発させた理由もよく分からない私は彼に少し尊敬の念を抱く。
「家にいて、何してるんですか?」
「ネトフリっすね。も、永遠にドラマと映画見てたいっす」
 なんかオススメあります? と聞く彼に、去年映画館で見た映画を薦める。もうネトフリに入ってて、見ててすごく痛いし苦しいし、己の中に存在する全てのトラウマを根掘り葉掘り掻き出されるみたいなシーンが二時間くらい続いて辛いんだけど、最後の三十分で超越的な境地に至れるみたいな、そういう映画ですと言うと、彼はゲラゲラ笑って「プレゼン力0っすね」と声を上げた。
「絶対見ないっす。俺楽しい気持ちになれる映画しか見たくないっすから」
「楽しい気持ちになる映画って、見終えて少しすると逆に苦しくならない?」
「そっすか?」
「え、ならない?」
「ならないっすね」
 話せば話すほど彼への評価が上がっていくけれど、彼は絶対に私の小説が好きじゃないし絶対に絶対に人としては好きになれないだろうなと思う。それでも、普段マツエクでも美容室でも延々黙っているのに、今日は延々話していた。今日はいつもの担当者がいなかったから指名なしにしたら店長に当たったけれど、これからは店長を指名しようかとさえ思った。
 ドンキで買い物をして、駅で電車を待っているとイヤホンから着信音が鳴ってイヤホンのボタンを一回押す。
「もしもしママ?」
「あ、理子? どうしたの?」
「今からそっち寄っていい?」
「え、うちに? いいよ! 何か食べたいものある?」
「うーん、何でもいい!」
「何で急に? 今どこ?」
 言いながらスマホを取り出し、蒼葉に「今日理子が寄るって! 一緒にご飯食べよ」とLINEを送る。
「今ね後楽園!」
「そっか今日土曜か。私も今電車で帰るところだから、駅で待ち合わせない? そしたら一緒に買い物行けるし」
「いいよー。改札出たとこ?」
「うん。理子の方がちょっと先に着くかもだけど」
「いいよ。待ってるー」
 何だか嵐みたいな子だ。そう思いながら、私は電車に乗り込んだ。理子に会うのは三週間くらいぶりだった。
 待った? と声をかけながら歩み寄ると、理子は全然と声を上げて微笑んだ。この間服を整理していて、理子が着るかなと思って段ボールに詰めて送った夏服の中から、上下とも着ている。
「すごい可愛い。サイズ大丈夫だった?」
「うん。ピッタリ。ママの服って大好き」
「良かった。でも最近新しい服買ってないよね。今度買い物行く? 何か欲しいのがあればアドレス送ってくれればそっちに届くように買うよ」
「ほんと? ちょうど欲しい服があって」
 後で見せるねと嬉しそうな理子に、私も嬉しくなる。彼女は、周囲に気持ちを伝播させる。
理子と一緒にいると安心感がある。どうしてこんなに安心できるのかは分からない。彼女が「プレゼン力0っすね」と笑う店長みたいに、嘘のない人だからかもしれない。
 お魚とお肉。お肉ー。洋風和風は? うーん洋風かなー。ご飯とパスタ? 絶対パスタ! オイル系トマト系? オイル! あ、チーズの盛り合わせとか買おうか。うん! チーズ食べたい! どこかパティスリー寄ってデザートも買って帰る? えーそんな入るかなー。入らなかったら持って帰ったらいいよ。あ、私今日泊まってもいい? いいよ! どうして? 珍しい。いや明日もこっちで遊ぶ予定あって。あ、こっちの友達と? でも服とかどうする? 持ってないよね? ママの貸して。いいけど、君に合いそうなのはこの間送っちゃったからな、ちょっと大人っぽいのしかないかもよ。いいいい。私ももう大人だから! 
「泊まるならなおさらデザート買おうよ。今日食べられなくても明日の朝とかに食べればいいし」
「ママ私のこと甘やかしすぎじゃない?」
「久しぶりに会った子に厳しくする理由はないよ。夕飯は、しらすとキャベツのペペロンチーノと、煮込みハンバーグでどう? あとなんかさっぱりしたお惣菜とか買ってもいいかもね」
「えーそんなすごいの食べちゃっていいのー?」
「吾郎、ちゃんとご飯作ってくれてないの?」
「ま、一品かな。豚キムチとか、牛丼とか親子丼。で、インスタントの味噌汁とかスープとかそんな感じ」
「いつでも、ご飯食べるだけでもうちに来ていいんだからね」
「大丈夫だよ。品数は少ないけど毎食お腹いっぱい食べてるし」
 まあ確かに、年齢的にも性格的にも、全七品とかのフレンチのコースを食べるより、ラーメンや牛丼が食べたい年頃かもしれない。私たちは大量の買い物をして家に帰って、蒼葉に呆れて笑われた。
 理子が泊まることと、夕飯のメニューを伝えておいたから、蒼葉はニンニクや玉ねぎを刻んでおいてくれていた。じゃあ作ろうかといつもより少し元気な、あるいは元気そうに見せている蒼葉とあれは私がこれは俺がと言い合っていると、私も手伝おうかと理子がやってきて、手伝いという名の料理時間を倍にする子供の気まぐれイベントを思い出し怯んでいると、じゃあハンバーグ成形してくれる? と蒼葉が提案した。理子はもう足手まといにならなかった。マジで早く飽きてくれないかなと思っていたのはもう、遠い昔だ。吾郎とも料理してるのと聞くと、そりゃまあある程度は? と頼もしいことを言う。いつもめんどくさい、時間がかかる、と「いいのいいの今日は私がささっと作るから」と一緒に作る申し出を却下してきたのが、今になって自分を苦しめてくる。仕方なかった。私はあの時、必死だった。それに今だって笑えるくらいに必死だ。
 切りたい、炒めたい、とあれこれ手を出すため、私は途中から指示役に回って、理子がやりたがるだけ料理をさせた。出来上がったペペロンチーノと煮込みハンバーグ、お惣菜の枝豆とひじきと豆腐の炒め物を並べると、私たちは三人でいただきますと声を上げた。強い達成感があった。蒼葉と理子とご飯を作った。ただのそんな、日常のワンシーンに、もう今ここで死にたいと思わせる充足があった。いただきますと言ってフォークを手に持った瞬間から、もう理子が帰ってしまうのが悲しかった。それでも、吾郎の話、友達の話、学校の話、先生の話や夏期講習嫌なんだけどほんとに行かなきゃなの? という諦めの中での抵抗、色々な話を聞いているとそれだけでKURE5-56のように全てを滑らかにしてくれるようだった。
「あ、ねえ直人から動画届いた?」
「何の動画?」
「直人から。結婚式の」
「なにそれ。直人結婚式挙げたの?」
「本当は皆呼びたかったらしいんだけど、コロナで仕方ないから、二人と牧師さんだけで結婚式挙げて、撮影してもらってめっちゃ綺麗に編集してもらったんだって。ママと一緒に見たいなって思ったからまだ見てないの、後で一緒に見ようよ。蒼葉くんも」
「でも、蒼葉は直人のこと知らないし……」
 私の情けない声に、いや見るよと蒼葉は笑った。
「直人さんは、理子ちゃんと志絵の大切な人でしょ」
 まあ、そうだねと言いながら、蒼葉も私と結婚したことで、少し心が柔らかくなったのかもしれないと思う。そしてそれは、何よりもかけがえのないことだとも思う。少し気を抜いた彼を責めた私は、鬼畜だったと言えるかもしれない。
 ペペロンチーノ一人前と、小さめのハンバーグを二つ食べ切った理子は、近所の人気パティスリーで買ってきたショートケーキも食べ切った。私たちは理子のアドレスでログインして、クラウドで共有された直人の結婚式を流す。硬すぎず柔らかすぎず、ちょうど良い結婚式だった。二人は幸せそうで、私は直人を見ながら、直人がいつもつけていた香水を思い出していた。私も好きで、よく借りてつけていた。大学の頃からずっと同じのをつけていると言っていたから、今も替えていないのかもしれない。でも、たまに浮気をして違和感のある香りを漂わせていたから、もしかしたらまた別の香りになっているかもしれない。もう二年近く会っていない直人の匂いを想像しながら、彼らが永遠の愛を誓い、指輪を填めるところを見ていた。口づけをという瞬間、彼らが永遠に一緒にいられますように、と地球が滅亡しませんように、と願うくらいの熱量で思っている自分に軽く驚いていると、理子が「きゃあ!」と声を上げ座っていたソファに大の字になった。
「まじ恥ずい!」
「理子は小さい頃毎日直人にキスしてたよ。頬にだけど」
「口は違うじゃん! 違うくない?」
 そう? と蒼葉と目を見合わせて肩をすくめて笑っていると、「ママと蒼葉くんも結婚式したらいいのに」と理子が言う。
「私は結婚式はしない主義なんだよ」
「でも綺麗じゃん」
「綺麗だからするものじゃないんだよ」
「じゃ何でするの?」
「社会的拘束力を持つ婚姻制度に同意してそこに身を委ねることを大勢の証人の前で誓いますっていう儀式だよ。私は結婚をただの愛情表現の一つとして捉えてて、本来の意味で結婚してるわけじゃないから、そういう人は結婚式なんて社会的なことはするべきじゃないんだよ」
「今直人と梨花さん、そんなこと誓ってたかな?」
「ま、直人はそういうことあんまり考えないタイプかもしれないけど」
「ママも考えなきゃいいじゃん。結婚式はお祭りだよ。イベント、てか、思い出!」
 考えとくよと言いながら、理子にお風呂最近何度で入ってる? と聞く。私は一年中三十八度だよという答えに、お子様だねと笑っていると、俺が入れてくるよと蒼葉がお風呂場に向かった。しばらくするとバスマジックリンの匂いが漂ってきて、理子が「蒼葉くんお風呂掃除してるの?」と聞く。「ああ、蒼葉は毎日、お風呂入る前に浴槽をさっと掃除するんだよ」
「すごいね」
「そうだね。それがなんか普通になっちゃってたけど、蒼葉は丁寧に暮らす人なんだよ」
「ママがそんな丁寧な暮らししてるなんて、なんか不思議」
「私だって私なりに、丁寧にしてたつもりなんだけどな」
「直人が出て行ってからしばらくは、ママの雑さが辛かったなー」
 理子は顔を歪めて言う。そうか私たちは、誰かと生活を共にし、生活を溶け合わせ、あらゆる規範を作り上げ、模索し変化させ続けながら、共存してきたのだ。そしてその生活はそれぞれ私たちの中に爪痕を残している。私は吾郎と直人と理子と作ってきた生活を、今は蒼葉と溶け合わせて新しい生活を形成し続けているのだ。ものの十分で張れたお風呂に理子が向かい、ソファに座る蒼葉の足に頭を載せぼんやりしていると、これまでの全ての生活への郷愁の中で、もうすぐに理子が帰ってしまう気がして目に涙が滲んだ。
「結婚式挙げる?」
 私の涙に気づいていない蒼葉はそんなことを言って、私は苦笑する。
「蒼葉嫌でしょそういうの」
「でも志絵一度もしてないんでしょ?」
「してないけど」
「俺だけの初めても、一つくらいあってもいいんじゃないかなって」
 うーんと唸ったあと、考えとくと大きな声で言う。多分挙げないけど、蒼葉の提案は素敵だった。それだけで、少し傷が癒えた気がした。お風呂から大声でトリップの曲を歌う理子の声がして、私と蒼葉は同時に肩を震わせて笑った。

illustration maegamimami

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連載【デクリネゾン】
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金原ひとみ(かねはら・ひとみ)
1983年、東京都出身。2003年『蛇にピアス』ですばる文学賞。翌年、同作で芥川賞を受賞。2010年『トリップ・トラップ』で織田作之助賞受賞。2012年『マザーズ』でBunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。著書に『アッシュベイビー』『AMEBIC』『オートフィクション』『アタラクシア』『パリの砂漠、東京の蜃気楼』『fishy』 等がある。『SPUR』にて「ミーツ・ザ・ワールド」連載中。

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