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三毛|村山由佳 第34話

 出た。ようやくだ、ようやく生まれた。インチョ先生の親指と人差し指にはさまれ、尻尾の先から引っ張り出されてきた。
 くず餅みたいな粘膜に包まれた塊を見て、安堵(あんど)しかけたのもつかの間。私たちの間に再び緊張が走る。
 羊膜を取り去っても動かないのだ。息をしない。〈お絹(きぬ)〉が鼻面を舐(な)めてやるのに、力なくだらんだらんと転げるだけだ。もしや、母親の産道を行きつ戻りつしている間に圧迫されて窒息……?
 同じく息もできずに固まっている私たちの前で、ミホちゃん先生がさっと子猫を拾い上げ、首を支えながら逆さにして軽く振ってから、乾いたタオルにくるんで柔らかくゴシゴシゴシッと両手で揉(も)む。ハムスターほどの小さな体が左右にゆらゆら揺れる。そばに立つ背の君が、急いでその手もとを照らす。
 ゴシゴシッ、ゆらゆら。
 ゴシゴシゴシッ、ゆらゆらゆら。
 うそ……駄目なの? こんなに頑張って生まれてきたのに?
 ──と、音もなく口が開いた。アマガエルみたいな歯のない口がぱくぱくと開いたり閉じたりして、濡(ぬ)れた鼻の穴から、しゅ、しゅ、しゅ、と息が漏れ、何度目かに、ミィヨウ! と初めて鳴く。もう一度、絞り出すようなミィヨウ! 四肢も動き始めた。
 肩で大きく息をついたミホちゃん先生が、顔をくしゃくしゃにして、くるんだタオルごと子猫を私に差しだす。我が子を抱き取るみたいに両手で受け取り、顔を覗(のぞ)きこむ。
 ああ……生きてるよ。動いてるよ。助かったんだ、よかった、ちゃんと生きてる。
 マズルは白くて、鼻の先は淡いピンク。目をぎゅっとつぶっているはずなのに開いてるみたいに見えるのは、黒マジックで描いたみたいな太い隈取(くまど)りがあるせいだ。それより何より、おでこから頭、うなじから背中へと続く、まだ濡れたままの毛並みを間近に見て、私は目を疑った。
「えっ……三毛?」
 思わず背の君を見上げる。
 突っ立ったままの彼が、うっ、と声を漏らし、眼鏡をむしり取って腕を目に押しあてるのを見たら、私もどっと泣けてきた。
 ミィヨウ!
 お絹が気にして体を起こそうとする。
「大丈夫やで、大丈夫。よしよし、よう頑張ったねえ」
 急いで子猫を懐へ戻してやると、お絹は少し興奮した様子で一生懸命に子猫を舐め始めた。
 三毛。よりによって、三毛。〈もみじ〉よりは色が濃いようだからサビ三毛だろうか。それにしたって、見るからにシャム系のお絹のお腹(なか)からよくもまあ……。

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 私たちが情けなく洟(はな)をすすっていると、インチョ先生が、
「いけない、忘れてた」
 ミホちゃん先生と一緒にまたてきぱきと手を動かし、子猫からつながるヘソの緒を鉗子(かんし)ではさんで糸で結び、そうして切り離したその小さな胎盤をお絹の前に置いた。匂いを嗅いだお絹が、全部わかっているかのように粛々と食べきる。
 眺めているうち、緊張で強(こわ)ばっていた体から力が抜けていった。
 もしも先生たちが来ていなかったらどうなっていただろう。想像すると今さらのように震えてくる。
 ヘソの緒を切るくらいは頑張ればできたとしても、あれほど遠慮のない完全なる逆子を、指を差し入れてつまんで引っ張り出すなんてこと、どう考えてもできる気がしない。どこまで手助けしていいかすら判断が付かずにおろおろするのが関の山だったろうし、ぐずぐずしていたら子猫ばかりか母体さえ危なかったかもしれないし、たとえどうにか出てきたとしたって、仮死状態の子猫を適切に処置して息を吹き返させるなんてこと、絶対に、ぜったいに無理だった。そもそも、一匹目がつっかえたままでは、後に控えているはずの二匹目も三匹目も出てこられるわけがないのだ。

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 改めて、千倉(ちくら)の道ばたで出会った時のお絹が思いだされる。彼女があんなにも必死に私の脚にしがみついて離れなかったことまでが、もしかしたら必然だったんじゃないかと思えてくる。もとの家の人たちからもすごく可愛(かわい)がられていたけれど、ふつうに外猫がそうするようにひとりでお産をしていたら、今ごろ無事ではいないかもしれない。
 チェストの上の写真立てを見上げずにはいられなかった。
(もみじ。お願い、守って)
 もみじにそう祈った気持ちが、天にまで通じたんだろうか。
 一年と少し前に彼女が旅立ったのとまったく同じこの場所で、いま、新しい命を迎えることができた──そのために用意されていた道筋のすべてが、奇跡としか思えない。
 落ち着きを取り戻した様子のお絹が、丁寧に丁寧に舐めるおかげで、小さな子猫の毛並みがだんだんと乾いてゆく。三毛だから、まず間違いなくメスだろう。まだ少し湿った産箱の敷布からはかすかに、潮の香りを思わせるいのちの匂いが立ちのぼっている。
 インチョ先生とかわるがわる、まだお乳がちゃんと出ないお絹のおっぱいをつまんで乳腺を刺激してやるうち、やっと子猫が自分から吸いついてちゅくちゅく飲み始めた。これでもう大丈夫だ。
「やーれやれ」
 元通りに眼鏡をかけた背の君が、ひとまずライトを消して深々と吐息する。
「すっかり忘れとったわ。あいつら呼んで来たろ」
 そうだった。彼の娘夫婦に、生まれる時は知らせると約束していたのに、まったくもってそれどころではなかった。さすがに二匹目まで逆子ということはなかろうし、今度は安心して見守ることができそうだ。
 私は立ち上がり、みんなのぶんのコーヒーを淹(い)れ直しに急いで二階へ上がった。
 この時点では、もうすぐにでも次が出てくるとばかり思っていたのだ。

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村山由佳(むらやま ゆか)
1964年東京都生まれ。立教大学卒業。 93年『天使の卵─エンジェルス・エッグ─』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2003年『星々の舟』で直木賞を受賞。09年『ダブル・ファンタジー』で中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞、柴田錬三郎賞を受賞。『ミルク・アンド・ハニー』『猫がいなけりゃ息もできない』『はつ恋』『まつらひ』『もみじの言いぶん』『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』など著書多数。
Twitter @yukamurayama710

村山由佳さんの猫三部作を書店で見る

※この記事は、2020年5月22日にホーム社の読み物サイトHBで公開したものです。

※『晴れときどき猫背 そして、もみじへ』の刊行に際して、姜尚中さんとの対談が行われました。


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