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第12回(最終回) 『エマニエル夫人』、カトリーヌ・ブレイヤ、石田純一、等に生じた誤解 姫野カオルコ「顔を見る」

幼い頃から人の顔色を窺うと同時に、「顔」そのものをじーっと見続けてきた作家・姫野カオルコ。愛する昭和の映画を題材に、顔に関する恐るべき観察眼を発揮し、ユーモアあふれる独自理論を展開する。顔は世につれ、世は顔につれ……。『顔面放談』(集英社)につづく「顔×映画」エッセイを、マニアック&深掘り度を増して綴る!
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 『エマニエル夫人』。この映画のタイトル●●●●はとても有名である。

 タイトルは有名●●●●●●●なので、公開後20年以上たってからこの映画を「ふと見た」青年や盛年や老年はけっこういるはず。

 〈東京に住んでて、そういえば東京タワーに行ったことないな、一度、行ってみよう〉
〈十和田に住んでて、そういえば十和田湖に行ったことないな、一度、行ってみよう〉
 こんなふうな、「ふと」は、日常ではたまにおきる。

 これくらいの動機で見たとして、その感想は、
「なーんだ。どうってことない映画だった。でも、公開当時は衝撃だったんだろうね」
 というのは好意的なほうで、

 「なんだよ、これ。ふざけんなよ。こんなんで公開当時は衝撃的だと騒いでたのか」
 というほうが(たぶん)多いと思われる。高知はりまや橋、長崎オランダ坂、といい勝負であろう。

 その感想は正しい。主演のシルビア・クリステル本人が雑誌の取材で「退屈な映画です」と言っている。

 私は公開年の5年後に見た。見た直後の手洗い所で同性二人連れの客がしゃべっていた。

 「映画、おもしろくなかったねー」
 「そうだねー」
 「途中で寝ちゃいそうになった」
 「わたしなんか、ほんとに何回か、ウトウトッとしちゃってたよ」
 「わかるー、音楽も静かだしー」
 「子守歌みたいでー」
 「何回も繰り返してかかるしねー」

 二人の年齢は、一人客であった当時の私と同じくらいであり、
「私もー」
 と、蛇口を閉めて、同意のひとことを言いそうになったくらい、『エマニエル夫人』という映画は、そんなモンな映画なのである。間延びしたCM映像というところ。

 「短い時間で、商品の想定購買層に印象づけねばならないCM」にはハイセンスが求められるが、それと、「長い時間で、ストーリーなり登場人物の内省なりを、観客に納得させねばならない映画」のハイセンスとは、質や技術が異なる。

 『エマニエル夫人』は、餅屋じゃない人が作った餅みたいで、エステのCMにボディクリームのCMとリゾートマンションのCMもつないで間延びしたような、ソフトフォーカスの撮影もあいまって、まさにぼやけた出来。しかも、有色人種(タイ人)を、白人のエンジョイセックスの道具としてだけ用いた(悪い意味で)ナチュラルな見下し観●●●●●●●●●●は、現在なら炎上もの。

 にもかかわらず、この映画には「衝撃的」という「ことば」が、公開後50年たってもついてまわる。

 なぜか。

 誤解されているからだ。

 世の中にはさまざまな誤解がある。深刻なものから滑稽なものまで。
 いったん誤解されると、解けることはまずない。誤解とは、多くの人が「そう思いたい」心理によって信じられて広がり定着してしまう。

 滑稽な誤解のほうが、解くのは困難である。そもそも、深刻な事項のほうが、滑稽な事項より重要で高尚だとされていること自体、誤解であろう。滑稽な事項のほうが、哀しみは深いものである。

 しかしだ。妙な誤解が、誤解されたまま、妙な利益をもたらすケースもある。「レタスは美容にいい」とか。

 レタスのビタミンCやビタミンKは小松菜やパセリよりぐっと少ないが、いまだに「美容食=レタス」のイメージはあり、多くの人が買う。売れるという面で、誤解がそれなりに利益をもたらしているわけである。

 逆に、妙な誤解が、誤解されたまま、さびしい状態になっているケースもある。石田純一の「不倫は文化だ」とか。

 その原因となったゴルフ中の彼への突撃取材の映像を、たまたま私はオンエア時に見ていた。彼はそうは●●●言わなかった。突撃取材側が「不倫は文化?」というテロップを出したのだ。私の家にTVがあったころだから何十年も前だ。それがいまだに、「石田純一とは不倫は文化だと言った人」だ。

 私は石田純一に金を貸してもらっているわけでも、怪我をしたとき手当てをしてもらったわけでもないが、彼に対するこの誤解は、世の中の人の、他人を「ひひひ」「ケケッ」とわらいたい欲望のイコンである。さびしいことだ。

 このさびしさは、『エマニエル夫人』の誤解にはない。レタス同様、《妙な誤解が、妙な利益をもたらした》ケースだ。

 『エマニエル夫人』は、映画が衝撃的だったのではない。
 ポスターが衝撃的だったのだ。

 そうだ、籐の椅子のポスターだ。だれもが思い出すのは、籐の椅子。そこに、上半身は裸で、足を組んでいた、あのポスターが、人々の目を射たのである。

 なぜ射たか。

 きれいだったからだ。
 上品で、「わ、やらしー」という要素がなかったからだ。

 日本公開は1974年。同じころに話題になった『8時だョ!全員集合』の加藤茶の「ちょっとだけよ」「あんたも好きね」は、セックスが見えるわけでも裸女がいるわけでもないのに、「わ、やらしー」という要素がものすごくあった*。いっぽう、エマニエルにはなかった。
 *だから「おふざけコント」の隠れ蓑●●●をまんまと手に入れ、全国の子供たちは大喜びしたのである*

 エマニエルのポスターは、「エロティック」だとか「エロス」だとか、「ティック」や「ス」は付いても、「エロ」や「エッチ」ではなかった。「ティック」や「ス」の付く、そのあたりのムードはちゃんと帯びつつ、採光かげんが近世絵画のようで、下半身にまとっているのも、古風な木綿レースのペチコート。

 いいなあと、男性にも女性にも、抵抗のない、きれいなポスターだった。
 *ポスターを見ただけでは、その被写体がシルビア・クリステルという名前であることはわからないのだが、読み進めやすさのために以降シルビアと名を出す*

 籐の椅子にすわるシルビアの乳房の、小さいと言ってしまえばそれまでだが、ファッションショーでブラジャーをせずにランウェイを歩くモデル(あるいはショーウインドーのマネキン)のような、皮膚の薄い、体温を感じさせないアートオブジェめいた乳房だったことが絶大の効果をもたらした。上半身が裸のポスターなのに、見ていることに罪悪感を感じさせないという効果を。

 ということは?
 老若男女、保守的な人でも、話題にしやすかった。

 加えて、ポスターを見た人のうち女性には、シルビアの髪がベリーショートなことに好感を抱かせた。

 ショートヘアの女性というのは、女性に、「少年のよう」と、短絡して、映ることがよくある。

 短絡だと言うのは、シルビア・クリステルの目鼻だちや骨格は、「少年のよう」の真逆で、たいへん女性的だからである。だが、ショートヘアだと無条件に「少年のよう」と感じてしまう短絡装置が備わっている女性は、けっこう多い。

 この装置について詳述するのは別の機会にするが、結果的にシルビアは、ベリーショートの髪形であることで、多くの女性に、「少年のよう」と感じさせ、好感を抱かせた。

 はいている「靴下+靴」が、「パンストや生足+ピンヒールのオープントゥーやミュール」ではなく、「木綿のハイソックス+足首を隠すアンクル丈の革靴」なのも古風で慎ましく、ネオクラシックに新鮮なおしゃれ感を、多くの女性に抱かせた。

 多くの女性が好感を抱いた、ということは?

 男だけでなく女も、エロ「ティック」な映画に興味を抱き、映画館に足を運ばせた。観客動員数が増えた。

 ことほどさように、『エマニエル夫人』が衝撃的だったのは、ポスターなのである。

 そして、あのポスターの力により、それまでエロ映画には金を払ってくれなかった(=エロ映画なんか見てはいけないと、たとえ見たくても見ないようにしてきた)女性が、じっさいのエロ度は低いものの、「いちおうエロ(ティック)映画」に金を払った、ということが、画期的だったのである。

 だれにとって?
 映画を(エロ系商品を)売る側にとって。

 「なるほど、女にも金を出させるエロ(ス)商品は、こう宣伝すればよいのか!」と画期的だったのである。

 これが、歳月とともに、微妙にずれた。

 「映画『エマニエル夫人』は公開されるや衝撃的で話題沸騰したエロ映画の名作」

 みたいなふうに、人々のあいだに残ってしまった。が、先述のとおり、ビジネスとしての効用はあったわけである。

 同じくソフトフォーカスなフランス映画の『ビリティス』(公開1977年)も、エマニエルビジネスの効用で製作され、日本にも輸入されたと想像される。

 『エマニエル夫人』同様、「女性が映画館に見に行ける、きれいなエロ(ティック)映画」である(3/4くらいまでは)。

 ピンボケ写真を撮らせたら天下一品世界一(城達也アレックス・マンディの口調で)。女性たちから「すてきぃ」、「この人に撮ってもらうんなら脱ぐわ」とうっとりされるファッション・カメラマン、デビッド・ハミルトン初の劇場映画監督作品だ。

 「16歳を越した女は撮りたくない」とナボコフのようなことを公言していたハミルトンが監督した物語の内容は、日本でいえば中3くらいの寄宿学校に通う少女の、一夏の経験。

 寄宿舎の寝室で同級の少女と薄着のまま抱き合いたわむれ、避暑地の別荘で美しい年上のお姉様と抱き合い戯れ……るシーンが満載なので、ロリコン趣味男性に人気らしい。彼らには冷水を浴びせるかもしれないが伝えておくと、性的なシーンが多いので、法律や条例に抵触せぬよう、当然、15歳の少女はパティ・ダーバンヴィルという26歳の女優ががんばっている。

 白人の26歳は、日本人の36歳くらいに見えるから、それが15歳の役というのは、どうしても無理がある。長い年月を描く女性の一代記ならともかく、「少女」というもの、「少女という一瞬のきらめき」が大きなテーマになっている映画で、20歳でも無理があろうに、26歳起用はきつい。

 冒頭からダーバンヴィルの顔がアップになるので、私など、「そうか、今はお母さんになったこの人が、これから回想するのね」と見続けていたら、そのままこの人が少女役なので最後まで違和感があった。

 それでも腐ってもハミルトン、ピンボケの、もとい繊細なソフトフォーカスで撮ったラ・フランスな森の小径や海岸は洋梨のようにみずみずしく、退屈なストーリー(女性にも、ロリコン男にも)だけど、「見てるだけできれい~」でfinマークが出るはずが、そうは問屋がおろさない。

 この映画、脚本がカトリーヌ・ブレイヤ姐さんなのだ。

 「姐さん」と呼ぶのは、自分より10歳年上の「姉さん」であることに加え、「フランス映画の除け者」と呼ばれても、独自の映画を作ってきた果敢の人だからである。

 『ビリティス』は、そのブレイヤ姐さんが、自分の監督作品が公開中止になったころに脚本だけを受け持った。

 この映画の、実際の編集過程がどうであったか、日本の部外者の私が知るよしもないので、一鑑賞者として、映画の始まりから終わりまでを順に見て想像すると、途中までこそブレイヤ姐さんはおとなしくハミルトン監督の言うことをきいて、「少女だけが持つ、美しくもあやういエロ(ス)」を中心に脚本を書いていたものの、途中からハミルトンの、「爺ぃの幻想」にハラを立てはじめ、ラストあたりともなると、ブレイヤ節が全開……という具合に、「エッジの効き型」が変化している。

 少女の高慢と、その裏腹の劣等感を、ブレイヤ調の鋭さで(ハミルトンのピンボケじゃなくて)描出し、寝そうになっていた女性観客のハートにピリッとねじこんでくる。

 〈栴檀は双葉より芳し〉と言う。ブレイヤ節も、初期の『ビリティス』のラスト3/4のころより、抑えようとしても抑えきれなかったことがわかる一作。

『ビリティス』の映画情報。allcinemaより。

 なんだけれども、さすがはブレイヤ姐さんの、「さすが」が発揮されるのは、デンマーク映画『罪と女王』のフランス版『あやまち』。

 作品として一推し、という意味ではなく、デンマーク版と比較すれば、あの出来事に絡む人間の描きようがだんち。脳卒中から回復した75歳で、あのヴィヴィッドさ!

 さすがはカンヌ映画祭で、ジュスティーヌ・トリエ監督の『落下の解剖学』、是枝監督『怪物』とパルムドールを争っただけのことはある出来。

 総合的に出来がよかった『落下の解剖学』が受賞したが、『怪物』と『あやまち』なら、『あやまち』を、個人的には迷わず推す。
「観客を騙しておどろかしてやろうぜ作戦」の脚本を、飽きさせない、おもしろいと感じる人も多いだろうが、私にはどうも、騙し方がルール違反に感じられた。

 かたや『あやまち』は、どこの国でもあるかもしれない出来事を、単純に撮って、でも、さすがのフレンチスピリット。ラストも大人のエグさ甘さ生臭さがしみいる。

 ただ、あの「酸いも甘いもかみ分けた感」は大人にならないとわからないかもしれないので、一本推すなら『処女』にしておこう。ブレイヤ監督のセンスが、もっとも一般的な手法で出た作品で、胸に突き刺さって泣いた。

 でも、別の理由でも泣ける。原題は『私の姉へ(私の妹へ)』*フランス語は年齢の上下を示さないので*。なのに、邦題『処女』。うう、この邦題、なんとかならんのか(涙)……。

 こんな邦題なので、配信がまだ普及しておらず、レンタルビデオ(DVD)が全盛だった時代、TSUTAYAに行くと、「エロチック」のタグのラックに必ず置かれていた。

 先に言及した、デンマーク映画『罪と女王』のフランス版も、原題は『去年の夏』なのに、邦題『あやまち』。うう、この邦題、なんとかならんかったのか(涙)……。
『ビリティス』のビデオ発売時の邦題も『柔らかい肌/禁じられた幼性』。うう、なんとかならんかったのか……(涙)。

 たしかにブレイヤ監督は「性」というものをえぐる人だが、『処女』だとか『あやまち』だとか「禁じられた幼性」だとか、こんな邦題からイメージするような、甘っちょろい映画じゃなかと!

 《妙な誤解が、誤解されたまま、さびしい状態になっているケースもある》
 の例に、日本でもなってしまっている(涙)。

 スイートな邦題をつけて、ブレイヤ監督作品を、『エマニエル夫人』のように売ろうとしても、その実態はスイートじゃないのだから、スイートを求めている人が見たら嫌悪感をもよおすし、非スイートなものを求めている人には、タイトルから自分が求めているものではないと誤解されて、その人のもとに届かない。

『あやまち』『処女』ほか、カトリーヌ・ブレイヤ作品。allcinemaより。

 『エマニエル』夫人にもどる。《妙な誤解が、妙な利益をもたらし》て、このシリーズはヒットした。

 「衝撃的」だったのはポスター、なのが事実とはいえ、内容が、きれいなエロ(ティック)なのも事実で、ものたりないくらいが万人向け、の証明かもしれない(ブレイヤ姐さんの映画は、炸裂パンチなんで)。

 シルビア・クリステルが主演したものだけでも、〈正〉〈続〉〈さよなら〉〈パリの熱い夜〉の4作が作られた。

 〈正〉には女性客がつめかけたが、彼女たちは見たあと「リピはなし」と思ったはず。とすれば、〈続〉以降は、男性客に支えられたのだろうか。

 気合を入れて勃起せんとする目的ではなく、ビデオやDVDを買って、自宅の寝室で、睡眠導入ムービーとして、男性客は用いたのかも。

 繰り返し流れてくる甘い音楽とソフトフォーカスな映像は、催眠術師が目の前でペンダントをゆらし、「あなたは眠くな~る、リラックスしま~す、眠くな~る」と唱えるがごとく。

 あるいは、自分の妻や恋人との自宅デートで用いようとしたのか? 女性側が「いやっフケツっ」と感じないていどのエロ(ティック)なムード作りになるかもと。

 でも、この目的で用いたなら失敗する……ような……。
 もしかしたら以下は、少数派(カトリーヌ・ブレイヤ監督作品が胸にしみ入ってしまう●●●●●●●●ような派)の杞憂かもしれないが───、

 この映画にかぎらず、きれいなきれいな顔や身体しんたいの女優が出演している映画というのは、子供(高校生以下)のころには、非日常・非現実の、架空の女神様をながめるようにうっとりできても、現実生活を生きる時間が増えるにつれ、やれブスだとか、デブだとか、ブタ鼻だとか、出っ歯だとか、外見の欠点を容赦なくけなされる経験を山ほどして、オブラートに包んだ「あなたとはお友達でいましょう」だとか「悪いけどつきあっている人がいるので」だとか、女性としての対象ではないお断りのことばも何度も聞いた大人の年齢になってから以降は、スクリーンの中のきれいなきれいな顔と身体の女優を見ると、自分の汚くダサい外見を再認識させられ、マスクじゃ足りない、カピロテをかぶって生活したくなるほど、うちひしがれてしまう。

カピロテ(Capirote)は、スペインのカトリック教徒が用いる円錐形に尖った帽子、頭巾。写真、Wikipediaにあります。

 げんに私など、部屋で一人きりのときに、ウクライナの女子走り高跳びの選手だとか菅原小春だとかが画面に出てきたり、新聞の書評記事に川上弘美さんの写真が出ていたりすると、バスタオルで顔を隠して、画面や写真に向かって謝ってしまう。

 私のような人は、多くないかもしれないが、カトリーヌ・ブレイヤ監督作品を好きな人くらいの数はいる。いるさ。決して決して、変わった思考、変わった反応じゃないと思う。

 なんぴとたりとも欠点を指摘できない非の打ちどころのない顔と身体を前にすると、まあ、お美しいこと、と見とれるのさえおこがましくなって、すぐにその場で、自分の現人生を放棄して、自分の外見の醜さを世の中に詫びて、「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、アーメン、アッラー。神様、どうか今度生まれるときはきれいな人にしてください」と、さっさと来世での幸福を祈って許しを乞うかんじ? これを書いている今、げんに私は泣いている。ハナをすすって、だから……。

 だから、ある女性(A子さんとする)と恋愛として親密になりたいと欲している男性(あなたとする)が、A子さんを自宅に招いたとき、『エマニエル夫人』をムード作りのために見せたとしたら、A子さんがたとえシルビア・クリステルより整った顔だちと身体の持ち主であっても、映画の場合、欠点を隠すように撮ってあるから、「なんてきれいなシルビアさんなのだろう」と気落ちし、「あなたはこれくらいきれいな人を欲しているのですね。見習って整形してきたらどうかと提案しているのですね。でも、整形しても、わたしがシルビアさんのようにきれいになることはできません」と絶望して、「ごめんなさい、わたし、頭が痛くなってきてしまって。悪いですが、帰りますね」と踵を返してしまうのではないだろうか。

 帰らなくても「そうか、あなたはシルビア・クリステルさんが好きなのですね、ごめんなさい、ここにいるのがシルビアさんじゃなくて」と、次にあなたが何を話しても、もうあなたのことばは、なにひとつ耳に入らなくなるのではないだろうか。

 ──となるような気がするので、ムード作りのために『エマニエル夫人』を用いた人は失敗するのではと心配する。

 ところが、〈正〉のみならず、〈続〉も売れた(だからさらに続編がいくつも作られた)わけであるから、私の杞憂であって、世の中の人は、もっと、くよくよせずに映画を見ているのであろう。

 ではハナをかんで、くよくよせずに、『エマニエル夫人』についての〈発見〉*で、この連載を終えよう。
 *意外なそっくりさんを発見すること。『顔面放談』参照*

 『エアポート‘80』公開のころには、シルビア・クリステルが、とにかくきれいであることが私にもわかった。

 なにがきれいって、その身体しんたいである。
 折り曲げたら、ウーバーイーツのデリバリーバッグに入って隠れていられそうなくらい、骨や関節の存在を感じさせない。

 「きれいな女性」とはどういう形状であるかを、若い(30歳以下)ころには、これまた誤解しがちだ。目が大きいとか、肌が白いとか、きめが細かいとか、足が細いとか。ハハハ、これは「レタスは美容にいい」レベルの誤解だよ。

 男でも女でも、女性を見て「きれい」だと、無意識下のセンサーがキャッチするのは、×××××××××である。伏せる。真実を書けば、×××××××××のうち一項目でも満たさない女性読者(のうち、くよくよしがちなネガティブ・シンキングの性格の女性読者)を、絶望させ、自殺を考えさせかねないから。かような真実は、知らないほうがよい。気づかないほうがよい。私も初老以降につくづく悟ったのだし。

 ともかくも、シルビア・クリステルは×××××××××の全項目を満たしているところの、とても「きれいな人」であった(すでに死去につき過去形)。

 彼女がきれいなことは、ちゃんと映画を見て、ちゃんと動くところを見ればだれもが納得するのだが、『エアポート‘80』までは、私はよくわからなかった。

 自由に映画館に映画を見に行ける環境にいなかったので、やっと見た〈正〉『エマニエル夫人』は、「衝撃的」の実態を確認するので手一杯だった。『エアポート‘80』で、ようやく落ち着いて、映画の中で動いて演ずるシルビア・クリステルを見たのだった。

アラン・ドロンも出演、『エアポート‘80』。allcinemaより。

 『エマニエル夫人』公開時には高校生で、憎いみうらじゅんとちがって、映画館もマクドナルドもない田舎町に住んでいる私や同級生たちは、どんなにこの映画が話題でも、映画そのものは見られない。

 だからポスターや顔写真だけを見る。映画館に貼ってあるものではなく(映画館がないので、そんなものは見られない)、雑誌で。

 当時「衝撃的」な話題だったこの映画については、高校生が歯医者さんや床屋さんの待合室で簡単に手にとれるような雑誌にも、頻繁に取り上げられていた。

 一般雑誌なので、カラミ(絡み)的なシーンの写真より、出演者の顔やバストアップの写真が多かった。

 私は、マリカ・グリーンという女優さんの横顔に惹かれた。
 一枚だけ見た写真では、静止画像のせいか中性的な顔だちに見えたのであるが、映画で動いているのを見ると、じんちゆうがすごく深いのが目立ち、それがバニーガール的なコケットリーになっていてかわいいのだが、高校生時に感じた中性的という雰囲気ではなかったので、「あれ、ちがう」と、自分勝手な放擲ほうてきに至ってしまった。

 主役のシルビア・クリステルについては、「なにか、ひと味たりないような」と思っていたところ、数人の同級の女子たちが、
「あの人、目はいいんだけど、鼻の下が嫌い」
と突いたので、合点がいった。

 自分の顔は棚に上げるのが(棚に上げられる●●●●●のが)女子高校生の幼い無邪気なので、「嫌い」というのは、「惜しい」くらいの意味にすぎない。

 幼い無邪気は、しかし、孫がやさしい祖父母を前にして、「皺が怖い。入れ歯が怖い」と泣き出すのと同様、事実も的確に指摘する。

 「鼻の下が嫌い」
 うん。シルビア・クリステルは鼻の下が長い。上唇が薄いからよけいに長く見える。

 薄い上唇から、歯ぐきが、まったく見えない。チラッとも見えない。長い鼻の下から急に真っ白な歯が始まる。急に歯が生えているように見える。

 映画を見て、ちゃんと動くシルビアを見れば、その、柔らかな皮膚である部分から、急に、異質素材の硬い真っ白な歯が生える上唇に、やがて真っ赤な口紅が塗られ、それがアップになると、実にエロティックに美しい……のであるが、顔写真だけを見た(田舎の)女子高校生には、こうした要素はまだわからなかった。

 アマゾンプライムで、令和6年現在、『エマニエル夫人』は440円で4K版が見られるが、退屈をこらえねばならない。予告編だけなら動画サイトでも見られる。

『エマニエル夫人』予告編はこちら(4Kレストア版)。映画.comより。

 シルビア・クリステル。前歯の始まり方に特徴のある口。いつもこちらをじっと見つめているような瞳。めまぐるしく変わるお転婆な表情の人とは反対の●●●●●、あまり動かない頬の筋肉。

 「こういう口元……、こういう目、見つめ方……手元…、静かな頬……。こういう顔、ほかのどこかでも見た。どこで……? どこだっただろう……?」

 こんにちまで暮らしてきた昭和平成令和の3元号にわたる歳月。
 嬰児のころから他人の家に預けられ、その後は、他人よりも緊張する実の父母のいる実家で暮らした。いつも人の顔色を窺い、色を窺うから顔そのものも、いつも見ることになった。私は記憶を繰る。これまで自分が見てきた顔のファイルを。シルビアのような顔をどこかで……、クリステルような顔はだれかに……。

 「わかった!」
 シルビア・クリステルに似た、意外な日本人がいた。それは?

 フジ隊員だ! 『ウルトラマン』の紅一点、桜井浩子。

桜井浩子。『ヒロコ ウルトラの女神誕生物語』(小学館)より。 

 人の顔を見るとは、諸君、こういうことだ。

 雰囲気や髪形だけで人の顔を見ている人というのは、幸せな幼少時代を送ったのであろう。幸せな幼少時代は、自分の外見を肯定する力を与える。

 自分の外見を肯定している人は……、断っておくが、「自分の外見を肯定する人」とは、決して「おほほ、私はビジンよ(オレはイケメンだ)」などと思う人のことではない。自分の外見について、ほとんど考えない人のことである。

 肯定している人は、ざらついたトゲが感受性からプチプチ出ていない。他人の外見もトゲなく見る。見ている他人の、雰囲気や髪形くらいを、やさしく見つめるのである。

 反対に、幼少時代に辛酸を舐めた人も、他人の外見を、雰囲気や髪形ていどで見よう。悲劇を体験してしまった彼らは、幼少期の辛酸は思い出したくない。これからは自分を悲劇に遭わさない人を希求する。だから、他人の顔の造作より、その人の人格から滲み出る雰囲気がなにより重要で、それを見てしまう。あるいは正反対に、すべての他人が一律に醜く見えてしまったり、醜く見たい。このどちらかになってしまうのではないだろうか。

 幸いなことに私は、辛酸も舐めず苦労もない幼少時代を送った。ただ、実父が奇異な人で、実母もまた別種類の奇異な人であったので、おろおろする家庭生活であった。

 運悪く、小学校低学年時の担任の先生が病的にヒステリーだったのと、放課後に一時的に預かってもらった牧師さんの姪が、私を嫌っていた(私が両親に怯えていることが、彼女には過剰な甘えたに映っていたと思われる)のとで、家庭の外でも、おろおろする幼少時代だった。

 わが家の座敷の床の間には、夏場は「自己否定」、冬場は「ネガティブ・シンキング」と、高名な書道家に依頼したごうが飾られていたので(レトリックですよ)、その家の中と、その家の外のユニークな大人たちに厚く見守られながら育った。

 結果、子供は、自分に落胆する癖が、とうとうとれぬまま高齢者になった。いまだに人の顔色を窺って窺って暮らしているわけである。

 人の顔色を窺うためには、人の顔を見なくてはならない。歯だとか眉だとか耳の角度だとか、顔に付いているものや、顔の下に続く身体も目に入る。

 おろおろして、小心で、人の顔色を窺って(顔を見て)いる人というのは、人の顔色を窺わずにさっぱりしている人を演じようとする。「どーもどもども、ドモストロイはおもすろい」と実家の庭訓怖さゆえに笑わせようとする。

 たちまちスベって、相手の怒りを買う。「軽薄で非高尚な文章だ」とにらまれたりする。

 たまに自由奔放で天衣無縫に映ることもある。こちら誤解の効用である。ありがたいことである。

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ご愛読ありがとうございました。

姫野カオルコ(ひめの・かおるこ)
作家。姫野嘉兵衛の表記もあり(「嘉兵衛」の読みはカオルコ)。1958年滋賀県甲賀市生れ。『昭和の犬』で第150回直木賞を受賞。『彼女は頭が悪いから』で第32回柴田錬三郎賞を受賞。他の著書に『ツ、イ、ラ、ク』『結婚は人生の墓場か?』『リアル・シンデレラ』『謎の毒親』『青春とは、』『悪口と幸せ』『顔面放談』などがある。
公式サイトhttps://himenoshiki.com/index.html

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